聖なる書物を読んで

現役JW29年目

コリント② (1)

2019-04-30 | 聖書
パウロは、コリント①を書いた後、②を書く前に、短くコリントを訪れたと考えられる。(その訪問のことは使徒行伝には書かれていない)

なぜなら、2:1に「再び苦痛をもって行くことはすまい」とあるが、最初の訪問は「苦痛」を伴うものではなかったから。また12:14,13:1にも「三度目に行く」とある。
この「苦痛」は「悲しみ」という語とは違って具体的な打撃を表わす言葉。この書き方では、苦痛を与えに行くのか与えられに行くのか分からないが、その訪問ではどちらかあるいは両方だったのだろう。
2:2に「私があなた方に苦痛を与える」とあるので、苦痛=罰とも考えられる。つまり何らかの違反を犯した信者にパウロが罰を与えることで、どちらも打撃を受ける(受けた)ということかもしれない。

2:4に「多くの涙をもって(手紙を)書いた」とある。これは、①のことか、あるいは①と②の間に書かれた中間書簡(「涙の書簡」と言われている)があるのかもしれない。

1章でパウロは、旅行行程を変更したことの言い訳をぐだぐだしている。
①の16章で計画していた行程(エフェソス→マケドニア→コリント冬→エルサレム)を変更(エフェソス→コリント→マケドニア→コリント冬→エルサレム)したのは、コリントとの関係が上手く行ってなかったことと、コリントでエルサレムへの献金問題が大きくなっていて(なぜそんな献金が課せられるのか、なぜパウロ御一行様の旅支度まで負わせられるのか)募金が集まっていなかったから、まず発破をかけようと思ってのことだろう。
そうした下心を誤魔化すために、手紙を書き出すにあたって最初に患難の話を持ち出し、自分がどれほど患難を受けたかを書く。そして、この変更は肉に従って計画したわけじゃない、自分の都合なんかじゃないとイエス・キリストまで持ち出して言い訳するという・・・まぁパウロにとっては真剣な状況だったのかもしれないけど。
結局は、エフェソスで大騒動(8節の患難。使徒19:23~)が起きてしまって、コリントに行けずにマケドニア回りで行くことになった(1:23、2:12,13)。

新世界訳の1:3には「慰めの神」とあるけど、この「慰め」の原語は「呼びかけ」の意。
慰めたり、励ましたり、訓戒を与えたり等の趣旨で呼びかけるので、文脈に合わせていろいろな語に訳されている。この場合は「慰め」が分かり易いのだろうけど、パウロが好んで用いている語なので、「呼びかけ」と統一して訳す方が分かり易いと思う。(田川訳はすべて「呼びかけ」になってる)

2:14~7:4は別の書(中間書簡?)が入り込んだという説がある。実際、話がいきなり飛んでいて、マケドニアの話2:13は7:5に続いている。

2:14にある「凱旋行進」も、もし挿入であるのなら、その前に書かれていたことが分からないので、パウロがこの言葉で何をどう例えていたのか分からない、というのが正しい理解になる。
「凱旋行進」が神の勝利の行進であるのなら、我々が捕虜として引き連れられてるのはなぜなのかも、この文章だけでは分からない。
さらに、知識を「匂い」に例えているのは、その前からの続きかもしれないし、ここからかもしれない。これも不明。


(田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました)

パウロって

2019-04-28 | 聖書
コリント①16:21,22(田川訳)
「パウロが自分の手で挨拶を記す。主を愛さない者がいるなら、呪われよ。マラナタ」

口述筆記が終わり、自分の手で挨拶を書くにあたって、まずは呪いの言葉で始めるパウロって、どうなん?

