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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

菅谷村郷土誌45 旅客・旅館

2009-10-16 21:17:00 | 川島

   第三目 旅客及旅館
村ノ中央及南方ニ県支辨道アレ時、旅客ノ徃復ハ シカラズ
旅館ニハ菅谷ニ小島屋、中島屋、志賀*ニ川田屋アリ
  *大字川島は「志賀元広野」として大字志賀に編入されていた。

   『菅谷村郷土誌』 1912年(明治45)?


菅谷村郷土誌20 教育会、同窓会、青年会の沿革

2009-09-21 14:16:00 | 川島

  第五節 教育會、同窓會、青年會等ノ沿革
イ、城山學校同窓會
明治三十六年(1903)二月十二日ノ創立ニシテ、會員相互ノ交情ヲ温メ、智識ヲ交換シ、■風ノ善化ヲ目的トシ、菅谷第一尋常小学校卆業生ヲ以テ組織ス。現在會員三百十九名アリ。毎年一回一月ニ於テ総會ヲ開キ、名士ノ講演ヲ聞キ、又會員ノ製作ニ係ハル穀物、野菜、器具等ノ展覧會ヲ開催ス。臨時必要ニ応シ他府縣實業視察ヲナス

ロ、城山學校女子同窓會
明治三十八年(1905)三月八日ノ創立ニシテ、會員相互ノ交情ヲ温メ、智識ヲ交換シ、風氣ノ矯正ヲ目的トシ、菅谷第一尋常高等小學校卆業生女子ヲ以テ組織シ、現在會員百四十八名アリ。毎年一回総會ヲ開キ、名士ノ講演會ヲ開ク

ハ、川島青年會
明治三十二年(1899)貯蓄會ヲ起シ、仝三十九年(1906)労働組ヲ組織シタリシガ、仝四十一年(1908)ニ至リ合併シ、仝四十二年(1909)十月七日組織ヲ改メ、川島青年會ト改称ス。大字志賀元廣野鬼鎮神社々務所内ニ事務所ヲ置ク。會員四十二人アリ。基本金五円ヲ有ス。夜学會、図書回覧、平民文学ノ研究、風氣ノ改善■共同労役、勤倹貯蓄(郵便貯金壱百円余此加入者二十三名)兵士ノ送迎慰問、道路橋梁ノ修築等ヲナシツゝアリ

ニ、遠山青年會
明治三十八年(1905)雑誌講讀會ヲ起シ、仝年縄綯會(なわないかい)ヲ組織シタリシガ、仝四十三年(1910)五月合併シテ遠山青年會ト改称ス。大字遠山小菅山福治宅ニ事務所ヲ置ク。雑誌回覧部ト縄綯部トノ二ツニ分レ、回覧部ニハ四十円、縄綯部ニハ三十円ノ基本金アリ。雑誌回覧、共同縄綯、山林開墾、懇談會等ヲナス。會員二十一名アリ

ホ、菅谷青年會
明治四十四年(1911)四月ノ創立ニシテ、事務所ヲ大字菅谷東昌寺ニ置キ、會員二十三人アリ。通俗文庫ヲ設置シ、會員智識ノ向上発展ヲ計ル。全部百二十冊アリ。漸次増■セントス。名士ノ講演會、共同貯金ヲナス

ヘ、鎌形教育會
明治四十二年(1909)十二月五日ノ創立ニシテ本村第二学区(大字鎌形)内教育ノ改善普及ヲ計ルヲ以テ目的トシ、大字鎌形内ニ居住スル有志者ヲ以テ普通會員トシ、現在會員百二十四名アリ。毎年一回以上総會ヲ開キ、諸般ノ報告、名士ノ講演等ヲ開キ、併セテ會員相互ノ意見ヲ交換スルコトヲ勉ム。而シテ本會ノ事業トシテ現ニ施設経営スルモノ次ノ如クニシテ、孰レモ其緒ニ就キ、着々好果ヲ奏セシコトヲ期スルヲ以テ、明治四十四年(1911)度ニ於テ学区費中ヨリ本會経常費ニ補助金ヲ交付セラルヽコトナレリ

