聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ガラテア (1)

2019-05-27 | 聖書
パウロが最初に書いた書簡。初期のパウロの宗教思想がわかる。「信からの義」(信仰義認)の主張がはっきり出て来る。

この書簡でパウロは、ガラテアは内陸の高原地方で、住んでいる人々も文化的に遅れている野蛮人、とみなされていたからか、他の書簡に比べてかなり相手を見下した言い方をしている、とのこと。

コリント書簡はケンカ腰で、ガラテア書簡は軽蔑的。(パウロ~~)

新世界訳(他の訳もそうかな?)だと、そういうニュアンスが全く伝わらないから、そんな風に思ったこともなかったよ。

例えば。

1:6「私はあきれている」。元は「驚く」から来ているが、あきれたものだ、という感じの語。
1:11「あなた方に知らしめる」。「知らせる」の意だが、三人称で用いられるものを一人称で用いているので、ずいぶん横柄な言い方になっている。
3:1「ああ、間抜けなガラティア人よ」。ものを知らない、理解力が無い、という趣旨のバカにした失礼な表現。
5:2「見よ、私パウロがみずからあなた方に言う」。いばりくさってるw。

結局のところ、パウロはユダヤ人優越主義だったし、他民族を見下したりもしていたわけで。パウロ自身は、そういった偏見を取り除こうと努力していたのかもしれないけど、根深い偏見は言葉にも態度にも表れていたんだろうな、と推測されます。

今週のワークブックで3:1が取り上げられていて、「パウロがガラテアの人々を『無分別』だと言ったのはなぜか」と質問されてますが・・・

この書簡を書いた目的が、他のユダヤ教系宣教師によって、救われるために割礼を受けなければならないのかと疑問を持ったガラテア信者に、救いは「キリストの信」のおかげであって、割礼(律法)という「行為」によってではないと、伝えるためだったから、洞察にあるように「(悪)影響を受けるままにしていた」という答えでもいいんだけど・・・

それより、パウロはガラテアの信者を馬鹿にしていたから、っていうのが本当の答えかもw。

会衆で思いやりを示しましょう

2019-05-25 | ものみの塔
明日のものみの塔研究記事です。

まず主題ですが、「会衆」と限るあたりはパウロみたいだな~とw。

主題の聖句はペテロ①3:8からですが、このペテロ①もペテロが書いたことになってるけど、内容的にも言葉遣いもパウロ派で、他の疑似パウロ書簡に勝ってパウロ的だと言われている。
例えば、おとなしく、国家権力には従え、召使いは主人に従え、妻(女)は夫(男)に従え、若者(子供)は年長者(親)に従え、などなど。

本当にイエスはこんなこと教えたんだろうか、と最近は疑問に思います。

では。

2節。「周囲の人々に影響されてしまうことがあります。この終わりの時に、多くの人は他の人の気持ちを考えず、『自分を愛するもの』となっています」

あれ?会衆内の話をしてるんだよね? 思いやりを示すのが難しい理由の第三がこれ? 周囲の人々って会衆の人たちのことかと思ったよ。普通のエホバの証人って、そんなに世の人と交わってないよねぇ・・・。
だいたい、これじゃまるで、世の人はすべて思いやりがない、みたいに感じるよ。そんなことないでしょ。まぁ、こう書くことで、世と交わるな、自分たちは世の人たちとは違うんだ、と暗示にかけようとしてるんでしょうけど。

3節(8節も)。「イエスはエホバとそっくりな性格をしています」

そっくり、って。間違ってないんだろうけど・・・変。なんか抵抗を感じる表現。改訂版と同じニオイ。国語レベルを下げることで万人受けを狙ってるのかもしれないけど・・・逆効果なんじゃないかなと思う。

5~7節。「ご自分に仕える人たち」

4節では、エホバは「わたしたち」に思いやりを示してくださる、と書いてるのに、5節以降は「ご自分に仕える人たち」に思いやりを示される、とすり替わってる。相変わらず、組織のエホバ神はちっさい神だよね。ご自分に仕える人にしか思いやりを示さないんだね。まさに組織にふさわしい神w。
本当の神(自分は存在すると思ってます)は、ご自分に仕えない人にだって思いやりも愛も示してくださってるのに。自然の恵みも贖いも。