自分を批判してきた(あるいは、単に質問してきたのを自分への批判と受け取った?)コリントの信者に対して、かなり苛立っていたんだろうな、って推察される。

自分が救ってやったのに、自分の持つ神の権威を認めないとは何事かと。そんな奴は呪われろと。(そこまで酷くはないかもしれないけどw)

まずはそう一言、言わないでいられなかったってことで、パウロも人間だということです。聖人なんかじゃなくて。

人間パウロが書いた手紙なんだと思って読むと、今まで組織から学んでいたのとは違った景色が見えてきて、楽しいです。

ちなみに「マラナタ」というのは、アラム語で「我らの主よ来たり給え」といった意味で、信者が唱えていた言葉らしいです。

結局、お決まりの文句を唱える、ということが組織宗教には欠かせないことなんだね。

この組織には、そういう決まった文句はないけど、兄弟姉妹と呼び合うこととか、手紙の書き出しが「親愛なる~」で、終わりが「クリスチャン愛と共に」とか、いわゆるエホバの証人用語とか、それらしいことはいくつか見受けられる。

組織に属するって、そういう組織の色に染まるってことで。

・・・そう考えると、染まりたくないなぁ、と思う。何にも染まらないで、純粋に神を崇拝できれば一番いいんじゃないかなぁと。・・・具体的にどうすればいいのか分からないけどw。

終わりはいつ来るのか

2019-04-26 | 聖書
パウロは、自分が生きている間に終わりが来る、と思っていた。それは、テサロニケ①4:15~17やコリント①15:51~53などから分かる。

ちなみに、パウロ書簡は書かれた順に、テサロニケ①、ガラテア、コリント①②、ローマ、フィリピ、フィレモン。

ついでに、疑似パウロ書簡(パウロの死後、パウロ派の者たちがパウロの名前を利用して書いた)が、エフェソス(コロサイを利用して書かれた)、コロサイ、テサロニケ②、テモテ①②、テトス。(テモテとテトスの3つの書簡は牧会書簡と呼ばれる)
それ以外の書簡は公同書簡と呼ばれる、ヤコブ、ペテロ①②、ユダ、ヨハネ①②③。
ヘブライと黙示録は書簡ではない。

つまり、1世紀当時からずーっと、終わりは近い終わりは近い、と言われ続けていたわけで・・・

エホバの証人の解釈だと、1914年が終わりの時の始まりになるんだけど・・・1914年かどうかは別としても、確かに前世紀あたりから世界の様子がそれまでとは一変してきていると思えるので、人間が地を破滅させてしまう前に神が介入されるという意味で、終わりが近いのではないか、とも思えたりした。

実際、世も末だね、なんて言葉を普通の会話の中で時々耳にしたりもする。本気で言ってるのではないにしても、やはり誰でもが心のどこかで良い変化を望んでいるのだろうと思う。

悪や苦痛が終わる、というのはとても魅力的なことだし、そのことが神の言葉といわれる聖書に書かれているのだと、創造者である神が存在するという論拠と共に提示されると、ホントなのかなって。・・・で、夢物語を信じたくなってしまったという。

でも聖書は矛盾だらけの書物だということが分かって来て、どこまでが神の言葉なのか、そもそも本当に神の言葉なのか、最近では疑問になって来てる。

パウロは本当に終末論を信じていた。自分にキリストが現れてくださったと信じていた。自分が「朽ちぬ者に変えられ不死を着る」と信じていた。そしてそれは、神の側からのキリストによる恵みなのだと(人間の側の善行とかではなく)。

どうなんだろうなぁ・・・終わりは来るのかなぁ。



(田川訳より)
テサロニケ①4:15~17「事実、我々があなた方にこのことを言うのは、主の言葉においてである。すなわち主の来臨の時まで生きて残っている我々が、すでに眠った人たちより先になることはない。すなわち、主御自身が大天使の声と神のラッパの合図とともに天から下って来る。そしてキリストにある死者たちがまず復活する。それから、我々生きて残っている者たちが彼らとともに雲の中へと連れ去られ、空中で主と出会うことになる。こうして我々は常に主とともに居ることになるのである」

