聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ローマ人への手紙9~11章

2019-02-25 | 聖書
パウロは異邦人への使徒だったけど、ホントのところはイスラエル人を救いたかったんだな、というのがよく分かる部分。自分が神に選ばれた民イスラエル人であることに誇りを持っていたし、それゆえ神の救済論(恵み)においてもイスラエル人優越思想がハンパない。

11章なんて特に。神がイスラエルを退けるなんてあり得ない。頑なにされたイスラエル人のおかげで異邦人に救いが及び、異邦人に救いが及んだことで彼らに妬みを起こさせて救うためだ。自分が異邦人の使徒であるのは(栄光ではあるが)、その妬みを起こさせて救いたいからだ。異邦人は接木されただけなんだから誇るなよ。イスラエル人よりもっと切り取られるぞ。異邦人が接木されたんだから、イスラエル人はますますもとの枝に接木されるだろう。異邦人の予定されてる数が満ちた時には、イスラエル人はすべてが救われることになろう。かつて不従順だった異邦人が(イスラエル人の不従順故に)憐みを受けたように、イスラエル人が不従順になったのはいずれ憐みを受けるためだ。なんと神の知恵の深いことか・・・アーメン。・・・みたいな感じ。(ローマ人にケンカ売ってんのかねw)

10章ではパウロは、なぜ自分の宣教がイスラエル人(ユダヤ人)に受け入れられないのか、と歯がゆかったんだろうな。自分の宣教の正しさを、旧約聖書から一生懸命論じてる。でもその引用の仕方がね・・・言いたいことの論拠として、あちこちから引っ張って来て、文脈無視してその言葉だけ当てはめる・・・みたいな(組織のやり方っぽい。そういう意味では、組織のやってることって、聖書的なのかもw)。律法の言葉を自分の宣教の言葉(10:8)にしちゃったり、捕囚の解放を知らせる伝令を宣教してる自分(10:15)にしちゃったりね。・・・まぁ、パウロ様がそのように当てはめたんだから、そう聖書に記されたんだから、それが正しいんだ、って言ってしまえばそれまでだけど・・・それでいいのかどうか。パウロも結局は、いわゆる教祖様だったというだけのことなのかもしれないし・・・。このことにどれだけ神のご意志が働いているのか・・・悩みどころです。

9章ではパウロの、絶対的な神中心の考え方もわかる。神の選びは、人間の思考や業績には関係なく、ただ神による。約束の子であるイサク、生まれる前のヤコブ。神はイシュマエルではなくイサクを、エサウではなくヤコブを選んだ(だからアブラハム、イサク、ヤコブの神、って言われてるんだね~納得)。そして、陶器師の話も。


新世界訳に突っ込みたいところもいっぱいあるんだけど、今回はパウロに突っ込ませていただきました。

若い皆さん、エホバはあなたの幸せを願っておられます

2019-02-22 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

突っ込みどころ満載の記事でした。言ってることはよく分かるけど、あなたたちに言われたくないよ、みたいなのがいっぱいw。

1節。
「エホバは、あなたが学校で一生懸命に勉強して、自活できるようになることを望んでおられます」

ここだけなら、エホバは高等教育を受けて良い仕事に就くことを否定してない、と普通に結論できるはず。でも前後を続けて読むと、文章上は(高等教育を受けて良い仕事に就くことを)否定してないけど、暗に否定しているという、実にイヤラシイ文章。

2節。
「人間のアドバイスがどんなにもっともらしく思えても、神の言葉を無視したものなら、本当の知恵とは言えません」

うん、その通りだと思います。でもね、お前が言うな、ですね。組織(統治体)は自分たちの言ってることが、人間のアドバイスだとは思ってないんでしょうね。傲慢にも、自分たちは神の代弁者だとしているんですから。

3節。
「いつの時代にも間違ったアドバイスをする人がいます。人間に初めて間違ったアドバイスをしたのはサタンです。せん越で傲慢なサタンはエバに対して、どう生きるかを自分たちで決めればもっと幸せになれる、と言いました。とはいえ、サタンの動機は利己的なものでした。サタンは、アダムやエバやその子孫をエホバから引き離し、自分に従わせ、自分を崇拝させようとしていたのです」

まずね、サタンは「どう生きるかを自分たちで決めればもっと幸せになれる」なんて言ってませんよ。ツラッとしてうそ書いちゃダメでしょ。
ここ読んで、組織の父はやっぱりサタンだったんだぁ、と妙に納得しちゃいましたw。自分たちを崇拝させるために、せん越で傲慢にも、間違ったアドバイスをし続けてきた、というね。これ書いた人、これってまんま組織のことじゃん、とか思わなかったのかな。

