聖なる書物を読んで

現役JW29年目

その後

2019-07-31 | エホバの証人
先日、長老が一人で訪ねて来られました。玄関の外で夫婦で応対しました。

二ヶ月ゼロ報告だったことの心配をされてましたが、こちら二人の笑顔でありながらも「放っといてくださいオーラ」を感じたのか、それほどイロイロ突っ込まれることもなく、数分の立ち話で帰って行かれました。

大会にも誘われましたけど、私が「行かれないです」って即答したら「そうですか、残念ですね」で終わりました。主人は集会にも誘われてましたが、「う~ん、じゃあ、まぁ・・・どうかな・・・」みたいに言葉濁してました。

会衆の必要で来られた、まだ若い長老です。会衆の為、エホバの為、一生懸命なんだろうなぁ・・・たぶん。

何を信じるかは自由だけど、そのためにも情報を多く取り入れることが必要ですよね。だから、宣べ伝えているのだろうに・・・組織に入ってしまうと情報を取り入れることが制限されてしまって、一択しかできなくなっちゃうんだよね・・・

一生懸命なのは良いことなのかもしれないし、本人がそれで幸せだと感じているなら良いのかもしれないけど・・・やっぱり、情報は多く取り入れないとダメだよねぇ・・・何を信じるかは自由だとしても。

それとも、知らせることがその人にとって不幸なことなら、知らせない方がいいのかなぁ・・・でも不幸になるかどうか傍からじゃわからないしなぁ・・・まぁ、人にもよるだろうしなぁ・・・むずかしいなぁ。

・・・そんなこんなで自分、逆証言をするべきなのかどうなのか、よくわかりません。なので、兄弟姉妹たちと話す時は(めったにないけど)、いつも適当に話を合わせてます。

さて、今月は奉仕報告をゼロにするか1にするか迷ってますw。このまま不活発に突入するのもいいかなぁと思うんですけど、長老に苦労かけるのも申し訳ないですし、このままの生活を守れるなら良いかなとも思うので・・・

もし本当にエホバがご覧になっておられるのなら、事は正されるはずですしね。

テモテ①

2019-07-24 | 聖書
テモテ①②、テトスの三つは牧会書簡と呼ばれている。

同じ著者によって2世紀後半に書かれた。(もちろんパウロではない)

目的は、指導者の秩序(身分)を確立し、異端を排除すること。(教会組織の強化なんだろうな・・・)

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1:13「かつては冒瀆する者、迫害する者、思い上がった者であった私を。だが、私は憐れんでいただいた。そういうことは、知らずして不信仰のうちになしたのであるから」

後のパウロ教信者たちが、パウロのことをこんな風に擁護してたんだとわかる部分。パウロ自身は、迫害者だったことを熱心さの証拠だって威張ってるのに。


2:8,9「ところで私は望む、男たちはどんな場所でも怒ったり議論したりしないで、浄い手を上げて祈るように、と。同様に女たちも、きちんとしたたたずまいで、恥じらいと節度をもって自分を飾るように」

「同様に」という語、改訂版では省略されてます。確かに普通の感覚だと、ここは「同様に」じゃ意味が通じないです。でも、この著者にとっては、男が手を上げて祈ることと女がおとなしく静かに学ぶことが同様なこと、なんですよ。なのに、それじゃオカシイからと、勝手に言葉を省略しちゃダメでしょ。(他の訳も似たようなことしてるらしいけど)


2:12~14「女が教えることを私は許さない。また男を支配することも許さない。そうではなく、静かにしているべきである。何故なら、アダムが最初に形造られたのであって、それからエヴァが形造られたのである。また、アダムが騙されたのではなく、女が騙されて違反に陥ったのである」

男尊女卑の理由づけに創世記3章の話を用いてるんだけど、この適用の仕方はパウロよりヒドイ。まるでアダムには責任が無く、女が悪い、みたいな書き方。創世記ではちゃんと、アダムにも責任がある話になってるのに。・・・まぁこの筆者も、聖書を自分に都合よく用いていた、ってことなんだよね。


