聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ヨハネ5章

2018-09-18 | 聖書
1節に書かれている「ユダヤ人の祭り」を、ものみの塔は31年の過ぎ越しとしているけれど、諸説あるらしい。

ユダヤ人の祭りは、ニサン14日~(3~4月)過ぎ越し、シワン6日(5~6月)ペンテコステ、ティシュリ15日~(9~10月)仮小屋、キスレウ25日(11~12月)献納、アダル14、15日(2~3月)プリム、の5つ。

エルサレムにまで行くのは、過ぎ越し、ペンテコステ、仮小屋の3つなので、そのうちのどれかだろうと。

5章はその祭りの時のエルサレムでの出来事。

ベツザタの池で、イエスが38年間病気の人を癒すと、それが安息日であったという理由で、ユダヤ人がイエスを迫害する。それに答えてイエスが、み父がしておられることを子も行なうこと、死んだ人々を生かすこと、復活があること、イエスには証があること(バプテストのヨハネ、イエスの業、父みずから、聖書=モーセ)などを語る。


ベツザタの池について。
4節は参照資料を見ると、「み使いが季節ごとにその池の中に下りて来て、その水を揺らすからであった。その時、水が揺れた後に最初に入った者は、その患っていた疾病がどんなものであれ、それから治って健康になるのであった」とある。5つの柱廊はそれぞれモーセ5書を表していたらしい。

普通に考えて、偶像崇拝っぽいと思うけど・・・イエスはそんな場所にも行かれて、病気の人を癒してるんだね。

17節。「わたしの父はずっと今まで働いてこられました」
神は7日目になって創造の業を休まれてるけど、創造物のためにずっと働いておられる。感謝です。

18節。「神を自分の父と呼んで、自分を神に等しい者としている」
なぜ、神を父と呼ぶと、神と等しい者になるのか・・・当時はそういう認識だったのかな。神を父と呼ぶなんて不敬だ、神の家族でもないくせに、ってことかしら。だとしたら、「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えたイエスは、父に近づくように、神に個人的に近づくようにと、私たちを導いてくださったことがよくわかる。

39節から最後まで。
聖書を調べていても、律法主義に陥ってしまいイエスを退けてしまったユダヤ人。神への愛を抱いていなかったために、互い同士からの栄光を求め、イエスを信じることができなかった。モーセを信じているならイエスを信じるはずなのに。(ものみの塔によると、モーセは反逆者になっちゃったけどw)

聖書を調べるのは大事だけど、ユダヤ人のようにたくさんの規則を作って、それを守ることに必死になって、大切なことを見失わないようにしないといけないなと。(ものみの塔はその点で失敗してるよね)

でもって、イエスが言われたことが一番大切なことだと思うから、手紙類は参考程度でいいのかもしれないと思う。

フェードアウト

2018-09-17 | エホバの証人
しっかりと関係を断ち切る(組織に名前を残さない)ためには、断絶の方がいいのだろう。

フェードアウトだと、いつまでたっても、たとえもう組織のことは何も思い出さなくても、どこかで縛られているような感じが残る(名前も残る)のだろう。見つかったら排斥になるようなことは、隠れてしなくちゃならないしw

聖書を学び続け、神とイエスに信仰を持ち続けていくつもりなら、なおさら組織のことが忘れられないだろうし・・・でも、断絶してもそこは同じかな。聖書から全く離れるなら、違ってくるかもだけど。まぁ無理に組織のことを忘れる必要もないか。

断絶という規則は組織が作ったものだから従う必要なんてない、っていう意見も目にするけど・・・要は自分の意識の問題なんだよね。キリをつけるかどうかの。

自分的には、失って困るような友人関係もないし、親戚にエホバの証人は一人もいないし。(司会者の姉妹にはさんざんお世話になったので申し訳ないなぁとは思う)

だから断絶して完全忌避されても、特に今と状況が変わるわけではないんだけど・・・

やっぱりフェードアウトかなぁ・・・今月からもう奉仕報告出すのやめよっかな・・・

ちなみに主人はどっちでも合わせてくれるらしい。なんなら長老にあれこれ言って排斥になってもいいそうだ。

趣味(昌磨くん)

