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令和世間話 自然災害 ミサイル 【記事不許複製】

江戸のインフルエンザ―『津軽風』

2009-12-13 09:50:15 | 新型インフルエンザ
 わが国における咳病の歴史は富士川游著「日本疾病史」などに見える。
 新型インフルエンザとおぼしき最初の記述は千百年以上前の貞観年間に遡る。

 インフルエンザと考えられる咳の病は「谷風」やら「アンポン風」などと命名された。集団生活を送る相撲力士はいつの時代もインフルエンザに罹りやすかった。

 そのうちで文政十年(1827年)に流行した『津軽風』なるものがある。

 松浦静山著の「甲子夜話」に曰く、「津軽候が御大礼の節、輿に乗って譴責せられし故なり」と。

 津軽の殿様が慶事に際し、本来は葬送の具であった輿に乗ったものだから、礼を失すると公儀からお咎めをうけ、江戸市中の話題になったことに掛けた命名と、当時の先代平戸藩主松浦静山が書き残したものだ。
 
 つまり、このかぜ(今ならインフルエンザというのだろうが)、かなり死者が出たと思われる。

 今回の新型インフルエンザ、わが国の死者は諸外国に比べるとずっと少ないのではあるが…。
 いずれにせよ、あなどるべかららず。

 

1957年‐昭和32年アジアかぜ

2009-10-01 21:25:22 | 新型インフルエンザ
 1918年(大正7年)の話ばかりでは参考にならないと、1957年昭和32年に流行したアジアかぜの新聞記事を渉猟していた。
 現在流行中のH1N1インフルエンザはアジアかぜと同程度の感染力、致死率ではなかったか、といわれているからである。

 青森県の流行状況は当時の東奥日報、全国と東京都下の状況については朝日、毎日両新聞を参考にした。(地方の図書館につき、たまたま讀賣が欠番だった。)
 これが52年前の記事かしらと目をこすってみるくらい、取り上げられている社会問題に大きな違いがない。
 地方分権論争や性行為感染症、薬物乱用、医師不足まで大差ない。
 もっとも大正7年と現在も、余り違いがないことに驚いているが。
 社会は自分たちが思っているほど、進化しているわけではないようだ。

 青森県での流行性感冒(流感、インフルエンザ)の猖厥は、第1波が昭和32年5~6月、第2波が11~12月で、流行の始まりとピークは他の都道府県より一月くらい遅れている。そして案の定、中学生の修学旅行などの集団活動に端を発している。 このあたりも、現在とまったく同様である。
 大方、宮城や岩手にやや遅れて流行がはじまった。

新型インフル対策―大正と平成の相違

2009-06-13 10:39:52 | 新型インフルエンザ
 90年前の大正スペインインフルエンザ対策と今般の新型インフルエンザ対策の大きな違いは、抗インフルエンザウィルス薬の存在。
 重症化した場合は、続発する肺炎等に対する抗菌剤投与や人工呼吸器による呼吸管理等々現代医学の粋を集め、総力戦。
あとは第二波に備え、有効なワクチン製造が間に合うか。
 「人混み避ける」「集会禁止」「マスク着用」「うがい手洗い」「滋養をつける」は変りなし。

 ちなみにPPE(個人防護具)については17世紀のペスト流行時とあまり変わりないかもしれない。(上図)ただし、さずがに当時は使い捨てはしなかっただろう。

東北初の新型インフルエンザ確認―時間の問題

2009-06-09 22:35:51 | 新型インフルエンザ
 今日6月9日、盛岡の36歳女性飲食店員の新型インフルエンザ感染が確認された。昨日、新型インフルエンザ罹患が確認された修学旅行中の千葉県船橋市立中学校生徒と接触があったという。
 岩手入りする前、すでに感染していた生徒や教職員がいて、それが女性店員に感染したものか、あるいは岩手で感染したものか、感染経路について、疫学調査でどこまで明らかになるか期待したい。
 修学旅行は新幹線での岩手入りであっただろうか。だとすると、新幹線の乗客を介して青森県まで感染拡大している可能性は大である。

