ヨハネの福音書に書かれていないこと。
ゲッセマネの園の名。園でのイエスの祈りとそれに関連する出来事。
ユダが口づけしたこと。ユダのその後と自殺のこと。
大祭司カヤファの家での尋問。
ペテロが外に出て泣いたこと。(その代わりに21章でイエスとペテロの感動的な記述を)
ヨハネの福音書だけに書かれていること。
4~9節。イエスが弟子たちを守ったこと。「一人をも失わない」という預言(17:12)の成就でもあり、イエスの弟子たちへの愛でもある。
特に5節、「わたしが[その者]です」。ギリシャ語ではエゴーエイミーで、神のみ名「わたしは在る」を意味する言葉。イエスがここでみ名を用いて弟子たちを守ったことが興味深い。
6節には、彼ら(イエスを捕えに来た兵士の一隊や下役たち)が「後ずさりして地面に倒れた」とある。イエスの発したたった一言の威力たるや。これを、イエスが神である証拠とみるかどうか。ヨハネが伝えたかったことを、深く考えてみる必要がありそう。
10節。ペテロがマルコスの右の耳を切り落とした(2人の実名を記録)こと。そろそろ実名書いても大丈夫、って時代になったのかなw。
11節。ゲッセマネの園でのイエスの祈り(この杯を取り除いてください)を書かなかった代わりに「父がわたしにお与えになった杯をぜひとも飲むべき」と。
13,14,19~24節。まずアンナスのところに引いて行かれ、尋問されたこと。ここでもイエスは弟子たちを守られてる。「弟子たちや教えについて」質問されて、無言でも良かったのに「公に話してきた。聞いた人たちに質問しなさい」と答え、弟子たちに手が及ばないようにされた。
アンナスは大祭司カヤファの舅なので、同じ家に住んでいたのではないかと考えられている。でないと、15~18節の大祭司に知られた弟子(ヨハネ自身という意見が多い。その兄弟のヤコブではないかとも言われてる。裕福な父ゼベダイの関係か)がペテロを大祭司の中庭に招き入れたこと、そこで起きたペテロの3度の否認と合致しない。
28節。「彼らは・・総督の官邸内に入らなかった。身を汚さずに過ぎ越しの食事をしようとしてであった」。律法のより重大な事柄を無視して、細かい規定に従うことの愚かさが浮き彫りにされてる感じ。
物事の本質が見えてないって、時に怖いを通り越して滑稽にも見える。排斥・断絶者への無視ってそんな感じ。無視しといて、愛だ愛だ言われてもね・・・
31節。「わたしたちが人を殺すことは許されていない」。死刑執行の権利はローマ政府に取り上げられていた。
32節。「イエスがどんな死を遂げることになっているかを示して言われた言葉が成就するため」。ユダヤ人の死刑は石打。その後、のろわれたものとして(見せしめで)杭(もしくは木)にさらされることもあった。
イエスはご自分が挙げられることを預言していた(3:14,12:32)。そして、単に石打で殺されるんじゃなく、杭に挙げられた(のろわれたもの、見せしめ)。
十字架か杭か・・・どっちかなぁ。どっちでもいいような、よくないような・・・これもまだよくわからない。
33~38節。ピラトとの会話。ここで争点となってるのは、神への冒とくではなくローマへの反逆。ユダヤ人たちは冒とくの罪でイエスを死刑にしようとしてるのに、ピラトへの訴えはこれなんだから、ずるいよね。
イエスはここでも弟子たちを守ってる。「わたしの王国はこの世のものではない」から、弟子たちは戦わないと。
そして「真理について証しするために世に来た」と、異邦人であるピラトに宣べ伝えてる! ピラトの反応は無関心。「真理とは何か」と言ってるけど、知りたいわけじゃなく、軽く馬鹿にしてる感じかな。霊的な会話が成り立たない感じ。
(このへんのやり取りをヨハネがどうして知ったのか・・・後に信者になったローマ人の目撃者から聞いたのか、聖霊が教えたのか)
イエスが弟子たちを守っているのとは対照的に、ペテロは詰問されて自分を守るためにイエスを否認してしまう。それでもイエスは最後まで弟子たちを愛された。