コリント①15:51~53「見よ、秘儀をあなた方に申し上げよう。我々みんなが死ぬわけではない。しかしみんなが変えられるであろう。瞬時に、またたく間に、最後のラッパが鳴る時に。すなわちラッパが響くと、死者たちが朽ちぬ者として甦らされ、我々の方は朽ちぬ者に変えられる。というのは、この朽ちるものが朽ちぬものを着ることになるからである。この死すべきものが不死を着るのである」

書く気力が失せました

2019-04-24 | エホバの証人
コリント人への第一の手紙(改訂版では「コリントのクリスチャンへの第一の手紙」となりましたが・・・)の追記、書く気が失せてしまいました。すみません・・・

原因は改訂版です。なんだかいろいろ頑張って突っ込むのも馬鹿らしくなってしまって。自分にとって、全く価値のない組織になっちゃいました。聖書をこんな風に変えられちゃったら、なんかもうダメです・・・(信者はこれを喜んで受け入れてるのかな?)

ものみの塔の研究記事も、この頃は読む価値もほとんどないし・・・正直、突っ込むほどの関心も無くなってきてしまって。

そんなこんなで、しばらく更新を休もうかな、と思っています。

今月からは奉仕報告も出さない(0報告)予定でいます。不活発になったら、さすがに長老たちからの呼び出しがあるかな?(行かないけどw)

なにかあったら、また報告したいと思ってます。

あ、日常的な事は更新するかもしれません~今後ともよろしくお願いします~

エホバに喜ばれる柔和な人になりましょう

2019-04-21 | ものみの塔
今日のものみの塔研究記事。

柔和を求める=柔和な人になるように努力する、これは大事なことだと思います。自分も培いたいと思っています。

で、期待して記事を読み始めたんですが・・・柔和な人というのは、謙遜、従順、温和、勇気という特質を発揮している、ということが言いたいらしい、ということは分かりました。モーセとイエスを例にして。

要約すると、謙遜になってエホバに従順に従い、試練にあっても温和な態度で勇気を示す人が、柔和な人ということかな。

相変わらずエホバ=組織になっちゃってる点を除けば、言ってることは良いと思うのですが・・・いまいち、柔和という特質自体がどういうものなのか、はっきりしないです。温和とどう違うの? そもそも特質ではないのかな?

さて、突っ込みです。

2節。「わたしたちはモーセほどの障害に直面することはないでしょう」。

そりゃね、統治体やべテル家族の面々はそう思うのかもしれないですけど、モーセより大変だと感じてる信者がいないと思ってる時点で、感情移入できてないよね。障害だと感じる事柄もその重さの感じ方も人それぞれだし、比べられるもんじゃないと思うよ。

9節。「エホバの訓練を受け入れたからです。・・・・エホバは40年かけてモーセを教え・・・」。

これは組織の見解であって、実際に聖書に書かれてることを越えてるよね。それとも改訂版には、そんな風に書かれてるのかしらん? 今のところまだ読む気がしないんで、読んで確かめたいとも思いませんけども・・・

12節。「ハナニヤ、ミシャエル、アザリア」。

前回は本文にシャデラク、メシャク、アベデネゴって書いてたのに、そっちの名は今回は脚注に。以前、ヘブライ名の方を大事にしよう、とか言ってたことを、今回は思い出したのかなw。

14~17節。例に出てくる日常的なストレスの原因と、イエスの最期の晩のストレスを同列に並べられても・・・全くピンとこないよねぇ・・・ズレズレだよねぇ。
まぁ、ものすごく大きな事柄(自分が贖いとなること)を思えば、細かいストレス(弟子たちの言い争い)なんか取るに足りないよ、ってことは学べるかな。(不謹慎ですみません。・・・だって、こんな比較されたら、そんな感じになっちゃうもん)

23節。「エホバに守っていただくには努力が必要である」。

努力が必要なのは分かります。でもこういう書き方をされるとねぇ・・・神はわたしたちに、条件付きの愛しか示してくださらないように感じちゃいますね。懐のちっさい神になっちゃいますよね。 