8~11節。イエスの手本でこんなこと書かれてもね。だれも真似できないでしょ。なんじゃこれ。

「エホバとそっくりな性格をしていました」。努力はできるけどね・・・そっくりは無理でしょ。(←拘ってるw)。
「心を読むことができました」。心理学でも勉強しろと?
「人々が直面する問題を実際に経験しました」。同じ経験をするのは不可能でしょ。
「奇跡を行なった」。できるかっ! まぁ、同情し、助けたいと思って、自分に出来ることをする、ってことぐらいは努力したいかな。

12節。「イエスが涙を流したのはなぜでしょうか。親しい友を亡くして悲しかっただけではなく、マルタやマリアの悲しみに胸を打たれたからです」

この解釈はピンとこないです。自分はこんな単純な理由だけじゃないと思ってます。以前の記事(ヨハネ11章)で書いたので、興味ある方はブログ内検索してみてくださいませ。(リンク貼れなくてすみません)

13節。「イエスの思いやりから多くのことを学べます」

強引でしょ。確かに、王としてのイエスの素晴らしさは学べましたけど・・・この論点って、主題に合ってる? ずれてね? 

14節。「エホバとイエスの手本について考えると、もっと思いやりを示したいという気持ちになります」

こんな風に人の気持ちを強制するのって、思いやりじゃないと思うんですけどね。

15~17節は、エホバとイエスに倣う点で、特に会衆の長老に当てはめてます。まるで、長老がエホバやイエスでもあるかのように・・・組織は、長老に思いっきり重い荷を背負わせたいようです。
逆に考えれば、長老をそれだけ祀り上げて、会衆の成員には長老への絶対服従心を起こさせる、というのが目的なのかもしれません。

こわいこわい。

18節は、実際に「病気の人、高齢の人」にあてはまる姉妹が、『これ、自分のことだから注解できないわ(注解じゃなくてコメントだよ~)』って言ってましたよ。そう感じる人、多いでしょうね。ホント、思いやりのない文章です・・・。

19節は良かったと思います。「関心を払いながらも、あまり立ち入った質問をしないように」とあるけど、もっと具体的だったら尚良かったかな。

20節。次の記事では、宣教で思いやりを示すことを考えるそうです。今回が会衆内だったんだから、次回は会衆外で良いと思うんだけどなぁ・・・

ペテロ②3:9

2019-05-24 | 聖書
ペテロ②3:9

新世界訳「エホバはご自分の約束に関し、ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ、ひとりも滅ぼされることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので、あなた方に対して辛抱しておられるのです」

同改訂版「エホバは約束を果たすのが遅いと考える人もいますが、そうではありません。神は、一人も滅ぼされることなく、全ての人が悔い改めることを望んでいるので、皆さんのことを辛抱しているのです」

終わりが遅れてる理由として、以前はよくこの聖句が引用されていたけど、最近あんまり出て来ないような気がする。(違ってたらすみません)

もし、エホバの証人以外が全て滅ぼされるとしたら、現状として、一日遅れるごとに滅びる人がどんどん増しているわけで。

いくら組織が、人口増加の多い発展途上国でエホバの証人が増えていると宣伝したところで、ちょっと考えれば、この聖句を当てはめることがいかに現状と矛盾しているかは、簡単にわかることで。

だからこの聖句、あんまり使われなくなったのかな。

ウィキによると、1914年頃の世界人口は20億に満たなかった。でも今は70億超え。一方、エホバの証人は記念式に参加した人で考えても、今で2000万ほどしかいない。

1914年に終わりが来てれば、滅びる人は20億に満たなかったのに、今だと69億8000万が滅びることになっちゃう。

神の辛抱によって、滅びる人が日ごとにどんどん増してるとなると・・・・・神の辛抱っていったい何なんだろうね、ってなるよね。

この矛盾を解消するためには、エホバの証人以外の人口を減少させるしかない、ってことになる。(なんか怖いこと想像しちゃう~~)