5節。
「エホバは、ご自分を探し求め、ご自分に仕えるようになる人たちがいることをご存じでした」

そう思います。でも組織に仕えてる人がそれに当てはまるとは思いません。エホバに仕える事と組織に仕えることは同じじゃない、ってことに気付いて欲しいと思います。

6節。
「実に変化に富んだ豊かな教えです」(イザ65:13,14)

この文は「聖書を与えてくださいました」の後に置くべきですね。本文のような順番にする意図は、エホバが「奴隷」を通して教えて下さってるんだ、っていう印象操作のためでしょうね。こすいね。

7節。
おおむね良いと思います。が、「お金や物があれば幸せになれる、といううそにだまされる」人なんて、普通でもあんまりいないと思いますよ。逆にこの組織は、お金や物があれば不幸になる、っていううそで信者をだましてるように思えるんですけどね・・・。

8節。
脅しですね。こうやって、若い人をだまそうとしてるんですね~。

9~11節。
確かに、同じ価値基準を持った人同士でいると安心できますよね。そういう意味では、この組織はコミュニティーとして良いものだと思ってます。善い人も多い。ただ、ちょっとでも基準からズレると、ハブかれるっていう危険がある。で、常に人の目を気にしなくちゃならなくなってくる・・という感じがね。これじゃ「最高の友」は作れないよね。

12~15節。
「労苦は無駄でない」「み名に示した愛をエホバは決して忘れない」と太字を使って必死になって、エホバつまり組織に仕えるよう促してるのがね、涙ぐましいなぁwと。まぁ、組織で学んで得たものも多々あると思ってます。組織に忠実に仕えていくのも一つの生き方だとも思います。でもね、組織に仕えさせるためにエホバ(ソロモンの例も)を持ち出して、若い人たちをだまそうとしてるのがイヤですね。

16節。
「あなたの周りには、ポルノを見たり、性的不道徳を行なったり、危険なスポーツをしたり、麻薬を使ったり、大酒を飲んだりする若い人がいるでしょうか」

世の若い人が皆こんなことを習わしにしてると思わせて、組織に留まらせようとするワナ。質問形にしてるのがイヤラシイ。断定できないからだよねw。

17節。
「聖書の基準に従ったために病気になった人はどれほどいるでしょうか」

これも、いません、って断定できないんだね。組織の基準に従って病気になった人、いっぱいいるよね。聖書の基準=組織の基準じゃないことがバレちゃったね。

18節。
「人間はたくさんの法律を作り、それを守るよう強制してきました」

だから、お前が言うな、です。

19節。
「エホバは、わたしたちにたくさんの律法を与える代わりに、愛の律法に従うよう辛抱強く教えてくださっています」

これも、お前が言うな、です。分かってんなら当てはめろよ、です。イエスは山上の垂訓で、律法に従うことで義をなそうとしていたパリサイ人たちよりも、勝った義のなし方を弟子たちに教えたんですよ。(「悪い行ないの根本原因」じゃ、だいぶ意味が違っちゃってると思います)

21節。
「感謝していますか」

また脅してる。親が子どもに良いものを与えるのは、感謝されたいからじゃないのに。ましてや神が感謝を要求するはずないのに。この組織のエホバ神は、感謝を要求する神なんだよね。一生ご自分(組織)に仕えさせるために。


来週も、若い人を組織に献身させるための記事みたいですね・・・。
自分は、生き方の一つとして、組織に仕えるのもアリだと思ってます。ただ、しっかり生活していけるように、費用を計算することも大事だと思ってます。(エホバ任せ、はダメだと思います)

ローマ人への手紙7,8章(追記あり)

2019-02-20 | 聖書
7章。
1~3節。
1節は「(モーセの)律法」2,3節は「(一般的に)法」(新世界訳はすべて「律法」)。パウロは同じ単語をいろいろ違う意味に用いて、しかも同じ「法」について議論しているかのような見せかけを作っている。

2節。
新世界訳「結婚している女」。直訳「男の下にある女」。パウロは男尊女卑の人。パウロにとっては、結婚とは女が特定の男に従属する物となった、ということ。男自身が女にとって「法」なのである。
新世界訳「彼女は夫の律法から解かれます」。直訳「彼女はその男の法から無効にされた」。本来なら、「法」が彼女に対して「無効に」なったと書かないといけないのに、男尊女卑発想があるから、彼女が無効にされた、と書いてしまうパウロ。