コリント人への第一の手紙14章

2019-04-17 | 聖書
14章。

12節。新世界訳改訂版「皆さんも,聖なる力による贈り物を熱心に求めているのですから,会衆を力づける贈り物を豊かに頂けるように努めてください」。
田川訳「あなた方もまた霊に関して熱心であるのなら、教会を建てることを目的として(霊の賜物を)求めるべきである。そうすればあなた方はより豊かになろう」。

原文には「頂く」という語は無い。

改訂版の聖書用語集なるものを見ると、「聖なる力」とは今までの「聖霊」のこと。で、「聖霊」「霊」という項目は無いから、それは使われなくなったのかな・・・。おかげで、「霊の賜物」で済んでいた部分が、この節では「聖なる力による贈り物」、続く14~16節では「聖なる力による能力」となった。
なんと、「霊的な人」は「聖なる力に導かれる人」(2:15,3:1)。「導かれる」なんて語、どこから出てくるん? どうなってるん?? いいのかこれで??? パウロの意図が全く伝わらないよ、これじゃ。
ちなみに、マタイの28:20も「父と子と聖なる力の名によってバプテスマを・・・」と。もう、キリスト教とは一線を画したいのかな、この組織は。

22~25節。新世界訳改訂版「さまざまな言語を話すことは,クリスチャンのためではなく,クリスチャンではない人のためのしるしです。一方,預言は,クリスチャンではない人のためではなく,クリスチャンのためのものです。 会衆全体が1つの場所に集まって皆がさまざまな言語を話している時に,普通の人やクリスチャンではない人が入ってきたなら,その人は皆さんのことを正気ではないと言うのではないでしょうか。しかし,皆さんが預言している時にクリスチャンではない人や普通の人が入ってきたなら,その人は皆から戒められて詳しく調べられたと感じます。そして心の中の秘密が明らかになり,その人はひれ伏して神を崇拝し,「神は確かに皆さんの中にいます」と言います」。

パウロは「クリスチャン」という語は使わない。これじゃ、パウロが「クリスチャン」という語を使ってたように誤解する。ここでも「信者」「非信者」という語を使ってるんだから、そう訳すべき。

「異言」は「さまざまな言語」になったんだね。「異言を話す」の原語は「舌で話す」。直訳して脚注で解説しとけばいいのに。

22節で、非信者のためのしるし、といっているのに、23節では、正気ではないと言う、と。ここでもパウロは、論理が矛盾してることに気付いていないらしい・・・。

32節。新世界訳改訂版「預言者は,聖なる力による贈り物を秩序正しく用いるべきです」。
田川訳「預言者の霊は預言者に服従するものである」。

「秩序正しく用いるべき」って、どこから出て来た? 意訳というより改竄だよ、これ。ここの意味は、元は同じ神の霊なんだから、順番を守る上でそれぞれの霊がそれぞれの預言者に服し合うものだ、みたいなことだよね。(きっと統治体は、聖なる力による贈り物を秩序正しく用いることができてないんだろうなぁ。だからこんな改竄しちゃうんだろうなぁw)

34,35節。パウロの女性差別発言。会衆内での預言の順番について述べた後に「女は黙っていろ」と。どんだけ女嫌いなのよっ。困ったパウロさんです。

エホバの証人がこのパウロの女性差別を擁護するのは、きっと他のキリスト教会が現代の事情に合わせて、このパウロ発言を排除しようとしているからなんだろうなぁ。
でも新世界訳改訂版では、かなりやわらげて「女性は会衆の中では黙っていてください」となってる。逆に権威がなくなっちゃった感じのパウロさんです。(お願いしちゃってるw。いつも上から目線の偉そうなパウロさんがこんな言い方するわけないのに)