いずれは人口減少に転じるだろうとも言われているけど、それを待つとしたら、終わりはまだまだ先ってことで。

さて、この聖句の田川訳です。

「一部の人々は遅れだと思っているが、主は約束を遅らせるような方ではない。あなた方に対して寛大であろうとしておられるのである。(主は)一部の人が滅びることではなく、すべての者が悔改めへと向かうことを望んでおられるのだ」

ちなみに、ペテロ書簡はペテロが書いたものではない、と考えられている。(詳しくはウィキで)

この訳だと、会衆内での事柄を扱ったものだということがよくわかる。会衆内で真理が冒瀆されるようなことが起きていたから、会衆内のすべての人が悔改めに向かうよう、神は寛大であろうとしておられる、ということで。

この組織の聖句の読み方、当てはめ方がおかしいよ、という例でした。

エホバの声に聴き従いましょう

2019-05-19 | ものみの塔
久しぶりにものみの塔研究記事に突っ込みます。

改訂版が出て、引用されている聖句の言葉が違っちゃってるのは、まぁ置いとくとして。
・・・でも「是認した」と「喜ぶ」とじゃ、ずいぶんな違いだと思うんですけどね・・・もとは「喜ぶ」だから、まぁ良くなったと思うことにします。
・・・「聴き従いなさい」と「言うことを聞きなさい」も、違うっちゃ違うよね・・・もとは「聞け」だから、もっと違うけど。

今回の記事も、結局言いたいことは、救われたいなら組織(=エホバ)のために気を散らすことなく働けよ、ということですかね。

イエスに聴き従う人はこうします、ああします、こうすべきです、ああすべきです・・・等々。

イエスは、そんな風に雁字搦めになっている当時の民衆を、宗教指導者たちから救おうとしたのに。それが神の愛と憐れみだったのに。

なのに、組織のタイムリーwな指示に従うならエホバは祝福する、犠牲を払う人をエホバは愛される・・・と。

これじゃ、当時の宗教指導者と同じだよ。神の名を辱めているのは、間違いなくこの組織だよ。

・・・全体的な突っ込みになってしまいましたが、以下ひとつだけ突っ込んどきます。

16節。「反対者たちが広めているうそによって、エホバのお名前やエホバの組織が非難されるのではないかと心配になることもあるでしょう」

まず、神のみ名と組織を同列に置くなと言いたいところですが・・・最近は、「エホバ」っていうのはこの組織の神の名なんだ(創造者なる唯一神とは別の偶像神)と思うようになってきたので、これはこれでいいかな、なんてw。

「反対者たちが広めているうそ」って、具体的に何なんでしょうね。具体的には書けないんでしょうね。信者が興味を持って調べて、真実を知っちゃったら、藪蛇になっちゃいますもんね。

以上、つまらない突っ込みですみません。記事がつまらなかったものですから・・・(言い訳w)

人体

2019-05-18 | エホバの証人
NHKスペシャルで「人体」という特集番組がありました。前回シリーズに続いての第二弾シリーズ。

今回はDNAという、新しいアプローチからの人体の解明がとても興味深く。

DNAを意のままに操ることができれば、病気も死も無くすことって出来るのかもしれないな、と思ったり。

こういう番組を見ると、神の創造の驚異を改めて感じて、神への畏怖の念と愛とが深まりますね・・・ただその分、今は神のご意志(特に将来に関して)がはっきり分からなくなっていることに、苛立ちを覚えます。

聖書をどこまで信じたらいいのか、組織の教理もどこまでが真理なのか・・・(この組織自体はもう信じるに値しない崩壊して欲しい組織ですが)

まぁ、あせらず、のんびり、求め続け探し続け叩き続けようかな、と。日々の生活を楽しみながら・・・

ただ一つ言いたかったのは。

以前ならばこういうテーマをいち早く扱っていたであろう情報誌、「目ざめよ!」の最近の体たらくときたら。(読んでないけどw)
それとも、ビデオか何かでこういうテーマ、扱っているんでしょうかね。(見てないからわかんないやw)

エホバの証人のみなさん、世からの情報を断たれたままでいると、ますます置いてきぼりになって行くんじゃないかな、と。

それでも、そういうコミュニティーに属していることが幸せなら、それでいいのかなぁ・・・

近況

2019-05-13 | エホバの証人
先月の奉仕報告は0(ゼロ)で出したんですけど、その後、特に何の連絡もなく・・・このままフェードアウトできればいいなぁ、と思ってます。・・・甘いかな。

