聖なる書物を読んで

現役JW29年目

趣味(舞依ちゃん)

2018-09-29 | 趣味
趣味のフィギュアスケートです。

●ネーベルホルン杯。

女子の結果が出ましたね。昨夜は1時半までライスト見てました。寝不足です(組織に言わせるとNGですねw)。

ザギトワちゃん、優勝。次元が違う。スケートもビジュアルも。彼女の演技を最初に見たのは、たぶん2年前のジュニアグランプリシリーズ。真凛ちゃん目当てで見てたら、ひときわ目を惹く子がいて、その演技に一目惚れでした。今回のフリーも、音楽に合わせて一瞬一瞬ワクワクの連続で、目が釘付けになってしまう演技でした。

今年からルールが変更になって、記録もリセットされたので、今年は世界記録をバンバン出していくんでしょうね。でも、3回転半や4回転を飛ぶジュニアも少なからず出て来てるから、うかうかしてられない厳しい世界です。

三原舞依ちゃん、2位。背中に羽根が生えてるよね。ほんと氷上を天使か妖精が舞ってるみたいです。フリーの曲、すごくイメージに合ってる(去年の曲はちょっと合ってなかったかな)。うっとりしながらずっと見ていられる。今シーズン期待大です。

真凛ちゃん、6位。ジャンプがなかなか決まらない感じです。ジュニア女王になった時は、もっと生き生き滑ってたように思うのですが(そのキラキラ感が持ち味でもあると思う)・・・まだまだこれからでしょうか。体の成長に合わせるのが難しいのかな。ガンバレ真凛ちゃん。


さて、これからBSで昨日深夜に放送されてたジュニアグランプリシリーズを観戦します。

来週は、フィンランディア(草太くん、ジュンファンくん、コリャダくん)とジャパンオープン(昌磨くん、ネイサンくん、知子ちゃん、ザギトワちゃん)。

新世界訳(ウィキ)

2018-09-28 | 聖書
以下ウィキペディアからの引用です。

本書を正当に聖書と呼ぶことができるかについては、この訳がさまざまな箇所に変更を加え、自らの教理との矛盾を避けて訳されたことなどが、しばしば問題となる。

本書の特色として「エホバのみ名」が用いられているとのことであるが、少なくとも新約聖書では、原文にはその名はない。・・・・エホバの証人の組織の判断で「どこにも根拠のない」“復元”がなされたのである。
エホバの証人によれば、現存する最古写本は三位一体確立以降の西暦3世紀のものであって、それまでに(み名の)削除が行われていたというが、実際には最古写本の年代は紀元66年であることが学術的に確定している。

統治体の成員を11年間勤めたのち排斥された(脱退した)レイモンド・ビクター・フランズによれば( レイモンド・フランズ著・樋口久訳、『良心の危機 ―「エホバの証人」組織中枢での葛藤』)、「新世界訳聖書翻訳委員会」は次の4名からなり、すべて統治体の成員であるという。組織の最上層部による翻訳といえる。
ネイサン・ホーマー・ノア (第三代会長)
フレデリック・ウィリアム・フランズ (第四代会長)
アルバート・D・シュローダー
ジョージ・D・ギャンギャス
同著によれば、この中では聖書の言語について、この種の翻訳をするための知識があるのはフレッド・フランズだけだった。フレッド・フランズは、シンシナティ大学でギリシャ語を二年間学んでいたが、ヘブライ語は独学だった。
すなわち「言語知識があったのはひとりだけ」であり、「聖書を理解している人たち」が訳したというエホバの証人側の主張はこれと矛盾する要素を含んでいる。

テサロニケの信徒への手紙二1章12節(本書表記では『テサロニケ人への第二の手紙』)においては本書のほか、キリスト教の聖書では新共同訳聖書と口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用しているが、新改訳聖書は「神であるキリスト」の読みを採用している。新共同訳は美しく自然な日本語が評判で広く用いられており、また口語訳も終戦直後から長く愛されてきたのであるが、新改訳は聖書原典にひときわ忠実であることで支持されており、面目躍如である。 ペトロの手紙二1:1(本書表記では『ペテロの第二の手紙』)においては本書と新共同訳聖書と口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用し、新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。 テトスへの手紙2章13節においては本書と新アメリカ聖書(英語)、現代英語の新約聖書(英語)が「神とキリスト」の読みを採用し、新共同訳聖書と口語訳聖書と新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。