頭の権に関するパウロの見解、それが神の見方として正しいのかどうかというと、正しくないだろうと思います。でも、組織はパウロのように女性蔑視ではないし、確かに男性中心組織ではあるけど、それなりにちゃんと秩序は保ってると思われるので、これはこれでアリ(神の見方に適ってる?)なのかな、と思ったりもします。(日本は特に男性が少ないから、上手い具合にバランスが取れてるだけかもしれないけど・・)

37節。「(私が書いたことは)主のおきて」とある。この「おきて」という語は旧約律法を指す語。7章ではまだ主の指示と自分の意見を分けようとしていたのに、ここでは、このパウロ様の言うことが主のおきてなのだと居直った。(女嫌いが爆発しちゃって自制がきかなかったのかなw)


以上、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~

改訂版

2019-04-16 | エホバの証人
特別集会で、新世界訳聖書の改訂版が出ましたね。残念ながらまだ入手できていませんが・・・オンラインでも読めるようになったので、ちょこっと読んでみました。

まぁ・・・分かり易いといえば分かり易いかなぁ。今までも教理ありきの意訳だったけど、それをさらに噛み砕いた感じ。読み易くなった分、洗脳され易くなった感じ。あんまり読みたくないかも。

で、改訂訳に伴って、これまで使ってたエホバの証人用語も、いろいろと変わったみたいです。「群れ」が「グループ」になったとか、「世界的な業」が「世界的活動」になったとか、「奉仕の僕」が「援助奉仕者」になったとか・・自分、みんなと交わってないからなぁ・・ちゃんと付いて行けるかなぁ・・w。

マンネリ化でどよ~んとしてた兄弟姉妹たちにとっては、いわば霊的に新鮮な空気が吹き込まれて、これでしばらくは盛り上がれるのかもしれないですね。

・・でもどうかな。もう変化には飽き飽きしてる、っていう信者も多いのかな。やっとタブレットに慣れたのに~やっと新しい歌を覚えたのに~、みたいな。新しいことに慣れない年配者も多いから大変だろうなぁ。

まぁ、組織は次から次へと新しいものを提供して、飽きさせない(他へ目を向かせない)努力をしてる、ってことでもあるのかな。そう思うと涙ぐましいなぁw。

自分としては、ここまで日本語の改訂版の発表が遅れたことに、何か裏があるんじゃないかと勘繰ってます。何か良からぬ事を隠そうとしているんじゃないかと。そのタイミングを見計らっていたのではないかと。・・・考えすぎかな。

忠誠を保ちましょう!

2019-04-13 | ものみの塔
今日がレット氏の特別集会かな? 神戸だっけ? 今週のものみの塔研究記事は、その集会の中で扱うのかな? 

人間の忠誠の問題。神が悪を許しておられる理由の1つでしたっけ・・・

ん~~~どうなんだろうなぁ・・・この教理、神は愛である、という真理と矛盾するように感じるんだよなぁ・・・まぁ、此の世に悪がある事自体、神の愛と矛盾することになっちゃってるんだけど。
だから、なんとか理由を探して、こじつけた教理なんだろうなぁ。

ヨブが忠誠を保ったのは、サタン云々関係ないよねぇ。
う~ん・・・人間に何かを証明してもらわなきゃいけない神・・・なんだかなぁです。そのために神は私たち人間を用いてくださってるんだ、っていうと、なんだか聞こえはいいけど。

忠誠は自分と神との問題で、サタンも報いも関係ないと思うんですよねぇ。

結局、組織が言いたいことは、組織への忠誠を保ちましょう! ってことですよ。
組織の規則に従順に従う(=エホバに忠誠を保つ)ことで、サタンという敵のエホバへの中傷が嘘であることを証明でき、エホバに喜んでもらえて大きな報いが得られる、と。
いわば、人間の持つ神への愛を利用して、組織に従わせようとしてるだけ。