4節。
「あなた方も・・・律法に対して死んだ」。2,3節では、法によって支配している方(男)が死ぬ場合を考えているのに、4節では支配される方が死ぬ話にすりかわっている。パウロは、キリスト信者にとって律法は死んだのだ、と言うべきところを、我々は律法に対して死んだ、という言い方をする。律法は聖なる絶対性だというユダヤ教のタブーにふれないように(タブーを信奉してるから)、「死」の主語を「律法」ではなく「人」とする。パウロの自己矛盾の1つ。

13節。
新世界訳「罪がおきてを通していよいよ罪深いものとなる」。田川訳「罪が戒めによってはなはだしく罪的になる」。ここでの「罪」は、人間の犯す一つ一つの行為というより、人間を超えた強大な悪魔的力(それが人間の中に入り込んで罪の行為をさせる)なので、罪が罪であることを律法が示す、の意ではなく、罪は罪であるが律法によって鮮明かつ強力に罪として実現する、ということ。パウロは一方では、律法は絶対的に善なるものだとし、他方では繰り返し律法のせいで罪が働くと言う(律法に罪の原因があるかのように)。これもパウロの自己矛盾の1つ。

15~24節。パウロの自己告白。
パウロがずっと悩んできたであろう、他律性(悪と分かっていても行なわせてしまう罪の力に自分が支配されていること)の自覚が、絶対他力の救済信仰(キリストの福音)に至らせた。

8章。
10節。
『何を言いたいのかわからない。・・言葉を省略しすぎ、というより、適当に調子のいい言葉を並べただけだろうか。・・有難がって聞いている信者にとっては、「あなた方の身体は罪の故に死んでいる!しかし霊は義の故に生命である」などと説教されたら、そうなのだな、我々は死んでいたのだ、しかし今やキリスト信者になって神様によって「義」とされて、霊的に生きる道を教えていただいた、だから我々は本当に生きているのだ、有難や有難や、ということにもなろう。それだけの話である。・・字義通り読んだら「人間の身体は死んで、生きるのは霊だけだ」という意味にしかならない』(by田川氏)

13節。
新世界訳「体の習わしを殺す」。字義通りに読めば極端な禁欲主義になる。パウロの救済信仰は、人間の業績ではなくキリストの贖いによるものだし、前章で感動的な自己告白をしたばかりなのに、ここでは禁欲主義に励まないと救われないよ、と言ってることになる矛盾。(・・・まぁたぶん、肉は罪の支配下にあるから、肉ではなく霊によって生きるようにと強調したいだけなんだろうけど・・・)

17節。
新世界訳「キリストと共同の相続人なのです。ただし、共に栄光を受けるために、共に苦しむならばです」。田川訳「キリストとともに相続する相続人である。もしも、我々がともに栄光を受けるためにともに苦難を受けている、ということであるのであれば」。(6:8の「ともに死んだのであれば、ともに生きるのである」を言い換えた)
「ために」は目的ではなく結果。栄光を受けるための条件として苦難を受ける(苦しむ)ということではない。ここでの「苦難」とは、この世で生きていること自体(死すべき生が「苦」)で、続く18節の「今の時の苦難」は、来たるべき永遠の「時」と比較して、此の世の「時」全体それ自体が「苦」だということ。(・・・新世界訳だと意味が違っちゃう・・・)



(以下追記です)

19~23節。
新世界訳「創造物」。個々の被造物ではなく、被造物の全体を指す語。
新世界訳「神の子たちの表し示されること」。終末の救済が実現する時、救われる人間(クリスチャン)が永遠の存在となって出現すること。

19節の直訳は「被造世界の切望は神の子らの出現を待望している」。その時には地上に生きているすべての生き物も、滅びる運命から解放されて永遠に生きることができるようになるので、被造物はすべて神の子の出現を待っている、ということ。なので20節は、人間以外の生き物が虚無(=「今の時の苦難」の言い換え)に服させられている(死、朽ちる運命に定められている)のは、神がこの希望に基づいて、そういうものとして創造されたからだ、ということ(つまり、罪の故ではないと)。

新世界訳「神の子供の栄光ある自由を持つ」。田川訳「神の子らの栄光の自由へと入る」。
新世界訳「苦痛を抱いている」。田川訳「産みの苦しみを苦しんでいる」。将来に希望がある苦しみ。
新世界訳「初穂としての霊を持つ」。田川訳「霊の初穂を持っている」。クリスチャンが神の霊を受けているということは、永遠の世界の最初の味わいくらいは持っている、ということ(対し、被造世界はまだ初穂ももらっていない)。
新世界訳「贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っている」。田川訳「我々の身体の贖いを待望している」。今のところは死すべき命を生きているのだから、他の被造物と同様に未来の救済を切望している、ということ。ここでの「贖い」は未来のことで、罪を許されて義とされることではなく、朽ちるべき身体が朽ちぬ永遠のものとされることを言っている。