司会者だった姉妹は、時折(2~3ヶ月に1回くらい?)様子を見に来てくれます(恐縮です。不肖の弟子ですみません~)が・・・今はもう、こちらから兄弟姉妹への働きかけは、一切していない状態です。スーパーや道端で会った時に、目が合えば、会釈したり、ちょっと話したりすることはありますが・・・

群れ(今はグループでしたっけw)の司会者からは、連絡網で連絡が来るくらいかな。ほんの時折、訪ねて来られますけど(前回は改訂版を持って来てくださいました)・・・打診があれば断れるんですけど、いきなり訪ねて来られると、応対しないわけにいかなくて、困るんですよね(裏表の顔を使い分けなきゃなので少なからず良心が痛みます・・・)。まぁ大抵は、困ったことに、いきなり来られますけど・・・
でもそんなに頻繁ではない・・・というか、ほとんどほっとかれてます。

たぶん、一番最初に調整者兄弟から「お話がしたい」っていう打診があった時、「こちらからは話したいことありませんし、何かあるなら今(電話)言ってください」「いや別にその・・・」「では特にないのなら、お電話ありがとうございました」って、思いっきりあっちむいてホイ!しちゃったから、扱いづらい姉妹だって思われてるんだろうなw。

今月は巡回訪問があるらしいので、何かあるとしたら、それ以降かなぁ・・・新しい巡回監督夫妻らしいからなぁ・・・長老兄弟たち、いろいろ大変だろうなぁ・・・がんばれぇ~~~
ちらっと聞いた話だと、まだ若い巡回監督らしいです。自分の子供か孫みたいな年齢の兄弟に仕えなきゃならないって、どんな心境なんでしょう・・・
若い巡回監督ってことは、エホバの証人的には超エリートってことになるのかな。きっと会衆のみなさんは、張り切っておもてなしをするんでしょうね・・・

組織をちょっと離れて見ることができるようになって、こうしたことを外から見るようになると、なんだか色んなことがバカらしく感じちゃいます。(中にいる時は気づかないで一生懸命だったんですけどね・・・)

組織につくすんじゃなくて、神を愛する生き方をしたいなぁと思います。

コリント② (4)

2019-05-08 | 聖書
6:11~13「コリントス人よ、我々の口はあなた方に向かって開かれている。我々の心は広く開かれているのだ。あなた方は我々のところで狭くなっているのではない。あなた方自身の心の中で狭くなっているのである。同じ対応を---子どもに対するように申し上げるが、あなた方も開かれなさい」

パウロが回りくどい嫌味な言い方をする人だとよくわかる部分。
我々はあなた方に対して心を広げているのに、我々を批判するあなた方は心が狭い(我々が勝手にそう思っているのではなく実際にそうだ)、ものわかりの悪い子ども(親に対する子どもというより大人に対する子ども)に言うように言って聞かせるが、あなた方も、我々があなた方に取ってるのと同じ態度を我々に対して取りなさい、と。

こんな風に、「我々」と「あなた方」を分けて敵対関係にあるみたいにケンカ腰で上から語られたら、コリントの信者はますますパウロを受け入れられなくなっただろうなぁと推察される。

6:14~7:1
この部分は、パウロの文章ではないものが紛れ込んだのだろうと考えられている。ユダヤ教文書の言葉遣いや発想が多い(が、まったくパウロ的ではないとも言い切れない)。6:13は7:2につながる。

6:16~18
旧約の様々な箇所(5ヶ所?)からの引用での表現。ユダヤ教学者の間で見られる技術。(パウロも用いたがせいぜい2~3ヶ所の組み合わせ引用)

え~と、つまり、2:14~7:4に別の書が入り込んでいて、その中の6:14~7:1が別の文章の紛れ込み、ということになる。コリント②はなんだか分かり辛いなぁと思っていたけど、こういうことだったんだね~
それが分かって読むと、ずいぶん分かり易くなった~

(聖句は田川訳、田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました)

コリント② (3)