 一、就学児童ノ保護奨励
貧窮者ニシテ就学ニ困難スルモノ児童ニ、教科書又ハ学用品ノ全部、若クハ一部ヲ支給シテ、其就学ヲ保護奨励スルニアリ
 二、青年夜学會
農閑適当ノ季節ヲ利用シテ夜学會ヲ開キ、青年又ハ壮丁ノ為メニ補習教育ヲナス
 三、青年文庫ノ設置
青年ノ為メニ適切ナル図書雑誌等ヲ設備シ、閲讀又ハ借覧ヲ許シ、其智徳ノ向上ニ資セントス。現ニ設備セシ図書五百余冊アリ。漸次擴張ヲ期ス
 四、通俗談話會開催
毎年数回適当ノ期日ヲ選■シ、實業家、宗教家、教育者等ヲ聘シ、青年其他ノ為メニ通俗的講演ヲナシテ聴講セシム
 五、青年團勤倹貯金ノ取扱
勤倹努力主義ノ青年ヲシテ貯金ヲ実施セシメ、毎月拾銭以上ヲ貯蓄セシムルコトヽシ、本會之シガ取扱ヲナシテ郵便局ニ預金ス
 六、女子懇話會
毎年二回以上之レラ開催シ、一般ノ婦女子ヲ會シ、相互ノ懇話並ニ教育上ノ講演等ヲ聴聞セシメ、婦女子ノ思想ヲ向上セシムルコトヲ期ス
 七、附属青年會
本會ノ附属トシテ字内ノ青年ヲ以テ組織シ、専ラ實業ノ改善、自治的思想ノ展開ニ努メ、青年ノ風氣改善ニ資セシトス

ト、鎌形学校同窓會
明治四十年(2007)一月二日ノ創設ニシテ、會員相互ノ交情ヲ温メ、智識ヲ交換スルヲ以テ目的トシ、菅谷第二尋常小学校卆業生ヲ以テ會員トシ、現在會員男女通シテ百四十九名。毎年一回一月ニ於テ総會ヲ開キ、名士ノ講演、又ハ適切ナル餘興等ヲナシ、又ハ臨時會同シテ出兵者ノ送迎其他會員相互ノ慶吊表示等ヲナス

   『菅谷村郷土誌』 1912年(明治45)?


川島農協 稚蚕共同飼育場・共同桑園開設 1953年

2009-02-24 21:55:06 | 川島

 稚蚕共同飼育場と稚蚕共同桑園は、車の両輪の如き関係と考へられているが川島支部では、飼育場の新築と同時にこれが実現した。圃場は権田和重氏の提供により鼠返し一九〇〇本、多胡一三〇本を組合員全員出動にて四月上旬に植付た。基肥(もとごえ)として専用固形肥料と組合員各自の堆肥材料を持寄りで施した。これによって川島支部の年間を通じての稚蚕しいくがの完璧が期待出来ることになった。

  稚蚕共同飼育と成績
 明治二十六年(1893)以来の大霜害の影響は、本村春蚕飼育農家三八五戸で八九〇〇瓦(グラム)余掃立予定のところ、実状は一八八戸四五〇〇余瓦という惨胆たるたる結果となった。そこで掃立不能養蚕家の希望に副(そ)うため川島支部では予(か)ねて新築中の稚蚕飼育場によって本村最初の共同飼育を実施した。五月十四日五百瓦を掃立て、支部長権田和重氏を中心に、日本シルク利根川技術員、島﨑文男、権田宗一君外地元婦人の寝食を忘れた努力によって、成績は極めて良好で二十一日無事組合員三十七名に配蚕を終了した。尚配蚕数日前の多忙の時に西吉見村共同飼育場に本村委託の青年講習生として派遣された田幡一一、森田昌雄両君は激しい講習のため一貫以上体重を減らして頑張りつづけて帰村した。
     『菅谷村報道』34号 1953年(昭和28)6月20日


