(写真は要石)
那賀(なか)郡の曝井の歌
愛宕町(曝井(さらしい))
高橋虫麻呂作 三栗(みつぐり)の 那賀に向へる 曝井(さらしい)の 絶えす通はむ そこに妻もが
那珂に向き合っている曝井の水の絶えないように、絶えず通おうと思う。そこに妻が欲しいものだ。(岩波版日本古典文学大系)
義公歌碑
三の丸2-2-29(黄門神社)
徳川光圀作 朽残る老木の梅も 此宿のはるに二たひ あふそ嬉しき
寛文7年(1667)隠居後の徳川光圀が、三木邸で催された酒宴の際、そこで育てられた幼時をふりかって詠ったものだそうです。
要石(かなめいし)
三の丸1-6-4(弘道館鹿島神社) 029-224-4647
徳川斉昭作 行く末も 踏みな違(たが)へそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける
日本にとって大和の道は要であるから将来も踏み違えないようにということですね。
文明(斉昭妻)夫人の歌碑
三の丸1-6-29(弘道館) 029-231-4725
文明夫人作 天さかる ひなにはあれと さくら花 雲のうへまで さき匂はなん
吉子(文明は斉昭がつけた諡号)は、貴族の娘だけに、常陸は鄙(ひな)だったようです。
浪華の梅碑
水戸市常磐町1-3-1(常磐神社)
斉昭作 家の風 いまも薫(かお)りの つきぬにそ 文(ふみ)このむ木の さかりしらるゝ
「文このむ木」は梅のことで、作は斉昭、書はその子で最後の将軍、徳川慶喜だそうです。
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