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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

七郷駐在所に自転車を寄付

2008-06-14 13:31:23 | 越畑

 市川貢家に、七郷村の駐在に村民有志が自転車を寄付した時の収支決算の報告文書が保存されている。日付けは、1925年(大正14)9月20日である。これは七郷村村長初雁鳴彦と村の駐在巡査板橋好雄が連名で、寄付者個々に収支決算を報告したときのもので、市川藤三郎宛になっている。
 収支決算の内訳を見ると、初雁鳴彦を筆頭に13人が金10円づつ、8人が金5円づつで、合計170円を寄付金として集め、その他にそれまで使っていた古自転車を25円で売却して、それを合わせて合計195円を資金として、新しい自転車1台(160円)と雨具(14円)を購入して、駐在に寄付している。差引残金21円は修繕費として村長が保管すると記されている。
 当時の嵐山地域は七郷村と菅谷村に分かれていたが、自転車の普及状況を見ると菅谷村の場合は、自転車保有台数が1909年(明治42)に11台、翌1910年(明治43)に14台(以上『嵐山町史』年表)、1914年(大正3)に46台(大塚基氏家文書)、1925年(大正14)には441台(菅谷村役場文書)になっている。増え方を見ると、1914年のときの菅谷村の全戸数が611戸であるから7.5%の保有率であったが、25年の戸数は690戸なので64%の保有率になっている。大正時代の中頃から急速に台数が増えていることがわかる。
 七郷村の場合は自転車の保有台数ははっきりしないが、菅谷村でこれだけ普及してきたことを見ると七郷村でも普及してきたと思われる。七郷村で村の駐在に自転車を寄付したのは先の収支決算文の日付けで述べたように、1925年(大正14)のことである。そして自転車寄付の収支報告文書に、古い自転車を売ったことが記されているので、駐在所にはすでに何年か前から自転車があって利用していたと思われる。村の中で自転車を持つ家が増え、その便利さが理解されるようになった状況の中で、村の駐在に自転車を寄付するということになったものとであろうか。
 当時は民主的改革を求める雰囲気が社会に広がって大正デモクラシー時代といわれるが、その中で民衆の社会運動が活発に展開されたことが注目される。第一次世界大戦後の一時的な好景気が終わると、1920年(大正9)には全国的に農村を不景気の波が襲ってきた。埼玉県では同年の小作争議は9件、翌21年には74件と急激に増加した。小作争議の発生場所は、おもに県東部の穀倉地帯が中心であったが、小作争議の波は県内各地に広がっていった。比企郡でも激しくはないけれども小作争議が各村で起こっている。
 七郷村では1921年(大正10)に古里と吉田で収穫の5割以上を地主に小作料として収めなければならない苦しさから、小作人がそれぞれ団結して立ち上がり、古里では小作料の1割5分引、吉田では1割引を地主に要求し、古里は7分引き、吉田は五分引で妥結している。村の駐在に自転車を寄付した人たちがいる反面、小作争議に立ち上がらざるを得ない人たちが多数いたのが、当時の村の状況であった。
 参考までに、自転車一台の値段は教員の一月分の給与程度はしたという。まだ高価なものであった。そして、越畑の市川藤三郎の1926年(大正15)の納税領収書によると、県税雑種の自転車税が年8円であった。
   資料 大正時代の自転車の写真
      市川藤三郎の納税領収証


