オシムサッカーと守破離(シュハリ)を考える
オシムサッカーを基点に仕事・ビジネスの捉え方を今日は書いてみます。
オシム監督 なかなかいい感じですね~ 期待大です。
考えるサッカー
瞬時に判断するサッカー
しっかり走るサッカー
普段から考えること⇒試合中には考えられない⇒だから条件反射のように瞬時に判断・行動するためには
日頃から訓練が必要になるのでしょうね。
オシム流サッカーとジーコサッカーの違いって何かな?って最近自分なり思ったこととして、
企業活動における部下育成方法や権限委譲などについつい結びつけて考えたりします。
ジーコが高い技術を持った一人一人のプレイヤーの自主性を尊重したようですが、ワールドカップでの結果は惨敗でした。
果たして自主性を尊重するすばらしさの裏側にはどれほどの大きなリスクがあるのだろう?
自主性って言葉の響きはものすごくいいんだけど、何かおかしいと思うことが度々あります。
オシムさん、過去の日本サッカーの型を破ってください。自主性なんて言う前に、オシム流サッカー哲学を徹底的に教え込み、
鍛え、訓練して欲しいと思います。走るという基本の大切さを叩き込んで欲しいものです。
自主的に物事を考え行動できる人って何割ぐらいを占めるのかな?
おそらく少数派になるでしょうね。全ての人が自主的に行動してくれるようになる事は、理想ですが、
現実との乖離があまりにも大きいですよね。世の中には名監督・名コーチ(企業コーチング者含む)はたくさんいますが、
誰でも名監督・名コーチになれるものではありません。
少なくとも私は自主性を重んじた名監督や名コーチにはなれません。
特に若い社員や部下に自主的に好き勝手やらせてたら、思うように業績が上向かず失敗したな?と思うことはありませんか?
企業は毎月月次収支結果により業績を検証します。部下が成長しているかではなく、業績がどうだったのか?
企業では、短期的な業績結果に着目・評価されることが多いのが現状ですよね。
だからこそ、余計に部下育成の難しさを実感します。
だったら限られた時間・期限のなかで、会社が求めるよりよい成果を出すためにどうしたら良いのだろうか?
当然スタッフ一人一人の成長なくしては、実現しません。
私はオシム流サッカーが、サッカーの最も単純な基本を大切にしているのではと思いました。
基本を身に付けるための訓練は本人の自主性主体ではなく、何度も何度もやらせる・経験させる・繰り返し訓練することで、
基本が身についていき、やがて成果に近づくことができる。
基本が出来ていない人に自主性という言葉の響きの良さだけでやらせても、
会社が求める成果が出せるはずもない。当たり前・基本の大切を痛感しています。
2年ほど前のセミナーで「守・破・離」(シュハリ)というフレーズを学びました。
「守」とは学び・真似ること
「破」とは学び・真似てきたことからどこかに自分らしさや特徴を見出すこと
「離」完全に自分しかできないオリジナリティーを確立すること
絵の世界でピカソの絵をみて、何がすごいのか未だに私は理解できませんが、そんな彼も若いころは、
りんごや手のデッサンに明け暮れていた時期はあったと思います。(中学の美術の授業でよくりんごや手を描きました)
これが「守」です。
その訓練を重ねていくうちにどこか彼らしさみたいなタッチが現れ(「破」の世界)
やがて彼の独創的な技法や表現が生まれ(「離」の世界)
あの訳のわからん絵になったということです。
「離」の世界の最前提となるスタートは「守」です。
基本の大切さをもう一度見直してみたいと思っています。
若い社員の将来の可能性は十分にありますが、人間としての基本・社会人としての基本・商売としての
基本・接客対人能力の基本・商品知識の基本などありすぎて何から手をつけていいやらわかりませんが、
基本が身についていないところからは、やはり何も生まれない。
あなたの部下は「守」の水準?
それとも「破」?「守」のレベルを脱して「破」のレベルになると、自分を試してみたくなるものですよね。
いろんなことにチャレンジしたり、誰かの評価を強く意識し始める。この時に自主的行動が多くなり、促進される。
そんな成功や失敗の中から多くのことを学び成長するのかな~
思春期の頃のまさに育ち盛りと言った感じでしょうね。
もう立派に「離」の領域に到達した人は?
