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労働Gメンの6割反対の理由教えてください。

2006年12月14日 | ビジネス全般
残業代ゼロ導入、労働Gメンの6割が「反対」(朝日新聞) - goo ニュース

どうして、労働Gメンの方の半数以上が反対するのでしょうか?

Gメンの方の仕事が急激に増えて忙しくなるからイヤなのかな?
それとも、残業支払対象者の線引きが明確になることで、ヒマになって自分たちがリストラに合うのを心配してるのかな?
それとも、自分たちGメンも残業代が付かなくなることが心配なのかな?
(自分達は、年収400万円以上あるから)
理由はいろいろあるでしょうが・・・

どなたか、Gメンの方々の反対する理由を知っている人いませんか?

残業代ゼロ賛成・・・でも明日のわが身は?

2006年12月14日 | ビジネス全般
残業代ゼロ導入、労働Gメンの6割が「反対」(朝日新聞) - goo ニュース

いきなりタイトルで残業代ゼロ賛成なんて書いちゃうとブログバッシングされそうで怖いんだけど・・・
目的・主旨を正しく理解した方がいいよ。

今回の見直しでは、
①対象は年収400万円以上であること
②ホワイトカラー・エグゼンプションが前提ということだ
(エグゼンプションはexemption 控除という意味・ホワイトカラーという定義はやや難しいが、ココでは非生産部門労働者として考えています。)

うちの会社は中小企業だから・・・
現場の最前線で働く社員の年間総支給額が400万円未満という社員は実に80%以上に相当する。
ほとんどの社員で、今回の見直しに該当する人はかなり少ない。

①の400万円と言えば
月給支給額 25万円×12ヶ月=300万円 夏冬賞与2回×50万円=100万円
これで400万円である。

②について言えば、製造なり販売なり現場の最前線ではないオフィスでネクタイしてパソコンをパチパチやっている
ホワイトカラー達が対象となると思っていいのではないでしょうか。
おそらく、これらの人たちは①の400万円を軽く超える人たちなのだが、
パソコンでネットを見たり、メールを読み書きしたり・・・
それで、就業時間を2時間越えたから、はい残業しました。当然基本給が高い人たちだから、
残業単価も高く、コレで今日は3,000円・4,000円儲かりましたとなる。

こんなのおかしいよねっていうことにメスを入れようとしているのだと思います。

こういう非生産部門のホワイトカラーが受け取る残業代が企業の中で非常に大きなものとなり、収益を圧迫し、
弱者である役職の低い身分の方までは、残業代が振り向けられず、サービス残業となってしまうケースが、
あまりに多いのだろうと想像します。

生産活動に直接従事する人たちは、1時間で100の物を生産すれば、8時間で800となり、10時間なら1,000となる。
必ずしも時間と報酬の関係は正比例にはならなくても、時間と生産量の関係おおよそ比例関係であろうことは、理解しやすい。
一方で、ホワイトカラーの人たちすなわちパソコンなんかを普段デスクにおいて仕事をしている人たちはどうだろうか?

今日は4時間仕事をした。
翌日は8時間仕事をした。
翌々日は12時間仕事をした。
さて生産量・売上は、労働時間に比例して2倍・3倍となるのか?
現実はほとんど関係しない。

ホワイトカラーの人たちの仕事においては、時間と報酬の因果関係が非常に薄いのである。
だからコレを是正していかなければならないのだが、役職に付くホワイトカラーたちも、
元は時間管理における労働者だったので、どうしても労働報酬と時間の概念から抜け切れないし、
企業側も時間の概念をなくした場合の評価・処遇の仕方がわからないから、従前の時間管理をするしか
ないと言うのが現状なのだと思う。

高度成長時代を支えた製造業を中心とした日本産業の発展期には、労働量=時間の関係が成り立ったから、
基本の賃金システムとして、労働時間=報酬は成り立ってきたのであろう。

今日、海外に製造現場が流出している現状において、将来の日本の成長は、付加価値創造や研究・開発などの
知的財産の創造へと現場がシフトする必要があり、この役割を果たしていくホワイトカラーたちの知的財産価値の創造量は、
必ずしも労働時間に比例するものではないということだ。