菅谷村大字川島の誕生 1941年

2009-02-18 22:38:00 | 川島

 鬼鎮(きじん)神社のある嵐山町川島(かわしま)の地名が菅谷村志賀元広野(もとひろの)とされた時代があった。
 大日本帝国憲法の制定と国会開設を目前にして、富国強兵と中央集権的な地方行政機構づくりの一環として全国的に推進されたのが「明治の大合併」である。嵐山町域では、1889年(明治22)4月、菅谷(すがや)村、七郷(ななさと)村が設置され、合併前の旧村は大字(おおあざ)となった。この時、旧広野村の飛地(とびち)であった川島は地を接する菅谷村大字志賀(しか)に編入され、その地名は消滅した。
 地名の呼称には歴史的背景があり、それを軽々しく変更、廃止することは、長年、その地に暮らしてきた住民の自尊心が許さない。川島の人々は、同年八月、森田浦蔵、島﨑弥助、権田恵助、小川喜六、田幡馬太郎、権田縫太郎の六名を惣代人として、川島の地名の復活と大字設置を願い出る。しかし、この訴えは、1891年(明治24)6月、「明治二十二年八月三十一日付元広野村飛地川島旧称存立願ノ件詮議ニ及ヒ難シ」と退けられた。

 「本願ノ要趣ハ町村制施行ノ際元広野村飛地ヲ元志賀村ニ編入セラレ大字志賀ト相成候ニ付爾来郵便電信其他百般ノ事不便少ナカラス而シテ其飛地ノ部分ハ往古川島ト称セシコト歴然タレハ旧飛地ノ大字ヲ川島ト改称セシ事ヲ求ムルニアリ然レトモ大字川島ノ称呼ハ飛地組替処分ノ以前ニ於テ已ニ存在セス其地ハ即広野村ノ一部タリシヲ以テ川島ハ其地固有ノ名称ト謂フ能ハス且新村造成後茲ニ年アルヲ以テ最早一般ニ普及シ今ニシテ之ヲ改称セハ却テ混雑ヲ招クノ上アルニ於テオヤ  改称ノ必要ナシト考究セル所以ナリ」

 川島は、江戸時代に広野村と領主が同じだったので、支配の都合上、広野村の飛地川島とされたのであが、明治の地租改正時にも広野村の飛地扱いで、広野1470番~2265番の地番と家番がふられた。
 町村制施行時に、川島が志賀に編入された時、地番・家番の数字はそのままで、広野だけ志賀と書き換えられた。ところが、志賀にはすでに志賀1番~1874番の地番と家番がある。大字志賀1470番~1874番の地番は、川島の地番と重複することになり、川島の島﨑さんと志賀の吉野さんの家番は共に志賀12番となった。
 そこで、戸籍簿、地租名寄(なよせ)帳、土地台帳等の川島分には、大字志賀ではあるがその下に元広野(もとひろの)を書き加えて「大字志賀元広野」と記載し、志賀と区別することにした。また、菅谷村の区制施行時には、第一区菅谷、第二区志賀元広野、第三区志賀、……として区長を置き、志賀元広野を行政組織の中に位置づけ、この問題の解消をはかった。
 しかし、川島の地名は消えることなく、通称として使われ続けた。さらに、鬼鎮神社は、度(たび)重なる戦争を通して武神(ぶしん)としての信仰が広まり、「川島の鬼鎮様」として、県外からの参詣(さんけい)者も集める著名な神社となった。
 1940年(昭和15)、紀元二千六百年を記念して、大字川島増設が菅谷村会で決議され、翌年9月15日、大字川島が誕生し、川島の地名が復活した。ここに、川島住民の五〇年来の熱望がようやく実現したのである。
     博物誌だより109(嵐山町『広報』2003年8月号掲載)より作成