七郷の学校統合問題

2008-06-14 13:15:21 | 七郷地区

 嵐山町北部の七か村は1884年(明治17)越畑村連合となった。この当時、連合内には、杉山学校(1873年創立)と吉田学校(1879年創立)の二つの小学校があったが、1886年(明治19)、二校は統合されて大字越畑に昇進学校が設立された。1889年(明治22)には町村制が施行され、越畑村連合の各村は、広野村川島が菅谷村に合併した外は、合併して七郷村となり、昇進学校は七郷尋常小学校と改称された。
 1894年(明治27)、七郷村では、新たに学区制を設け、村内に二つの小学校を置くことになった。大字古里・吉田・越畑及び勝田・広野の一部を通学区とする第一七郷小学校と、大字杉山・太郎丸及び勝田・広野の一部を通学区とする第二七郷小学校である。
 しかし、九年後に事件は起った。1903年(明治36)10月12日に学区廃止調査委員会が、従来の学区を廃止、七郷村中央に一校を新築し高等科を併設する事を決議、これは10月18日の村議会において満場一致で可決された。ところが、思わぬ所から横槍が入った。12月10日、比企郡長山田奈津次郎が七郷村へ来村、小学校の統合に反対し、第二小学校の存続を強く支持したと思われる。12月20日、村会議長から郡長に対し、「お考えには応ぜられぬ」と答申、村会と郡長の間に於て意見が相違し村会議決事項の施行が困難となった。村会議員十一名は連署して辞職届を村長に提出、久保三源次村長もまた「去ル十月十八日ノ決議ノ件ニ対シ責任ヲ重ジ、茲(ここ)ニ辞職候也」と辞職届を郡長宛提出、さらに第一小学校学務委員三名も辞職届を出した。こうして学校統合問題のもつれは村長、村会議員などの退陣へと進展し、この問題は一時中断することになる。
 翌1904年(明治37)12月20日、村長久保三源次は埼玉県知事に陳情書を提出した。その中で、第一小と第二小の二校の存続は、村を二分することになり、村民の円満を欠く状態となること、経済上からも二校を維持してゆくために村民に多くの経済負担を強いていることを挙げ、更に統合によって、高等科を併置し学校教育の基礎を確定することが出来ると主張した。そして第二学区住民の中に統合に同意しない者がいることを理由として、その実施を躊躇(ちゅうちょ)している郡長に対して、「県知事閣下より適切な御指示をお願いします」と切々と現状打開を陳情した。
 その後、五年の歳月を経て、1909年(明治42)第一・第二の学区は廃止され、七郷尋常高等小学校が現在の七郷小学校の校地に誕生したのである。思うに広域の学校の統廃合には、想像を絶する軋轢があるものだろう。
    博物誌だより85(嵐山町『広報』2001年8月号掲載)より作成


百年前の年賀ハガキ

2008-06-14 09:25:00 | 越畑

 今年も大変年賀郵便が輻輳しましたが、ここに示した一枚の写真は今から百年程前、1893年(明治26)、小石川(東京)の宮島栄三郎から越畑(七郷)の市川常吉に宛てた「郵便はがき」による年賀状です。この市川家には明治期の「郵便はがき」が千百余枚保存されていますが、その中で最も古い年賀の郵便はがきです。

 葉書の文面は御定まりの「謹賀新年」の賀詞に続いて「大廈(家)将来の万祥を祈り併平素を疎濶謝す」と挨拶文を添えていますが、それだけではなく次に「明治廿六年略歴」として、黒地に白抜きで新暦による祝日・日曜・雑節等を表記し、それに並べて「仝年旧暦」として、八将神の吉凶・庚申の日・甲子の日・八専・種まきの日等々まで印刷されています。1872年(明治5)太陽暦(新暦)が採用されますが、なかなか定着せず、明治二十年代になってもその励行遵守が促されていた状況を考えると、新暦もよいが旧暦も捨てがたいという気持がよく現れた面白い意匠となっています。なお、活字印刷による葉書も見られる頃ですが、これは旧来の印刷術である木版で作られたもので、今日に残る貴重な一枚の年賀葉書でしょう。

 官製「郵便はがき」は郵便制度が創設された1871(明治4)の翌々年、1873年(明治6)12月に発行されたのが始まりです。これが年賀状として利用されるようになったのは1879年(明治12)頃からで、1890年(明治23)の1月1日から三日間は賀状が急増したとつたえられています。こんな気運に乗ってこの地域にも「郵便はがき」の年賀状が現れたのでしょう。その混雑の緩和のため1899年(明治32)、年賀郵便の特別取扱制が実施されるようになりました。暮れの十二月二十日から三十日までに出された年賀郵便は元旦に配達されることとなつたのです。