以上ウィキペディアからの引用です。


教義に合わせて聖書を書き換えることって、きっと歴史を通じてずーっと行なわれて来たことなのかもしれないなぁ、なんて思いました。正典として採用されるものも、宗派によって違うようだし(エホバの証人はプロテスタントから引き継いでるのかな)。
パウロが書いたとされてる手紙も、半分くらいはパウロじゃないかもしれない、とか、啓示も(裁きに関する部分は)ほとんどが書き加えられたものだ、とか。

こうした事柄に、神のご意志がどこまで関わっているのか。聖書の大筋は変わらないんだろうけど・・・こんな風に、いろいろ解釈できるってことが何を示しているのか。なぜ、誰が読んでもはっきりとした教義を導き出せるようになっていないのか。(三位一体もありかなぁ・・・なんて思ったりw)
聖書ってほんと興味の尽きない本です。
でも自分、それほど熱心でもないし、勉強家でもないので、適当にやって行こうと思ってます。

エホバのもの

2018-09-27 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究の記事、読んだんですけど・・聖書の教えとはあまりにもかけ離れてきているというか、神を誤り伝えるにも程があるだろうと思いました。

役に立たないどころか、もう付いていけないです。

神の言葉をいいように切り貼りして、組織に都合のいいように使ってます。選民意識や特権意識を植え込むために。恐れで支配するために。組織の作った規則で縛るために。

論理も破たんしてるし。(主人曰く、花の例えもなんだかわからん。娘って誰?花って何?) まず疑問なのは、心からの感謝をどのように表すかを教えられて、その通りに行なったとして、それで本当に心からの感謝を表したことになるのか、です。(「特別な栄誉を与えてくださったことへの感謝」だからいいのかw)

神の民になれたことを心から感謝しているなら、自ずとその感謝を表す生き方をするのではないかと。聖書解釈を読んだり聞いたりすることはある程度必要だろうけど、こうせいああせいと言われてするもんじゃないと思う。自由意志です。

この組織のバプテスマは、組織への献身を表明する儀式(組織への生贄)だと、今では思います。止めた方がいいです。若い方は特に。(組織で一旗揚げてやろうと思ってる方はぜひw)

聖句を脅しで使ってることが多々あるけど、マラキの聖句の使い方は最低でしたね。エホバが注意して聴いておられるのは、エホバを恐れる者たちのエホバのみ名を思う言葉ですよ。そういう者たちがほとんどいなかった時でも、エホバはそういう者に注目してくださってるってことじゃないのかな。あら探しをするような神じゃないでしょ。

読む価値無いです。こんな記事の研究に1時間以上使うくらいなら、聖書を読んでた方が何倍もいいです。




ヨハネ8章

2018-09-26 | 聖書
7章最終節(53節)~8章11節まで。
2013年に改訂された新世界訳(英語版)では、この部分、とうとう省いちゃいましたね。何か意図を感じます。
自分は、この逸話はキリスト教の神髄に迫る重要なものだと思ってます。だから、消されないで残ってきたんじゃないかなと。取って付けた感、否めないですけどね。4人の福音書筆者が書いたものではないのかもしれませんけどね。

内容は、姦淫の現行犯でイエスのもとに連れてこられた女性の話。書士とパリサイ人は、イエスがこの女性を許すだろうと考え、律法違反で訴えようと姑息にも試みる。イエスは「あなた方の中で罪のない人が、彼女に対して最初に石を投げなさい」と。律法通り石打ちにするようにと。彼らはイエスを捕えるどころか、だれも石を投げることができず、年長者たちから(長生きするほど罪が増える・・)出て行き、女性一人が残る。イエスは「だれもあなたを罪に定めなかったのですか・・わたしもあなたを罪に定めません・・もう罪を習わしにしてはなりません」と。

人を罪に定めることができる、つまり人を裁くことができるのは、罪のない方であられるイエスのみ。
そのイエスでさえ、人を罪に定めたり裁いたりするためじゃなくて、人を救うために来られたのだと。(裁きは、イエスの再来の時になされる)

これが、本来のキリスト教だよなぁと思う。

話は飛ぶけど・・・排斥に関する指示を聖書の中に見出すことは確かにできるけど、この精神を鑑みるなら、忌避は絶対にできない、やっちゃいけないことだと自分は思う。(隣人愛にもとる行為だし)