特に30歳代~の400万円を越えるホワイトカラーたちは、己を磨く努力をし続けていかないと、
自己の存在価値を企業で認めてもらえなくなると思います。
これは、産業構造の変化であり、時代の流れであることを認識しておく必要があり、反対反対と言うよりも、
むしろ自己を高めることで自己防衛をしなくてはならいのだと思います。

◆株主と労働者

2006年11月30日 | ビジネス全般
実はうちの会社は業績があまり良くないんです。かろうじて黒字決算といった感じなのですが・・・

創業者の方は、会社の目的は利益をあげることだとはっきり明言していますが、どうやら私は、

合点がいかないのです。本当に企業の目的は利益を上げることなのでしょうか?

会社の所有者は、株主です。当然株主はより高い利益により自分の所有する会社が大きくなり、

投資している資本について、より高い配当を求めるものだと思います。

なぜなら、それは投資をしているからだと思のですが。

しかし、会社で働く従業員はどうかというと株主ほど大きな利益を上げることを期待していないのでは

ないかと思います。出来れば、前年よりは少しは給料が増えて、ボーナスもそこそこもらえれば、それで幸せだと

思う人が多いと思います。終身雇用や年功序列が100%良いとは思わないですが、どこかそれに近いものがあることが、

日本的な経営のような気がしてならないのです。

米国との伝統や文化的なな違いは、ビジネスの世界でも歴然とあるように思います。

アメリカは、やはり建国の時、すなわち歴史が浅いからなおさらのことだろうけど、

元来競争社会・弱肉強食という風土があるお国柄のような気がします。

もし、この文章を読んでいるあなたがもしサラリーマンなら、あなたは労働者です。使用人なんですよって

言われたらどんな感じを受けますか?

あなたは労働者。所有者は株主で・・・

会社の所有者が株主でも、あなたの所有者が株主ではないと思うだろうし、自分は所有物ではないと

きっと強く言いたいと思います。

株主は、所有する会社の従業員を利益を生み出す物として考えているわけで、それが人間であろうと

機械(マシン)であろうと関係ない。如何に多くの利益を生み出すかが重要であると考えているのではないだろうか?

もし、そうなら従業員・社員を機械と同等に捉えていたとしたら、生産能力の悪いものはスクラップして

新しいものと入れ替える。メンテナンスコストが高いし、もう使い物にならないから廃棄(リストラ)する。

利益を目的とすれば、まるで社員(人間)を本当に機械・物のように株主が考える思考になるのは当たり前となる。

今の時代「労働者」という言葉も、労働させる支配層と労働する従属者とがあるような言葉の響きに違和感を感じる時代です。

株主・会社・経営陣・従業員の関係について、従来の思考ではない現代の労働意識に即した関係構築のあり方を

考え直す時代になっているように思っています。

とりわけ、非上場会社なら短期の収益を目的とした株式投資をする株主は少なく、中長期で会社の成長を見守ってくれる。

安定株主が存在してくれる事は、大変ありがたいことだと思います。

株主・会社・経営陣・従業員など各ステークホルダーとなる立場の人が、同じ目的によって事業運営されること。

そして、その目的を明確に各ステークホルダーと合意しなければならないと思います。





◆賢者の書

2006年10月30日 | ビジネス全般
きのうの夜、おもしろそうな本を見つけたので、つい買っちゃいました。

出版社がディスカバー21なので、タイトルを見て大体想像がつきますが、

物語風なので、どんなストーリーで展開されるのか?が興味深々です。

初版は2005年2月なので、もう1年半程経ちますが・・・読みやすそうです。

タイトル:「賢者の書」 作者:喜多川 泰 著





この出版社は、成功哲学書や自己啓発書・最近ではコーチング関係の本などを良く出版されています。

今回購入した書籍「賢者の書」は、映画でいうとロードオブザリング的な雰囲気を直感的に感じましたが・・・タイトルのせいかな?