2018-09-16 | 趣味
今日は、組織に言わせると偶像崇拝にあたる、自分の趣味のことを少し。

フィギュアースケートです。自分で滑るわけではありません。もっぱら観る方です。
今年もシーズンが始まってワクワクしています。

特に宇野昌磨くんの大ファンです。彼の滑りはいい。彼の滑りに嵌ってフィギュアスケートファンになったようなもの。(もともとフィギュアスケート好きだったけど、嵌っちゃマズイと思って観てなかった・・観始めたのは昌磨くんがシニアに上がってから)
ロンバルディア杯、三連覇。がんばった。テレビ放映ないのが残念。

ライストで見てましたが、フリーの月光(ベートーベン)、曲が思ったよりゆったりしてる(演奏のせいか、間延びしてて、テンポがとり辛い)感じがしたので、飽きさせないで見せるのが難しいように思いました。
でもその分、これからどんな風に仕上がっていくのか楽しみでもあります。

フリーは30秒少なくなってジャンプ1つ減ったけど、短い間にやることが増えちゃって、ジャンプ1つ失敗すると後々まで響いちゃうのかなという印象でした。

宮原知子ちゃんもUSクラシック優勝。よかった。

山下真瑚ちゃんがロンバルディア杯3位。がんばった。

今週は、ネペラ杯に刑事くんと紀平梨花ちゃんとザギトワちゃんとコリヤダくん。オータムクラシックに結弦くんと樋口新葉ちゃんとメドベちゃん。

楽しみがいっぱい。

一晩一緒に

2018-09-15 | ものみの塔
今月学んでる研究記事の載ってる2018/7の裏表紙。

読者からの質問。

結婚していない男女が不適切な状況のもとで一晩一緒に過ごした場合、審理委員会を設けるべきですか。

答えは、(酌量すべき事情がない限り)はい。

・・・まぁ、性的不道徳が聖書的にいけないことはわかる。
ただ、一晩一緒に過ごした=性的不道徳、というのはいまいち納得できない。

・・・まぁ、性的不道徳があったとして、悔い改めていないのなら、審理委員会も必要かもしれない。

でも、こういう状況って、本人たち以外誰も知らないことがほとんどだよね。
だとしたら、本人たちの告白によって知るってことだよね。
で、告白してるってことは、ふつうは悔い改めてるよね。
審理委員会、必要ないんじゃないかなぁ。

・・・(主人が)挿絵を見て一言。

「2人を見張ってるストーカーがいて、長老に報告するんだよ。これストーカー目線じゃん」

なるほどぉ。





メリバの水

2018-09-14 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究。

モーセ(とアロン)が神の怒りを買って、約束の地に入れなくなってしまった出来事。

約束の地を目前に、カデシュ近くのメリバで、神の言われた通り集会(会衆)を集めて、神が「大岩に話すように」と言われたのに、2回も岩を打った。しかも「わたしたちは水を出すのか」と言って、神を神聖なものとすることを怠った。

ちなみに、エジプトを出てすぐのレフィディム近くのメリバでは、神の言われた通り年長者だけの前で、神の言われた通り岩を打った(回数は書いてないからたぶん1回)。

どちらも神は水を出してくださってる。

神の怒りを買った一番の理由は、神ご自身が言われた「あなた方がわたしに信仰を示さ(なかった)」ことなんじゃないかと、自分は思う。
指示に背いたことや、神を神聖なものとするのを怠ったことが、その表れだったんじゃないかなぁと。それは指導者として一番あってはいけないことだったのかなぁと。

記事には、「モーセは反逆した」とあるけど、自分は反逆だとは思わない。
やり方は間違ってたけど、神のご意思(水を出す)は行なったのだから。

そして、「同じ罰」を受けた(約束の地に入れない)のだとも思わない。
神はモーセの最期に、ピスガの頂から約束の地を見せてゆかれた。荒野で倒されたわけじゃない。

なんというか・・・記事を読んだ後の、後味の悪さがなんとも言い難い。
モーセの失敗から学ぶのはいいけど・・・モーセを落とし過ぎなんじゃないかと思う。

もっとさわやかな記事を読みたいなぁ・・・

霊をもって

2018-09-12 | エホバの証人
サマリアの女が、「わたしたちの父祖はゲリジム山で崇拝したのに、あなた方は崇拝するべき場所はエルサレムだと言う」と述べた時に、イエスが答えられた言葉は、

