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ウクライナ侵攻で思い出したこと―シベリア抑留者の体験談など

2022-03-21 15:40:29 | 戦争
ロシアのウクライナ侵攻をめぐる昨今の報道を残念に思うことがある。
メディアが”マリウポリで…”とか、遠いウクライナでの戦闘や混乱の詳細を伝える毎日だが、それだけでよいのか疑問を感じる。

遅すぎるかもしれないが、一般人も自分たちのこととして、日本を取り囲む情勢と過去の歴史に目を向けるべきではないだろうか。
「明日は我が身」「対岸の火事と思うな」そして「いつか来た道」と。

ウクライナにおける”徴兵制の義務”についても、「これは民主主義の否定だ」など現実離れした意見が多く、驚いている。
一国の存亡が懸かっている時に、それを拒否すれば、国民であることを放棄したとみなされ、国民が有する権利も放棄することになる。
食料の配給さえ受けられないかもしれない。
何もウクライナに限ったことではない。それが国籍、市民権を有するということなのだろう。
もちろん理不尽に感じることばかりになるのだろう。
好むと好まざると、皆が巻き込まれてしまうのが戦争だ。

新型コロナがパンデミックになる前、私は米国西海岸から成田に向かう航空便に搭乗した。
隣に坐った米国人の若者が写真らしきものをポケットから出してはしまい、しきりと鼻水をすすっていた。
彼は沖縄に向かうのだとCAに話していた。
軍に入隊するのかな、と私は思ったが、声をかけるのも憚られた。
拙い英語で質問できる雰囲気ではなかった。
米国では金持ちは徴兵を免れるらしいが、多くの若者が世界中の軍施設に向かうのだろう。
米国の旅で、私は白い十字架が整然と並んだ兵士たちの墓を見た。
第二次世界大戦で戦死した日本兵の多くは、本人の骨さえ見つかっていないのが実情だ。
遥に広がる十字架の波に、私は国力の差を感じずにはいられなかった。

わが国では、大東亜戦争、第二次世界大戦で出征した人はもう90代以上に限られる。
人々は召集令状を来ると、家族や知人はみな「おめでとうございます」と送り出さねばならなかった。

話はとぶが、私が靖国神社を訪れた際、一部の人がいうほど軍国主義的な印象を受けなかった。
しかし、過去に日本が侵略した中国や朝鮮半島の人々が拒絶感を抱くのは当然だろう。
どんな戦いにおいても、勝者は傲慢になり、敗者は勝者の仕打ちを忘れない。

戦死した多くの日本兵は戦闘そのものではなく餓死または傷病死したのだという。
彼らに安らかに眠る場所さえ与えられなかったのは残念である。

靖国神社にほど近い九段南に『しょうけい館(戦傷病者資料館)』という厚労省の施設がある。
「戦傷病者とその家族の労苦を今に伝える」資料館である。
私は6年前に訪れたことがあるが、当時の物や映像を前にしばらく動くことができなかった。
国のために出征した多くの日本兵にとって、戦いの相手は敵兵というよりはむしろ感染症や飢餓の方であった。
そして命からがら復員した戦傷病兵を待ち受けていたのは、激しい差別や中傷の日々であったという。

思い出すことがある。
幼い頃、祭の季節ともなれば、傷病衣を着た旧日本兵がアコーディオンとハーモニカで勇ましいはずの『同期の桜』などを
物悲し気に演奏し、物乞いをしていた。
「あの人たちは何」と母親に質問すると、決まって母は「あの人たちはちゃんと国からお金(恩給)を貰っているのだから
あんな真似をすることはないのだ!」
と怒ったものだった。
母は、戦争で苦労したのは兵隊だけじゃない、と思っていたに違いない。
しかし、彼らのほとんどが、その脚や腕を失っていた。
自分たちの戦争は終わっていない、というせめてもの意思表示だったのではないだろうか。

筆者は戦後生まれであるが、シベリア帰りのひとから抑留生活の厳しさを耳にタコができるほど何度も聞かされた。
彼は片目が潰れ、脚を引き摺っていたが、それは戦争で負った傷だった。
幼い私には彼はすごく老けているようにみえたのだが、シベリア抑留生活のせいだったのかもしれない。
彼ら抑留兵は1945年8月15日に戦争が終わったことを知らされず、シベリアで数年間、ロシア軍に働かさせられたのだという。
筆者の記憶に鮮明な彼の話は、食べ物の話だ。

食べる物がなかったので、彼らは革ベルトや靴を干しダラのように、叩いて熨して千切って食べたこと。
木の皮さえも貴重な食料となったこと。
ネズミは大変なご馳走なので、ネズミを見つけると、皆が争って獲ったこと。
そして、食べ物がなくて、多くの兵隊さんが死んだことだった。
彼は幼い私をつかまえては、何度も何度もシベリアでの生活が死ぬほど苦しいものであったことを話した。
こうして、彼のシベリアは私の脳裏に刷り込まれることとなった。

多分、彼は子供にしかそんな話をすることができなかったのだ。
大人たちには「苦労したのはあんただけじゃない。」と言われるだろうから。

納沙布岬に立つと、北方領土は目と鼻の先だ。
日本固有の領土と言われても、そこにロシア人しか住んでいないなら、日本と言えるだろうか。
納沙布岬を訪れた時に、すぐそこに見える島がロシアという実感が湧かなかった。
島国育ちには国境線などという感覚はないためなのだろう。
北方領土。今は終戦たった1週間前に参戦表明したロシアの実効支配下にある。
しかし、かつて住んでいた人々にとってはそこは故郷日本なのだ。
本当のことを言えば、つい何世代か前には、この北方領土は日本でもロシアでもない、アイヌの島々だった。
国を追われるということはこういうことなのだろう。

ウクライナだけではなく、世界中で起きていることなのだ。




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