さかいほういちのオオサンショウウオ生活

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フォークジャンボリー青春画報 「だからそこに行く!その1」

2006年02月01日 13時46分14秒 | 小説

伝説の野外コンサート・フォークジャンボリー青春画報
「だからそこに行く!その1」
(注:会話はすべて岐阜弁です)



1970年の頃、岐阜の町は、やはり平和だった。

放課後の広い音楽室の片隅で、村上はボロいガットギターでCコードのアルペジオの練習をしていた。
「やあ、村上。今日も来とったんか」
俺は、片手で持った”フォークリポート”を見せながら言った。
「おお、酒井か。そのフォークリポートは、今月号のやつか?」
目ざとく見つけたフォークリポートを見つめながら、村上が下手糞なギターの演奏を止め、言った。
「今度、岐阜の中津川でフォークジャンボリーがあるみたいやで」
ちょっと興奮して俺は言ったのだが、村上にはフォークジャンボリーの事をまったく知らなかった。
「なんや?フォークジャンボリーって?」
村上の問いに、俺は詳細な説明にとり掛かった。
「昨日のラジオの”フーテナニー’70”でも言っとったやろ。五つの赤い風船や岡林とか高田渡が中津川でコンサートやるんやて」
「なんか知らんけど、今回は2回目やと。800円やったら安いんやないか?行かへんか?真夜中もやっとて、1日中やるらしいで!」
詳細とも言いがたい説明をしながら、フォークリポートの特集記事を見せ、俺は村上に言った。
「おおっ、そうか、・・・どうしようかな・・・?」
村上は、そう言いながらまたギターをポロンポロンと弾き始めた。
「あんまり、気乗りせんのか?」俺はそう問い返してみた。
「こーゆーとこ行くのは、学校の許可がいるんと違うか?」村上は盛り上がりに欠ける抑揚で、俺に言った。
「黙っとりゃ、分からへんて」俺は強気で言ってみた。
「そーやな・・・・」村上も少し同意したが、決定はしかねている様子だった。
そして、考えながらギターをジャンジャンと鳴らしている。

この頃の”ギター”といえばガットギターの事を指すものであって、フォークギターやエレキギターを指し示す名詞ではない。
そんなガットギターでさえ、誰も使用していないのが直ぐに分かる程の緩んだチューニングで、音楽室の掃除用のモップやバケツと一緒にロッカーの中で仮死状態でほったらかしにされていた。
それがガットギターの虐げられた日常でもあった。
ましてや、フォークギターやエレキギターなど学校に持っていこうものなら、すぐさま没収されてしまう危険性も大いにある。
しかし、幸いにも俺の高校はフォークソングの好きな先生が多く居て、学校にフォークギターを持ち込むのが黙認状態だった。
登校する時に大きなギターケースを担いで来るのだから、おそらく全ての先生が知っていたのは間違いないだろう。
また、音楽室や教室でも、大きな声でフォークを歌っていたので、知らないはずもないのだ。
校則には触れているのだが、細かいことに目くじらをたてない、おおらかというかイージーというか、そんな時代性もあったのだろう。
そんな訳で、俺は鞄を持っていかない日はあっても、ギターを持っていかない日はなかったのだ。
朝の登校時には真っ先に音楽室に行き、ギターをロッカーの中に隠していった。

そのロッカーの中から、いつものように俺はギターケースを出した。
「高校受験の合格祝いに何がいい?」と親に言われた俺は、すかさず「フォークギター!」と答え、ついに中学の時から欲しかった、フォークギターを手に入れたのだった。
思えばこのフォークギターでさえ、ちょっとスリムなガットギターっぽいスタイルの、まがい物みたいなフォークギターだった。
モンタノというメーカーなのだが、きっとマイナーなギターメーカーに違いないと思っていた。
ギターケースも、ボックス型の洒落たものではなく、ただのビニールケースにすぎない。
しかし、当時の価格で1万円もするのだから、ケースにまでまわす予算は親には到底考えられない事であった。
まぁ、買ってもらっただけでも、かなりラッキーと言っても良い出来事であるにちがいない。

「友よ!」なんかを口ずさみながら、俺はビニールケースのジッパーをジジジジッと開ける。
さっそうとケースから出すギターは、あきらかにガットギターよりスリムなフォークギターであった。
ギターのネックの部分もガットギターより掴みやすく、弦もスチールである。
「”戦争を知らない子供たち”でもやってみるか?」俺はCコードを押さえながら、村上に向かって言った。
実のところ、友人の村上はギターも持っていないし、コードさえ押さえるのもままならない程の初心者だった。
村上は、自分の持ってきた音楽雑誌の”新譜ジャーナル”を開きながら、たどたどしくCコードを押さえている。
そんな村上を尻目に、俺はサッとネックに手をやり、ジャジャジャンッ!とCコードで歌い始めた。
”戦争が終わって ぼくらは生まれた~~”
村上のガットギターのガット弦は、間延びしたような情け無い響きで、スチール弦のキラキラして緊張した音色に遠慮しているかのようだった。
ハモリもしないで、ただ漫然と歌っているだけだったが、こうしてフォークを歌っている時が至福の時間だった。
高校2年生といえばもう受験勉強を始めなければいけない時期なのだが、フォーク漬けの毎日を送っている俺にはこうしてギターを弾いて歌っている時が生きている証のようだった。

受験勉強などというものは殆んどしてはいない。
深夜には”ミッドナイト東海”や”オールナイトニッポン”で流れるフォークソングは言わずもがな、ビートルズやローリングストーンズを聴きながら朝まで深夜放送三昧の日々だった。
思えば当時の深夜放送の音楽は、西郷輝彦や美空ひばりの歌謡曲が、レッド・ツェッペリンやクリームやUFOと同じ次元の音楽として放送され、それがまた違和感もなく我々の意識の中に溶け込んでいた。
そんな音楽三昧の日々は、はたから見れば限りなく怠惰な時間に見えるだろう、しかし、俺にとってはそんな時間こそが薔薇色に輝いていた永遠の瞬間だったのだ。

”戦争を知らない子供たち”の3番も終わりころになると、コーラスクラブの部員がチラホラと音楽室にやってきた。
コーラス部といっても、女子生徒が4・5人しかいない弱小クラブだった。
そのようなクラブだったので、俺たちが音楽室で騒いでいても文句も言わなかった、それどころか、一緒になってフォークソングを歌ったりもした。
「次は”遠い世界へ”やってよ!」
コーラス部の部長の村瀬さんが俺たちに言った。
「んじゃ、次は五つの赤い風船特集ねっ!」そう言うと、俺はカポタストを3フレットに装着し、Dコードで”遠い世界へ”を弾きだした。
”遠い世界に旅に出ようか~~”
俺と村上と村瀬さんが歌っていると、残りのコーラス部員もやってきて、一緒に歌い始めるのだった。
「次は、”これがボクらの道なのか”やりますぅ~!」そう言うとGコードをジャーンと鳴らし、直ぐにCコードで歌い始める。
”お~!今も昔も変わらないはずなのに~~”
コーラス部の加藤さんが、それにつられてピアノの伴奏まで付けてくれている。
”これがボクらの道なのかぁ~~~!”

女子の観客が集まれば、当然の事ながら男子のテンションが上がってくるのは必然である。
俺のギターは熱を帯び、パッツンと3弦が切れてしまった。
不協和音寸前のギターの音だが、そんなことに構わずジャンジャカとギターをかき鳴らしていると、突然、平井君の声がした。
「あーっ!こんなとこで、またサボッとる!」
平井君は、写真部の副部長をやっている友人である。
「あー、見つかってまった!」と、冗談交じりで俺が答えると、平井君はすかさず言った。
「いつものことやろ!だいたい大声で歌とったら、誰でも分かるてっ!」平井君の言葉が暗黙のうちに、写真部の暗室に来るように催促している。
「・・今行くで、待つとって!」
そう言いながら、俺はギターを村上に渡し、写真部の暗室に行くことにした。

俺は成り行きで、写真部の部長と文化部長なるものを兼任しいて、文化祭の前など結構忙しかった。
高校生の役職などというものは、何のメリットもなくただ単にやり手が他に居ないという単純な理由からやっているに過ぎない。
したがって、部長だの副部長だのと言われても、ただの平部員と何の変わりもない。
それよりなにより責任など押し付けられる状況が頻繁にあり、出来れば避けて通りたい役職なのである。
しかし、断る理由など素早く見つからない時など、もたもたしていると無理矢理その役職を押し付けられてしまうのが常だった。
俺もその、もたもたしている輩の一人の内に入ってしまっているわけなのだ。


写真部の暗室に行くと、部員の1人と副部長の平井君が赤い暗室用のランプのなかで、”FUJI”の引伸ばし機で黙々と写真の焼付けを行っていた。
暗室に入ったとたんに「後、部長、お願いします!」と言いながら、部員が逃げて行ってしまった。
そんなこんなで、結局何か面倒くさいミッションを押し付けられてしまったようだった。
「そこにあるハーフのネガ、全部焼き付けんといかんのや、手伝って」
そう言いながら平井君が必死になって、100ショットちかくもあるネガを手際よく焼き付けている。
ハーフのネガというのは、普通の35ミリフィルムに2カット撮影されているネガのことだ。
焼付けの手間は、当然のことながら2倍かかってしまう。
「ハーフのネガは面倒くさいで、いかんわ!」そういいながら、平井君は焼き付けた印画紙を現像液に漬けながら言った。
「これは、顧問の先生に頼まれたんで、断れんのやて・・・」平井君が、さも面倒くさそうに言いながら、次のネガの焼付けをしている。
こういう面倒な作業が待ち構えている時は、写真部の部員は殆んど来ない。

「そういえば、昨日の”ミッドナイト東海”聞いた?」
平井君が、唐突に深夜放送の話をしてきたので、すかさず俺は答えた。
「昨日は”森本レオ”やったなぁ」
この地方の深夜放送といえば”ミッドナイト東海””オールナイトニッポン””走れ歌謡曲”などが主流で、ほとんどの高校生が聞いていた。
「森本レオが言っとったけど、中津川でコンサートがあるんやて?」
平井君がフォークジャンボリーの事を言っているのは明らかであった。
「フォークジャンボリーのことか?」間髪をいれず、俺は答えた。
「そうそう、それやて!酒井君は行くんか?」平井君が言う。
「行くに決まっとるやろ!」俺は答えた。
「僕も行こうと思っとるんやけど、一緒に行かへん?」平井君が言う。
平井君の突然の参加表明に、俺はかなり戸惑っている。
なぜなら、平井君がフォークソングに興味があったなんて、今の今まで知らなかった。
それに、平井君のような生真面目な人物と野外コンサートという2つの現象が、俺の頭の中でまったく結びつかないのだった。
『いやぁ・・止めたほうが良いよ。フォークソングなんかやってると受験勉強も出来なくなってしまうし、不良と間違われるよ。それにきっと野外コンサートなんかに行くと、親に叱られるんじゃないかな?学校の許可もいるだろうし。平井君にはフォークジャンボリーは不向きなコンサートだと思うよ!』 
・・・と、心の中では、このように答えるつもりでいたのだが・・・
「うん、ええよっ!一緒に行こか!」そう口をついて返事が出てしまった。
「きっと、面白いで!岡林信康や高田渡も本物が見れるで!」
「中津川やったら近いしな・・」
「1日中、コンサートをやってるらしいで」
などなど、心とは裏腹な言葉がどんどん口をついて出てしまう、フォークソング・フリークの性である。
フォークジャンボリーの名詞が出ただけで盛り上がってしまう、そんなパブロフの犬的・条件反射だった。

「岐阜駅から9時頃出発しや、間に合うで」
「中津川まで、電車賃は幾らくらいやろな」
「駅は、中津川やなくって”坂下駅”らしいで」
「”はっぴいえんど”や”加川良”や”岩井宏”もでるらしいで」
「”三億円事件の唄”もやるんかなぁ・・・生で聞きたいなぁ・・」
「浅川マキなんかも出るらしいで、結構ファンなんやけど・・」
もう、行く気になっている2人のイメージは止め処もなく膨らんでいった。
「アルバイトしないかんなぁ・・金ないし」俺がそう良うと平井君も同じ事を考えているようだった。
「ちょっと知り合いに聞いてみるは。なんかアルバイトやる奴を捜しとったでなぁ」
平井君には、もうアルバイトのあてがあるようで、俺も分まで手配してくれそうな気配だった。
「俺も、そのバイト出来そうなら、頼んでみてくれんか?」
そう言った俺を見ながら、右手でOKサインを出し、平井君は笑っている。

そして、少し興奮したまま印画紙の焼付けはあっという間に終わってしまったように感じた。
赤く薄暗い暗室には、印画紙の定着液の酢酸の酸っぱい匂いが充満している。
作業を終え暗い暗室から出たら、もう夕焼けがグランドや校舎をバーミリオンに焦がしていた。
平井君にさよならを告げ急いで音楽室に行ったが、そこにはもう誰も居なく、俺のギターがケースに収まって音楽室の隅っこに立てかけてあった。
俺は、そのギターを肩にかけ、夕焼けの太陽光線が射す薄明るいオレンジ色に染まった音楽室を出て、校舎を後に岐路に着いた。
中津川フォークジャンボリー開催までには、もう1ヶ月にも満たない、ある夏休み前の高校の1日であった