聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ルカ24章

2018-08-30 | 聖書
今週の聖書朗読の範囲から、イエスの復活と弟子たちとの交流について。

並行記述は、マタイ28章、マルコ16章、ヨハネ19,20章。

ルカはエルサレムでの出来事を中心に書いていて、ガリラヤでの出来事は書いていない。他の福音書筆者はガリラヤ湖を「海」と書いているが、ルカだけはわざわざ「湖」と書いているので、そのあたりの土地勘があまり無かったものとも思われる。
ちなみにガリラヤでの出来事はマタイとヨハネが書いている。

ルカが詳しく書いているのは、13節~35節、エマオへ旅する二人にイエスが現れた話。

この二人は、伝説によると、イエスの養父ヨセフの兄弟であるクレオパと、その息子シメオン(つまりイエスの従兄弟)。シメオンは、イエスの兄弟ヤコブの死後にエルサレムの2代目の監督になったとも伝えられている。
・・・なんだかなぁ・・・つまりはエルサレムに統治体があったという考え方は、カトリック教会の教皇制度となんら変わらないってことなんだなぁ・・・

クレオパがイエスに語ったことを読むと、イエスの復活に関して確信に達していなかったことが分かる。それでイエスは、聖書からご自分に関連した事柄を解き明かされるのだけれど、まだ信じられないでいる二人。イエスがパンを割いて渡した時にやっと「それを見て目はすっかり開け、だれであるかが分かった」とある。

ラザロが生き返ったことはすぐ信じることができたけど、イエスの場合はそうではない。イエスの復活が特別なものであったことがうかがえる。死んだ時と同じ様で生き返れば、すぐに信じられたんだろうけど、そうはされなかった。
今でも、イエスの復活を信じることは、それだけ特別なことなんだと思う。聖書にあるイエスに関連した事柄すべて解き明かされること。そして、目が開かれること。これはたぶん、信仰を持った時に神によって「目が開かれる」のかもしれない。

クリスチャンは、イエスの復活の証人なのだ。

ルカ23章

2018-08-29 | 聖書
今週の聖書朗読の範囲から、イエスの裁判と処刑、死まで。

並行記述は、マタイ27章、マルコ15章、ヨハネ18章後半~19章。

ルカだけが記している点として。

●ピラトがイエスをヘロデのもとに送ったこと。
●イエスがゴルゴタへ引かれて行くときに、付いてきた女たちに語ったこと。
●杭に付けられるときにイエスが言われたこと。
●共に杭に付けられた二人の悪行者とのやり取り。
●息を引き取られる前にイエスが大声で言った言葉。

3番目について。
ルカだけが「父よ、彼ら(ローマ兵たち)をお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのですから」というイエスの言葉を書いている。
ルカはパウロと行動を共にしていたから、異邦人(テオフィロ様も含め)に対しての気遣いもあったのかなと思う。
ステファノが石打ちにされた時に「この罪を彼らに負わせないでください」と言ったことも、ルカは書いてる。この時の相手はサンヘドリン(ユダヤ人)だったけど、ステファノの捕縛の原因となったのは、異邦人とのやりとりだったようだし。

4番目について。
問題の聖句は43節。「今日あなたに真実に言いますが、あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」

「今日」という語が「言う」にかかるか「いる」にかかるか。教義では「言う」の方。つまり「今日言います」。でも自分は「いる」の方だと思う。つまり「今日パラダイスにいる」(こう訳している聖書も多い)。
だって、目が覚めたら(復活したら)パラダイスなんだから。

もひとつ。
イエスの右と左に杭に付けられた悪行者のことが象徴的だなと思ったこと。

全人類が羊とヤギに、イエスの右と左に分けられること。この悪行者二人は全人類の象徴かなと。死に面して、神への恐れを持ち悔い改めてイエスに信仰を表した者と、全く神を恐れずイエスをあしざまにいう者と。起きた出来事を見て、意味を悟る者と悟らない者と。(エリ、エリ・・・・というイエスの言葉は詩編22編の出だしの言葉。この詩編を知っていれば、イエスが予言を成就するメシアであることが分かったはず)
神から見れば、罪のうちに死にゆく人間はみなこの悪行者たちと同じ。そうであれば、大事なのは、バプテスマを受けていわゆる献身の生活を送ることではなく(そうするのも信仰心からであるなら良いことかもしれないけど)、神を恐れ悔い改めてイエスに信仰をもつこと、ただそれだけなのかもしれない。その心からの信仰心があることが一番大事なんだろうなと思う。