「離」のレベルなら、独立・自立も可能の水準でしょうね。
だからと言って成功する保証なんてどこにもありませんが・・・
オシム流サッカーから随分飛躍した話になってしまいました。すいません。
オシム流サッカーが必ず「守破離」だとは言い切れませんが、何か共通するものがあるような気がしています。
オシムサッカーを基点に仕事・ビジネスの捉え方を今日は書いてみます。
オシム監督 なかなかいい感じですね~ 期待大です。
考えるサッカー
瞬時に判断するサッカー
しっかり走るサッカー
普段から考えること⇒試合中には考えられない⇒だから条件反射のように瞬時に判断・行動するためには
日頃から訓練が必要になるのでしょうね。
オシム流サッカーとジーコサッカーの違いって何かな?って最近自分なり思ったこととして、
企業活動における部下育成方法や権限委譲などについつい結びつけて考えたりします。
ジーコが高い技術を持った一人一人のプレイヤーの自主性を尊重したようですが、ワールドカップでの結果は惨敗でした。
果たして自主性を尊重するすばらしさの裏側にはどれほどの大きなリスクがあるのだろう?
自主性って言葉の響きはものすごくいいんだけど、何かおかしいと思うことが度々あります。
オシムさん、過去の日本サッカーの型を破ってください。自主性なんて言う前に、オシム流サッカー哲学を徹底的に教え込み、
鍛え、訓練して欲しいと思います。走るという基本の大切さを叩き込んで欲しいものです。
自主的に物事を考え行動できる人って何割ぐらいを占めるのかな?
おそらく少数派になるでしょうね。全ての人が自主的に行動してくれるようになる事は、理想ですが、
現実との乖離があまりにも大きいですよね。世の中には名監督・名コーチ(企業コーチング者含む)はたくさんいますが、
誰でも名監督・名コーチになれるものではありません。
少なくとも私は自主性を重んじた名監督や名コーチにはなれません。
特に若い社員や部下に自主的に好き勝手やらせてたら、思うように業績が上向かず失敗したな?と思うことはありませんか?
企業は毎月月次収支結果により業績を検証します。部下が成長しているかではなく、業績がどうだったのか?
企業では、短期的な業績結果に着目・評価されることが多いのが現状ですよね。
だからこそ、余計に部下育成の難しさを実感します。
だったら限られた時間・期限のなかで、会社が求めるよりよい成果を出すためにどうしたら良いのだろうか?
当然スタッフ一人一人の成長なくしては、実現しません。
私はオシム流サッカーが、サッカーの最も単純な基本を大切にしているのではと思いました。
基本を身に付けるための訓練は本人の自主性主体ではなく、何度も何度もやらせる・経験させる・繰り返し訓練することで、
基本が身についていき、やがて成果に近づくことができる。
基本が出来ていない人に自主性という言葉の響きの良さだけでやらせても、
会社が求める成果が出せるはずもない。当たり前・基本の大切を痛感しています。
2年ほど前のセミナーで「守・破・離」(シュハリ)というフレーズを学びました。
「守」とは学び・真似ること
「破」とは学び・真似てきたことからどこかに自分らしさや特徴を見出すこと
「離」完全に自分しかできないオリジナリティーを確立すること
絵の世界でピカソの絵をみて、何がすごいのか未だに私は理解できませんが、そんな彼も若いころは、
りんごや手のデッサンに明け暮れていた時期はあったと思います。(中学の美術の授業でよくりんごや手を描きました)
これが「守」です。
その訓練を重ねていくうちにどこか彼らしさみたいなタッチが現れ(「破」の世界)
やがて彼の独創的な技法や表現が生まれ(「離」の世界)
あの訳のわからん絵になったということです。
「離」の世界の最前提となるスタートは「守」です。
基本の大切さをもう一度見直してみたいと思っています。
若い社員の将来の可能性は十分にありますが、人間としての基本・社会人としての基本・商売としての
基本・接客対人能力の基本・商品知識の基本などありすぎて何から手をつけていいやらわかりませんが、
基本が身についていないところからは、やはり何も生まれない。
あなたの部下は「守」の水準?
それとも「破」?「守」のレベルを脱して「破」のレベルになると、自分を試してみたくなるものですよね。
いろんなことにチャレンジしたり、誰かの評価を強く意識し始める。この時に自主的行動が多くなり、促進される。
そんな成功や失敗の中から多くのことを学び成長するのかな~
思春期の頃のまさに育ち盛りと言った感じでしょうね。
もう立派に「離」の領域に到達した人は?
「離」のレベルなら、独立・自立も可能の水準でしょうね。
だからと言って成功する保証なんてどこにもありませんが・・・
オシム流サッカーから随分飛躍した話になってしまいました。すいません。
オシム流サッカーが必ず「守破離」だとは言い切れませんが、何か共通するものがあるような気がしています。