2:15「女は・・・子を生むことによって救われる」

キリスト教思想とは関係ない、女は子どもを生む道具だという男社会の意識が表れているだけのこと。でもこの文書が正典となり、その結果は・・・子どもを生まない女の、生まなくてはならない女の、苦しみ、悲しみエトセトラエトセトラ。この組織でも、この聖句を今の時代に合わせてごちゃごちゃともっともらしく解釈してるけど、てんで説得力ないよね。(ここも省略しちゃえばスッキリしていいのにw)

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以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」疑似パウロ書簡を参照させていただきました。聖句も田川訳です。


自分はこの組織、支配層は男性で占められてますけど、支配における基本的な考え方はパウロではなくイエスに倣っているので、良いと思ってます。頭の権、ですよね。

でも最近は、どんな指示でも従うようにと圧力がかかってるように感じるので、本来の頭の権が正しく行使される環境ではなくなってきているように思います。

それに、性虐待のようなデリケートな問題などは、男性長老だけじゃ扱いきれない部分もあると思うので、女性長老も必要なのかなぁと思うこともあります。

一つ言えるのは、人は人を支配できない、ということですね。言い換えれば、この地上に神の組織なんてないってことですね。

テサロニケ②

2019-07-22 | 聖書
疑似パウロ書簡。

パウロの文章っぽくするためにテサロニケ①を利用して書かれた。(1章,2:13~15,3:1~5)

①でパウロが書いたこと、終わりは間近で我々が生きている内に来る、というのは間違いだよ、だから宗教活動にうつつをぬかしていないで真っ当に働けよ、と言いたくて書かれた。(2:1~12,3:6~13)

①の方が偽物だ(2:2)とまで書いている。

他の疑似パウロ書簡(コロ、エフェ、テモ①②、テト)が、パウロの大好きな身分的主従関係を継承しているのに対して、この著者はそれらとは異なり、「働こうとしない者は食うべからず」(3:10)という有名な言葉にあるような日々の生活倫理を書いている。

以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」疑似パウロ書簡、を参照させていただきました。


パウロは自分が生きている内に終わりが来ると思っていたし、そう信者たちにも語っていただろうから、パウロが亡くなってもしばらくは、終わりが近いと浮足立つ者が多かったんだろうな。

そういう信者はきっと、まともに働きもせず宗教活動に没頭していたんだろうな。この組織が推奨しているような生き方、をね・・・。

この書は、そういった生き方に対する警告だったんだね。


・・・聖書って深いなぁ・・・w。

虐待の被害者を慰める

2019-07-21 | ものみの塔
今日のものみの塔研究記事。

前回も書きましたけど、自分たちの会衆で起きてる虐待を、まるで他人事みたいに扱ってる時点でもう、ダメダメな記事です。

1節の例えからして、事を軽く見てる・・・というか、深刻な問題じゃないよ、膝をすりむいた小さな子どもを慰めるようなもんだよ、と軽く感じさせようとしてる、って思える。

5節の責任転嫁もヒドイ。「残念なことに、虐待が最も頻繁に生じるのは家庭です。家族や親族、家族と親しくしている人が加害者になるケースは後を絶ちません」ってつらっとして書いてるけど、よく考えたらこれ、どれだけエホバの証人の組織が危険かってことを言ってるわけだよねぇ(9節で「共にエホバを崇拝する仲間は家族のような存在です」と言ってる)・・・でも、まるで組織には責任が無いみたいな言い方でもある。

8節でも「性的虐待が広まっていることは、今が終わりの日であることの強力な証拠です」と。自分たちの組織内で起きてる悪いことも、終わりの日のせいってか。・・・ヒドイ組織になっちゃったなぁ。

こういう問題は専門家に任せるのが一番大切だと自分は思います。でも組織としては問題を外部に漏らされたくないから、そのことは脚注でちっちゃい字で書いてるだけ。これじゃ、専門家に相談なんてできる雰囲気じゃない・・・こういう書き方を見るにつけ、組織は信者を操るのが上手いよなぁ、と思う。