エホバの証人の教理とは全く違う解釈(パウロの文を素直に読むとこうなるんだろうと思うけど)。いままでは「アバ、父よ」あたりからこの辺までは、自分と関係ない油そそがれた人たちの話で、自分たちはその人たちから恩恵を受ける、みたいに思ってた(特権意識や差別意識を感じさせるイヤな聖句だった)けど、田川訳だと、ものすごい規模が大きい救済論になる。人間だけじゃなくて、被造世界すべてが永遠の生命を待望している、という。ほんと、全然違う。びっくりだぁ。(でもパウロは人間に関しては、クリスチャンだけしか救われないって思ってたんだろうなぁ・・・)

34節。パウロにとっては、キリストの死より復活の方が重要だったことが分かる聖句。パウロが見たのは、復活したイエスだものね。

38節。
新世界訳「政府」。田川訳「支配力」。天使とほとんど同じで、宙空に居て下界を支配する神話的諸勢力。
新世界訳「力」。田川訳「諸力」。これも神話的な天的勢力。

以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡より、引用、参照させていただきました。


さて、ワークブックへの突込みです。

●「あなたは『切なる期待を抱いて・・・待って』いるか」の話。
上記の通り、新世界訳は全然違う解釈になっちゃってるので、話にならないなとw。でもまぁ、パウロの文章も、立ち位置によってどうにでも解釈できちゃうんだなぁっていうあたりが、困っちゃうなぁと思った次第です。で、その立ち位置によって都合よく改竄して(よく言えば真意を汲み取ってw)聖書を書いちゃうというね。新世界訳の改訂版の日本語訳がそろそろ出るという噂も聞いたので、どんなことになってるか、わくわくしてますww。

「神の求めることは厳し過ぎると考えさせようとするサタンの思惑に屈しない」ってあるけど・・・神じゃなく組織が決めてる規則がオカシイことをサタンのせいにしてるよね、これ。自分たち組織の規則がサタン的だって認めてるようなもんじゃん、これ。

●「忍耐して切に待ち続ける」のプログラム。
8:25は、日々起きる困難や苦難や試練を忍耐しながら待つ・・・って言ってる訳じゃないと思う。未来に待っている栄光ある救済を希望しているのだから、死んで朽ちる身体である今の生を忍耐して待ち続けようよ、っていうことかなと。
ほんと、この組織は忍耐が大好きだよねぇ。やられっぱなしでも忍耐しろ忍耐しろと。押さえ付けられてる感がいつもある。これじゃ、のびのびできないよね・・・。

「神がくびきで結ばれたもの」を尊ぶ

2019-02-16 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

昨日も書いたけど、結婚に関する聖書の原則って何なのか、よく分からなくなっているので、今回はどう突っ込むか迷いました。取り敢えず、今の自分の考えで突っ込んでいきたいと思います。

1,2節。結婚の絆を尊び大切にする。これは良いと思います。

3,4節。結婚は一夫一婦で永続するもの。これが神とイエスの基準である、ということも理解できます。

ただ、アダムとエバの場合は、神の保護下にあるエデンの園での完全な人間男女の結婚だった、ということを忘れちゃダメだと思うんです。神から離れたサタン支配下の不完全な人間に、こんな完璧な基準を要求されてもねぇ・・・無理だと思うんですよ。それが分かってるから神は、昔の一夫多妻も許容されたんじゃないかなぁ。だから神は、今時の結婚事情にも十分理解を示されてるんじゃないのかなぁと思います。
もちろん、神の基準を守れるならそれに越したことはないんでしょうけど・・・。

5節。死によって結婚関係が終わり、残された配偶者は再婚できる。byパウロ。

究極的に考えると・・・忠実な人は、たとえ死んでも神の目から見たら生きているのだから、永続する結婚関係は終わってないんじゃないかなぁ・・・という気がしないでもない。(←自分もよく分かってないw) でも死によって再婚が許されるようになったとしたら、一夫一婦じゃなくなっちゃって・・・だから復活したらどうなるのっていう疑問も出てきちゃう。
まぁ、モーセの律法が与えられた時には、すでに一夫一婦という神の基準からは相当ズレちゃってて、そんな状況に合わせて神が対策を取ってくださっていたのだから、もう一夫一婦に拘ってはおられなかったってことだよね。
で、イエスが神の本来の見方を示されて、それがクリスチャンの基準になったということだけど・・・イエスもやんわりと(パウロははっきりと)独身を勧めてるんだから、「人が一人のままでいるのは良くない」という神の言葉に逆らってるわけだし。それが時の状況故に許されるのなら、結婚に関しても今日の状況故に許されることがあってしかるべき、と考えることだってできる。

