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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

重忠祭始まる 大正末

2008-10-07 10:28:37 | 菅谷

  重忠祭始まる
 山岸【山岸徳太郎】氏は重忠霊祠を整えたり、菅谷館跡の絵葉書所を作成して、館跡の整備に力を注いだ。特に「重忠祭」を創設して、この祭典の主催者となり、重忠公の霊を弔うと共に、大衆に菅谷館跡と重忠公を紹介啓蒙したことは特筆すべきことである。
 重忠公の命日は六月二十二日であるが、農繁最盛期であるため、この日をさけ、春爛漫の四月二十二日を祭日と定めた。この日は花火が打ち上げられ、出店が立ちならび、芝居小屋がかかり、村は勿論、この地方での祭日としてにぎわいを極めたものであった。人々はこの日を待ちのぞみ、当日は春のうららかな陽ざしを浴びながら、一日楽しんだものであった。
 このお祭りは相当長期間続けられた。特に現存する重忠公像の建造された昭和四年(1929)から日支事変(1937)までの間が最もにぎわったのではないかと思はれる。
     関根茂章『菅谷館跡のこと』10頁~11頁

  重忠公慰霊祭
比企郡菅谷村大字菅谷村に日本武士の典型としてたたへられてゐる畠山重忠公の慰霊祭が当る二十二日館址跡で執行されるが最近、日本農士学校の生徒等が参列する等、重忠公の言動が髣髴(ほうふつ)とし躍如するかの如き感に打たれて、一層の荘厳味がある。当日は松山町には重忠講があって相当の賑(にぎわい)を呈することであらう。余興としては煙火、撃剣等があると。
     『埼玉日報』1934年(昭和9)4月15日


比企地方の干害 1933年

2008-10-07 05:14:35 | 比企地方

  雨!雨!!雨!!! 降雨がなければ飲料水に困る始末だ
今にも雨が降りそうな天候でなかなかに雨が降らない比企郡下では、そこにもここにも水騒動が勃発して、非常時辞句語が適用されてゐる。それのみではない。この頃ではこの暑さをひかへて、そそぎ洗濯の水にも困り。浴槽の水にも事をかき、所によっては飲み水にさえ差支へ困りぬいている所さへある。雨乞ひに霊験あらたかと云はれる宮前村の龍や東吉見の龍の額■が持ち出されての信心振りである。そて許りでなく、茲十日以内に植付けをしなければ稲がとれないと農民は困り抜いてゐる。そんな事にでもなれば農民は予期しない春繭の相場にホット一意気も忽ち悲観と変って農民の興味である金はなくとも米はあると云ふことに脅威を感じてゐる。誠に困ったことだ。この稿が発行される頃は記事が腐ってゐなければ話よりひどい事となるであらう。
     『埼玉日報』1933年(昭和8)7月9日

   熊谷上ノ区 大雷神社大祭【上之村神社(かみのむらじんじゃ)の摂社雷電神社】
来る廿七、八の両日は熊谷市上ノ区郷社大雷神社の大祭に相当し本年も例に依って執行されるが本年は旱魃の為め参拝者多数にのぼり雑踏をよそうされるので地元青年団では無料自転車預り所を設けて参拝者の便を図る外、寄居自動車会社に於ては熊谷駅より臨時数回の運転を行ふ筈なので一層の賑ひを呈するであらうと云はれる。

   植付不能の水田 降雨の為め削減 郡下を通じて約百町歩
比企郡下に於ける植付け不能水田もその後二十七、三十日の両日に亘(わた)っての降雨のため大に減少し、末日現在に於いて不能水田は約百町歩にして該不能水田には蔬菜類及び蕎麦の類を播種することになった。植付け不能町村及び反別は
  松山町 五町   宮前  十町
  唐子  五町   菅谷  十五町
  七郷  十三町  八和田 七町
  竹沢  十町   大河  二町
  平   二町   明覚  二町
  玉川  四町   亀井  三町
  高坂  三町   野本  五町  以上
     『埼玉日報』1933年(昭和8)8月6日

   政府米払下げ 比企郡下申込数 一万五千俵戸数八千戸
比企郡下に於て干害による政府米払下げ申込数は二十日を以って〆切ったが総数一万四千六百十八俵で申出戸数七千九百四十三戸に達し内訳左の通りである。
  松山   九一七俵   四八〇戸
  福田   三七〇    二二二
  宮前   六六一    三四六
  唐子   八六一    四五五
  菅谷   九四九    五〇八
  七郷   七八四    四二四
  八和田  七〇五    四二二
  小川   八〇九    四五二
  大河  一三三三    七三一
  竹沢   三八五    二三一
  平    一九五    一一四
  明覚   三六四    二〇九
  玉川   六三六    三六一
  亀井   一六〇     九一
  今宿   五三三    二九五
  高坂   三〇〇    一九一
  野本   八六八    四五五
  出丸   六四〇    三二一
  東吉見  六三五    三二三
  南吉見  六七四    三五二
  西吉見  九三四    五〇二
  北吉見  九〇五    四五九
以上で、大岡、中山、伊草、三保谷、八ツ保の五ヶ村には払下げ希望者なし。
     『埼玉日報』1933年(昭和8)8月27日

   比企郡免租田 第一回申請総反別 七百七十七町歩余
近年にない干害を蒙り植付け不能の水田郡下を通じて百町歩を越え、本月に入りて植付けを了せし水田も約五百町歩に達するので川越税務署では十九日地租免除申請に対し郡農会と協議査定の結果、本月に入りて植付けを了せると不能水田に対し免除することに決し、他は今秋収穫期に実地検証の上に於て適当の方法を講ずることにしたが各町村別に示せば、
松山十一町五反、大岡四町八反、福田八町、宮前五三町、唐子一八町、菅谷五〇町、七郷三〇町、八和田四〇町、小川四町、竹沢二二町九反、大河六反、明覚一〇町、玉川一五町、亀井三〇町、今宿一〇町、高坂一〇町、野本五〇町、中山三町、出丸三反、小見野二〇〇町、東吉見三町五反、南吉見一六〇町、西吉見四三町
以上で総計七百七十七町六反で小見野の二百町、南吉見の百六十町を筆頭とし北吉見、伊草、三保谷、八保、平の五ヶ村は最初の免租はない訳だ。
     『埼玉日報』1933年(昭和8)8月27日


男衾村今市の大火  1934年1月

2008-10-07 05:05:37 | 男衾地区

  男衾の大火に町よりの見舞金
廿四日大里郡男衾村(おぶすまむら)にありし火災は農村としては近来にない大災害にして大字今市(いまいち)中央部は殆ど焼き尽くした惨状にして、只さへ悲境のドン底にある農村をして再び立つは何時かとまで思はしむる程度にあり、一度現場を見たものの目ををほふにも余りあり。
小川町では二十五日の町会に早速金壹百円を支出してこれを見舞ふこととなし、金子代理助役は同村出身の町議小菅英作氏とともに二十六日同村長を訪ねて手交した。
     『武蔵野月報』1934年(昭和9)2月1日