5番目について。
ルカは「父よ、わたしの霊をみ手に託します」と書いている。
マタイとマルコは大声で叫んだことは書いているけど、内容は書いていない。
ヨハネは「成し遂げられた」と書いている。

神の原則

2018-08-25 | ものみの塔
今週のものみの塔研究。
全体的に主題の「良心を訓練する」話から逸脱してて、さっぱり意味がわからなかった。

ところどころに聖句は出てくるけど、聖書を学んでる感覚には全くならなかった。
結局、言いたいことの裏付けのために、都合よく聖句を切り貼りしてるだけだから。

10節なんてひどい。
マタイ5章でイエスが教えたかったのは、「特定の考えや行動がどんな結果につながるかに関する基本的な真理」などという表面的なことではなくて、「大事なのは心だよ」って事だと思う。
パリサイ人達が規則をいっぱい作って、それを守ることで義を示そうとしたことに対して、弟子たちにはそれ以上の義を、つまり心を浄化し心から義を行うことの大切さを教えたんだと思う。

12節も読んでて呆れた。
断ってる人に飲むように強く勧めたら、いわゆる世の人だって、今時はパワハラで問題になるよね。
だいたい10節からの流れで行くなら、禁酒してる人の側から書かないとオカシイよ。
自制できないようならお酒が出そうな交わりに行かないように、とかね。

挿絵も変。もし思いがけずお酒が出てきたのなら、その時点で(コップに注ぐ前に)、飲まない人は断るべきでしょ。コップが4つあるということは、飲まないことを知らなかったってことなんだから。
大抵は、飲まないって分かれば、無理に勧めたりしないし、相手に合わせるために自分も飲まないようにするか、飲んでもいいか聞くもんだと思うよ。
これは人としてのマナーの問題であって、円熟してるかどうかなんて関係ないでしょ。

16節。「悪い友達」っていう言葉がイヤだ。
良い悪いと、上から目線で人を裁くのはどうかと。
人が良いか悪いか、ではなくて、その人の考えや行いが良いか悪いか、だから、「悪影響を受けるかもしれない友達」みたいな言葉を使って欲しいと思う。

他にもなんだかモヤモヤするところだらけだったんだけど・・
一番モヤモヤしたのは、聖書の原則を探すのに組織のツールが役立つ、というところ。

聖書を差し置いて、組織のツールを調べたって、組織の原則しか学べないよね。

ルカ21章

2018-08-22 | 聖書
今週の聖書朗読の範囲から、気になった点。

終わりの日のしるしとして、ルカだけが記している(マタイもマルコも記していない)部分。


●ルカ21:8
「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て・・・『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません」

その時(終わり)が近づいたと言う者って、まさに、ものみの塔=エホバの証人。
これまで何回となく、終わりがいつ来るか予言しては外してきた。
最近では、二つの世代説まで打ち出して、終わりが近い近いと煽っている。

イエスは「そのあとに付いて行ってはなりません」と言われた。
やっぱり、この組織はやめた方がよさそう。



●ルカ21:24
「・・・そしてエルサレムは、諸国民の定められた時が満ちるまで、諸国民に踏みにじられるのです」

「諸国民の定められた時」の参照聖句。

新世界訳は、エゼキエル21:26,27、ダニエル4:25。
これらによって、1914年が導き出せるようになっている。

文語訳と新共同訳は、ローマ11:25。
そこには「・・一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり」(新世界訳では「・・諸国の人たちが入って来てその人たちの数がそろうまで、感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ」)とある。

「踏みにじられる」の参照聖句。

新世界訳にはない。

文語訳と新共同訳は、イザヤ63:3,18、ダニエル8:13,9:26、黙示録11:2など。
「聖所が踏みにじられる」「都と聖所が荒らされる」「異邦人が四十二か月の間、聖なる都を踏みにじる」といった聖句があげられている。

新世界訳は、組織の教理ありきで参照聖句も決められているんだね。

騙されないようにしないといけないなぁ、と改めて思った。

諸国民の定められた時(異邦人の時)は、いつ満ちた(る)のか?
まだまだ考慮の余地がありそう。

偏見

2018-08-19 | ものみの塔
今日のものみの塔研究。

13節。
ヤコブとヨハネがサマリア人に憤慨したという話。

本文には、「だったかもしれません」「だったのでしょう」「思ったかもしれません」。

こんな言葉を羅列しといて、質問では、「なぜそう言えますか」と問う。

「かもしれないからです」とか、「だったのだと考えられるからです」とか、「思ったかもしれないと思われるからです」みたいな答えを述べるわけにもいかないから、結局、断定的な答え方になってしまうことになる。