7~13節。神は離婚を憎んだ。離婚の唯一の根拠は淫行。これも基本的にはそうだと思う。まぁエデンの状態が続いていたら離婚も淫行もなかったわけだから、これも神の側からの譲歩というかなんというか・・・。

単純に考えると、神はイスラエルと離婚し(バビロン捕囚)、再婚(帰還)して、最終的にまた離婚された(エルサレムの滅び)ってことになるのかな(今は絶縁状態)。肉のイスラエルと離婚して霊的イスラエルと再婚した、とも考えられるかも。理由は、イスラエルの霊的淫行。・・・まぁこれが神の基準だと思います。
ただねぇ、淫行に何が含まれるかは疑問だよね。組織は、囲み記事にあるように、いろいろ規則作ってるけど。(これを、子どものいるところで討議することがもう性的不道徳といえるのでは・・・)
あと、12節のホセアの例を、神の許しに当てはめるのはちょっと違うと思う。「もう一度行って、友に愛されて姦淫を犯している女を愛せよ」・・・エホバの愛と同様である」ってある。他の訳では「夫に愛されているのに姦淫を犯している女を愛せよ」と。これは明らかに許しではなく、愛の深さを強調した話だよね。律法によれば姦淫は死罪。その律法を与えた神ご自身が律法を破ってまで、姦淫の妻を愛するようにとホセアに言われるんだから・・・。きっとホセアはゴメルをこよなく愛してたんじゃないかと思うんですよ・・・言われたから形だけ愛そうとしたんじゃなくて。だから、神がどれほどイスラエルを(罪深い人間を)愛されてたか分かったんじゃないかなと。(まぁこれは自分の憶測ですが)
記事には「ホセアはしばらくの間、ゴメルと性関係を持ちませんでした。しかし、やがてゴメルと性関係を持つようになったと思われます」とあるけど、こんなこと聖書に全く書いてない。こんな憶測を根拠に「離婚しないことにして、性関係を持つなら、相手を許したことになります。それにより、離婚の根拠は失われます」って、もう滅茶苦茶じゃん。これが組織の新しい見解だとしたら、聖書的根拠なんて何もない、ただの規則だよ。しかもこれまた、やられた側が許せ、という何ともヒドイ話。それにこんな私的な事柄、本人が話す以外にどうやって他の人(長老とか)が知ることができるの? これってホントに愛の神の見方なの? ばかなの?(すみません。熱くなっちゃいました)

あっ、離婚の唯一の根拠、って、再婚の自由のある離婚、ってことだよね? 再婚しないなら(姦淫にはならないから)離婚の自由はあるってことだよね。自分的には、14~18節の別居の根拠が、この離婚の根拠にもなるんじゃないかと思ってます。

一口に結婚とか離婚とか言っても、男女夫婦のあり方なんて千差万別で事情もそれぞれなんだから、そんな私的なことに首突っ込んで、あれダメこれダメってよく分かりもしないのに裁こうとするこの組織のやり方は、ほんとに愛が無いと思います。

2月ブロードキャスティング

2019-02-15 | エホバの証人
ローマ12:10の後半「互いを敬う点で率先しなさい」が、今月のテーマ。

特に夫婦に焦点を当てたプログラム(話、ビデオ、インタビュー、経験などなど)だったんだけど・・・なにか書こうにも、取り立てて何の感想もなく・・・。

まぁ・・・エホバの証人同士の夫婦でも、いろいろ問題が起きてるんだな、ということは分かった。離婚できないから大変だよね・・・。

結婚に関する聖書の原則ってなんだろうなぁ・・・組織はあーだこーだといろいろ規則を作って規制するけど・・・最近なんだかよく分からなくなってきた。

イエスが言われたからといって、それをそのまま現代の結婚事情に当てはめていいものなのかどうか。ましてやパウロのことばをや・・・(これじゃ、聖書を否定することになっちゃうか)。