ヨハネ4:23,24 「真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来ようとしています。それは今なのです。・・・神は霊であられるので、神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」

「霊をもって」崇拝するとはどういう意味か。

2001年9/15の読者からの質問で、教義が変わってたんだね。

自分が学んだのは、「愛と信仰に満ちた心に動かされて(場所や物といった見えるものではなく、目には見えないもの)」ということだった。
これなら、質問に対する答えとして成り立っていると思う。
霊に燃えて、という言葉もこれならすんなり理解できる。

でも、新たな理解は、「神の霊を持ち、その霊によって導かれなければならない。(加えて、わたしたちの精神の意向を神の霊と調和させる)」というもの。
熱心さは、間違った崇拝にも示されるかららしい。

ちなみに、「知識」の本45p4節も、「近づく」の本315p15節も、この聖句は新しい解釈(神の霊を持ち、その霊に導かれる)に書き換えられていた。

原語には、導かれるという意味もあるようだけど・・う~ん・・・
「導かれて」より「もって」と訳しているものがほとんど。

「イエス、道、真理、命」の中でも、この聖句が「霊と真理に導かれて」となっていて、当時すごく違和感を感じたのだけど・・・もし、これが新しい翻訳であるなら、受ける印象も意味もずいぶん変わっちゃうなぁと。

ますます霊によって油そそがれた人たちに導かれちゃって、自分で考えることをしなくなっちゃいそうだ。


自分は、霊と真理を「もって」神を崇拝したい。

家から家

2018-09-11 | エホバの証人
エホバの証人のトレードマークになっている「家から家」の伝道って、本当に聖書的根拠があるのかな。

イエスが「家から家」に宣べ伝えたと示唆されている部分なんて、どこにもないよね。
「都市から都市、村から村(ルカ)」っていうのはあるけど。

弟子たち70人を2人ずつ組にして、行こうとしている都市と場所に先だって遣わされたことは、ルカだけが書いてるけど、その時は「家から家へと移って行ってはなりません」と言われてる。

12人を2人ずつ遣わされた時も、「ふさわしい人を探し出し(マタイ)」「家の中に入ったならそこにとどまるように(マタイ、マルコ、ルカ)」と言われてる。

これらの指示は、家から家に宣教して歩くこととはちょっと違うような気がする。


新世界訳で「家から家」と訳されているのは、使徒の5:42と20:20。
もとの「カト オイコン」の「カタ」が分配的な意味で用いられているから、宣べ伝える業も家から家へ分配された、というのがものみの塔の解釈。(都市から都市、村から村も同じ言葉が使われてるらしい)

他の訳では「家々」「家庭(の集会)」「方々の家」などと訳されてる。

聖書を普通に読めば、いわゆる「家から家」の伝道なんて思い浮かばないと思う。

もちろん、「家から家」をやってはいけないとは思わない。
宣べ伝える上で有用な手段であるというのなら、やることはかまわない。

でも、それは組織が決めた方法であって、それに無理やり聖書的根拠をこじつけるのはやめてほしい。

ヨハネ3章

2018-09-10 | 聖書
今週の聖書朗読範囲から。ニコデモについて。


ニコデモは、ヨハネの福音書だけに出てくる、サンヘドリンの成員(ユダヤ人の支配者)でパリサイ人(律法の教師)。

西暦30年、イエスの宣教の最初の過ぎ越しの時、エルサレムで行なわれたしるしを見て、たくさんの人がイエスに信仰を持った、その中の一人。

夜の闇に乗じてイエスを訪問する。(身バレを恐れたか、その時刻ならイエスとゆっくり話ができると思ったか・・)

しるしゆえにイエスを神のもとから来た教師だと知った、と語るニコデモに、人の内にあるものを知っておられたイエスは、質問されたわけでもないのに、再び生まれなければ神の王国を見ることはできない、とお答えになる。(ニコデモが神の王国に入るにはどうしたらよいか聞きたくて来たって分かったからかな。もしそうなら、パリサイ人でも神の王国に入れる自信はなかったんだね。真理を追求しようとするニコデモの姿勢をイエスは喜ばれたんじゃないかな)