以下、「道、真理、命」の本を見て、翻訳がかなり変わったと思われる箇所。

23節。
「あなた方は下の領域からの者ですが、わたしは上の領域からの者です。あなた方はこの世からの者ですが、わたしはこの世からの者ではありません」

「あなた方は地上の領域の者ですが、私は天の領域の者です。あなた方は人間社会に属していますが、私はそうではありません」

完全に意訳だよね、これ。(他の訳では「下」「上」「世」)

29節。
「わたしを遣わした方は共にいてくださいます。わたしを独りだけにして見捨てたりはされませんでした。」

「私を遣わした方は共にいてくださり、私を独りだけにはしませんでした。」

他の訳を見ると、「見捨てたりは」の部分は、最初からなかったんだね・・・

31,32節。
「わたしの言葉のうちにとどまっているなら、あなた方はほんとうにわたしの弟子であり、また、真理を知り、真理はあなた方を自由にするでしょう」

「私の教えを常に守るなら、あなた方は本当に私の弟子であり、真理を知り、真理によって自由になります」

他の訳では「言葉のうちにとどまる」になってる。「教えを常に守る」って、なんかイヤな言い方。「真理は・・自由にする」というのと「真理によって自由になる」っていうのも、印象が違う。下の言い方だと、イエスは思い上がったヤなヤツだよね。

この箇所、組織では様々な事柄(偽りの教えとか習慣とか)からの自由としてるけど、文脈を追う限りでは、罪の奴隷状態からの自由のことだけだと思う。イエスは、イエスの言葉を信じた人々に、さらに深い教えを語るけど、人々はそれは受け入れられなくて反論する。対するイエスの言葉は「あなた方の父は悪魔、悪魔の欲望を遂げようとしている」というもの。上辺だけの信仰では、悪魔の欲望を遂げるものになってしまうってことかなぁ。イエスの言葉をほんとうに聴ける者になりたいなぁと思う。

さて、この先も違うところいっぱいあるんだけど、も一つだけ。

44節。
「その者(悪魔)は、その始まりにおいて人殺しであり、真理の内に堅く立ちませんでした」

「その者はその始まりから人殺しで、真理から離れました」

完全に、元は天使だったという教義ありきの意訳だね。しかもこの聖句を使って、この教義を説明するんだとしたら完全にアウトでしょ。(実際、「真理の内に居たけど、堅く立たなかったんだ」と説明されてた)
他の訳では、「真理に立ってない」とか「真理に立つ者ではない」とか「真理をよりどころとしてない」など。これだと、元は真理に居たことにはならないよね。(まぁ、元は天使だったことを示唆する聖句は他にもあるから、教義自体は否定はしないけど)

最後に、も一つ。

「悪霊」が「邪悪な天使」になってるぅ・・・・

天使

2018-09-25 | エホバの証人
最近は、「み使い」ではなく「天使」というようになったので、自分も。

神に反逆して悪霊になった、いわゆる堕天使がどれくらいいるのかわからないけど・・・
サタン含め彼らが滅びに定められているとなると、その代わりに天使がまた創られるのか、それとも天に上げられる人の中から天使となるものが出るのか、そのままなのか・・・そのへんどうなんだろう。

聖書には詳しく書かれてないから、想像するのは自由だよねw。

教義によると、聖霊で油そそがれて天に行く者たちは、不滅性を身に着けているという点で、天使よりも上位になるという(天使は堕ちることもあるから不滅ではないとのこと)。これがどうもピンと来ないというか、納得できないんだよね。自由意志がある以上、先の事(不滅でいられるかどうか、つまり反逆するかどうか)なんて分からないんだから、天使も油そそがれた者も(地を受け継ぐ者だって)同じだと思うんだけどなぁ。

新しい契約の当事者(油そそがれた者)ではないけど、天的希望を持ってる人っているのかな。もしいたら、その人は天使になるってことかもしれないね。

あるいは、千年統治が終わった後、天に行った油そそがれた者たちが、天使としての役割を担うとすると、14万4千という実数がどうなんだろうと。多いのか少ないのか。

天的希望、地的希望、って言うけど、正直自分がどっちの希望を持ってるのかよくわからないなぁ。油そそがれたっていう自覚がないから、地的希望だろうと思ってるだけで、永遠に生きられるならどっちでもいいわぁ。

でも自分・・・自己中だし、怠け者だからなぁ・・・滅ぼされてもしょーがないかぁ。

ヨハネ7章

2018-09-24 | 聖書
1節。
「イエスは引き続きガリラヤの各地を回られた。ユダヤを回ることを望まれなかったのである。ユダヤ人たちが彼を殺そうとしていたからである。」

