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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

古老にきく 菅谷:笠原伝吉氏・根岸宇平氏

2008-07-13 16:02:00 | 菅谷

  明治初年の菅谷

 1870年(明治3)4月、名主伊左衛門から韮山県役所宛差出した「武蔵国比企郡菅谷村戸籍」(根岸豊氏寄贈文書)によると、菅谷村世帯数は39、人口は、男95、女98、計193名となっている。伊左衛門さんは1866年(慶応2)10月から名主として村を支配し、1900年(明治33)には33才の青年村長であった。関根ちよさんの祖である。

 この戸籍に記載された人々が古い菅谷の住人である

 現在のどこの家々の祖であるか、不明のものもあるが、根岸宇平氏の記憶と今回の調査により、次の程度まで判明した。百姓のこととて苗字がないし年令も60才以上のものが多いので当主との関係を探るのに苦心した。次のとおりである(敬称略)。

 名主 伊左衛門  33 農業       関根ちよ

 組頭 与兵衛   83 農間穀商売    根岸忠与

 同  一郎左衛門 56 農業       関根かめ

 同  柳七    60 農業       根岸宇平

 百姓 五右衛門  51 農業       木村智昭

    平右衛門  66 農業       根岸幸作

    政左衛門  68 農業       根岸義次

    文左衛門  66 農間木挽職    中島源之

    長左衛門  70 農業

    甚兵衛   43 農業       根岸秋夫

    孫右衛門  65 農業倅農間大工職 関根昭二

    簑助    50 農業       松浦亀之助

    平兵衛   51 農間旅籠屋    中島元次郎

    久右衛門  49 農業       根岸巷作

    善兵衛   46 農間旅籠屋渡世  奥野近蔵

    与治右衛門 70 農間大工職    米山宗吉

    庄九郎   53 農業       中島正男

    平六    73 農業       関根勘造

    与八    64 農業       山岸松次

    栄蔵    68 農業

    八助    60 農業       田島実造

    弥十郎   33 農間鋳懸渡世   中島仙太郎

    留造    20 農業       山岸一利

    徳太郎   74 農業       根岸善吉

    歌次郎   36 農業       中島宣顕

    和吉    41 農業       中島勝哉

    倉吉    74 農間旅籠屋渡世  根岸治三郎

    さよ    11 農業       関根常次郎

    喜兵衛   63 農業       (米山?)

    栄蔵    61 農業

    初太郎   55 農間旅籠屋渡世  関根長倭

    六兵衛   42 農業       中島六郎

    十右衛門  25 農業       中島光太郎

    福次郎   25 農間大工職    中島喜市郎

    要七    75 農業       笠原伝吉

    丈右衛門  56 農業       高野孝吉

    角左衛門  65 農間桶屋渡世   米山忠夫

    九兵衛   60 農間木挽職    木村朝光

    たよ    52 農業

 以上の39軒が、今の県道をはさんで、上から下に点在した。これが幕末から明治初年の菅谷の姿である。

 1870年(明治3)に、田が3町3反2畝、畑が57町2反9畝、山が14町7反9畝、馬が18頭と記載されてあり大部分の住人が農業を経営して生計を立てたが、交通の発達しない自給自足時代であったから、現在の屋号や呼び名が示すように、商業・工業の兼業も行なわれていた。

 笠原伝吉さんは、1891年(明治24)生れである。笠原さんの子供の頃、最も古い記憶から、菅谷の街の姿を、思い出して貰った。10才の頃として、1901年・1902年(明治34・35)頃の菅谷の家並みである。戸数は46で、1970年(明治3)以来殆んど変っていない。これを図に画いて見た。目を開いて、今の菅谷を眺め、眼を閉じて、この図面を頼りに、昔の菅谷を想像するとうたた今昔の感にたえぬものがある。笠原さんの語る家々は次のとおりである。