年を取ってから生まれることはできない、というニコデモの言葉から、彼はけっこう年配だったのかもしれないと思われてる。

イエスが霊から生まれることについて話すと、ニコデモは驚いた顔をする。イエスは風(ギリシャ語では同じ単語)をたとえにして、霊から生まれたものもそのようだと話す。ニコデモは理解できない。

イエスはその理解力の無さを憂えながらも、モーセが荒野で蛇を挙げたと同じように、人の子も挙げられねばならないこと、神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、彼に信仰を働かせる者が永遠の命を持てるようにされたこと(クリスチャンならだれでも知っているであろう3:16の聖句)、そして、裁きの根拠となる、闇を愛するのではなく光に来るように(ニコデモは闇の中、光であるみ子のもとに来た)、と教えられた。

それに対して、ニコデモがどんな反応をしたのかは、何も書かれてないので分からない。
が、ニコデモはその後、イエスを弁護したり、イエスの埋葬のために没薬とじん香を持って来た。

伝承によると、この後キリスト教徒になり殉教したらしい(byウィキ)。
自分も、ニコデモは好意的に書かれてると思うので、さもありなんと思う。真理を謙遜に追求し、熟考し、出来る範囲で行動した。

9月ブロードキャスティング

2018-09-09 | エホバの証人
徹底的に「世」を切り捨て蔑むよう教える(洗脳する)こと、と同時に、組織内で特権を捉えることがいかに素晴らしいかを教える(洗脳する)ことを目的とした内容でした。

まぁ、いつものことだけど。

今回の極めつけは、恐怖で縛るために、使い物にならない硝子の器をわざわざ落としてガシャーン!!

ほんっと、くっだらない。ほんっっと、くっっだらなかった。(大事なので2度言います)
こんな話のために使われた聖句たちが気の毒です・・・


で、連続ドラマの話が出てきたので一言。

お話と現実を混同しちゃうなんて、どんだけお子ちゃまなんでしょね。
そんなお子ちゃましかいない組織なんでしょかね。



はぁ。

なんかもう、ほとほと嫌気がさしました。この組織に。


・・取り乱した文章ですみません。
でもまだどこかで期待してるから、こんなにモヤモヤするのかもしれません。

だれに認められたいか

2018-09-08 | ものみの塔
明日の、ものみの塔研究記事。

2節に、「人に認められたいという願いは自然なもの」と書いてあるけど・・・クリスチャンであるならまず、人に認めてもらおうなんて考えてないんじゃないかと思う。

ということで、今回の記事は長老や巡回や支部の人や統治体の人に認められたいと思ってる人用かなw。

4節で、パウロの述べた「弱くて貧弱な基礎の事柄」を、「良い大学に行ったり、ビジネスで成功したり、芸術やスポーツの世界で有名になったりして、人々から認められること」に当てはめちゃってるのもダメでしょ。文脈では律法のことを言ってるんだから。(まぁ、この節で論じてるのは、「神に知られるようになった」ことの方なのかもしれないけど。)でもって、6節で、「むなしい事柄」という言葉を使って論点をすり替えてるところが、なんともいやらしいです。

聖書のガラテアを通して読んでから、4節から7節までを読むと、聖句の当てはめ方のなんとズルイことかと思う。パウロは律法に逆戻りしないように説き勧めたのであって、「高等教育を受けたり、昇進したり、大金を稼いだり、音楽やスポーツの才能を生かして名声やお金を得る」ことについては何も述べてない。フィリピもそう。
結局、組織に留まらせたいんだろうなと。エホバに認められる=組織に認められる、ってことを刷り込みたいんだろうなと。

8節からは、「願い」つまり動機を強めることが論じられてるわけだけど・・・まず、「認められたい」という動機自体が間違ってると思う。なので、もう読み進む気にもならなかった・・・一応目は通したけど。

これ以上書くと、かなり過激な文句だらけになりそうなので終わります。

・・・研究記事ってこんなに訳分からないものだったかなぁ。それだけ、自分の立ち位置が変化したってことなのかなぁ。それとも、書き手側がおかしくなって来てるのかなぁ。みんなどう思って注解してるんだろう。