物語のおおよそのストーリーは、少年が旅に出て、9人の賢者と出会い、様々な教えを学んでいきます。

読者は、主人公の少年サイードを通して、人生や仕事の成功の法則・そして大切なこととは何かを学び、勇気を与えてくれる物語となります。


まずは、60ページ程読みました。

序章にあたる部分ですが、旅を始めるきっかけと一人目の賢者からの教えが書かれています。

とにかく、物語風なのでとても読みやすく、一人目の賢者の教えに「そうだ・そうだ」と納得しながら読みました。

最近、少々仕事に行き詰まりを感じている私にとっては、「よしもう少し仕事をがんばってみよう!!」という気持ちにさせてくれました。

第1章の教え「行動」

行動の結果として私たちが手に入れるものは・・・

成功でもなければ失敗でもない。

・・・・・・・

会社で仕事をしていると、すぐにこれは成功したとか失敗したなんて、結果を急いで判断をしてしまいますよね。

何が成功なのか?行動の見返りとして、過度の期待をみんなしている。

そんな大きな期待にすぐ良い結果なんて出ないと思います。

だけど・・・業績評価・人事評価は成果主義のもとに短期で結果が問われすぎているのではないか?

わが社でもやっぱりそうなんですよ~。

だから、人材がなかなか育ちにくいのではと最近はつくづく思っています。

一つ一つの行動や経験がほんのわずかなものでも、長い年月の中でそれが財産となり、貴重な経験となり、

やがて大きな果実となることを忘れてはいけませんよね。

また、続きを読んだら寸評を書きますね。

もし、興味が湧いた方がいらっしゃれば、オススメの1冊です。

ちなみに代金は、本体 1440円(税別)です。

◆格差社会とニート

2006年10月11日 | ビジネス全般
会社での予算運用についてふとした疑問が・・・

昨今の働かない若者(ニート)の増加、あるいはコーチングなるものが流行る現象として、私たち企業側にも大きな問題があるのかもしれない。労働環境・労働価値が昔と違い、大きく環境変化しているのに、大多数の企業は昔ながらの経営を行っている。そこに労働者が求めるものと企業の職場に大きな隔たりがあるのかもしれないと思うことがある。

例えば予算という考え方だ。これは、今の労働者の求める価値に合致しないのではないか?未だに企業側の会社運営は相変わらず予算XXで運用をしている。労働者側の労働価値が著しく急激に変化しているのに・・・
収益を求めるための管理手法としての予算管理に従業員が求める働く意味・価値を予算管理手法に見出すことができなくなっているのではないか?と疑問がわく。

ニートを生み出す現象は、戦後の豊かな時代に生まれた若者たちが、マズローの欲求説でいう生理的欲求・安全欲求・社会的欲求はすでに満たされた環境で生まれてきていることに起因しているのではないだろうか?
だから、働く意味は、さらに上位欲求である自己承認欲求や自己実現欲求に向かっている。しかし、実際に20歳前後で社会に出て仕事をしてみると、その自己の欲求と企業での自分への評価があまりにも乖離してしまう現象を生んでいる。若者が企業において自己承認・自己実現を果たす事は、現実的にかなり無理がある。
だから、それの替わりではないが、チャレンジ目標という社員の成長にフォーカスした成長育成手法による業績向上を目指す方が、企業も従業員もハッピーになれるかもしれないと考えたり今はしている。

企業の業績向上・繁栄は、結局は社員の成長を前提にしなければならない。いきなり予算という結果を求めても、力量の不足する社員は予算未達成となる。自己承認・自己実現欲求が強い若者が、このような状況に置かれたとき、どのようなモチベーションになるかは推測できる。もちろん不出来・コンプレックスをバネに成長する社員はいるが、豊かな時代に生まれた若者にそれを求めるのは期待倒れになると思う。

企業が仕事を通して、社員自身が自己成長を確認でき、若い社員の仕事が、社会に対してどのように貢献しているのかを実感できる仕組みに、企業側は変えていかなくてはならないと思っている。