川島呼称回復請願の理由書 1889年

2009-02-18 22:35:29 | 川島

御諮問ニ付御答
比企郡元広野村飛地川嶋
右川嶋之儀者過般町村制御施行之折ニ字志賀ヘ御編入ニ相成候処名称之儀ニ付人民不便不利益之廉々之アルニ付本年八月二十一日付■本郡役所ヲ経由シ本県ヘ旧称存立之儀懇願書奉呈仕候処本年八月二十九日付(庶第八二八号)ヲ以本郡役所ヨリ同郡菅谷村役場ヲ経由之上廉々之御諮問ニ付古書類及取調候儀左ニ

第一條 比企郡元広野村飛地川嶋之儀者往古川嶋村ト称シテ一村独立タル村名之起レル元因ハ  市ノ川ノ流水西北東之三面ヲ湾流シ加ルニ村ノ西南隅元菅谷村境ヨリ湧水滾々池ヲナシ溜井トナリ漸々西北ニ流下シ菅谷志賀ノ元村界辺ノ田ヲ灌漑ス為ニ自然一圓ニ水田ヲナシ(按スルニ往古ハ水ヲ引キ水ヲヤルノ便ニトモシト見ユ)市之川流ニ合ス又東者地形南高北低ニシテ同郡宮前村大字月輪トノ境辺各所ヨリ水湧キ為ニ村之東者水源之辺ヨリ水田連続シテ市之川流ニ達ス如此正南一隅ヲ残スノミニシテ三面者終古水色不絶中ニ然トシテ一■起リ是ヲ堅メハ殆湖中ニ嶋嶼ノ在ルカ如シ故ニ称シテ川嶋村ト云(以上口碑傳ヘ求ル)

第二條 比企郡元広野村飛地往古川嶋村ト称セシ村名消滅セシ所謂者元文四年ニ至リテ消滅シタル者ト存ス(口碑ノ傳ニヨル)抑往古ヲ勘合スルニ天保年中迄者本郡松山領ニシテ川嶋村者一村独立タリシ事ハ古書類(本願書ノ内第八号ノ写)等ニ明寮[瞭]ナリ故ニ広野村ト別村ナルコト云モ更ナリ慶安ノ頃領主換リテ徳川氏之家臣高木築後守広正ニ當川嶋村広野村及近隣之村々マテ知行スル処トナリ然ルニ川嶋村之儀者其間之名主鍛冶師ヲ業トナス仍之右地頭ヨリ御用鍛冶ヲ仰セ付ラル両役相勤メ難キニ付(本願書之内第六号之古書ノ写ニ【ヨ】ル)止ムヲ得ス仝知行ノ故ヲ以広野村ノ名主ヘ當村ノ名主兼務相頼ミ置キ其後元禄十一年寅五月ニ至リテ遠江国ヘ任知セラル之ニ因テ當村ハ更ナリ近村迄悉ク上知トナリ御代官高谷太兵衛氏ノ支配所トナリ其後数度沿革之末仝暦十六年川嶋広野ニ二村ヲ木下求馬氏嶌田藤十郎氏内藤主膳氏大久保築後守等ノ諸家ヘ賜リ四給トモ名主役ハ広野村ニ於テ兼勤シ川嶋村ニハ組頭役ヲ置ク(本願書第五号古書ノ写ニヨル按スルニ四給ノ百姓■■スルノ故ナラン■旧絵図面ノ色分ニ詳カナリ)事ニ相成リ始メテ合村ノ形況ヲ成スニ至リ而元文四年ニ至リテハ自然村名ハ消滅ニ帰シタルモ飛地川嶋ノ名称者未タ■顕スルハ是往古ヨリ一村独立タルノ地形ニシテ大字名ヲ川嶋ノ旧称ヲ置カサレハ百時不便ハ勿論将来支障ヲ生スヘク旧慣ノ存スル所ナリ