可能性だったものが事実にされてしまう、という質問と答えのマジック。
組織はこうやって思考を誘導していくんだなと。


この話、偏見とはまったく無関係かもしれない、と考えることだってできる。

宿を断られたから憤慨しただけ「かもしれない」。
もしガリラヤ人だったらもっと憤慨した「かもしれない」。同郷なのに愛が無い!って。
それとも、同郷(兄弟姉妹)だったら許すべきだということを、暗に示したいのか・・

この時の状況は、イエスがエルサレム(ユダヤ人)に心を向けていた事が、サマリア人が断った原因だったわけで、つまり、サマリア人がユダヤ人に反感と嫉妬みたいな感情を抱いていたことが原因だったわけで。
だから、後に良い反応が見られた時には、ヤコブとヨハネは、恥ずかしさではなく、喜びに満たされた「かもしれない」わけで。

で、この話の教訓としては、イエスとその弟子を迎えない所からは足の塵を振り払って出ること、であって、ヤコブとヨハネが偏見を抱いていたかどうかなんて関係ない話だと思う。

悪霊

2018-08-15 | 日記
聖書によると・・
神に反逆し、あるべき居所を捨てたみ使いたち。
サタンを頭として、組織的に人間たちを欺く活動をしている。
霊者なので、人間よりはるかに能力がある。


お盆なので、こんな話を。

以前、通ってた王国会館は、大きな橋の下にあった。
その橋には、ときどき幽霊がでるという噂があった。

ある時、家族で車に乗り、買い物に行った帰りに、その橋の上で渋滞になり、ちょうど車を止めた所が、その王国会館の上あたりだった。

大きな橋なので、人が歩いて通ることはあまりない。
その時も歩いている人はいなかった。

突然、車の後ろの窓がドンドンガタガタ鳴った。

後続の車から誰かが降りてきて、窓を叩いたのかと思って、家族みんなで振り向いて見回したところ・・・誰の姿も無く・・・

えぇ~~今の音はいったいなんだったのぉ~~気持ちわるぅ~~~

とか言いながらも、前車が動き出したので、そのまま帰った。

というお話。


自分は霊感が強くないので、悪霊の存在を感じたことはほとんどない。
でも、主人は何度か感じたことがあるらしい。
で、当時、主人とは「王国会館を見張ってる悪霊のしわざかもしれないねぇ」なんて話してた。

今はちょっと見方が変わった。
この組織自体が、サタンに誤導されているように感じるようになり、あの時の悪霊は、あの王国会館担当だったのかも・・なんて。

人々(の)賜物

2018-08-14 | 聖書
エフェソス4:8 「・・彼は人々(の)賜物を与えた」

(の)は、訳文の意味を明確にするための補足。
他の訳では、「人々(に)賜物を与えた」となっているものが多い。

(の)と(に)じゃ、だいぶ違うよね。

その先の文脈を追うと、イエスがある者を使徒、ある者を預言者、ある者を福音宣明者、ある者を牧者また教えるものとして与えたこと、それは聖なる者たちをさらに調整して、キリストの満ち満ちた丈の高さに達するためであること、偽りに振り回されたり、あちこち運ばれたりせず、キリストの体の各部すべてが調和し協働し、それぞれが機能を果たすことで成長すること、などなど語られていく。

とすると、人々(の)賜物を、会衆において、長老だけに当てはめるのは荷が重すぎじゃないかなぁ。
というか、本当に長老のことなのかなぁ。

当時の聖霊がそそがれてた会衆での話を、今の会衆に当てはめること自体、間違ってる気がする。

もし、これを今に当てはめるとするなら、会衆のすべての人がそれぞれ神から与えられてる賜物を生かすことで、会衆の一致と成長に資する、ということでいいんじゃないかなぁ。

これまでも組織に散々言われてきたから、
人々の賜物=長老=敬意を示す、みたいな図式が頭に構築されちゃってるけど、

長老を特別扱いするような聖句の用いられ方に、違和感いっぱい。

中立

2018-08-10 | ものみの塔
今週末の、ものみの塔研究に関連して。

主題は「わたしの王国はこの世のものではありません」

読んでて、いつものようにだんだんイライラしてきて、
最後には、雑誌をビリビリに破いて投げつけたくなった。
自制したけど。(あれ?そんな映画あったかな?)