 旧役場の隣、松田文造さんと区長の根岸寅次さんの家があったが、その当時の住人は他に移って今はない。

 菅谷の番地は家の順につけられその一番が木村智昭氏の家であったが、岡村定吉氏の家もその頃すでに存在していた。

 当時の家を上から順にあげる。

(注=数字は図の番号。カッコ内は屋号・通称。敬称略)

  1  岡村定吉  (鍛冶屋)

  2  木村智昭  (横町)

  3  中島源次  (角屋)

   (この隣、今の島本薬局の辺に隠居家があった)

  4  関根ちよ  (本家)

  5  木村朝光  (山のうち)

  6  根岸宇平  (本家)

  7  根岸忠与  (穀屋)

  8  高野孝吉

  9  笠原伝吉

 10  中島光太郎

 11  中島六郎  (油屋)

 12  中島喜市郎

 13  関根長倭  (小島屋)

 14  米山仙造

 15  米山忠男  (桶屋様)

 16  根岸冶三郎 (川越屋)

 17  関根常次郎

 18  根岸善吉  (現在岡松屋の場所)

 19  中島宜顕  (当時卯之吉・菓子屋)

 20  中島勝哉  (中島屋)

 21  中島高次  (隠居)

 22  沼 作松  (沼田屋)

 23  山岸一利  (隠居)

 24  田島実造  (屋根屋)

 25  中島綱吉  (桶屋)

 26  山岸松次  (虎屋)

 27  関根由平  (小川屋)

 28  山野周吉  (現在根岸友次郎の場所)

 29  米山永助  (炭屋)

 30  キリヤ   (現在福島秀雄の場所)

 31  関根 勘造

 32  中島正男  (中宿)

 33  関根かめ  (一郎さん)

 34  米山宗吉  (大工)

 35  中島長太郎 (鋳掛屋)

 36  中島仙太郎 (中屋)

 37  奥野近蔵  (豆腐屋)

 38  根岸巷作

 39  中島元次郎 (紺屋)

 40  関根昭二  (樫の木)

 41  関根子之助 (新宅)

 42  松浦亀之助

 43  根岸秋夫  (きし屋)

 44  根岸義次  (下駄屋)

 45  山岸宝作  (よろづ屋)

 46  根岸幸作  (大かさ)

 小林博治さんの原稿(『菅谷村報道』140号、1963年1月掲載)を、田幡憲一さんの再調査(1998年)により一部改定。


東日本新名勝地・嵐山小唄(大塚梧堂先生閲)

2008-07-11 21:39:00 | 千手堂

一、此所はよい処武藏の国の

       風も涼しい遊び場所

           郷(さと)は名に負ふ嵐山   ギッチラホイ

二、裾の槻川流れも清く

       映(う)つる龍宮(りゅうぐう)松月樓(しょうげつろう)

           淵(ふち)は小鮎(あゆ)の踊(おど)る場所

   ギッチラホイ  

三、前の小山は松原広く

       苔(こけ)の岩間に湧(わ)く清水

           汲(く)めば涼(すず)しさ身に沁(しみ)る

   ギッチラホイ  

四、武士の典型(てんけい)重忠公の

       城(しろ)の跡(あと)見りゃつヾいた丘(おか)に

           農士学校聳(そび)え立つ   ギッチラホイ

五、少しへだてた道験(どうげん)山は

       雲を突(つ)く様な岩の崖(がけ)

           下は岩うつ瀧の音   ギッチラホイ

六、ボートひき出て蚕影の淵(ふち)へ

       行けばけわしき岩の崖(がけ)

           上ぢゃ社の鈴の音   ギッチラホイ

七、しもへくだりて落合あたり

       ひるも小暗(おぐら)き森つヾき

           川にのりでヽ水鏡(みずかがみ)   ギッチラホイ

八、共に手をとり大平山へ

       登りゃ関東が一目にて

           四季の景色の良い処   ギッチラホイ

九、朝日将軍木曽義仲の

       産湯(うぶゆ)清水で名の高い

           郷社鎌形八幡宮   ギッチラホイ

十、湯治(とうじ)しながら河鹿(かじか)をききに

       行かうか遠山湯の宿に

           秋は小倉に照る紅葉   ギッチラホイ

十一、都はなれて三十哩

       走る電車は一時間

           その日帰りに丁度よい   ギッチラホイ

   番外・四季の唄

 梅の林に香(かお)りを慕(した)ひ

     今朝も来て鳴く人来鳥(ひとくどり)