ゲッセマネの園の名。園でのイエスの祈りとそれに関連する出来事。
ユダが口づけしたこと。ユダのその後と自殺のこと。
大祭司カヤファの家での尋問。
ペテロが外に出て泣いたこと。(その代わりに21章でイエスとペテロの感動的な記述を)
ヨハネの福音書だけに書かれていること。
4~9節。イエスが弟子たちを守ったこと。「一人をも失わない」という預言(17:12)の成就でもあり、イエスの弟子たちへの愛でもある。
特に5節、「わたしが[その者]です」。ギリシャ語ではエゴーエイミーで、神のみ名「わたしは在る」を意味する言葉。イエスがここでみ名を用いて弟子たちを守ったことが興味深い。
6節には、彼ら(イエスを捕えに来た兵士の一隊や下役たち)が「後ずさりして地面に倒れた」とある。イエスの発したたった一言の威力たるや。これを、イエスが神である証拠とみるかどうか。ヨハネが伝えたかったことを、深く考えてみる必要がありそう。
10節。ペテロがマルコスの右の耳を切り落とした(2人の実名を記録)こと。そろそろ実名書いても大丈夫、って時代になったのかなw。
11節。ゲッセマネの園でのイエスの祈り(この杯を取り除いてください)を書かなかった代わりに「父がわたしにお与えになった杯をぜひとも飲むべき」と。
13,14,19~24節。まずアンナスのところに引いて行かれ、尋問されたこと。ここでもイエスは弟子たちを守られてる。「弟子たちや教えについて」質問されて、無言でも良かったのに「公に話してきた。聞いた人たちに質問しなさい」と答え、弟子たちに手が及ばないようにされた。
アンナスは大祭司カヤファの舅なので、同じ家に住んでいたのではないかと考えられている。でないと、15~18節の大祭司に知られた弟子(ヨハネ自身という意見が多い。その兄弟のヤコブではないかとも言われてる。裕福な父ゼベダイの関係か)がペテロを大祭司の中庭に招き入れたこと、そこで起きたペテロの3度の否認と合致しない。
28節。「彼らは・・総督の官邸内に入らなかった。身を汚さずに過ぎ越しの食事をしようとしてであった」。律法のより重大な事柄を無視して、細かい規定に従うことの愚かさが浮き彫りにされてる感じ。
物事の本質が見えてないって、時に怖いを通り越して滑稽にも見える。排斥・断絶者への無視ってそんな感じ。無視しといて、愛だ愛だ言われてもね・・・
31節。「わたしたちが人を殺すことは許されていない」。死刑執行の権利はローマ政府に取り上げられていた。
32節。「イエスがどんな死を遂げることになっているかを示して言われた言葉が成就するため」。ユダヤ人の死刑は石打。その後、のろわれたものとして(見せしめで)杭(もしくは木)にさらされることもあった。
イエスはご自分が挙げられることを預言していた(3:14,12:32)。そして、単に石打で殺されるんじゃなく、杭に挙げられた(のろわれたもの、見せしめ)。
十字架か杭か・・・どっちかなぁ。どっちでもいいような、よくないような・・・これもまだよくわからない。
33~38節。ピラトとの会話。ここで争点となってるのは、神への冒とくではなくローマへの反逆。ユダヤ人たちは冒とくの罪でイエスを死刑にしようとしてるのに、ピラトへの訴えはこれなんだから、ずるいよね。
イエスはここでも弟子たちを守ってる。「わたしの王国はこの世のものではない」から、弟子たちは戦わないと。
そして「真理について証しするために世に来た」と、異邦人であるピラトに宣べ伝えてる! ピラトの反応は無関心。「真理とは何か」と言ってるけど、知りたいわけじゃなく、軽く馬鹿にしてる感じかな。霊的な会話が成り立たない感じ。
(このへんのやり取りをヨハネがどうして知ったのか・・・後に信者になったローマ人の目撃者から聞いたのか、聖霊が教えたのか)
イエスが弟子たちを守っているのとは対照的に、ペテロは詰問されて自分を守るためにイエスを否認してしまう。それでもイエスは最後まで弟子たちを愛された。