(山田千恵子一座、宇野肇氏脚本)
日本経済新聞8月2日付47面で、「大阪の劇団『あの日』に挑戦」として、「原爆知らない世代と同じ目線」で「落語をまじえ悲惨さ語る」との記事である。
大阪の劇団、山崎千恵子一座が、8月3日から6日まで大阪市中央区のトリイホールで「耕作の朝-1945年8月6日8時15分ころ-」を上演するとのことである。
あらすじは、「主人公の耕作はあの朝、防空壕で掃除中だった。大音響とともに入り口が崩れて閉じ込められた耕作の前に、被爆死した人の霊が次々と現れ、熱線と爆風で消えた街の惨事を語る」、「主人公の耕作は、霊を通じて防空壕の外の地獄絵図を知らされ衝撃を受ける」、クライマックスに登場する劇中落語は「あの世を見てきたとうそぶく男が長屋の仲間にせがまれ、地獄の様子を披露する」とのことである。
私も今、58歳、戦争を知らない世代である。 たまたま縁があって、1978年4月~1984年3月までの6年間、広島勤務を体験している。しかしながら、いまだに「ヒロシマをどう語るべきか?」についてはわからないというのが実情である。
私の実体験部分でいえば、「8月6日、これから夜が明けようとする、平和公園の早朝、原爆慰霊碑に向かい深い鎮魂の祈りをささげる人々」であり、8月6日8時15分以降の原爆記念式典とのギャップであり、労働組合等を含む各種平和団体の主催する「平和を語る会」の取り組みとのギャップである。
森重雄氏は、「生々しすぎる体験であるからこそ、『原爆忌』なり『終戦忌』を季語とする俳句を創作していない」といっておられる。 私にとっては、あるいは、森氏ほど生々しくないとしても、「早朝のお爺ちゃん、お婆ちゃんの鎮魂の祈り」は重すぎる課題でもある。
この作品の脚本、演出を手掛ける宇野肇氏も49歳、まさに戦後世代である。 その宇野氏自身が次のように述懐している。 すなわち、「特攻隊などを美化するかのような作品が人気を集める現在だからこそ、多くの人に訴えたい」、そのために、「原爆や戦争に関する10冊以上の書籍を読みあさり、ストーリーのイメージを膨らませたが、『自分の感性を頼りに、戦争の悲惨さをどこまで伝えられるのかを試す』ため、あえて健在の被爆者の声を聞かずに取り組みを進めてきた」と。。。
確かにその通りであると感じる。 すべての側面でそうであるように、「他人の体験の受け売り、もしくは、他人の話の受け売り」はそれほど意義はないと感じる。。。
やはり、「自らの血となり、基本認識となったことを伝える」、それが、人間ではないか?人間の進化とは、そういうことではないのかと。。。
もちろん、結果として、多くの批判、非難を浴びることになるかもしれない。しかし、それは他人の批評であり、大事なことは「他人の批判、非難に耳を傾け、それを聞いてしまう」ことではなく、「自分はこうだ」ということを主張することではないかと考える。
宇野氏が実践していることも、そういうことではないのか???
Written by Tatsuro Satoh on 4th August, 2007
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