さて。突っ込みを少し。

1節。学校でやる祝祭日の祝いは、単なる習慣だと思うので、やっても神への忠誠は保てると思います。クラスメートへの伝道も、してもしなくても忠誠とは何の関係もないと思います。仕事で上司から不正直で違法なことをするように言われたら、これはもう神への忠誠の問題じゃなく、犯罪です。
こういう時は具体例を出す組織。個人の良心の問題を規則化してますね。ヤな感じです。
で、5節で、エホバへの愛は完全で傷も欠陥もないものでなければならい、そうした愛を示して初めて忠誠を示せると書いた後に、またこの3つの例を出す。愛があるならこうすべきだと。
良心を働かせる隙間もありません。

6頁の写真(13~15節)。行動となると相変わらず例に出るのが、ポルノとお金や物。きっと、べテル家族の一番の関心事なんでしょうw。偏ってるよね。

今回は突っ込みにくかった。あまりにアホみたいな記事だったので。
こんな記事ばかり読んでたら、だんだん頭が変になっていくんじゃないかなぁ・・・

コリント人への第一の手紙12,13章

2019-04-11 | 聖書
12章からは霊の賜物の話で、13章に愛の定義を挟んで、14章へと続く。

13章は、パウロの言葉使い(単語や構文)や考え方とは異なった表現が多い上に、霊の賜物に関して論じている間に強引に割って入っているように見えるので、後世の挿入なのでは、とか、パウロの別の時の文章が紛れ込んだのでは、とか言われているらしい。(ただパウロは、突如として話があっちに飛んだり戻ったりと一貫しない書き方をする人でもある)

12章。

23~25節。新世界訳「また、体の中でほかより誉れが少ないと思える部分、これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。こうしてわたしたちの見栄えのしない部分に他より豊かな麗しさが添えられ、一方、麗しい部分は何も必要としません。しかしそうではあっても、神が体を組み立てたのであり、欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて、体に分裂がないように、その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました」。
田川訳「また身体の中の無価値と思えるところに、我々はむしろますます価値を付与する。そして我々の中の格好悪い部分が実はより良い姿を持っている。格好の良い部分はわざわざそうする必要はない。神はより劣っている部分に価値を与えて、身体を一体化させたのである。それは身体の中で分裂が生じたりせず、肢体がそれぞれお互いのために同じように配慮するためである」。

「無価値、価値」がこの語の基本の意味。抽象的な意味で「誉れ」とも訳されるが、それで通じるのだからそのまま訳すのが良いと思う。

「格好悪い部分が実はより良い姿を持っている」が直訳。パウロは、一見「格好悪い」と思えるものこそ本当はみずから「良い姿」を持っている、と言っている。格好悪い人たちがそのままじゃかわいそうだから誉めてあげましょう、ってことではない。

「一体化させる」の原語の動詞は「まぜる、こねる」の意。「ともに」という接頭語が付いて強調されている。直訳は「まぜあわせる」。それぞれ別の要素を「組み立てる」のではなく、全体が分離せず一つに融合するように「まぜあわせる」動作。

パウロの、信者に対するこういう見方はとってもいいなぁと思う。
どの賜物も神から価値が与えられてるのだから優劣なんて無く大切なんだ、それぞれの賜物を出し合って協力し合いなさい、というね。
ところが、最後の31節で「より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい」って言っちゃうんだよね。
この一言で、それまでの良い話がけしとんじゃった。結局優劣つけるんかい、って。パウロは良いこと言ったつもりなんだろうけど。

13章。

4~8節。愛の定義。訳によっていろいろ違うなぁ、と。特に気になっていた一か所だけ。

7節。新世界訳「すべての事を忍耐します」。

すぐ前に「すべての事に耐え」とあるのにまた忍耐が出てくる、愛はなんと耐えることが好きなんだろう(ドMか)、と思ってたけど、ここは「人様を先にたてる、お先にどうぞどうぞ、という態度」。田川訳では「すべてゆずる」。(まぁ・・ドMであることに変わりはないか)


