聖なる書物を読んで

現役JW29年目

だれに認められたいか

2018-09-08 | ものみの塔
明日の、ものみの塔研究記事。

2節に、「人に認められたいという願いは自然なもの」と書いてあるけど・・・クリスチャンであるならまず、人に認めてもらおうなんて考えてないんじゃないかと思う。

ということで、今回の記事は長老や巡回や支部の人や統治体の人に認められたいと思ってる人用かなw。

4節で、パウロの述べた「弱くて貧弱な基礎の事柄」を、「良い大学に行ったり、ビジネスで成功したり、芸術やスポーツの世界で有名になったりして、人々から認められること」に当てはめちゃってるのもダメでしょ。文脈では律法のことを言ってるんだから。(まぁ、この節で論じてるのは、「神に知られるようになった」ことの方なのかもしれないけど。)でもって、6節で、「むなしい事柄」という言葉を使って論点をすり替えてるところが、なんともいやらしいです。

聖書のガラテアを通して読んでから、4節から7節までを読むと、聖句の当てはめ方のなんとズルイことかと思う。パウロは律法に逆戻りしないように説き勧めたのであって、「高等教育を受けたり、昇進したり、大金を稼いだり、音楽やスポーツの才能を生かして名声やお金を得る」ことについては何も述べてない。フィリピもそう。
結局、組織に留まらせたいんだろうなと。エホバに認められる=組織に認められる、ってことを刷り込みたいんだろうなと。

8節からは、「願い」つまり動機を強めることが論じられてるわけだけど・・・まず、「認められたい」という動機自体が間違ってると思う。なので、もう読み進む気にもならなかった・・・一応目は通したけど。

これ以上書くと、かなり過激な文句だらけになりそうなので終わります。

・・・研究記事ってこんなに訳分からないものだったかなぁ。それだけ、自分の立ち位置が変化したってことなのかなぁ。それとも、書き手側がおかしくなって来てるのかなぁ。みんなどう思って注解してるんだろう。