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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

わたくしたちの村すがや 11 村のうつりかわり 1965年

2010-04-11 23:28:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

 (2)村のうつりかわり
 村のくいきができたのは、今から七〇〇年ぐらい前(鎌倉時代)(かまくらじだい)からだといわれております。人びとはおもに、のうぎょうでくらしをたてていました。そのあいだに、山林をかいこんして畑にしたり、ひくいところを田にしたり、沼(ぬま)や用水路(ようすいろ)をつくったりして、できるだけじぶんたちのせいかつが、ゆたかになるようにどりょくしてきたこととおもわれます。
 今から三〇〇年ぐらい前今の大字(おおあざ)(古里村、吉田村、越畑村、勝田村、杉山村、広野村、太郎丸村)ができました。
 明治十七年(めいじ)(1884)になって、七つの村が一つになって、七郷村(ななさとむら)ができました。そののち八十年ばかりたって、昭和三十年(1955)に菅谷村(すがやむら)とがっぺいし、今の菅谷村になりました。
○ 年ぴょうをみてどんなことがいつおこなわれたか、しらべてみましょう。
○ むかしのおまつりや、行事などについて、年をとった人にきいてみましょう。

   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 15頁


わたくしたちの村すがや 10 大むかしの郷土 1965年

2010-04-10 23:10:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

  三 村のうつりかわり
 (1)大むかしの郷土(きょうど)
 わたしたちのすんでいる郷土にいつごろから人びとがすんでいたか、また、そのころの人(ひと)びとのくらしかたや、近(ちか)くにある、こふん、についてかんがえてみましょう。
 これらのことをしらべることによって、郷土のおいたちが、だんだんわかってきます。郷土菅谷村(すがやむら)には、大むかしから人びとがすんでいました。
 現在(げんざい)の古里(ふるさと) 吉田(よしだ)には、今から千三百年ぐらい前に人びとがすんでいたと考えられます。また、これよりもっと前に、現在の広野(ひろの)の広正寺(こうしょうじ)ふきんに人びとがすんでいたとも考えられます。このようなことが、どうしてわかるのでしょうか、考えてみましょう。それには、このころにつかわれたと思(おも)われる、道具(どうぐ)とか、はにわとか、玉類などからそのころの年代(ねんだい)や、くらしかたがわかるのです。
○ 広野の広正寺の東の方から、このころにつかわれたと考えられる、石でつくられた道具が発掘(はっくつ)されました。石でつくられた道具をつかっていた時代を、石器時代(せっきじだい)といいます。年表(ねんぴょう)でしらべてみましょう。
○ 古里、吉田には、たくさんのこふんがあります。塚(つか)ともいっています。
大むかしの、おはかのことです。このこふんからは、はにわや、玉類などが発掘されました。はにわのつくられたころは、大和(やまと)、飛鳥時代(あすかじだい)といわれています。またこふん時代ともいいます。
年表でしらべてみましょう。
○ こふんは、大むかしにつくられたものです。今では、ほとんどこわれてしまいました。そのために、そのころの村のしくみや、文化を知らせるようなものは、のこっていません。
しかしいくつかのこふんは、むかしのままになっています。わたしたちはこのこふんを大切(たいせつ)にしましょう。
○ 石でつくられたどうぐは、物を切る時につかわれたと思われる、石ふです。
また、火をおこすときにつかわれたと思われる発火石です。
○ はにわは、土でつくられた人形です。
はにわ、石ふ、発火石は学校にあります。よくみましょう。

こふんの分布図(ぶんぷず)
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   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 12頁~14頁


わたくしたちの村すがや 9 人口みつど 1965年

2010-04-09 22:59:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

 (3)人口みつど
 こんどは人口みつどということについてかんがえてみましょう。
「一平方キロメートルの広さのところに、へいきんして、なん人すんでいるか」ということをかんがえるのが人口みつどです。
 わたしたちの村の人口みつどはなん人ぐらいなのでしょう。下のひょうをみてはなしあってみましょう。
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 人口みつどが多いのは人口みつどがたかいといい、すくないのは人口みつどがひくいといいます。日本のくには外こくとくらべて、人口みつどのたかいくにとしてしられています。人口みつどがたかいということは、せまいところに多くの人がすんでいるということです。わたしたちの村はどうでしょうか。はなしあってみなさい。

   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 11頁


わたくしたちの村すがや 8 人口のうつりかわり 1965年

2010-04-08 22:53:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

 (2)人口のうつりかわり
 つぎに、わたしたちの村の人口についてかんがえてみましょう。人口というのは、おとなもこどもも、そしてとしよりもあかんぼうも、わたしたちの村にすんでいる人ぜんぶの人ずうです。ことし(昭40)やくばでしらべた村の人口は、九八四五人です。
 人口はまい年すこしずつかわっていますが、長いあいだの、かわりかたのようすをみると、とくべつなできごとがあったときのほかは、すこしずつふえていくようです。
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 上のグラフは、およそ四〇年ぐらいまえからのわたしたちの村の人口のかわってきたようすをしるしたものです。
 村の人口がどのようにかわってきたかグラフをみながら、みんなではなしあってみるとよいでしょう。

   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 10頁


わたくしたちの村すがや 7 広さ 1965年

2010-04-07 22:48:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

  二、広さと人口
 (1)広さ
 わたしたちの村はどのくらい広いのでしょうか。やくばへ行って、かかりの人に、村の広さ(面積)をきいてみると、みんなで「三〇・〇二平方キロメートル」。あるということです。
 けれども、この広さのところには、山があり、田やはたけもあります。そのほか道になっているところも家のたっているところもあります。
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 上のグラフをみて、それらのとちが、どのくらいの広さになっているかくらべて、村のようすをかんがえてみましょう。