ローマ人への手紙4~6章

2019-02-13 | 聖書
4,5章は、1~3章の本論を旧約聖書のアブラハムやアダムから論証しようとし、6章は、救いと罪との関係を論じている。

4章では、前章までの「信」が「神の信実」を強調していたのに、ここでの「信」はアブラハムが神に抱いた「信頼(信仰)」に取って代わってしまっている。

4:12。新世界訳「それで、彼(アブラハム)は割礼のある子孫の父ですが、割礼を堅く守る者たちに対してだけでなく、無割礼の状態にありながら、わたしたちの父アブラハムが持ったあの信仰の足跡にそって整然と歩む者たちに対しても父なのです」。
田川訳では「彼はまた割礼の父祖でもあるが、それは、単に割礼出身であるだけでなく、我らの父祖アブラハムが無割礼であった時の信の足跡を歩むことする者たちに対してそうなのである」。

パウロは前節までで、アブラハムが信仰によって義とみなされたのは無割礼の時だったから、無割礼でも信仰によって歩む者の父でもあり、彼らも義とみなされるんだよ、って言ってる。この節では、アブラハムを父とするユダヤ人でも、割礼を堅く守るだけでなく信仰によって歩んでいる者たちの父なんだよ、ってことなんだね。新世界訳だと分かり難いけど、こう読むと文脈にすんなり入る。パウロはきっと、割礼や律法に縛られてる同族を救いたかったんだろうなぁと。ローマ人に宛てた手紙なのにね。

5:10。パウロの救済論。キリストの死は過去の出来事で、それによって義とされ神と和解できたのもすでに成立した過去の出来事であり、それは終末時(未来)に救われることの確かな保証となっているのだから、安心しなさい。

6:18。罪の奴隷が自由にされて義の奴隷となる。矛盾した表現を用いて深い真理のように見せかける説教。パウロはこういう話し方が得意だったんだろうな。


さて、ワークブックに突っ込みます。

●「神は・・ご自身の愛をわたしたちに示しておられる」の話。

「お名前を立証する」と本文にあるけど、この表現、ころころ見解が変わってるんだね。お名前は「神聖なものとされる」のが正しい、ということで、歌の本が代わった理由にもなってたのに、やっぱりみ名も「立証される」でいいってことになったんだね。なんだかなぁ・・・。

「贖いという贈り物に対する感謝をどのように表わせるか」と、また脅迫されてますね~こわいこわい。このあたりの文脈(5:8~21)を追って、贖いという贈り物とはどんなものなのか、をじっくり考えた方がずーっと良いと思うんだけどなぁ。この組織は考えることではなく、行動することを求めるんだよなぁ。

●6:3~5。この組織の教義ありきの解釈。文脈をどう考えてもこれはダメでしょ。ここは、キリスト・イエスへのバプテスマを受けたってことは、自分の中の罪に支配されたからだはすでに死んだんだ(=死へのバプテスマ)ってことだよね。

●6:7。ここも文脈を考えると、組織の言うように「死ぬことで罪を償った」ということではなく、「死んでしまえば罪のからだは働かないから、もはや罪の奴隷ではない」あるいは「罪の支配下にあった者(=死んだ者)が、罪から解放された」、の意味だと思う。
6:23にあるように「罪の報いは死」だけど、死ねば罪が償われるわけじゃないんじゃないかなぁ。イエスの贖いだけが罪を取り去るものなんじゃないかなぁ・・・


(以上、田川氏の「新約聖書 訳と註」を参考にさせていただきました)

罪と死

2019-02-12 | 聖書
ローマ5:12。エホバの証人にはなじみ深い聖句の1つ。アダムの原罪。故に子孫全てが罪と死を受け継いだ・・。

アダムは永遠に生きられる体で創造された。・・・どの時点で死のサイクル(遺伝子?)が入ったんだろう。

やっぱり善悪の知識の木の「実」を食べた時かなぁ。「実」に何かその原因となる物質(遺伝子操作?)が含まれてたとか。だから命の木の「実」を食べて元に戻らないように、エデンから追い出されちゃったのかな。

あるいは、神に背いた(=罪=的を外す)という心の問題が、体に影響を及ぼして(神経系統とか精神とか感情とか?)死ぬようになったってことなのかなぁ。「罪を通して死が入り」となると、こっちの方かなぁ・・・エデンを追い出され、神から引き離されたことが、人を死へと至らせるほどのものだったってことなのかなぁ・・・。

あるいは、神がその時に直接、人間を死ぬように操作した。・・・う~ん・・・それはちょっとないかなぁ・・・というか、あって欲しくないなぁ。

答えの出ない疑問だけど、考えるのは楽しい。

趣味(昌磨くん)