 そろそろ国内蔓延期として国は対策を転換してもよい時期ではないだろうか。保健医療関係者はスタンバイ状態が遷延し、すでに疲労している。

岩手県流行性感冒調査―沢内村に感謝

2009-06-01 23:33:15 | 新型インフルエンザ
 さて、今般の新型インフルエンザは弱毒性、収束の動きという観測も流れているが、1918~1920年(大正七~九年)のスペインインフルエンザに話を戻そう。
 上に示した表は『岩手県流行性感冒調査表(大正七年十月~十二月か)』である。罹患者の多さに驚きを禁じえない。平均寿命40代半ばの当時と今日では死亡率は比較にならないが、免疫を全く持たなかった場合の罹患者数は参考になる。今回は1957年以前生まれの年代では何らかの免疫を有している者がいるらしいということだが…。
 
 同等の感染力を示した場合、ワクチン開発・接種が間に合わなければ、今日といえども、社会全体での相当の準備なしに医療の破綻は免れない。
 今回のウィルスが強毒性に変異しないことを祈るばかりである。

 出典は沢内村史資料第九集(平成2年12月30日刊)。県市町村史など当ってみたうち、唯一見つけることができた貴重な資料である。沢内村に感謝したい。


原敬首相就任祝賀と岩手県内スペインインフルエンザ猖獗

2009-01-31 22:47:37 | 新型インフルエンザ
 解熱したものの、原敬新首相が12月まで体調不良を訴えていたことは前回述べた。

 大正7年10月頃、原敬首相就任をうけ、出身地である岩手県内各地において祝賀会が開かれ、遠野や一関の住民代表が上京、解熱直後の原首相を表敬訪問した様子が原敬日記にみえる。
 この時期、県内各地での祝賀会開催のほか、岩手―東京間の人の往来も多かったと推測される。当時の大津知事はじめ県高官も続々たおれ、病をおして県参事会(県議会)に和服を着用して出席している。(岩手日報)

 内務省衛生局の「流行性感冒」の統計調査のもとになった岩手県の調査では、大正7年10月半ばから12月までの3ヶ月たらずの間(流行第1波)に、県内罹患者は33万8326人うち死亡は3660人を数え、11月の死亡率は東日本で一位であった。
 
 速水融氏の超過死亡推計では、岩手県では第3波までの超過死亡は7800人以上であるが、氏によれば、第1波による死亡率が高かった地域は総じて第2波の死亡率が低かったという。(速水融著「日本を襲ったスペインインフルエンザ」)
 
 岩手県も例外ではなかったようだ。ちなみに大正7年の岩手県総人口は86万7390人である。

 10月23日の岩手日報に小さな「感冒流行」の記事が載った。これがスペインインフルエンザに関する県内最初の記事ではないかと思われる。 死因として、「流行性感冒」のほか、これに続発した「肺炎」などによる死亡を含めると、納得のゆく数字であろう。
 また、具体性に欠ける記述ではあるが、消化器症状を呈した者は総じて重症化しているような記事もひとつだけあった。

 また県内市町村史上、スペインインフルエンザの記録は乏しいが、「山田町史」によるとどうやら10月半ばには県内で流行していたらしい。現釜石市鵜住居(うのすまい)や現山田町織笠、旧織笠村議会の記録が残っており、罹患者のいない世帯はなく、学校は2週間ないしそれ以上、休校措置を取っていたことがわかる。

 新聞紙面の縮小、工場、会社、警察、郵便局、役所の業務停滞、医師らの罹患による医療不足、物価上昇、失職、困窮と、2ヶ月余りの第1波のうちに、思いつく災難は何でも人々の上に降りかかった。
 人々は滋養をつけようと卵や牛乳を買い漁ったため、品不足に陥った記事もある。また、「悪性感冒」「流行性感冒」に効くという薬の広告の多さも目立つ。
 集会禁止や巡回診療など精一杯の対応も焼け石に水の感がある。

 岩手県におけるスペインインフルエンザの猛烈な流行と原敬首相就任に沸く県内祝賀の動きの間に関連があるのではないか、とは余りにも穿った見方であろうか。

原敬、スペインインフルエンザに罹る

2008-12-30 23:26:10 | 新型インフルエンザ
 原敬首相の字は読みやすい。そういうわけで、筆者にも「原敬日記」がどうにか解読できた。

 大正7年10月26日の日記の内容はこうである。

 『伊藤伯(博文元総理大臣)の命日だったので、午後に谷中の墓地に赴いた。午後三時の汽車で腰越山荘に向かった。昨夜北里研究所が社団法人となった祝宴に招かれ、話をしたせいか、風邪に罹ってしまい、夜に入り38度5分まで熱が上がってしまった。―(後略)―。』