・・・で、組織はちゃんと専門家への相談を勧めている、と言い訳もできる。


この一連の記事のおかげで、組織に対する嫌悪感がますます増しました。本気で組織のために働いてる信者の皆さんが、なんだかとってもかわいそうだなぁと感じます。きっと、組織のためじゃなくエホバのためだと思っているんでしょうけども。

そのエホバのご意思とやらも、結局は組織が組織のために作り出したものに過ぎないんじゃないかなと、最近では思います。

神が悪を終わらせてくださる、と純粋に信じ、善を行いたいと願って活動されているのなら・・・組織の言うことをなんでも鵜呑みにしないで、オカシイと感じることを大切にしていってほしいなと思います。

今週の研究記事

2019-07-11 | ものみの塔
読んでいて怒り心頭です。実際に組織内で被害に遭った方が読んだらどれほど傷つくだろうと。感情を殺せと言っているんでしょうかね、この組織は。

でも一番うんざりするのは、これを読んでもオカシイと感じることも無い、組織絶対の現役信者がたくさんいるんだろうなということです。組織によってそういう思考回路に設定されてしまっているから・・・。

まぁ、自分もかつてはそうだったんですけど。自分で考えるより楽だしね。でも、感情が付いて行かなくなっちゃったんですよね。へそが文句を言うんです。オカシイだろと。

この組織が言うところの邪悪な世の組織でさえ、不祥事が発覚すれば、上が謝罪したり責任とったりするもんなのに、この組織は、組織内で児童性虐待が起きていると認めながらも、それをまるで他人事のように扱うんですね。

3節の「会衆に入り込もうとする」「会衆の一員だと言う人」という表現の仕方。オカシイでしょ。アダムがした自分正当化と変わらないじゃん。てめーらの兄弟姉妹だろうが!責任逃れしてんじゃねーよ!(言葉が悪くてすみません)

こんな表現の仕方で誤魔化してないで、まずは会衆に起きたことを報告して、謝罪すべきでしょ。というか、組織は会衆のせいにしてないで、ちゃんと組織として謝罪するべきでしょ。

1,2節も腹立たしいです。「どんな種類の児童虐待も『キリストの律法』に反します」って、どの口が言う、ですよ。あのムチ奨励は無かった事になってるんでしょうね。親は子供を助けたいなら本気でムチ打つようにと、演壇から力説していた兄弟たちの良心は、これを読んでも痛まないのかな。当時、組織の言う事は正しいと信じて従っていた親たち信者は、こんな風に平気で手の平を返す組織のオカシさに気付かないのかな。

とにかく、冷静に最後まで読める記事じゃないです。精神衛生上良くないので、続きはまたにします・・・

愛と公正 クリスチャン会衆において

2019-07-07 | ものみの塔
今日のものみの塔研究記事。
シリーズの第2部とのことですが・・・第1部の記事、もう忘れちゃいましたw。

まず、このテーマに対してこの内容じゃ、かなりアンマッチだなと感じました。かろうじて12,14,22~24節あたりは、かすってるかなと思えるけど・・・でもイエスの模範に対する適用であるなら、会衆に限定してしまうのは違うと思うし。

この組織はとにかく、会衆(=善)と世(=悪)とを分けて考えさせたいから、こういう書き方をするんだろうな。キリストの律法に従ってるのはエホバの証人の会衆だけだと思わせたいから。

でも、これで25節の「キリストの律法のもとにいられるのは、本当に感謝すべきことです。一人一人がその律法に従うよう努力すれば、会衆の人は皆、愛され大切にされていると感じ、安心感を抱けます」という結論に持っていくのは無理じゃないかと。・・・・・これじゃ、言ったもん勝ちみたいだよ。

それと、会衆において、と言う前に、組織において、愛と公正を行き渡らせて欲しいとまず思います。

長老だけしか見られない手紙とか、組織に貢献している人(名目上と数字上ねw)しか参加できない国際大会とか、開拓者だけの集まりとか、各種聖書学校とかね。細かく上げたらきりがないくらい、不公正を感じさせる取り決めがいっぱいあると思うんですけどね。

会衆から開拓者が移動(異動?w)していく時、目立ってた方たちとは会衆こぞって集会後に取り決めかのように集合写真を撮るけど、ひっそり目立たなかった方は知らないうちに移動されてたりして。そういう集合写真、ほんとイヤだったなぁ。なるべく捕まらないようダッシュで外に出てた。ホントのクリスチャンだったら、自分真ん中にして集合写真撮りたいなんて思わないよねぇ・・・(誕生日ダメの精神はどこにいった?)

