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【安倍昭恵さん挨拶】すばらしい!!

2022年10月16日 | 川柳

【安倍昭恵さん挨拶】

 本日は主人の県民葬を立派に挙行して頂き、村岡知事、県議会議長をはじめ、県関係者の皆様方には厚く御礼申し上げます。

細田議長をはじめ国会議員の先生方には大変お忙しい中、わざわざこの下関まで足を運んで頂きましたこと、ありがとうございました。

地元の議員の皆様、市長、町長はじめ主人がお世話になった多くの皆様方にご参列頂き、また台湾からも遠くたくさんご参列頂きました。

主人も喜んでいることと思います。本当にありがとうございます。

7月8日にあのような形で命を絶ちまして、今日でちょうど百か日を迎えました。

信じられないような思いの中で日々を過ぎていき、それでも四十九日を迎え、先日は武道館で立派な国葬儀を挙行して頂き、だんだんと私も実感が湧いてきて、本当にいなくなってしまったんだなと、寂しさが増してきているような日々でございます。

平成3年、1991年、主人の父、安倍晋太郎は膵臓ガンのために志半ば、総理目前と言われながら亡くなりました。主人と同じ67歳でございました。

秘書をしていた主人は、おそらく誰よりもその無念さを感じていたことと思います。

その後、父の遺志を継いで、政治家になる決意をして、この下関に帰ってきて、毎日毎日多くの方に自分の思いを伝え、お願いをしておりました。

1991年という年は湾岸戦争があり、ソ連崩壊という激動の年でもありました。

主人はそんな中で政治家になる決意をして、そして「未来は不変のものではなく、我々の努力によって創り上げていくという信念のもと、世界平和のために新しい秩序を、この日本が中心になって創っていかなければいけない」と、そんなことを語っておりました。

それは政治家になる前から、本当に最後まで一貫していたのではないかという風に思います。

主人を支えて下さったのは、本当に地元にいる皆様方でした。

初めて選挙に出た時は、志は高かったと思いますけれども、また父の秘書をしていたとはいえ、政治家としては全くの未知数で、30代という人間としてもまだまだ未熟だったと思いますが、主人を信じてずっと支えてきてくださいました。

時に厳しいお言葉をかけて頂くもありましたけれども、おかげさまで主人が大きな政治家に育てて頂けたのだろうなという風に思っております。

ことある毎に主人は「自分が東京でこうして安心して仕事が出来るのは、地元で支えて下さる皆様方がいらっしゃるからだ」と口にしておりました。

特に2007年、病気のために辞任することになった時は、「突然総理を投げ出した無責任な男だ」と大変な非難を浴びることになり、私も本当に悔しい思いをしておりましたけれども、しばらくしてこの地元に帰ってくると、多くの方に温かく迎えて頂き、「晋三さん、もう一回頑張りなさい」と励まして頂きました。

主人にとりましては、本当にどんなにか、嬉しかったことだと思います。

そしてその後、2009年、自民党にとっては大変厳しい選挙でしたが、今までにないような最高の得票率で主人は当選をさせて頂きました。

その時主人は「再び地元の皆さんに、政治家として命を吹き込んで頂いたのだ」という風に言っておりました。 そして、もう一度政治家として頑張っていこうという決意を新たにしたのではないかなと思っています。

その後、2012年に負けるかもしれないという総裁選挙に立候補した時も、本当に自民党が苦しい時に全力で応援して下さった皆様方への恩返しの気持ち、「再び自民党に信頼を取りも出したい」、そんな思いで、「負けてもいい、何度でもチャレンジする」と言って、総裁選挙に出馬をしました。

その後、7年8ヶ月、総理大臣を務めることが出来たのも、この地元でお支えを頂いた皆様方のおかげと、主人に代わりまして厚く御礼申し上げるところでございます。

本当にありがとうございました。

主人は山口県が本当に大好きで、この下関、長門が大好きでした。 役職に就いて、だんだん帰ることが少なくなりましたけれど、それでも毎年、お盆に帰って、お祭りや花火大会で市民の方と触れ合うことを、とても楽しみにしていました。

「コロナでなかなか帰れないけれども、コロナが落ち着いたら、ゆっくり二人で帰って、皆さんと語り合いたいね」とそんな話もしておりましたが、6月末、江島先生の選挙の応援で帰ってきたのが最後となってしまいました。

今回、遺骨という形で帰ってきたのは本当に残念でなりませんけれども、国葬儀には各国から大勢の方達にお越し頂き、私に対しても本当にあたたかい弔意のお言葉を頂きました。

一般献花においても、長い長い列が出来て、長時間皆さん並んで献花をして下さいました。 きっと主人はそれを見て喜び、感謝をしていたのではないかと思います。

増上寺でのご挨拶の時に、吉田松陰先生の留魂録、主人が父の追悼文で書いたものを私は引用させて頂きましたけれども、主人の67年、本当に素晴らしい方達との多くの出会いがあり、多くの方に支えられて、そしてこの大好きな日本のために大きな仕事をさせて頂いた。

豊かな67年の人生であったと私は思っています。

主人が愛した山口県、私も本当に大好きで、これからも、先ほど映像にも出ていましたけれども、令和の地方の在り方、私もこの地域のために、これから何かしらか活動して行きたいなと思っていますので、皆様方には引き続きよろしくお願いを申し上げます。

母は94歳になりました。

家では弔問に来られる方へ対応等をしていますけれど、残念ながらこの県民葬に参列することが出来ませんでした。

「長年お世話になりました皆様方に、くれぐれもよろしくお伝えして欲しい」という風に母からも言われて参りました。

本当にこれが最後なのかなと思って、私はこの県民葬が終わると、気が抜けてしまうのではないかなと思いますけれど、本当にこのように皆様方に立派にお見送りをして頂きましたこと、改めて主人に代わりまして御礼させて頂き、私の喪主のご挨拶とさせて頂きます。

本当に本日はありがとうございました。

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