7節、10節。
イエスは独立運動にも、政治的な問題にもかかわらなかった。
だから、わたしたちも、政治的な運動を支持することは、心の中でさえしない。
不公正が見られても、ああすべきこうすべきと、心の中で考えることもしない。

これ、適用がおかしいでしょ。

これじゃあ、考える力も無くなっちゃうよ。
政治問題には全く無頓着でいなきゃならなくなっちゃうよ。
不公正にも鈍感になって、憐みの心も無くなっていっちゃうよ。
それって、クリスチャンとしてまずいでしょ。

イエスが王にならなかったのは、主題にある通りなわけだし、「カエサルのものは~」と言ったのは、わなに嵌らないためであって、べつに中立のためじゃないと思う。

カエサルのものはカエサルに返す、と言っている時点で、積極的ではないにしろ、最低限でも政治に関わる必要(国民、市民としての義務や責任とかかな)を認めてると思うんだけど。


14節。
イエスが「剣を手に入れるように」って言ったのは、「剣を取る者は剣によって滅びる」という教訓をあたえるため??????????えっ????そのため?????

イエスが外衣を売ってまで剣を買うようにって言ったのは、イエスに関する事柄が成し遂げられていくことによって、弟子でいるためにはそれだけの覚悟が必要になるってことを示したのであって、実際にそうするように勧めていたわけじゃない。
だから、二振りで十分ですって言ったんだと思う。
教訓を与えるためだとしたら、イエスって人が悪いなぁって感じちゃうよ。

ちなみに、この教訓を記しているのはマタイだけ。
ルカは「それまでにしなさい」とだけ。
ヨハネは「剣をさやに納めなさい。父がわたしにお与えになった杯、わたしはそれをぜひとも飲むべきではありませんか」と。

も一つ。
ペテロが剣で襲いかかったのは、夜間にイエスを捕えるという不公正に憤慨したため??????????
ええっっ?夜間???不公正???????

昼間だったとしてもぺテロは襲い掛かったと思うのは自分だけ?
不公正に憤慨、というより、イエスを守りたかったからでしょう?


なんかもう、組織は自分たちの主張を正当化するために、神の言葉をこれでもかと捻じ曲げてる・・・

十人のらい病人

2018-08-08 | 聖書
イエスにらい病(今は、重い皮膚病、というらしい)を癒された十人のうち、サマリア人一人が神の栄光をたたえながら戻って来て、イエスの足元にうつ伏して感謝した。

この出来事から学べること。

感謝を表すこと・・が主眼じゃないと思う。
もちろん感謝を表すこともとても大切だけど。


ここでのポイントは、神の栄光をたたえる、他国の人、信仰。

イエスは、ご自分をメシアだと認め、神の栄光をたたえたのが、ただ一人、この他国の人だけだったことを嘆いてるんだと思う。
ご自分が遣わされたのは、まずはイスラエル人を救うためだったのに。

イスラエル人は、自分たちは神の民だという選民意識が強く、謙遜さに欠けていた。(前の文脈を見ると、奴隷がすべきことを行なった・・・という例えがでてくる)
それが、純粋なメシアへの信仰を阻むものになっていた。

他国の人が表す信仰を見るたびに、イスラエル人の信仰の無さを、イエスは嘆かれたんだろうな、と思う。

自分がこのらい病人の一人だったらどうしただろうな、と考える。
組織の考え方(イスラエル人)に染まってたなら、きっとそのまま祭司に見せに行っただろうな。
でも、神への信仰をしっかり持っていた(他国の人)なら、イエスのもとに感謝しに行けたかも。


さて。

この記述から、感謝について何が学べるか、と組織は問う。
そして、感謝を抱くだけでなく、表す「べき」であると強調する。

大事なのは、「すべき行ない」を強調することではなく、「行いたいという動機づけ」を与えることだと思う。

あれをすべき、これをすべき。
それができていれば、是認される。

こんなんじゃ、信仰もへったくれもないじゃないかぁ・・

賛美歌

2018-08-07 | エホバの証人
「エホバに向かって賛美を歌う」

長年慣れ親しんだ賛美歌。
歌詞が昔風で、威厳があった。
好きな歌詞は今でも覚えてる。


「エホバに歌う」

歌詞が現代風になり軽くなった。
頑張って覚え直した歌詞もいっぱいあったのに・・
無くなった曲、ちょこっと変更された曲もあり。
そして、最近、新たに加えられた曲もあり。


「喜びにあふれてエホバに歌う」

文字数の関係でエホバが省略されちゃってた。
讃美歌だって分からないよ・・
で、またまた歌詞が変わってる。違和感満載。
これはもう聴くことも歌うことも無いだろうな・・


結局、歌詞の混乱だけが心に残った。
いい曲もいっぱいあったのに・・残念だなぁ・・・

音楽には人を動かす力がある。
その時、その状況や感情を思い出させる力もある。

こんなに勝手にたびたび変更される曲や歌詞。
エホバが是認されてるとはとても思えない。