今回も田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました~

コリント人への第一の手紙10,11章

2019-04-10 | 聖書
10章。

4節。新世界訳「自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだ」。

水を出す岩が荒野を放浪する民に付いて来てくれた、というのはラビの律法解釈の中に見られる。

1~4節。パウロは出エジプトの奇跡の物語をアレゴリー化している。当時すでにキリスト教において重要な式典となっていた洗礼と聖餐にあわせて、霊的なものとして。(旧約の出来事を予型とし、新約の出来事を対型とする考え方。それをさらに現代に当てはめようとして失敗しちゃったのがこの組織。さらなる対型なんてあるわけないよねぇ・・・聖書は完成してるし、1世紀のクリスチャンに倣ってるんだからw)
パウロは、自分たちキリスト教徒を、イスラエルと同様に神に選ばれた民であるとして、ユダヤ教徒であった時と同様の選民意識を抱いていた(組織はこれに倣ってる)。イエスはそういう二分論的考えを退けたのに・・・

8節。「二万三千人」。

民数記には数字がいっぱい出て来るんだから、パウロの記憶違いっていうのが一番可能性が高い。(次の章の26:62にはレビの男子の数が二万三千人とある)
聖パウロ様に、聖書に間違いがあるはずない、っていう立場で考えるから、これは概算だの、頭たちの数が入ってないだのと、無理な屁理屈こねなきゃならなくなるw。

11節。新世界訳「わたしたちに対する警告のためです」。

「警告」と訳されている原語の意味は、理性(知性)に置くこと、つまり理性的に正しく考えること。テサロニケ①5:12,14で「訓戒する」と訳されてる語の名詞形。「警告」と訳すのはキツ過ぎる。「諭すため」とか「考えを正すため」といった感じ。
「事物の体制の終わり」だからって「警告」にすることないのにね。脅したいんだねぇ・・・。

13節。新世界訳「人に共通でない誘惑があなた方に臨んだことはありません。しかし、神は忠実であられ、あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはせず、むしろ、あなた方がそれを忍耐できるよう、誘惑に伴って逃れ道を設けてくださるのです」。
田川訳「あなた方をおそった試練で人間的でないものはない。神は信実であって、あなた方が耐えられないような試練をあなた方に容認することはない。試練とともに、それを耐えることができるような出口を用意して下さるであろう」。

「人間的でない」が直訳。パウロが「人間的」という語で何を考えていたかは分からないが、「神的」との対照だろう。つまり、神による逃れられない刑罰とは対照的に、人間の世に普通に起こり得ること。
新世界訳のまどろっこしい分かり難い文章に対して、田川訳(ほぼ直訳)の分かり易いこと(文章も短いし読み易い)。
ほとんどの訳が「試練」「試み」なのに、新世界訳では「誘惑」。サタンを連想させるように訳されてるなぁと思うのは自分だけかしらん?

14~33節。パウロは、偶像礼拝を避けよと(8章の犠牲として捧げられた肉の問題の続き)。そして、神殿の場所そのもので、犠牲に捧げられた肉をこれ見よがしに食べる(8:10)のは止めた方がいいと。それは、悪霊と交わることになるからだと(ユダヤ教的なパウロの視点からすると)。
すべてが許されているが、すべてが益になるわけじゃない(6:12と同じ言い方)。だから、市場で売っている肉を食べてもいいが、、自分ではなく他の人の良心と益を考え、すべてを神の栄光のためにせよと。

パウロは、地とそれに満ちるものは神のもの、とか、自分が感謝して食べるものに関して人からつべこべ言われる筋合いはない、とか、口先ではカッコいいこと(真理)を言いつつ、結局本音は、偶像に犠牲として捧げられた肉なんぞ食うな、って言いたいんだよね。それを回りくどく、他の人のためだとかなんだとか言ってごまかしてるだけ。(どこぞの組織と同じくダブルスタンダード)