 どうやら、北里研究所の祝宴では、昨今、巷で流行っているスペインインフルエンザの話題が出たと思われ、原首相もまたスペインインフルエンザに罹患したものと推測される。

 29日には「―(略)― 風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風とよぶ)なりしが、二日間ばかりにて下熱(ママ)し、…」とすぐ軽快したかのような印象を受けるが、その後しばしば「風邪が治らない」とか、12月15日になっても「風邪全快せず。」と不調を訴え、無理を押して執務していた様子がうかがえる。肺炎を併発したものか。

 10月30日には枢密院の会議があったが、流行感冒罹患後1週間も経ていないので天皇陛下の御前に出ることを遠慮、出席しなかったと記されている。

大正岩手のスペインインフルエンザから現在へ ―その2

2008-12-21 14:19:28 | 新型インフルエンザ
 スペインインフルエンザは大正7年から9年まで三度にわたり流行した。
 内務省発行『流行性感冒』をもとに分析を行った『日本におけるスペインかぜの精密分析』(東京都健康安全研究センター年報,56巻,369-374 (2005))によれば、岩手県は第1波による大正7年(1918)11月の死亡率が東日本の府県(東京都はまだ東京府)中、最高であった。
 
 大正7年9月29日に原内閣が成立したばかりであった。
 はからずも朝敵となってしまった旧南部藩からの「平民宰相」誕生に人々は溜飲を下げ、県下はあまねく祝賀気分に酔いしれていた。各地での総理大臣就任祝賀会、天長節祝賀会や弁論大会等々集会が多かったことが感染拡大に寄与したであろうことは想像に難くない。
 岩手日報に最初に市中の『感冒』流行について小さな記事が現れたのは10月23日のことである。

 あまりに被害甚大で、毎日の生活におおわらわであったためか、リアルタイムの記録である新聞以外、当時を振り返って書かれた記録が少ない。
 このあたりは「明治三陸大海嘯」と大きな差があり、物的損失が甚大であった事象は長く語り継がれることが多いのに対し、目に見える物的損失をともなわない人的損失は軽視されがちである。爾後の社会に及ぼす影響に頓着しない傾向は日本人の特性といってもよいのかもしれない。
 「岩手近代百年史」「岩手県医師会史」中にも見当たらない。組織立った対応はほとんど不可能であったのだろう。

 大正7年当時の県内の医師は434名(うち開業医が約380名)、看護婦105名、薬剤師36名、産婆461名であり、県内人口や社会構造なども含め、現在と単純比較できない。
 医療の実態も薬籠を下げて往診する藩政・明治時代と大きな差はなかっただろう。病院施設は私立病院2箇所であったが、無論この「病院」も現在の「病院」と同等に論ずるわけにはゆかない。

 現在、著者は岩手のスペインインフルエンザについて情報収集に当っているが、業務の傍らのこと、遅々として進んでいない。
 年末年始がチャンスだと思っているので、興味を持って頂いた方には、その頃もう一度このブログを訪れていただければ幸いである。

大正岩手のスペインインフルエンザから現在へ

2008-10-13 14:32:31 | 新型インフルエンザ
 平成19年3月「新型インフルエンザ専門家会議」により『新型インフルエンザ対策ガイドライン(フェーズ4以降)』が示された。これは国内流入を阻止する「水際作戦」や「地域封じ込め作戦」に重点が置かれていて、国内発生後の対策を「医療対応」と「社会対応」の二つに大別し、全部で13のガイドラインから構成されている。


『発熱相談センター』『発熱外来』とは

 患者が医療機関に殺到しないよう、市町村保健センターや保健所に設置するコールセンターが『発熱相談センター』で、主に保健師がその役割を担うらしい。
「早めに発熱外来か医療機関で受診しましょう。殺到するとそれだけで感染が拡がるので、予め電話をかけてから受診して下さいね。」ということになると、結局、普段と同じことになりそうだ。
『発熱外来』では医師、看護師が交代で診療に当たるので、病院や医院の診療はどうなるのだろう。タミフル配って、症状の重い人は指定された病院へ割り振るということらしいが、この医師不足の折、本当にそんなに簡単に済むんだろうか。