         山家育(やまがそだ)ちと見えぬ聲(こえ)

   畑にゃ菜の花野辺には菫(すみれ)

     狂ふ蝶々(ちょうちょ)のたはむれは

         人も及ばぬ睦(むつ)まじさ

 桜咲く日は物皆浮かれ

     山に小鳥のジャズを聞き

         川に雑魚のレビュー見る

   お客こひして居ながらそれと

     口に岩間(いわま)の山つヾじ

         もゆる思ひの色に咲く

 夏の夕(ゆうべ)は蛙(かわず)の歌に

     いつかとヾまる人の足

         空は蛍の帚星(ほうきぼし)

   暑(あつ)い真夏(まなつ)も木かげに休み

     きけば涼しい蝉(せみ)のこゑ

         ラヂヲきくよなよい気持

 秋は紅葉(もみじ)の錦を飾り

     山もお客を待つ風情(ふぜい)

         下の木の子も伸ばし首

   前の塩山小松の上に

     昇る円(まど)かの秋の月

        田毎よりかもよい眺(なが)め

 雪のふる日は枯木も花で

   松はゆかしき綿帽子(わたぼうし)

     岩に垂(た)れるは銀すだれ


関根惣三郎(菅谷・小島屋)の酒造業

2008-07-11 10:08:00 | 菅谷

 飲酒の歴史は人類の誕生と共にあったと言われている。酒は「御神酒(おみき)」と称されて祭祀に不可欠でもあったし、戯言に「お神酒あがらぬ神はない」等と言って、人間誰しもが酒を飲むことを当然とする生活習慣が蔓延していった。これに呼応するように鎌倉・室町期頃より酒を造る者も多く現れ、それらの中には巨利を得る者もあったので、室町幕府は酒屋役(酒壷銭・酒壷一固につきいくらというように課した税)を設けて税を課した。江戸期に入っても1697年(元禄10)、「酒運上金」と言い、1772年(安永元)、「酒造役」と称して酒に課税している。この様に早くから行政が課税の好対象とする程に酒造・酒販の利益率は高かったのであろう。維新直後も酒造人の取調べが早々おこなわれている。中爪村大惣代本多藤右衛門からの回達文によれば酒造人があれば名主同道で出頭するようにと触れている。新政府は課税好対象の酒造人を逸早く把握したかったからであろう。

 明治に入ってこの地方にも本格的な酒造業者が現れた。その一例が菅谷の関根惣三郎である。彼が比企横見郡長に提出した「所得金高届」によると1889年度(明治22)に「酒造業所得」164円78銭と届けられている。前出の所得金高届を1887年(明治20)から1899年(明治32)まで所得別一覧に作表したものが、次に示した「所得金高届一覧」である。この表によれば1888年(明治21)には酒造業所得は計上されていないので、1889年から操業されたものと考えられる。

●表:所得金高一覧表 ojimaya.pdf

 1891年(明治24)、惣三郎は名古屋の里見五郎兵衛から酒造に大切な水について新発明の秘伝を教わっている。一つは「防腐水ノ伝」(火止メノ法)と、もう一つは「割水ノ伝」(寿齢水)の二つである。「火止メノ法」はサリチールサン・ホウシャを沸騰した湯(極上の清水)に溶解させたものを防腐水として新酒に加えれば「一ト火モ入ルニ及ズ決テ腐敗スル愁ヘナシ」と言うのである。又、「割水ノ法」は紅花(こうか)・細辛(さいしん)・ナツメ・山梔子(くちなし)・唐辛子・粒コショウ等々約十一味の薬種を並酒一升五合に加えて一升に煮詰め、それに清水十五倍を加えて薬水を製する。この薬水は薬種の五味(ニガキ味・シブキ味・カラキ味・アマキ味・スキ味)を含でいるので、これを適宜原酒に加えることで甘口・辛口等微妙な酒の味の違いを醸成出来ると言うのである。かくして惣三郎は色々酒造研究の結果、銘酒「小錦」を世に出した。

