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日経のNB onlineで紹介されている、宋文洲氏のコラム傍目八目で取り上げられたテーマのタイトルである。「謙虚」であることについて、改めて考えさせてくれる記事であり、一度読んでみることをお勧めする。
コラム記事の中で、宋文洲氏は、「偉くない人が謙虚に見えることは、偉い人が傲慢に見えることと、そう変わりません。偉くても弱い人と対等につき合える人こそ、謙虚な人だと思います。弱くても偉い人に媚びない人こそ、謙虚な人だと思います」と指摘している。
まさにその通りである。
この「謙虚」という言葉は、大辞泉で、「控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。また、そのさま。『―な態度』『―に反省する』[派生]けんきょさ」と説明されている。
また、英語では、「modesty / modest(ly) / humble (humbly)」となり、例えば、「謙虚に世論に耳を傾ける」は、"listen humbly (modestly) to the voice of public opinion"と置換えられる。
ラテン語では、「modestus <modus(尺度)+-tus(形容詞語尾)=尺度に合った→穏やかな、MODICUM、MODULATE」ということになるとのことである。
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私などの感覚では、ラテン語的理解が最もしっくり理解できるところである。
「中庸」という言葉があり、同じ大辞泉で、「1 かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。『―を得た意見』『―な(の)精神』/2 アリストテレスの倫理学で、徳の中心になる概念」と説明されている。
宋氏が指摘している「偉くても弱い人と対等に付き合え…弱くても偉い人に媚びない…」ということは、むしろこの「中庸」に近いのかもしれないと感じる。
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いずれにしても、如何に「偉い人」であろうと、「名刺の肩書き」がなくなればただの人である。
私が以前に勤務していた会社の社長が、会社から離れる際に、フランス出張時に受けたフランスに対するイメージがよかったためか、フランスで生活する道を選んだ。
しかしその方は、1年もせずに日本に戻ってきた、という話を聞いたことがある。理由は、社長当時に受けたイメージとまったく異なる状況にがっかりし、帰国したとのことである。
これは、「名刺の肩書きが幅をきかせる」状況と「名刺がなくなった」状況との違いではないか、と私は感じている。
宋文洲氏が、「謙虚の心を持つには、かなりの人生経験を通じて勝ち取った自信を持つことが必要です。この自信は地位、金銭などの成功によってもたらされるものではなく、その人に内在するものが成熟することによってもたらされる絶対的なものです」と指摘しているように、「謙虚」ということは「内面性の成熟」及び「自分を正しく認識し、ひとりのただの人間として行動できる人」なのかもしれないと感じる。
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