 ところが日露戦争が始まった1904年(明治37)には、七郷村長久保三源次の名において、「戦地ニ在ル軍人軍属其他従軍者ニ宛テ発送スル年末年始ノ賀状ヲ廃止スベキ事」という回章が出されました。文中「其筋ヨリ」としていますから全国的にこの措置はとられたのでしょう。また1940年(昭和15)から1947年(昭和22)までは戦争のため年賀の特別取扱いが中止されるという躓(つまず)きもありましたが、1949年(昭和24)「お年玉付年賀はがき」が売り出され、今日まで国民的行事として毎年々々盛況の中に郵便はがきによる年賀状の交換が行われてきたと言えるでしょう。

     博物誌だより126 (嵐山町広報2005年1月号)から作成


吉田宗心寺の住職交替騒動

2008-06-02 14:47:00 | 吉田

 寺の住職が替わる時は住職が老齢になって隠居する場合、死去した場合、他寺へ転住する場合等が考えられる。その場合後住を推薦するか、総檀中・村役人と相談して人を選び本山へ願い出でるか、或いは本山から適任者が派遣されて来るという形をとることが多い。しかしこうした在り来たりの交替相続でないものが出来(しゅったい)した。

 吉田にある三休山宗心寺は旗本1200石折井家の菩提寺であり由緒正しい寺であるが、1818年(文化15)住職寿山の退任に当たって一つの騒動が起こった。

 寿山は先住周山の弟子で、1806年(文化3)以来、宗心寺住職を勤めて来たが1818年(文化15)2月病をえて、役務も勤めかねる様になり隠居を決意、その後住を探すことになつた。先ず、原島村(大里)福王寺の見宗和尚に頼んだが断わられ、次いで玉川村(比企)松月寺の階天和尚にも断わられ、仕方なく法類(同宗同派の親しい関係にある寺)中に相談したが、いずれも辞退されてしまった。その理由は「大借故」としているが、師僧周山の言によれば「住職中身持不埒ニ付無油断再応教諭致し候得共一向不取用講堂為及大破其上多分大借致し住職難相成」という次第で、借財だけでなく品行が悪く、講堂も大破した荒れ寺というのでは、後を引き受ける者がないのも当然であった。万策尽きて隣寺の組合に世話して貰う様頼み込んだところ、相談の上全員一致で師匠である周山に再住を願うことになった。周山も弟子の所業の後始末と思い多分の借財覚悟のうえで再住を覚悟した。一方寿山は隠免(隠居した際生活費として持ってゆく田地)手当として存命中拾両を下賜されることになった。

 退任しても拾両という大金を一生貰えるという。寺としては極めて寛大な処遇をしたのだが、事はこれだけでは済まなかった。再住した周山は1819年(文政2)10月寺社奉行所へ寿山の「久離(きゅうり)」を願い出た。久離というのは親子兄弟の縁をきって債務責任を免れるようにする行為であるが、この場合寺院師弟との関係を断っことであった。寿山は退任後僧家として不似合いの行跡が多く、その上益々不法の事を計画し法類方へ種々難題を申し掛ける始末で、とてもこれから先僧業を全うすることは出来ないと判断して久離を願い出たのである。なお又、周山自身も老衰に及び隠居しようと後席の依頼をしても寿山から難題を持ち掛けられたり、後難を恐れて「後住之仁無」という状況であることを訴え寿山との関係を断つことを願った。これに関しては宗心寺本山加田の慶徳寺住職実宗も寿山の不行跡を認め添簡(添書のこと)を差し出している。

 1820年(文政3)周山は雉賢和尚に後席を譲り隠居したが、1827年(文政10)雉賢は病死、遺言により隠居周山に後事を委任、文中後席に玉川村の竜福寺劫外が推挙されていたので、周山は檀中総代方々の納得を得て劫外和尚を17代住職とした。

 その3年後1830年(文政13)3月、14世周山の荼毘式(火葬による葬式)が行われた。周山は1806年(文化3)から1830年(文政13)までの間に宗心寺にあって自ら二度までも住職を勤め、雉賢・劫外の住職交替にも力を尽くした。宗心寺としては忘れがたい人物というべきだろう。

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 資料

   宗心寺文書56 文化十五年二月「議定証文之事」

    々 ? ? ?57 ?文政二年十月「乍恐以書付奉願上候」

    々   58   々   「 々 」

    々   61 ? 々     「差上申添簡之事」

    々   62 文政三年四月「隠免書付」

   々   87 文政十三年三月「十四世和尚荼毘式諸入用控」