   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 9頁


わたくしたちの村すがや 6 土地のようす 1965年

2010-04-06 22:43:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

 (4)土地のようす
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 わたしたちの村は、山や畑などが、ひろがっているところがあります。田んぼのつづいているところもあります。
 学校からながめると、西の方に、おかや山がつづいていて、土地がいちだんと高くなっているようすがよくわかります。
 右の地ずを見ると、西の方に、ぐにゃぐにゃしたせんが、いりくんでいるところがあります。これは、等高せんといって土地の高さをあらわしています。
 こうした高い土地は、田んぼや畑のしごとをするにはふべんなので、おもに、山としてり用されています。
 また、南の方の都幾川にそったところや、市の川、粕川にそったところ、北の方の滑川にそったところに、田んぼがたくさんあって、おびのように、ほそ長くつづいています。
 北の方の山の間にも、田んぼがみられますが、土地も高いので、川から水をひくことはできません。それではどうしているのでしょうか。
 地ずを見ると、北の方には、たくさんのぬまがあります。このぬまの水をつかって、いねをそだてているのです。ですから、田んぼのいちばんかみには、たいがいぬまが見られます。
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   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 5頁、7頁~8頁


わたくしたちの村すがや 5 まわりの町や村 1965年

2010-04-05 23:53:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

 (3)まわりの町や村
 菅谷村のまわりには、どんな村や町がありますか。
 比企郡にはどんな村や町があるでしょう。
 比企郡は、埼玉県にはいります。埼玉県のまわりには、いろいろな都や県がとなりあっています。何という都や県があるか、地ずちょうでしらべてみましょう。

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   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 4頁、7頁


わたくしたちの村すがや 4 菅谷村の字 1965年

2010-04-04 23:51:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

 (2)菅谷村の字(あざ)
 あなたの家は、どのへんにありますか、何という字でしょう。お友だちの家もしらべてみましょう。
 菅谷村には、何という字がありますか、みんなでいくつでしょう。

   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 4頁


わたくしたちの村すがや 3 地ずをながめて 1965年

2010-04-03 23:49:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

  一、菅谷村(すがやむら)のあるばしょと土地のようす

 (1)地ずをながめて
 地ずを見ながら、村のあるばしょや、土地のようすを話し合いましょう。
 菅谷村は、比企郡(ひきぐん)のほぼまん中にあります。東から西までが、やく四キロメートルあります。南から北が、やく十二キロメートルある。ほそ長いかたちです。東や南の方には田んぼがたくさんあります。北や西の方には、山がたくさんあります。まん中へんは台地(だいち)で、畑(はたけ)がたくさんあります。こうつうもべんりで、工じょうやじゅうたく地にてきしています。
 川は、南の方を都幾川(ときがわ)がながれています。まんなかを市の川(いちのかわ)や粕川(かすがわ)が、東の方へながれています。北の方を、滑川(なめがわ)が東南へながれています。
 また、山の間には、やく一九〇のぬまがあります。これをもとにして、田んぼが、川ぎしにまでひろがっています。

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   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年) 3頁~4頁


わたくしたちの村すがや 2 もくじ 1965年

2010-04-02 23:01:00 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

   もくじ
一、菅谷村のあるばしょと土地のようす
 (1)地図をながめて
 (2)菅谷村の字
 (3)まわりの町や村
    地図
 (4)土地のようす

二、広さと人口
 (1)広さ
 (2)人口のうつりかわり
 (3)人口みつど

三、村のうつりかわり
 (1)大むかしの郷土
 (2)村のうつりかわり
 (3)村のしごとのうつりかわり
 (4)こうつうのうつりかわり

四、人びとのくらしとしごと
 (1)村の人びとのしごと
 (2)のうかのしごととくらし
 (3)のうかのくろうとたのしみ
 (4)のうぎょうきょうどうくみあい
 (5)つとめにかよう人びと
 (6)みせではたらく人びと

五、ほかの地いきとのむすびつき
 (1)道ろやてつ道、バス
 (2)人びとのいきき
 (3)品物のいきき
 (4)ゆうびんとでんわ

六、くらしと役場
 (1)役場のしくみやしごと
 (2)ぜい金
 (3)村でつかうお金
 (4)わたしたちの代表(ぎ会)

七、すみよい村
 (1)安全のくらし
 (2)学校とこうみんかん

八、のびゆく菅谷村

   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年)


わたくしたちの村すがや 1 はじめに 1965年

2010-04-01 23:06:06 | 『わたくしたちの村 すがや』(1965年)

   わたくしたちの村 すがや
             昭和40年(1965)年8月
             菅谷村立七郷小学校

   はじめにみなさんへ
 だれでも自分の村について、色々なことを知るのは大じなことであります。そのために、この頃このような「郷土読本」をつかう学校が多くなりました。
 この本は、本校の先生方が力を合わせて出来たもので、皆さんが社会科を学ぶ上に、大へん役立つことと思います。しっかり勉強して下さい。村の人たちもきっとよろこんでくれるでしょう。
 菅谷村も年々はってんして、ようすもだんだん変ってくるでしょう。その時は、またなかみをあらためて、もっと良い本にしたいものです。
  昭和四十年(1965)八月
            七郷小学校長 藤野秀谷

   菅谷村立七郷小学校『わたくしたちの村 すがや』(1965年)