6章4節に書かれてる過ぎ越し(32年)に、イエスは目立たないようにエルサレムまで行かれ、すぐにガリラヤに戻って来られただろうと、ものみの塔では解釈してる。でも、この流れで1節を読む限り、行かなかった可能性もあると思う。他の3福音書も、この年の過ぎ越しの事は何も書いていない。
だとすると、イエスは律法よりもご自分の命を優先(それがご自分に対する神のご意志だったから)されたことになる。

そして、秋になり幕屋の祭りが近づく。

3,4節。
「兄弟たちは彼にこう言った。『・・ユダヤに入りなさい。・・自分を世に明らかにしなさい』」

兄弟たちはイエスに信仰を持っていたわけではなく、イエスの行なう奇跡を見て、こんな田舎じゃなくて中心地である大都市エルサレムに行って、世にアピールして有名になってくれ、って感じなのかなw。
それに対してイエスは、世はわたしのことを憎む、その業が邪悪なことを証するから、と答えられる。
善行が受け入れられず、かえって憎まれるって、あるよね。

17節。
「だれでもこの方(神)のご意志を行ないたいと願うなら、この教えについて、それが神からのものか、それともわたしが独自の考えで話しているのかが分かる」

つまり、神のご意志を行ないたいと願うなら、神の教えを見分けられる、とイエスは語っておられる。
当時のイスラエルでは、律法(神のご意志)を守りたいと願うなら、イエスの教えが神からのものだと分かったってことかな。殺人のこととか安息日のこととか・・あと、犠牲のことも(イエスの贖いの犠牲が必要だっていう)。
今日でも、神のご意志を行ないたいと願うなら、本当の教えを見分けられるのかな。

37節。
「最後の日、祭りの大いなる日に、イエスは・・叫んでこう言われた。『だれでも乾いている人がいるなら、わたしのところに来て飲みなさい。・・」

幕屋の祭りの間、毎日シロアムの池から祭司が水を汲んできて祭壇に流すという儀式が行われていた。(最終日には行われなかった)幕屋の祭りは、水の無い荒野での天幕生活を思い出させるものだった。(霊的岩塊として霊的水を供給されるイエス)この時にこの内容を話したイエスはさすがです。キャッチー&ベスト。

52節。
「・・預言者はガリラヤからは起こらないことを調べてみなさい」

ヨナはガリラヤ出身。イザヤも9章1,2節でガリラヤで輝く光を預言してる。分かっててガリラヤをバカにして言ったのか、分かってなかったのか。・・・自分たちが聖書なんだなぁと。

趣味(梨花ちゃん)

2018-09-23 | 趣味
趣味のフィギュアスケート観戦です。

●ネペラ杯。

紀平梨花ちゃん、優勝。フリーでは3アクセル2回、成功させました! しかも1回は3トゥループのコンボ付き!
ライストで観てて、思わず拍手でした! いいもの観させていただきました。

コリャダくん、優勝。さすが。フリーのpcsは90点取ってます。すごい。

●オータムクラシック。

メドベちゃん、2位。ショートは1位だったけど残念。フリーではテネルちゃんが上回り優勝でした。

新葉ちゃん、5位。どこか故障してるのかな・・・勢いがなくてちょっと心配。

弦結くん、優勝。1スピン、ノーカンという珍しいミスがあったけど貫録の優勝。

ジュンファンくん2位。2種類の4回転(サルコウ、トゥループ)と、3ルッツ3ループ(これ好き!)で魅せてくれました。これからも楽しみな選手です。

メドベちゃんもイメチェンしてたけど、ジェイソンくんのイメチェン(ポニーテールから刈上げ)にはびっくりでした。


さて、今週はネーベルホルン。真凛ちゃん、舞依ちゃん、ザギトワちゃん(ネペラから変更)です。

カルト

2018-09-22 | エホバの証人
エホバの証人はカルトかどうか。

今のところ、自分的にはカルトではないと思ってる。
カルトではないと思ったからこそ、信者になったんだし。

ただ、神(組織)の律法に対する解釈の仕方次第で、カルトと言えなくはないとも思う。
つまり、カルトになるかならないかは属してる人の言動次第というか。

まぁ、輸血に関しては、確かに一般には受け入れられないだろうから、そこはカルトかな。
・・・他にもあるかな・・・思いつかない。

でも極論を言ってしまえば、宗教組織に限らず、世の中にあるどんな組織だって、カルトと言えば言えるような気がするんだよね。
一般には受け入れられない極端な部分を持っている、という意味ではね。