2019-02-11 | 趣味
趣味のフィギュアースケート観戦です。

●4大陸選手権。

ライストの調子が悪かったのと、私用で忙しかったのとで、リアタイ観戦はできませんでした。
今回は全部、結果を知った上での地上波観戦でした。

地上波は、もっと多くのスケーターの演技を映して欲しい、といつも思います。

女子。

1位。梨花ちゃん。左指のケガ。ショートは3アクセルが抜け5位発進。首位とは5点差。フリーは3アクセル決まって逆転優勝。緻密で精巧にできた綺麗なスケートドール・・・

2位。トゥルシンバエワちゃん。上手になったなぁ~スピードに乗ってジャンプも良い感じで滑りもやわらかくなった。軽やかで楽しそう。4サルコウ惜しかった。来シーズンからも十分戦える武器になるといいね。

3位。舞依ちゃん。台乗りおめでとう。良かったね~今回はこれが一番うれしかったかも。持病のせいで少しほっそりして、その分の力が余裕に代わったようで、動き全てをコントロールして表現してる美しい滑りだった。癒される。ショート8位から。

花織ちゃんはショート2位からの4位。表現ほんとに良くなったなぁ~もっともっと伸びるんだろうなぁと感じる滑りでした。世界選手権、ガンバレ。


男子。

1位。昌磨くん。全日本から3回も右足首捻挫してたんだね・・・。今回休むという選択肢はなかったのだろうか・・・。ショートはジャンプ2つ着氷ミスがあって4位発進。フリーは力を出し切ってリンクに崩れ落ちました。キスクラにフラフラでたどり着いて。得点がでた時には驚いてましたね~・・・なんだか珍しい感じの昌磨くんでした。練習できてなかったのに試合だったから、からだが付いて行かなかったんだろうなぁ。
構成落としても合計ではシーズンベスト。世界選手権では構成を上げて来るんだろうけど・・・自分的には、フリーはこのままでもいいんじゃないかなぁと思う。

2位。ボーヤンくん。調子上げてますね~。ジャンプが安定したらスゴイ点数が出そう。世界選手権楽しみ。

3位。ヴィンセントくん。ジャンプの回転不足が残念。伸び盛りだからこれからスゴイことになりそう。毎回観るのが楽しみになってきました。

4位。キーガンくん。ショートを地上波で見れなくて残念。ダイナミックで楽しくて、いつもわくわくする演技です。アラスカで一人で練習してるって・・・なんかすごい。

5位。ジェイソンくん。柔らかくて大きくて優雅なスケート。毎回楽しみにしてます。ジャンプも随分安定してきてる。4サルコウも安定するといいなぁ。

6位。ジュンファンくん。観る度に上手になってるなぁと。世界選手権どこまでいけるか、楽しみ。

7位は刑事くん。友野くんは入賞できず。

パラダイスで会いましょう!

2019-02-09 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事。

聖書は、創造者である唯一の神が存在していて、人間が失った楽園(パラダイス)を、時を定めて、回復させてくださる、ということを教えている、と自分は思っているので、今回の記事の前半に関しては、特に突っ込みは無かったです。

16節からの、ルカ23:43の理解に関しては、「今日言う」のか「今日パラダイスにいる」のか、原文はどっちともとれる書き方なのだから、選択肢を示しておくだけで良いんじゃないかと思う。この記事のように断定しないで。
以前にも書いたけど、言われた犯罪者にとっては、死んでる間は存在しないんだから、気が付いたらパラダイスなわけで、「今日パラダイスにいる」でも間違ってないんだし・・・。
組織は自分たちの見解を擁護するために、あちこちから言葉を探し出し、都合の良い所だけを切り抜いて来て、いかにもこれが正しいんですと言わんばかりに書いてるのがもう、うさんくさくてうんざりする。
この訳し方に異論がある、って分かってるから拘るんだろうな。

読者からの質問の、パウロが書いた第三の天(コリント②12:2~4)に関する理解も、「かもしれません」「ようです」「だと思われます」ばかりのこじつけで、自分たち組織の教義の裏付けに用いる。なんとも狡賢い。信者のみなさんは、これが正しい理解だと思って、一生懸命覚えるのかな。それとも、組織に付いて行けばいいだけだから、こんな理解は今更どうでもいいのかな・・・

これで、23節「パラダイスについての理解を深めることができました」の言葉に同意できる人がいるんだろうか・・・・

ローマ人への手紙1~3章

2019-02-05 | 聖書
この書は、パウロが第三回宣教旅行の終盤に書いたもの。パウロがそれまでの宣教で、多くの人々に語ってきた福音(キリスト教)を、文書としてまとめたもの。パウロはこれを、まだ行ったことのないローマのクリスチャンに当てて書いた(自己紹介も兼ねて)。