生活をするための収入を得る労働ではなく、自己の存在価値・仕事を通して世の中にどのように貢献し、お客様に喜ばれているのかをダイレクトに感じとることができる仕組みを企業側は考え出す必要があると感じている。多くの企業が結果成果主義ではなく、仕事の社会的貢献意義を社員教育の中でしっかり育んでいく責任を企業は担っていることを自覚しなければならない。そうでなければ、ニート問題は根本治癒しないのではないかと思う。少なくても、私はそのような改善を目指して自社の企業風土を変えていきたいと思っている。

このような格差社会やニートの問題を考えるとき、これらの社会的な問題を考える有識者と呼ばれる方の多くは、社会的地位も高く、高度な知識教養を備えている。また自身の生活環境や労働環境においては、ある意味成功者の集まりである。

ところが、自社の社員を振り返ってみると、短大卒・4大卒の社員もいれば、高卒社員もいる。高卒でも当然それなりにランク・レベルがある。おそらく義務教育の中学校では、学力の相対評価は、偏差値40前後だったかなと思う社員もいる。今年の短大以上の進学率は過去最高で40%を超えた。ということは高卒者は世の中に60%以上いるのだ。ある意味、義務教育の終了過程でダメだしのレッテルを貼られている。学校を卒業し社会に出たとき、いきなり成果主義だ、予算達成だと言われても、希望が持てないわけだ。特に中小企業は、このような若い社員の労働力を最大価値に高めていく責任を負い、彼らの仕事への価値・意味をしっかり教えていかなければならない。私は若い社員に働く意味や仕事へのやりがいを育んでいく責務を痛切に感じている。世の中の半数(60%以上)を占める彼らに対して、勉強はあまり好きじゃなかったし、得意じゃなかったけど、仕事が楽しく、働くことの意味が実感できる環境を作ることは、企業としての責任だと強く思っている。

◆最新映画DVDが300円だったら・・・

2006年10月07日 | ビジネス全般
先日のナップスターの定額で音楽とり放題のサービスについて、もう少し範囲を広げて、これがもし映画だったらどうなるんだろう?とふと思いました。

私は結構映画が好きで、多いときは1ヶ月にDVDをT社レンタル店で借りて楽しんでいます。多い時は、1ヶ月3,000円ぐらいは料金払ってます。一方で映画が好きだからといって映画館に足を運ぶことは年に数度ぐらいのことです。

もし最新映画が封切りとともに300円~350円程度でネット発売されたら、年間かなりの数量を私は購入することになるでしょうね。
これにより映画の製作会社や著作権者の収入は飛躍的に増加することになるのではと思いますが、どうなんでしょうね?
著作権者の権利をしっかり守りながら、それを購入または利用するユーザーも大きな恩恵を受けることができます。
困るのは、映画館であったりT社ですが。

インターネットが高速ブロードバンド化し、大容量の映像データが簡単にしかも短時間で入手できる環境が整えば、こんなことも300円って十分有り得ますよね。
日本のようなインターネットの高速化と低価格化は、本当に恵まれた環境で、世界的に見れば、まだまだ特殊な地域だと思いますが、数年で、今の日本のようなネットのインフラが世界的に当たり前となったときは、音楽同様に映画関係も同じような道をたどる可能性も十分あると思う。一部既にその流れは起こってきているし。

ただ、映画館はつぶれないで欲しい。映画館の存在価値は、ただ映画というコンテンツの付加価値を提供するためのものではなく、雰囲気や空間、デート場というような今までとは、違う価値をさらに創造提供する場となっていって欲しいと思ってます。

◆オシムサッカーと仕事・ビジネス

2006年08月31日 | ビジネス全般
オシムサッカーと守破離(シュハリ)を考える

オシムサッカーを基点に仕事・ビジネスの捉え方を今日は書いてみます。

オシム監督 なかなかいい感じですね~ 期待大です。

考えるサッカー

瞬時に判断するサッカー

しっかり走るサッカー

普段から考えること⇒試合中には考えられない⇒だから条件反射のように瞬時に判断・行動するためには

日頃から訓練が必要になるのでしょうね。

オシム流サッカーとジーコサッカーの違いって何かな?って最近自分なり思ったこととして、

企業活動における部下育成方法や権限委譲などについつい結びつけて考えたりします。

ジーコが高い技術を持った一人一人のプレイヤーの自主性を尊重したようですが、ワールドカップでの結果は惨敗でした。

果たして自主性を尊重するすばらしさの裏側にはどれほどの大きなリスクがあるのだろう?