ただ、1つの組織として、誰がどう見てもカルトだと思われるものはそうなんだろうけど。
エホバの証人は、まだそこまで行ってないかな。

これからどうなるか分からない感じはあるけど・・・

カルトかどうかは、立ち位置の問題かなぁ。
カルトだと言われる側から見たら、言う方がカルトに見えるわけだし・・

何を基準にしてるかなんだろうな。
でもって、何を基準にするかは、個人の自由なわけで・・・

難しいなぁ・・・

エホバの側

2018-09-21 | ものみの塔
今週のものみの塔研究のタイトルは、「エホバの側にいる者はだれか」ですが・・・

これ、「組織の側にいる者はだれか」の間違いだと思います。

神の側にいる者には、ほぼ必要のない記事だと思いました。

神の側にいる者は、間違った考えや欲望を抱き続けないように努力しています。
神の側にいる者は、誰と付き合おうとも神の律法を守るよう努力しています。
神の側にいる者は、新しい世が来ようが来まいが神だけを崇拝しています。

なので、「以前に書かれた事柄」を教訓にするだけで良いと思うのです。

でも、

組織の側にいる者は、不道徳な考えにふけったり、兄弟姉妹に悪感情を抱き続けたりするかもしれません。
組織の側にいる者は、犠牲をささげ続けていれば不従順を大目に見てくれると思い違いをしたり、世の人や霊性の弱い人(組織基準)にすぐ影響されてエホバ(組織)の律法を軽視してしまうかもしれません。
組織の側にいる者は、新しい世が来ないと不安になって、偶像崇拝(組織基準)に陥るかもしれません。

なので結局、組織に繋ぎ止めるための内容になってしまっている。
そんなことのために「以前に書かれた事柄」を用いないで欲しいなと思います。

なんかもう・・・ほんと読む価値無い(特に10,11節!)です。
来週もイヤな予感・・・「わたしたちは組織のもの」って感じかな・・・はぁ。


ちなみに、自分の神のことを今回は単に神と表記致しました。この頃はエホバ神というと組織をイメージしてしまって、自分の抱く神のイメージと違ってきてしまっているので・・・(そろそろ末期かなw)

ヨハネ6章

2018-09-19 | 聖書
前半でヨハネは、イエスがガリラヤで行なった大規模な宣教(奇跡)のうち、2つだけを取り上げている。

1つは、4福音書全てに記されている唯一の奇跡、5000人に食事を与えたこと。
もう1つは、ガリラヤ(ティベリア)の海の上を歩かれたこと。(ルカは書いてない)

後半は、イエスが与える真のパン(天から下ってくる命のパン=イエスの犠牲としての肉)と真の飲み物(イエスの贖いの血)の話。その話に多くの弟子たちが躓いたことなど。

1節。ティベリアの海。ガリラヤ湖のこと。ヘロデ・アンテパスが西岸に築いた都市をティベリウス・カエサルにちなんでティベリアと命名されたことから。ヨハネが福音書を書いた頃にはこの呼び名で通っていたらしい。

5節~
食料を調達するのが難しい、いわば荒野のような場所で、奇跡的に5000人(女子供合わせればその2,3倍)に食事をさせたことと、ご自分が与えるパン(マナ)とは世の命のためのご自分の肉であると語られたことまで、すべて合わせて考えることが大切だなぁと思う。

群衆はイエスの奇跡のおかげで満腹になったから、イエスを王にしようとした。いなくなったイエスを探して、わざわざ湖の東側から西側まで追ってまで。

物質的な利ゆえに王を求めてる群衆に対して、イエスが語る霊的な話は、とても理解の及ぶものではなかった。

44節には、「父が引きよせてくださらない限り、だれもわたしのもとに来ることはできない」(ものみの塔はこの言葉を、選民意識を植え付けるような用い方をするから嫌い)とあり、続く45節には「父から聞いて学んだ者はみなわたしのもとに来ます」とあって、霊的なことがら(神のみ言葉)を理解しようとする姿勢が大切だとわかる。(自動的に選ばれるわけじゃない)

イエスが語る言葉に、(神から学んでいたゆえに)命の言葉を感じ取った弟子たちは躓かなかった。贖いの犠牲について、まだわかっていなかったにもかかわらず。