小錦レッテル(樽用)

小錦レッテル(ビン用)

 所得金高一覧表によつて見ると1892年(明治25)以降の酒造業所得は前年(明治24)に比して飛躍的に高くなっている。また他の田畑貸付所得や料理旅館業の所得に比べても酒造所得の占める割合は高く、収益性の高い生業であった。しかしそれには多くの資本が投ぜられてもいた。1892年(明治25)の「酒造資本額調」によれば合計1028円30銭と報告されているが、この時期の千円は大金であった。明治初期一両は一円と考えていた。文化文政期(1804~1829)、一両の価値は米なら三俵(十二斗)分と推定され、三両もあれば大人一人一年位生活が出来たという。明治になっての物価の変動を考慮に入れたとしても、その額の巨大であったことが理解できる。

 この様にして順調に滑り出した酒造業ではあったが、1898年(明治31)4月類焼によって多大な損害を蒙ることになってしまった。1898年(明治31)の「酒類蔵出帳」の末尾に4月11日調査として検査員立合いの上「焼失石数147石5斗5升5合」と報告されている。この年の査定石数が186石2斗4升8合となっているので凡そ八割を失ったことになる。他に建屋・器材等も失ったことであろう。前出の「所得金高届一覧」によれば1898年(明治31)には酒造業所得が半減しており、翌99年(明治32)には全く計上されていない。酒造業を中断せざるを得なかったのであろう。いまや小島屋の銘酒「小錦」は幻の存在となってしまった。


古老に聞く 関根正作氏の青春 関根昭二

2008-07-10 08:00:00 | 菅谷

 これは古老に聞いた話である。然しこれは一人の人物の云はゞ多感なりし時代の自叙伝である。私がこの物語を聞いて日記に書き留めたのは昭和二十五年(1950)五月十日である。私は私の日記の一頁をそのまゝ此処に書き記した。古老はすでに此の世に居ない。その若き日を限りない夢と希望に燃えて明治の時代を颯爽と生きた人物はすでにこの世に居ない。   
 父は小川、母は川越へ行きしため、小生はまた留守居。午前中、小島屋さん(関根正作氏)が竹の子の代金を持って来たので、閑だったから洋行せんとした心境について聞いてみたところ半生の物語りを始めた。