会衆内での経験とかインタビューとかも、またあの人かぁ・・・ってのが多かった。開拓者はエホバに用いられるのよ、なんて言葉で納得させられてたけど、それも考えたら変だよね。エホバ、公正じゃないじゃん。・・・まぁ、プログラムを扱う長老や僕(あれ?今はなんて言うんだっけ?援助奉仕者?略語はあるのかな?)のお気に入りだったり、その逆だったりってこともあったんだろうな。

これはうちの旦那さんが言ってたことだけど、統治体に東洋人がいないのは差別じゃないか、と。・・・自分は、この組織自体がアメリカ主導だからしょうがないとは思ってますが・・・組織発のいろんなビデオを見てると、確かに東洋蔑視の気配を感じたりもするかな。

こうしたことをいくら言っても、不完全だから完全に愛と公正を行うのは無理だ、って言い訳するんだろうな。

つまり、組織は模範を示さないけど、一人一人はキリストの律法に従う努力をせよ、ってことかぁ・・・これってイエスが言われた、宗教指導者たちの言う事には従うが行いに倣ってはいけない、ってことですねw。

最後に。

来週の内容こそ、会衆において、がふさわしいと思います。児童性的虐待を、邪悪な世の事柄のように取り上げるって、不正直でしょ。

フィリピ (2)

2019-07-06 | 聖書
新世界訳改訂版 フィリピ4:11後半~13。
「私はどんな状況にいても満足する、ということを学びました。貧しい生活も、豊かな生活も知っています。満たされているときも飢えているときも、物がたくさんあるときも少ししかないときも、常にあらゆる状況でやっていく秘訣を学びました。力を与えてくださる方のおかげで、私は強くなり、どんなことも乗り越えられます」

ここだけを取り出すと、ホントに良い聖句ですよね。これを用いて話を作るとしたらどんな話になるか、あるいは、どんな状況の場合にこの聖句を適用できるか・・・といった具合に、組織は聖書を用いる際、こんな風に聖句を切り取って、都合良く話を作ったり、状況に適用させて教えたりする、という方法をとっています。個人で黙想する時も同様だと思います。

でも、実際のところパウロがどんな話の中でこの聖句を書いたのかを考える(つまり文脈を把握し言葉のチョイスを考える)と、その聖句の用い方や適用の仕方がいかに間違っているかがよくわかるんですよ。

4:10~18でパウロは、フィリピの信者たちがローマで拘禁生活を送っている自分を心配して、援助資金を送ってくれたことについて書いているのだ、ということを念頭に置いて読むと・・・見える景色が全く違ってくるんですよね。

自分で説明できればいいのだけれど、上手く書けないので、またまた田川氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②から引用させて頂きます~

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(13節)・・略・・それにしてもパウロという人物のひねくれ方はたいしたものである。拘禁生活で困っているのだろうと察して、フィリポイの信者たちがわざわざ使者に託しておそらくかなり多額の援助資金を送ってくれた。それなら、素直に感謝して、どうも有難う、おかげさまで助かります、と言えばいいのに、俺は欠乏することにも処していける免許皆伝なんだから、金がなくても困らないよ、と宣言するのだから、お礼の言い方も知らないひねくれ方である。もう少し謙虚になれよ。

(14節)・・略・・私にとっては金なぞなくてもどうということはないが、それはむしろ、あなた方が私の困難にあずかるという結構なことをおやりになったのだから、あなた方にとってよかったではありませんか、というのである。