 1918年大正7年のスペインインフルエンザの際は、巡査つき衛生班が巡回診療をしていた。交通機関が未発達だったとはいえ、そのほうが現実的だったのだろう。車社会の現在ではあるが、発熱したからだで、運転は辛いし、第一、危険だ。
 人口密度の低い地域では医師・看護師・保健師・薬剤師・事務担当などがチーム編成して巡回してはどうだろう。車やガソリン調達、負担はどこがするのだろう。

新型インフルエンザ対策にITは不可欠だと思う

 毎年の普通のインフルエンザの流行をみて分かるように、あっという間に全国に拡がる。発熱している人(新型インフルエンザとは限らない)の発生状況や児童生徒の欠席数や職場の欠勤数などから、おおよその状況を把握できるかも知れない。
 素早い情報交換によって、医薬品や日用品の配布の必要性を検討するなど、地域ぐるみの問題解決が被害を最小限にするのではないだろうか。
医療機関は患者数を保健所に報告し、保健所から県、県から国へと報告することとなっている。新型インフルエンザ発生時、その動向調査は全医療機関が行うのだという。
新型インフルエンザ発生時は外に出られないし、欠勤者が増えそうなので電子メールなどIT活用は大切だと思う。



新型インフルエンザ:大正岩手のスペインインフルエンザその2

2008-02-23 02:20:31 | 新型インフルエンザ
 大正7年9月27日、原敬に首相就任の大命降下があり、10月の岩手県下は、祝賀気分で沸きかえっていた。
 
 岩手日報紙上で高熱、頭痛を呈する感冒流行が報じられたのは10月23日である。「感冒」の文字には「いんふるえんざ」とルビがふられている。
 この日を皮切りに「流行性感冒」「悪性感冒」のニュースは連日のように紙上を賑わしてゆく。
 
 10月29日「怖るべき流行性感冒は殆ど全国に渉りて流行し、就中滋賀、福井、広島、埼玉各県及び東京府の如きは目下猖獗をきわめつつあり、学校官衙、会社等にてこれに侵され執務上多大の打撃を蒙り居れるが…。」(旧字体は新字体に改めた。)と全国での流行を報じている。
 
 そして、患者と疑われる人には接近しないこと、多数の人に接するときはハンカチで口を覆うのがよいと「咳エチケット」を勧めている。

 内務省から地方長官に適切な処置をと、通知はしているものの、どうにもならない。10月31日は天長節で県庁では御真影拝賀式のために職員が参集。大津知事は上京中であった。

 11月3日の見出しは、「悪性感冒遂に盛岡全市を襲ふ」盛岡高等女学校はじめ学校は休校、欠席児童は盛岡市で3100余名。参考までに、現在の県人口は約136万人、当時は凡そ84万人である。

 そして「風(ママ)の妙薬」として、日頃から身体を冷水浴などで鍛えることや、湯気吸入、寝てしまうこと、を推奨。

 11月5日「小学校悉く休校」
 また、4日付けとして「悪性感冒は遂に本社工場を襲い、罹病欠勤者半数以上に達するの状態と相成…中略…多少記事の量、紙面の体裁等に遺憾の点無きを保し難し…」と侘びの広告が見られる。

 11月6日「牛乳が不足だ」悪性感冒流行で(滋養を付けるために)需要が増え、品薄となった。

 11月7日「知事を始め高官連=将棋倒しにぞくぞくと病む」
 「先ず大津知事は在京先で罹り、三日ほど休養していたが今日から県参事会が始まるので押して昨夕帰盛…」警察部長も岳父の病気見舞いから帰り、そのまま床に就いてしまった。
 会議等で上京した人々は軒並み感染して、盛岡に感冒を持ち帰った。
 やはり、交通機関の利用によってどんどん運び込まれた。

 交通機関が発達していない時代にもかかわらず、あっという間に盛岡市部から郡部へと流行は拡大してゆく。(続く)