自主性って言葉の響きはものすごくいいんだけど、何かおかしいと思うことが度々あります。

オシムさん、過去の日本サッカーの型を破ってください。自主性なんて言う前に、オシム流サッカー哲学を徹底的に教え込み、

鍛え、訓練して欲しいと思います。走るという基本の大切さを叩き込んで欲しいものです。



自主的に物事を考え行動できる人って何割ぐらいを占めるのかな?

おそらく少数派になるでしょうね。全ての人が自主的に行動してくれるようになる事は、理想ですが、

現実との乖離があまりにも大きいですよね。世の中には名監督・名コーチ(企業コーチング者含む)はたくさんいますが、

誰でも名監督・名コーチになれるものではありません。

少なくとも私は自主性を重んじた名監督や名コーチにはなれません。

特に若い社員や部下に自主的に好き勝手やらせてたら、思うように業績が上向かず失敗したな?と思うことはありませんか?

企業は毎月月次収支結果により業績を検証します。部下が成長しているかではなく、業績がどうだったのか?

企業では、短期的な業績結果に着目・評価されることが多いのが現状ですよね。

だからこそ、余計に部下育成の難しさを実感します。

だったら限られた時間・期限のなかで、会社が求めるよりよい成果を出すためにどうしたら良いのだろうか?

当然スタッフ一人一人の成長なくしては、実現しません。

私はオシム流サッカーが、サッカーの最も単純な基本を大切にしているのではと思いました。

基本を身に付けるための訓練は本人の自主性主体ではなく、何度も何度もやらせる・経験させる・繰り返し訓練することで、

基本が身についていき、やがて成果に近づくことができる。

基本が出来ていない人に自主性という言葉の響きの良さだけでやらせても、

会社が求める成果が出せるはずもない。当たり前・基本の大切を痛感しています。

2年ほど前のセミナーで「守・破・離」(シュハリ)というフレーズを学びました。

「守」とは学び・真似ること
「破」とは学び・真似てきたことからどこかに自分らしさや特徴を見出すこと
「離」完全に自分しかできないオリジナリティーを確立すること


絵の世界でピカソの絵をみて、何がすごいのか未だに私は理解できませんが、そんな彼も若いころは、

りんごや手のデッサンに明け暮れていた時期はあったと思います。(中学の美術の授業でよくりんごや手を描きました)

これが「守」です。

その訓練を重ねていくうちにどこか彼らしさみたいなタッチが現れ(「破」の世界)

やがて彼の独創的な技法や表現が生まれ(「離」の世界)

あの訳のわからん絵になったということです。

「離」の世界の最前提となるスタートは「守」です。

基本の大切さをもう一度見直してみたいと思っています。

若い社員の将来の可能性は十分にありますが、人間としての基本・社会人としての基本・商売としての

基本・接客対人能力の基本・商品知識の基本などありすぎて何から手をつけていいやらわかりませんが、

基本が身についていないところからは、やはり何も生まれない。



あなたの部下は「守」の水準?

それとも「破」?「守」のレベルを脱して「破」のレベルになると、自分を試してみたくなるものですよね。

いろんなことにチャレンジしたり、誰かの評価を強く意識し始める。この時に自主的行動が多くなり、促進される。

そんな成功や失敗の中から多くのことを学び成長するのかな~

思春期の頃のまさに育ち盛りと言った感じでしょうね。



もう立派に「離」の領域に到達した人は?

「離」のレベルなら、独立・自立も可能の水準でしょうね。

だからと言って成功する保証なんてどこにもありませんが・・・



オシム流サッカーから随分飛躍した話になってしまいました。すいません。

オシム流サッカーが必ず「守破離」だとは言い切れませんが、何か共通するものがあるような気がしています。