  アメリカ渡航に失敗するの記
 小学校時代は常に二番の成績で、熊谷中学に入学、寄宿舎に入る。その当時とすれば中学生は滅多に居らず、吾は天下の秀才なりとうぬぼれ、二年生頃より遊び始め、三年の時、校長排斥運動をして退学。東京開成中学に転校。五年生の折、深川紅葉川女学校教員となり、英語、数学を教え、月給八円を支給さる。当時家より送られたる金と共に十分楽な生活をなせり。十ヶ月にして止める。卒業後、早稲田専門学校に入る。二年の折、友人鹿山、アメリカに行くことを勧む。家に帰りて父に相談せしに許さざりしも、一週間ばかりねばり、許可なくば家を飛び出すなどと伝えり。然れどもアメリカに行くには二百円の金必要なり。父、漸く許し、二百円は鹿山に直接送ることとせり。家を出るに際し父の金時計(二百円で買いしもの)を盗み、母よりは十四、五円もらい、故郷を去る。金時計は上野の質屋に百五十円で売却、旅行許可の手続きをも友人にしてもらう。時しも小川町の関根氏同道を請ふ。よって承諾を与え、七月の夏の日出航を決す。二人は横浜にて一流の旅館に投宿、明日の船を待てり。
 鹿山氏は別の船中で一緒に逢ふことにする。三十円出して背広を新調し、荷物は既に船に積み込めり。明日は祖国日本を離る。二度と此の地を踏むことも計られず、今宵最後の宴を挙ぐべし。二人は直ちに杯を挙げぬ。飲み且食いて一時頃、寝に就きぬ。目覚めて鹿山氏はどうしたかななど云いをるに女中来たり。「ずいぶんゆっくりですね」「なにを云うか。我には七時の船でアメリカヘ行くのだ」「あら、もう十時ですよ」二人は驚きぬ。確に時計は十時を過ぎること五分を示せり。あわてて船を見れど船はすでにあらず。二人は愕然とせり。荷物は船に積みたれば、荷物のみアメリカに行けるや。明日、直ちに行かんと思いしに、一ヶ月も経たざればアメリカ直行の船はあらずとのこと。二人はあきらめ荷物を送り帰すよう手続きをとり、横浜を去れり。されどのう中多額の金はあり。ふと思いしは県人会の開かれし折、なじみたる芸者のことなり。直ちに芸者屋に至り大いに遊ぶ。そのうち冬過ぎる頃、芸者屋におかみの作、小春なる女とむつまじくなれり。
 二人は楽しく遊ぶうち、金も次第に無くなり、小春は着物、指輪など売り払い、箱根、熱海と遊べり。物も売り払い、タンスは空となり、娘は叱られ、遂に二人は五月雨の降る日、七円の傘を買いて、新橋より十時の汽車にて大阪の友を訪ねて行けり。友人は大阪にて貨物荷扱の仕事をなしをれり。家を見つけてもらい、そこに落ち着き、彼の部下となりて働くうち、女は腹が痛いと云へり。たいしたことなかるべしと思い、おかゆを炊きて枕元に置き、勤めに出で、かくすること二・三日。一向に病状よくならず、金もなければ、医者に見せる心もとなし。我慢しろ、そのうちよくなると云い聞かせて居たるが、ある朝、非常に痛むので体をさすり居たるに、大分静かになりたれば「出かけるぞ」と云いて、体をゆすりしに少し変なり。死人を見たことなければ、死んだとは知らず、されど様子おかしければ、友人の家に至り、話をし、医者に見せることにする。医者来たりてみるに、これはもうとうに死せりと。驚けどすでに遅し。五円の死亡証明書をもらい、車を借り来て、友人と共に棺に入れて烏森に運べり。病名は腹膜炎なり。火葬となす。骨を拾いて瓶に入れ、大阪に居るも無益なりと思い、東京に帰り、母なる人に告ぐ。「まことに申訳なし」と手をついて謝れど、母なる人は怒り、「この貧乏書生」とののしられたれど、平に陳謝せり。五十円の葬式料を友人より借り受け、母なる人に渡し、円満に解決せり。
 さて学校はアメリカ行きのため退学し、何もなすことなし。
 父の知り人なる子爵の家に行きしに、山林管理の職に就かむことをすゝむ。その手続きをなし、職に就かむとせしに、田舎より父来たり、故郷に引き戻す。村に来たりては、一銭の金も与えられず、東昌寺に在りたる役場の書記生となり、二円ばかりの小遣銭をもらえり。されど東京恋しの情は止まるべくもなし。金なければ如何ともなし難し。そのうち嫁の世話ありたれど何れも気に喰わず。十九人の娘と見合いし、結局、最後の娘を妻として迎えぬ。それより家に落着き現在に至ると。

 彼は今日すでに七十才の老人となれり。昔を語ることかくの如し、
 余はこの話を聞き、その数奇なる運命に感激しぬ、何時の日かこれを材料となして一遍の小説を書かむと思へり。
     『菅谷村報道』145号(1963年7月25日)