2019-05-07 | 聖書
5:4,8
信者の復活に関して、コリント①15章で書いたことでは説得できなかったのか、またあれこれと例えを用いて説明しようとしている。結局、この身体を脱ぎたいんだか脱ぎたくないんだか、訳分からなくなってる。簡潔に書けないってことは、パウロも良くわかってなかったんだろうな・・・。

5:7「我々は直接見える仕方ではなく、信によって歩んでいる」

パウロは永遠の世界で主と共にあることを願っていた。でもまだ直接それを見ることはできないから、その時が来ることを信じて歩んでるんだ、という意味。
改訂版では「見えるものによってではなく・・・」とあって、これだと目に見える現実世界のものによってではなく・・・みたいな感じになって、パウロがここで考えている趣旨とずれる。

5:10「我々は皆キリストの裁きの座の前で顕わにされ、それぞれが身体によってなしたことを、良いことであれ悪いことであれ、なしたことに応じて償わねばならないからである」

パウロは基本、信仰義認(人間が義とされるのは、律法の実践によるのはなく、神の側が罪人である人間を救おうと決めてくださったからだと信じること)の人。なのに、信者を脅す時にはその信仰と矛盾したことを言うんだよね。なんだかな。
どんな罪人であってもイエス・キリストを信じるなら救われる(魅力的な宗教に思えただろう)、と宣教して信者を集め、信者になった人には自分の基準を押し付けて、そうしないと裁かれるよと脅す。これって、まんまこの組織だよねw。
でも実生活をおくる上での指針は必要だから、ある程度はこういう矛盾も仕方ないのかなぁ・・・。
ちなみに、ここで言う「悪いこと」の原語の意味は、悪というより、軽率な、不注意な、といった感じ。

5:12,13
パウロは、コリントに自分に敵対する者(イエス幻視に関してパウロを正気じゃないと言う者)がいて、信者をたぶらかしていると思っていたのかもしれない。

5:16「我々は、今から後は、誰をも肉によって知ることはしない。もしも(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今はもはやそのように知ることはしない」

パウロが、かつて生きていたイエスを知ることを拒絶しているとして有名な箇所。パウロはここで、福音書に書かれるようなイエスの話(伝承)などどうでもいい、自分は自分に現われた復活のイエスだけを知るんだ、と宣言した。まぁ、売り言葉(本当にイエスを知ってるのか証拠を出せ)に買い言葉的な宣言だったのだろうけど。
マルコがパウロと別れ、福音書を書いた理由は、このあたりにあったのかもしれない。

改訂版は「肉によって」を「人間的な観点で」って訳してる(訳じゃなくて勝手な解釈だよね)けど、これじゃ文脈上意味がわからないよ。この聖句だけ抜き出して都合よく適用しようという魂胆かな。

5:20「我々はキリストに代わって願う、あなた方は神と和解しなさい」

パウロは、和解はすでに生じた事柄で、信者はすでに神と和解したのだ、と言ったそばから続く節でこういう矛盾したことを言う。パウロが考えているのは、神の和解の言葉を伝える私の使徒職を疑ってるうちは神と和解したことにはならない、私の権威を認めることによって神と和解しなさい、ということだろう。
改訂版は「あなた方は」という語を省いて、一般人への言葉と受け取れるよう訳されてる。矛盾を解消しようとしたのかもしれないけど、これじゃ、パウロとコリントの確執が伝わらない。


(聖句は田川訳、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました)

(新世界訳は、改訂版だけと比べていきます。この訳、変なところいっぱいありすぎw。4:5なんて「皆さんに一生懸命仕えている」ですよ。ふきそうになりましたw。子ども相手としか思えない訳です~)

コリント② (2)

2019-05-06 | 聖書
4:4「此の世の神が不信者の思いを盲目にして、神の姿であるキリストの栄光の福音の輝きを見えないようにした、ということなのだ」

パウロがここで「此の世の」と言っているのは興味深い。(他では、例えばヨハネ14:30とかエフェソス2:2とかヨハネ①5:19とかでは、神ではなくて支配者)
パウロにとって神と呼べる存在は唯一であるはずなのに、その神以外に此の世の神が存在すると考えてるってことで・・・組織はそれがサタンだとしてるけど、はたしてパウロがそのつもりで言ったのかどうか。