11章。

1節。新世界訳「わたしがキリストに見倣う者であるように、わたしに見倣う者となりなさい」。

謙遜だったら「わたしに見倣う者となりなさい」とは続けないよね。「あなた方もキリストに見倣う者となりなさい」になるよね。パウロに見倣った結果、上層部の方々は不遜にも「わたしに見倣いなさい」って雰囲気になっちゃったんだねぇ・・・ある意味、聖書的だよなぁ・・・

2節。新世界訳「わたしのことを思いに留め」。

パウロの事を気にかけてくれている、という意味ではない。パウロの言ったことを一々すべて覚えている、という皮肉。「あなた方をほめます」も皮肉。

3~15節。一々わたしが伝えた伝統を細かく覚えていて、それをもとにわたしを批判するのなら、次のことも覚えておけよ、という感じでパウロは、頭の権と女が頭を覆うべきだということをくどくど言う。(出た、パウロの男尊女卑)

女性差別を神の名において行なうパウロ。これが本当に神のお考えなのか、パウロの偏見から出た言葉なのか。少なくとも、イエスはこんな男女差別はしなかった。
たとえ3節の頭の権を認めたとしても、4,5節の頭覆いの件を論理的に導き出すのは無理。パウロは、ユダヤ人女性が頭覆いを着けていたという風習をキリスト教にも持ち込んで、なんとしてでもそれを押し付けたかったんだろうな。
10節に「女はみ使いたちのために頭に権威のしるしを着けるべき」とあって、これはノアの洪水前のことを指して、女は特定の男に従属するという権威のしるしを頭に着けていないと、悪い天使に誘惑されるよ、という脅し。
11節の「主にあっては、女も男なしにあるのではなく、男も女なしにあるのではありません」は、現実の社会生活では男女は差別されるべきだが、信仰においては同じだ、ということ(7章の奴隷と同じ理屈。ガラテア3:26~28)。
15節では論理が破たんしている。「女の髪は頭飾り(覆いのことをごまかして訳してる)の代わりに与えられている」のなら、髪を長くしてれば覆いはいらないってことになるよね。なのに6節では「髪を切ったり剃ったりするのが恥ずべきことであるのなら覆いを着けろ」と。・・・矛盾に気がついてないのかな、パウロ。

こんな滅茶苦茶なパウロの意見をもとにして、どんな時に女性の奉仕者は覆いを着けるのか、こんな場合はどうなんだ、ってくそ真面目に規則を作ろうとしている、この組織。滑稽だよなぁ・・・

20~34節。主の晩餐に関して。
当時は儀式ではなく、本当に一緒に食事をしていた。だから、それぞれが自分が持って来たものを食べてしまっていたり、持参していなかったり、帰ってから食事しようと思ってて空腹だったりして、それじゃ共通の食事にならないから主の晩餐にあずかることにならないじゃないか、と。これはイエスの記念なのだから、ふさわしい仕方で行なえと。

30節でパウロは、ふさわしくない仕方で主の晩餐にあずかっているから、あなた方の中に病気や死んだ人が多くいるのだ、と言っている。つまり、間違った仕方で主の晩さんにあずかると病気や死を招くことになる、とパウロは考えていたわけで、コリント信者をそのように脅してる。
31節では、自分自身をわきまえていれば裁かれない、つまり、ちゃんとわきまえていれば病気になったり死んだりしなかっただろうに、と。
32節では、つまり、現在このように裁かれているのは主による懲らしめであって、(最終的に)世と共に罪に定められないためだ、と。
残念ながら、新世界訳ではここまで読み取れない。でも実際に書かれてる内容はこういう事なんだよね。なんだかなぁ・・・まぁこれじゃあまりに呪術的過ぎるから、それが分からないように上手く訳し、こうしたことにはふれずに聖パウロ様らしい解釈をするという・・・(う~ん・・・聖書って何なん?)

この後、主の晩さんの儀式化が進んで行ったんだろうな。この組織の記念式もその一つ。


またまた田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました。