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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

救農土木事業で越畑志賀線を建設 1932年

2008-12-29 02:09:12 | 杉山

  憶い出話 嵐山町農協組合長 中村武一
 人と会って雑談をするときその話の内容に、昔の話が多くなって来たとき、その人は老人になったのだと、誰れかに聞いたことがある。私もここに、憶い出話をしたいと思うようになったのだから、正に老人になったわけである。
 憶い出話を話すと云っても、記録に基づいているわけでなく、全くの追憶だからお恥ずかしい次第であるが、昭和初期の頃の事を、知っている者が少なくなっている現在、世界の経済大国日本も、昔は、いや近年まで、大変な貧乏国で特に農村は極めて貧しかったことを、知ってもらうと共に、再び貧乏国にならない為に、現在点において吾々は、将来に向かって英智と努力を、最大限に発揮しなければならないと思うので、このことを強く願いながら、幾つかの憶い出話を記してみたいと思う。

  救農土木事業
 越畑の八宮神社の前を起点として、越畑中郷、下郷を通り、杉山に入り溝掘りを通り抜けて志賀に達する町道は、越畑志賀線と云うが、近年拡幅改良され、道路中央に白い点線のある立派な町道である。
 しかし、この町道も拡幅改良前は、皆さんのご承知の通り普通の町道であったが、私にはこの道にまつわる深い憶い出がある。
 この道路が越畑から杉山にかけて建設されたのは、昭和七年(1932)だから今【1982年(昭和57)】から丁度五十年前の事である。
 当時の農村は不況の中に喘(あえ)いで居た。人と会うと必ず出る言葉は「不景気で困りましたネ」だった。大正年代の第一次世界大戦による好景気から、その反動のように世界中を襲った経済恐慌の波に、日本も巻き込まれて不況の嵐が吹きまくっていた。
 「不景気で困る」と云うことは、当時殆(ほと)んどの農家は専業農家であったが、農産物の売上げ収入では暮して行けないので、ほんとうに困って居たわけである。
 当時日本は外来文化も入り、商工業も近代化され、思想的には大正デモクラシーが滲透(しんとう)し、又昭和元禄と云われる平和の中での軟弱な風潮があったように思う。全国各地にストライキや小作争議などが多発したのもこの頃だし、都会にはカフェー華やかなりし頃でもあった。
 このような中で、都市と農村の生活程度の格差は大きかった。田舎者であることは服装を見てすぐわかる程であった。低い生活程度であってもそれなりに、交換経済の中の生活には金が必要であり、農業にも肥料・飼料・農機具代等資金の必要な事は云うまでもない。また子弟の教育も、教科書の支給、給食などの制度のないその頃の方が、現在より以上金が掛ったのではないかと思う。なお当時の税負担も、容易なものではなかったと思う。日本は世界の五大強国の一つで、軍備を強化して国威を揚げて行くには、国民の負担を強めなければやって行けないことで、能化の負担は土地に重かったようだ。ともあれ農家は現金収入が欲しくて堪(たま)らない時代であった。
 当時の七郷村々長は広野の栗原侃一氏であったが、村の窮状を打開するために、副業の奨励、生活改善など諸施策をすすめる一方、村長以下役場吏員の報酬給料の一割を、村に寄付するという非常な村財政の状態であった。
 ちなみに当時の村長報酬は月額三十円、役員は十八円から二十五円、米一俵八~九円、小麦一俵五円位、繭は一貫匁(三・七五㎏)二~三円位だったと思う。
 当時政府は農村の窮状を救う施策として、農村に土木事業を起し、農民に賃金を得させると共に、農村の環境整備を図ることが進められていた。七郷村でも早速この事業を申請して実施したのが、越畑志賀線の「救農土木事業』であった。
 「救農土木事業」の予算額が、どの位であったか覚えていないが、延長二粁に及ぶ新設道路工事で、しかも村民に労賃を取らせるための管理をする事業は、当時としては大事業であったように憶う。
 一日の労賃(一般労働者)は五〇銭であったが、競ってこの仕事への就労申込が多かったように記憶している。
 私は当時二〇歳で、家業の農業に従事していたが、当時青年団長をしていた田畑周一氏が、或日拙宅に来られて、役場では今「救農土木事業」で事務が忙しくなり、臨時職員を採用したいと云っている。君をその臨時職員に推せんしたいが如何かと言われた。私の親達は賛成はしなかったけれど、私は是非やって見たいと云うことで、臨時職員に採用されて、六ヶ月位「救農土木事業」の事務に従事した経緯があり、越畑志賀線への印象が強いわけである。
 又、私の人生はその臨時職員がきっかけで、次に玉川村農会技術員を拝命、つぎに七郷村の信用組合や市川武市村長時代の役場書記と云うように、鋤鍬(すきくわ)を手にしない農業者になってしまった。
     嵐山町農業協同組合『農協だより』第16号 1982年(昭和57)10月


嵐山町に駅東土地区画整理組合が発足 1982年

2008-12-22 01:08:57 | むさし台

   発車した駅東区画整理組合
     -駅東土地区画整理組合が発足-
   総面積三十一・四ヘクタール 総事業費十七億三五〇〇万円
 駅東土地区画整理組合の設立総会が十月十一日、中央公民館で開かれ、全議案が原案どおり可決されました。
 長年の懸案であった駅東側の区画整理事業が、いよいよ本格的に動きだすことになったわけであります。
 この日は、町長、県住宅都市部長などを来賓に迎え、組合員一四三名が参加して行われました。
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 事業の計画区域は上図のとおり武蔵嵐山駅に隣接した大字菅谷、志賀、川島にまたがる町内の一等地三十一・四ヘクタールです。
 総事業費は、十七億三五〇〇万円ですが、事業は昭和五十七年度(1982)から六十一年度(1986)までの五カ年計画で実施されることになっております。
 地区内には、駅前広場(二五〇〇平方メートル)、公園四カ所、都市計画道路として、幅員十五メートルの駅東通り線(仮称)、幅員十二メートルの平沢川島線(仮称)が計画されております。
 この計画が完成されるまでには、いろいろな障害もあることでしょう。しかし、町の玄関として今後、計画的に発展させなければならない地区であり、組合事業の円滑な推進が望まれます。
     『嵐山町報道』1982年(昭和57)10月30日

   嵐山町が生まれ変わる
     62年3月完成予定 駅東側開発に着手
 比企郡嵐山町に駅東土地区画整理組合(関根昭二理事長)が発足、同事業に着手した。
 東武東上線武蔵嵐山駅東側の地域は住宅開発などで市街化の傾向にある。そのため、駅東の駅前広場を中心に宅地の造成、環境整備をするもので六十二年(1987)三月に完成の予定だ。
 同事業の計画地区は武蔵嵐山駅東側に隣接した面積三十一・四ヘクタール。北側にチサン団地が隣接、西が県道菅谷・寄居線、東が県道深谷・嵐山線に囲まれている。特に隣接するチサン団地の影響を受け、市街化の傾向にあり、人口も増えている。同区画整理は四十年代から検討されていた。
 総事業費は、十七億三千五百万円。二千五百平方メートルの駅前広場、幅十五メートルの(仮称)駅東通り線、同十二メートルの(同)平沢、川島線の都市計画道路のほか、二千平方メートルの(同)地区センター、四カ所の児童公園などが整備される。
 同事業は六十一年度(1986)までの五カ年事業。近い将来、環境が整った“新しい町”に生まれ変わる。
     『埼玉新聞』1983年(昭和58)1月5日

   嵐山の駅東土地事業近く測量へ 武蔵嵐山駅
 東武東上線武蔵嵐山駅東側に新しい町づくりを図る比企郡嵐山町「駅東土地区画整理事業」(同整理組合、関根昭二理事長)が近く、測量に着手、五十八年度から着工する。同駅東側は西側の市街化に比べ、ほとんどが未開発で、区画整理事業は十年来の懸案。
 対象となるのは三一・四ヘクタール。地権者は四百二十人。計画によると、総事業費十七億三千五百万円で駅前広場や幅十五メートルの液通り線や十二メートルの都市計画道路のほか四カ所に公園も配置。将来は八百世帯、三千人の新しい町になる。
 関根理事長は「完成は一応、五年をメドにしている。しかし、地権者のうち二割は事業に賛成していないので、ねばり強く協力を求め、同じ東上線沿線の区画整理地区を視察するなどして、事業の完成を期したい」と語っている。
     『毎日新聞』1983年(昭和58)1月7日


文人町長・関根茂章氏

2008-12-16 11:16:00 | 千手堂

1925年(大正14)9月8日、菅谷村千手堂に生まれる。2008年(平成20)11月11日永眠。行年八十四歳。熊谷農学校・三重高等農林・九州帝国大学農学部卒業。1952年(昭和27)第一回日本農村青壮年米国派遣により半年間、アメリカで農業研修(http://blog.goo.ne.jp/rekisibukai/e/a896b4528591e09c728ecdaa1625964b)。1964年(昭和39)菅谷村長当選。1967年(昭和42)町制施行され、1984年9月まで、連続五期嵐山町長http://blog.livedoor.jp/rekisibukai/archives/636622.html。1985年(昭和60)から八年間、埼玉県教育委員・委員長を歴任。1994年(平成6)から2001年(平成13)まで財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館所長。

  どこの郷村にも、有名無名の先覚者がいる。いつの時代も、必ず誰かが、人々の幸せを祈り、その実現に努力してきた。人々は、その徳を頌(たた)え、あるいは口伝し、あるいは一書をなして石に刻す。しかし、それらは一世代三十年もすると、大抵は忘れ去られ、碑は憮然と屹立(きつりつ)している感がある。
  真の郷土の振興は、先人の遺風・業績を、
新たに掘り起こすことから始まる。過去を継承せずして、健全な未来の創造はあり得ない
                    関根茂章『師父列伝 わが内なる師父たち』(邑心文庫)より

  文人町長
 畠山重忠の故地・比企郡嵐山町の町長に現職の関根茂章(もしょう)氏(五四)が五選された。
 「初めて旧菅谷村長に当選したときから、文化的な田園都市構想をつくるというのが私のモットー。五期目の町政では、それをさらに推し進め、個性にあった町づくりで八〇年代に挑戦しなければ」と語る。
 これまでも、文化や教育を町政の基本にしてきた。その「結実」として自慢なのが、五十二年(1977)十一月開通した国道254バイパス沿いにできた国立婦人教育会館、県立歴史資料館、大妻女子大学嵐山女子高等学校、初めて同町を訪れた人は「田園地帯にこんな施設……」と驚く。
 同町千手堂農家の生まれ。九州大学で農業土木学を学び、故郷で農業を始めた。国からアメリカに派遣され、半年間、農業を研修したこともある。旧菅谷村教育委員長などを歴任して、昭和三十九年(1964)、同村長に初当選。選挙を体験したのはこのとき一度きりで、その後は今回を含め連続四期無投票当選である。
 学生のころから短歌をたしなむ。たとえば、五十一年(1976)、新自由クラブ発足にあたり
     政(まつり)ごと匡(ただ)さんものと愚直にも
          あかき没日(いりひ)を負ひて起ちたる
 「没日」は自民党の象徴のつもりだったという。万葉集と会津八一を好み、これまでにまとめた私家版の歌集が五冊。郷土研究や旅行記をつづり、小冊子にまとめたこともある。
 「四期やっても、まだやり残したものがたくさんある。下水道など生活環境基盤の整備もそれです」
 緑豊かな地の嵐山町にも、いま、宅地化の波は寄せ始めている。文人町長、腕の見せどころである。
     『朝日新聞』1980年(昭和55)9月3日


武蔵嵐山(むさしあらしやま)地名発祥の由来 1928年

2008-12-13 00:46:51 | 大蔵

   東にも『嵐山』あり 東京を離れて僅か一時間半の景勝
     東日本新名所(埼玉県)=四十三=
「武蔵嵐山」- 投書により始めて行って見て東京からわづか十里ほどの所に、こんな立派な景勝地があるかと驚かされた。単調な武蔵野に変化を与える秩父山脈、その大平野と山脈がかみ合った一角- 埼玉県比企郡菅谷村にいはゆる「武蔵嵐山」があるのである。省線池袋駅から東上線で約一時間半の行程だ。「武蔵嵐山」の名は今から三年前、本多静六博士が命名したもので、由来を聞くと- 『わしがあのけい谷の奥にある山寺の住職本多文教さんに案内されて始めてあの景勝を探ったのは山といはず、けい谷といはすべた一面に紅葉に彩られた秋だった。百余年を経た亭々たる松林、幾十尺の岩頭にはひ上る真紅のつた、白砂を洗ふ清い水、岩間に雪を吹く激流。実に京の嵐山の景そのまゝだったので思はずこれは武蔵嵐山だ!といったのがそのまゝこの地名となったもので兎も角関東平野にまれに見る景勝地たる事は疑ひありません』と折紙をつけてゐる。

               ◇

自動車で菅谷駅から約十分で槻川の釣橋に達する。この辺、白砂とこんぺきの流れのしまがはるか谷合ひの奥深くまで続いてゐる。四方を眺めると大平山のなだらかな尾根と墨絵の様な塩山の起伏する線とが相抱くやうに見える地点- そこが「武蔵嵐山」なのである。自動車は夏の日盛りにさへヒンヤリとする老松の森林帯をぬって上り道を行く。塩山の尾根の突端が直立した数十尺の大厳壁をなしてこんぺきの深淵がその下にたゝへられてゐる。

               ◇

月川のけい流は大平山の尾根の突角をU字型にめぐって塩山の根をかみ更に大平山の裾を洗ふてゐる。昼はあゆ、山魚の群が躍り、夜は河鹿が鳴くといふこのけい流を小舟でさかのぼり武蔵嵐山の裏手に出ると、その水辺から小倉山腹までやゝ開けた傾斜地に二十戸余りの小倉のがある。川筋のさゝやかなわら屋には大きな水車がコトンコトンと芝居の書割そのまゝの形で動いてゐる。

清流にさをさす船頭さんの話『小倉の衆は大昔戦で負けたさむれえがこの山奥へ逃げこんだんだってぇ話だ。何でもその時はお城がすっかり焼かれちまったんで、今でもこの付近の山は春になるとべた一面火の様なつゝじがさくんださうだ。何でもおらァ若え時分までは小倉の衆はよその村とてんで往来はしなかったもんだ。昔ッから余り貧乏はしねえっていふが今でもみんなしあはせにやってゐるだよ。』

               ◇

このあたりの、かうした絶勝は今でこそ世間から忘れられてゐる形だが、実は何百年も前から既に当時の豪族等に知られて幾多の英雄共がここに居を構へてゐたといふのだから驚く。この付近の木曽殿屋敷(木曽義仲の出生地)の八幡神社に伝はる古い縁起巻物を見ると、紀元千四百五十年以降のこの地の史実が記されてあり、「武蔵嵐山」の風光をも激賞してある。
その一節に『……勝地を看るに山ぜんたい滑らかに巨岩ががたり……東は上原の谷、西は小倉山……麓は月川のけい流めぐりたたへて満蔵のふちとなる。跳石飛石など奇怪なる盤石連りて四顧の勝景さながら神仙の霊境かと疑はる……』とあるが、あながち誇張的形容詞では無い。