4:4~6あたり、パウロはダマスカス途上でのイエス幻視体験を念頭に置いているものと思われる。

4:7「我々は陶器の器にこの宝を持っている。力のあふれは神のものであって、我々から出て来ているわけではない(ということがわかる)ためである」

器だから「あふれ」という語が使われてる。これで意味が通じるのだから、解釈を混ぜた意訳(新世界訳は「普通を超えた力」)をする必要はない。

4:15「より多くの人々によって恵みが増えていき、その恵みが、感謝を増やして神の栄光へといたるためなのである」

より多くの人が信者になればその分「恵み」が増えるから、その「恵み」が働いて感謝を増やしてくださってる、ということ。
「(神の)栄光へといたる」というのもパウロの好む表現で、終末の救済時に神が人間をその栄光が輝くところへいたらせてくださる、ということ。

改訂版だと、我々の感謝の祈りが神の惜しみない親切を豊かに引き出す、みたいな感じになっちゃってる。神中心のパウロの考え方とも合致しないし、なんだかちっちゃい神(人間に左右される)になっちゃってる。意訳どころかひどい改竄。

4:16,17「だから我々はさぼることをしない。外なる人は朽ちても、我々の内なる人は日々新たにされている。すなわち、現在の軽い患難が働いて、栄光という永遠の重みを満ちあふれるばかりに圧倒的に我々に得させてくれるのである」

「さぼる」は「怠慢でいる」ということ(1節にも出てくるので、この章で意識されてること)。改訂版の「諦めない」という意味はない。(今週の集会の話の主題が「わたしたちはあきらめません」だけど・・・主題からして間違ってるよ~~~)
「朽ちる」はコリント①15:53,54で「朽ちる」という意味で出て来た形容詞の、接頭語(強調)の付いた動詞形。死ねば朽ちるということで、外面が歳と共に衰えるという話ではない。(ずーっとそう思ってたよ。これも間違ってるよ~~~)
「現在の」は「しばらくの」が直訳だが、永遠の来世に比べれば今生きてる現世はほんの一時のようなものだ、という意味。(現在、しばらく⇔来世、永遠)


(田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡①を参照させていただきました。聖句も田川訳からです)

処分

2019-05-05 | エホバの証人
去年あたりから、エホバの証人関連のグッズをかなり処分しました。

押入れのかなりの場所を陣取っていた、ものみの塔と目ざめよ!の製本。そのまま紐で縛って、紙類のゴミの日(月一だったので、何か月かかけて)に出しました。
同じゴミ置き場に同じ会衆の姉妹も出すので、見つかっちゃうかなぁと思ったりもしましたが、その後、特に何か問われることもなく・・・見つからないですんだかな。あるいは、イロイロ疑われてたりして・・・。

製本じゃない雑誌や王国宣教は、その他の雑誌類に混ぜて廃品回収に。

ブロシュアー(今は冊子って言うんでしたっけ? ブロシュアーって言わなくなったんですよね)は、取りあえず1部づつ残して、雑誌と同様に。まだ綺麗で配布可能なものもあったんですが、返品するのもなんだし、配布する気もないので処分。

書籍も同様、1部づつ残して処分。配布可能な聖書やらマタイやらもあって、どうしようか迷ってたんですけど、改訂版も出たことだし処分にしました。

年鑑、日々の聖句、カレンダーはすべて処分(何年分あったかなぁ~いっぱいあった)。
パンフレットやコンタクトカードももちろん処分。

後、カセットやビデオは全部処分したんですけど、DVDが残っているんですよね。それも近いうちに処分です。

海老名べテルに見学に行った時に頂いた絵葉書やパンフレットも処分。

以前に比べると、押し入れや棚がスッキリしました。

でもまだまだですね・・・一切合財すべて処分できないところがね・・・なんでかなぁと思いますけど。まだ棚に並んでる書籍を眺めつつ・・・いつかこれらも無くなる時が来るのかなぁ・・・どうかなぁ。

なんかね、すべて処分してしまうと、自分が生きて来た時間まで否定してしまうような気がして。

かといって、これらの書籍に書かれてる偽りのことや組織の偽善を考えると、投げ捨てたい気にもなったり。

今はそんなこんなな状態です。