(15節)・・略・・しかし事実としては「贈与授与」の相互関係ではないので、一方的にパウロが援助資金をもらっただけの話である。こんなややこしいもってまわった言い方をしないで、もう少し素直に、あの時もまた援助して下さって有難う、と言えばいいのに。

(17節)・・略・・あなた方は最後の審判に際して、偉大な使徒パウロの困窮を助けたという「成果」があなた方の貸し方の欄に算入してもらえるよ、という言い方。私が金を欲しかったわけではない。ただ、あなた方が金を送ってくれたのは、あなた方自身にとって、パウロ様のお役に立ったというので、最後の審判の時に役に立つだろ、というのである。これだけ世話になったくせに、逆に恩を着せようというのだから、人間、そこまでつけあがっちゃいけないよ。フィリポイ人たちは、多分、そんな見返りなど求めずに、単に困っている人を助けようという純粋な気持から資金援助しただけなのだろうに。

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以上、同じ聖句を読んでいても、こんなにも違うという。

新世界訳は、なるべく説教として教え易いように、信仰を鼓舞するように、パウロが聖霊(聖なる力!)を受けて神の言葉を語っているように、と意識して(意)訳しているのでしょうけど、それでも読めばこうしたことをうすうす感じることができます。(田川訳だとパウロのこうした高飛車な感じが分かり易いです)

結局、パウロの言葉も教理に都合良く解釈され訳されてきたということで。

これが人間の仕業だとしたら、どこまでが神の意図されたことなのか・・・なんだか訳が分からなくなってきます。

こんな面倒臭いことは何にも考えず、組織に言われるままに信仰をはぐくんでいければ、ある意味幸せなんだろうなぁ、なんて思っちゃいますね。・・・でも、そうはなりたくないな。

フィリピ (1)

2019-07-05 | 聖書
フィリピは、パウロのローマ拘留中に書かれたもので、フィレモンと共に最後のパウロ書簡です。

以下、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②より、フィリピ1:23「その方がはるかにずっと望ましい」に関する註を引用させて頂きます。

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さすがのパウロもついに、自分が生きているうちに終末が来て、自分たちは生きながらにして永遠の存在に変えられるのだ、という願望を放棄せざるをえなくなった。

直接的な理由は、現在かかえている裁判の結果、死刑判決が出る可能性も考慮せざるをえなくなった、もっと基本的には、そもそも、自分が期待していたようなカッコいい週末の決定的な救済などが自分の生きているうちに実現するわけもない、ということを、この時期になると、嫌でも自覚せざるをえなくなった、ということだろう。

このほんの数年前まではパウロはまだ、自分たち信者の大多数がまだ生きているうちに終末になって、自分たちは死を味わわないままに永遠の生命へと救済されるのだ、と信じ切っていたのだ(ないし、自分はそう信じたい、とむきになっていた)。・・(中略)・・パウロの救済信仰の全体がその枠内で考えられているものである。

彼は自分もそう信じ(たようなつもりになり)、人々にも強くそのように説教して来た。それをこの段階になって修正しなければならなくなったのだから、パウロとしては痛苦な反省を伴わなければならないはずだが、御本人はまるで反省している様子はない。自分は一貫して同じ真理を言いつづけているつもりなのだ。

ここにも、いずれ我々が生きているうちにも終末が来るぞ、と宣伝し続けた教祖的新興宗教宣伝家が、結局終末なぞ来るわけがない、という現実の前でうまく変身していく実例の一つがある。というよりも、パウロがその元祖であったと言ってよいだろう。以後、二十世紀にいたるまで、キリスト教的新興宗教の教祖がすべてたどった道である。


(以上、読みやすく改行させていただきました~)
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統治体が言ってることやってることって、元祖パウロがたどった道なんだなぁと改めて思う。

そういう意味では統治体も聖書的だよねw。

でもそれって、霊的ではなくて、とっても人間的だなぁとも思う。

こうしたことすべてひっくるめて、聖書を書かせたのが神であるなら・・・

神は人間に何を伝えたかったのかなぁ・・・

人間が考えるどんな神にも、人間がつくるどんな組織にも、惑わされるな、ってことかしらん??