明治の気骨と奔放さ 二つの旅館

2008-07-10 07:45:00 | 菅谷

 明治期の菅谷村(嵐山町)は、うら街道として、また、通行人の多かった鎌倉街道の宿場として栄えた。群馬県高崎を朝の五時に出立すると、菅谷に着くのが夕方、という地の利がものをいったらしい。当時の村の旅館は「小島屋」と「中島屋」の二軒。「小島屋」は、二階が宴会用の大広間のある立派な建物で、明治二十九年(1896)には、旅順攻略で国民的英雄となった乃木希典大将が宿泊したと伝えられている。
 小島屋を始めたのが関根武七で旅館のほかに酒造業もやり、もうけで次々と土地を買って、短期間に村一、二の地主になったというから働き者であり商売上手であった。この武七、また、なかなかの篤志家でもあった。菅谷小学校が完成したり、近隣の村で火災があるとポンと大金を寄付するというぐあい。地主総代などに選ばれるなど、村での人望は厚かった。
 この武七の孫で旅館の後継ぎだった正作が、渡米しようと決心したのは、明治三十四、五年(1901、1902)ごろ。この時正作は、東京専門学校(早稲田大学)の学生。目的ははっきりしないが、熊谷中学三年の時に校長排斥運動を起こして退学させられるなど、「壮士気質の人だった」=二男の関根●●(よしたか)さん(64)=。家業も継ぐ気にならず、外国で一旗あげようということだったらしい。
 反対する両親を説き伏せて、横浜からサンフランシスコまでの船のキップも買った。同行者は、東京専門学校の学生で友人だった小川町の関根鼎(かなえ)。出航前日、横浜の旅館に泊まった二人は、「二度と日本の地は踏めない」と、日本での最期の酒をくみ交わした。ところがこれが失敗。アメリカでの生活への不安と希望からか、飲み過ぎた二人が目を覚ましたのは午前十時過ぎ。船は三時間も前に、すでに出航していた。結局、アメリカに渡ったのは、出航前日に積み込んだ二人の荷物だけ。次の便は、一か月後とあって渡米はあきらめた。
 この渡米失敗談のてんまつを正作から聞かされたのが、現在町会議長の関根昭二さん(51)(菅谷92)で、「正作はこのあと渡米のため用意していた大金を、芸者遊びに使ったそうです。まったく自由奔放な青春だった」。村に戻ってからの正作は、小作争議の最中に、小作料を安くして評判になったり、他人の選挙に自腹を切って応援し、あげくのはては選挙違反で逮捕されるなど、青春時代と同じ自由奔放さで村人に愛された。正作は昭和二十九年(1954)五月、七十四歳で亡くなった。
 約百年間続いた「小島屋旅館」は、さる四十一年廃業。現在は、「金や暇もないから、正作みたいな生活はできませんヨ」と笑う孫の関根昌昭さん(37)が、旅館のあった場所で「小島屋」のガソリンスタンドを経営している。
 しかし、もう一方の明治期に繁昌した「中島屋旅館」の方は、町内の四軒の旅館の一つとして今も營業を続けている。県内では最古の部類だ。建物の一部は明治時代に建てたものだけに老朽化が激しい。女の細腕で切り盛りしている中島マサさん(65)は、“しにせ”の誇りを捨てていない。「若いアベックはお断り」と、明治の面影をかたくなに守り続けている。
 この二つの旅館の話は、自由奔放に生きた一人の男の古き良き時代を表す証でもある。

 メモ:正作の自由奔放な青春の最初が、熊谷中での校長排斥運動。ところが、騒ぎの発端などは伝わっていない。同校の校長排斥運動としては、大正十年(1921)の群馬・前橋中の校長を相手どったものがある。これは野球部の親善試合が発端で、学生の中の有志五十人が「糾正同盟」結成して血判署名までしたという。騒ぎの方は、熊谷中校長の仲介で無事おさまった。
 また同校で、正作のように退学を命じられた生徒は、創立の明治二十九年(1896)から十年の間に四十五人。異性交遊はもちろん、ケンカ、カンニングなども立派な退学理由となったというから、厳しい学生時代でもあった。
     「まちかど風土記91 鎌倉街道・嵐山」(『読売新聞』埼玉版1978年5月19日)