いはばパウロのキリスト教思想の最重要文書。プロテスタントの著名な人たちは、これぞキリスト教だ、としてこの書の解説本を書いているらしい。

1~3章がこの書の本論。救いは、人の努力によって勝ち得るものではなく、神からの一方的な恩恵によって与えられるものである、ということ。特に1:16,17がこの書のテーマ・・らしい・・知らなかった・・。

1:16,17「すなわち、わたしは福音を恥としない。それはすべて信じる者にとって、第一にユダヤ人にとって、またギリシャ人にとっても、救いへといたらせる神の力である。何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。『義人は信から生きるであろう』と書いてあるように」(田川訳)

「神の義」とは、神の正しさ、神が正しいということ。神自身が義である、という意味で、信じる人が神から義と認められる(信仰義認。ルターがこの部分の翻訳に持ち込んだらしい)、という意味ではない。

「神の義はその中で、信から信へと啓示される」とは、「神の義は、神が信実であることから発して、それを受けて神を信頼する人間の信実へとむかって啓示される。神の義が福音の中に啓示されるとはそういう意味だ」ということ。神が「義」を啓示したのは、罪人であり本来それに価しない人間たちに対して、神の側はあくまでも誠実さを貫いてくれた、それならその啓示を受け取る側の人間も「信頼」「誠実」をもってそれに対するべき、というパウロ思想の根本。

新世界訳で読むと、この箇所は分かるような分からないような、どうとでも解釈できそうな文章だったけど、この解説ですっきりした。
分かり難い原文を、自分たちの教理に合わせて改竄して訳すのは、エホバの証人に限らず、昔から行なわれてきたことなんだね。(果たしてどれほど神のご意思が働いているのか、まったく人間の仕業なのか・・・)

「第一にユダヤ人にとって」とか、3章の「ユダヤ人の長所は・・あらゆる点で、多くある」とか、パウロはユダヤ人優越意識が抜けていないことが露呈してる。

1:26,27からは、パウロが極度に同性愛嫌いだったことも分かる。

2:16でパウロは、「私の福音」(新世界訳では「わたしが宣明する良いたより」)と書いている。自分こそが直接神によって福音を託されたという自意識過剰から出た言葉。

3:22。新世界訳「イエス・キリストに対する信仰による神の義であり、信仰を持つすべての者のためのものです」田川訳「イエス・キリストの信による、信じるすべての者へといたる神の義である」

神の義を確立するのは人間の信仰だ、となれば「神の義」という絶対的なものが人間に左右されてしまうものになり、パウロ思想(徹底した神中心)ではない。
ここは、「神の義は、イエス・キリストにおける神の信実によって、信じるすべての者のために明らかにされた」の意。「神の義」という巨大に超越的なものが、個々の人間にまで到達する、ないし顕わされる。「神の義」の中にそれまで包摂されていなかった罪人たる人間のところまで今や「神の義」が到達した、ということ。

3:26。新世界訳「イエスに信仰を持つ人を義と宣する」。田川訳「イエスの信からの者を義となす」。

イエスを信じるかどうかということではなく、「イエスの信」(イエスを通して示された神の信実)に基づいて、ないしそこから発して生きる人たち(を義となす)ということ。


ここまで、田川氏の「新約聖書 訳と註 パウロ書簡」からいろいろと引用させていただきました。


さて、ワークブックに突っ込みます。

「自分の良心を訓練し続ける」という話。2:14,15に基づく話のようですが・・・この聖句は、良心を訓練し続けることとは全く関係ない文脈の聖句です。もし、この部分を当てはめるなら、世の人だって神から与えられた良心が律法になってるんだよ、エホバの証人はキリストの律法を与えられてるんだからちゃんとそれを実践しようよ、っていう感じじゃないかと。だいたい、良心を訓練って、何が正しいか何が間違ってるかを、自分で決めちゃいけないっていう教理なのに、矛盾してるよねぇ・・つまりこれは、組織の規則を守れ、もっと組織に貢献しろ、っていう命令を守る訓練に過ぎないですね。
パウロの壮大なキリスト教思想を学ぶ機会なのに、ほんと残念なことです。

「霊的な宝石を見つける」の3:4。ここでパウロは、神が真実でないと思うなどとんでもないことだと、宣言してるのであって、それを知られるようにするにはどうしたらよいか、なんてことは述べてない。「知られる」なんて言葉を入れてるのは新世界訳だけじゃないかなぁ。