               ◇

この付近一帯は到る所史跡にも富んでゐる。坂上田村麻呂が東征の途上この塩山に足を止めたといはれ、その南東に当時の陣営の地、将軍沢と刺止山がある。また将軍を慕ふ若い女性が将軍との別れを惜んだといふ不合ヶ原、不聞ヶ森、縁切橋……。などゝいふ所もある。また源為義の第二子帯刀義賢が甥の悪源太義平に殺されたのもここだ。大蔵堀の館跡には義賢のこけむした塔状の石碑がある。降って南北朝時代に新田義宗の奮戦した笛吹峠の古戦場も間近に見える。月川と都幾川合流点から数丁の下流槻川に沿うて畠山重忠の城跡もある。【写真、武蔵嵐山のあたり】

               『東京日々新聞』1930年(昭和5)8月15日
『鎌形八幡宮縁起』には、「勝地を相るに苔蘚滑に巌峨々たる険岨にして東ハ上原の谷西ハ小倉山南を小窪と云麓に月河の水流満蔵渕前後にはね石とひ岩なとヽて異なる盤石ならび列り観る人目を駭かせり昔時潮湧出しとて塩沢と云る湿地あり塩山の称号も是れ本ずける名也とそ山の半腹に奇しき■あり土俗呼て貉の京と称す爰を攀て杳に峯頭に騰れば比類なき四顧の佳景さながら神仙の霊境かと疑はる……」とある。


先賢顕彰会の結成 1979年

2008-12-08 23:49:35 | 大蔵

  生まれ在所で義仲供養 嵐山町
 鎌倉時代の武将、木曽義仲の慰霊祭が、二十日午前十時から比企郡嵐山町鎌形の曹洞宗班渓寺で行われた。義仲は、源義朝の弟【異母弟】義賢の子で、仁平三年(1152)に同町の鎌形館で生まれた。二歳のとき、義賢が義朝の長男悪源太義平に討たれたため、木曽の中原兼遠のもとへ送られたが、同町大蔵に義賢の墓、鎌形の班渓寺に母山吹姫の位牌、鎌形八幡神社には義仲が産湯を使ったと伝えられている「木曽義仲産湯清水」がある。
 こうした郷土に縁の深い武将であることから同町教委、郷土史愛好家が、町民に呼びかけて義仲の命日【寿永3年1月20日(1184年3月4日)】町民約七十人が参列、供養をしたあと国立婦人教育会館で県史編さん室長柳田敏司氏の「木曽義仲と武蔵武士」の講演を聞いて義仲をしのんだ。
     『読売新聞』1979年(昭和54)1月21日。為朝の長男→義朝の長男、中原兼達→中原兼遠、遺骨→位牌に訂正。

  武将重忠しのび慰霊祭 きょう嵐山町 「草燃える」登場にあやかる
 埼玉の「歴史のまち」を誇る比企郡嵐山町は、NHKの大河ドラマ「草燃える」に登場する郷土の武将、畠山重忠などの活躍をしのんで先月、「先賢顕彰会」を結成した。二十二日【元久2年6月22日(1205年7月10日)】は重忠の命日。同会や町が主催する「畠山重忠公慰霊祭」が行われる。
 鎌倉時代の武将、畠山重忠が、北条時政のそねみを受け、討たれたのは一二〇五年。重忠の館跡といわれる菅谷館跡は国指定史跡に指定され、昭和四年に建てられた重忠の立像がある。
 先賢顕彰会が結成されたのは先月二十六日。約二百五十人の会員が集まり、二十二日の重忠慰霊祭や、木曽義仲慰霊など五十四年度の事業計画を決めた。町観光協会も、町の補助金を受け、鉄製の重忠像(約二十グラム)をつくり「重忠ブーム」を盛り上げている。
 「郷土の先賢たちの霊をなぐさめ、歴史を探究するのは後世の人間のつとめ」と関根茂章会長。
 二十二日の重忠慰霊祭のあと午後二時から「草燃える」の原作者の永井路子さんを招き、婦人教育会館で「鎌倉時代の女たち」のテーマで講演会も行われる。
     『朝日新聞』1979年(昭和54)6月22日