第三條 新村菅谷村ヘ編入ノ今日大字川嶋トナレハ便宜ノ件■
 壱項 過般町村制御施行ニ際シ元広野ノ飛地川嶋之儀者同村大字志賀ヘ組込ニ相成候得共第一公私用及電信飛脚等ハ是一時一分間ヲ争フノ用ニ共ス可キ者ナルヲ茲ニ川嶋某ヲ尋ルニ當リ先ツ菅谷村ヲ訪レ大字志賀ヲ尋ネ而始メテ川嶋之某タルヲ知リテ其用ヲ辨スルカ如シ譬ヒハ縣廰及郡役所ヨリ菅谷村大字志賀ノ内川嶋ニ関スル事ノ件等達セラルヽニ當リテモ大字志賀ヲ訪タトキハ里程壱里余西ニ行キ又壱里以上東ニ帰リ其用ヲ達スルニ至ルトキハ往返殆ド里程貳里以上ヲ損ス故其御用モ亦一時間除ヲ遅滞ス如此ナルトキハ至急ヲ用スル場合ニ於テハ大字川嶋ヲ存スル事実ニ便利ト存候
 第貳項 郵便配達者ハ能ク地理ヲ可存モ毎戸知リ得ベキ者ニアラズ況川嶋ノ方ハ本郡松山郵便局ノ配達ニシテ元志賀村ノ儀者本郡小川町郵便局ノ配達ナリ又配達人ノ換ル事モアル者ナレハ真ニ大字川嶋ヲ存スル事便利ト存候
 第三項 元広野村飛地川嶋ヲ大字志賀ヘ組入ルトキハ共有財産等モ随テ大字志賀一圓併セサル事得サル者ト考ヒラレ候得共是等之如キハ土地之旧慣モアレハ甲ニ宜シク談スレハ乙ニ計ハス乙ノ便ニ依ルトキハ甲ニソフクノ利ニシテ元ヨリ広野村ノ飛地ト云フモ往古川嶋村之習慣ヲ以テ一團体ヲナシ居ル者ナレハ大字川嶋トフル方便宜ト存候
 第四項 元志賀村ト飛地川嶋トノ人民居住之距離接近之処ニテ拾五丁除(此間ハ別テ水田間道又ハ山路ニシテ至テ通行不便ナリ)亦最遠之処ニテハ(飛地川嶋之東者宮前村大字月輪及羽尾ニシテ元志賀村ノ西ハ八和田村大字中爪及小川町大字下里ノ境ノ所ヲ云フ)壱里三拾町以上モ有之将来諸事大字限リ人民集会等ニ付テモ元志賀村人民ヨリ川嶋ノ方ヘ来ルモ困難又川嶋之人民モ元志賀村ノ方ヘ行モ是亦困難ニ候寧ロ大字川嶋ト旧称ヲ存置候方大ニ便宜ト存候
 第五項 先般元広野村ノ飛地川嶋人民一同ニテ消防器具等ヘ一切川嶋組ト記載之上去ル明治二十一年九月二十六日付ヲ以テ松山警察署小川分署経由シ本県出願候処同年十月十八日付ヲ以(警指第一七八号)本県之御認可ニ相成リ居候ニ付大字川嶋ト相成候得共右消防器具之目印ト大字名ト的當致シ候依テ大字川嶋トタル方便宜ト存候
 第六項 川嶋之儀者大字志賀江編入相成候得共元ヨリ川嶋者鬼鎮神社ヲ以テ遠ク海内ニ知ラル■所之署名ト謂ハサルヲ得ス加アルニ村名之起ル処亦広野村ノ飛地ト云モ独立一村之体ヲナシ万事往古ヨリノ慣セモアル処ナレハ署名ト旧慣トヲ保存シ往古川嶋村トシタル証跡(本願書ノ内第七号八号其他ノ古書ニヨル)モアルヲ以テ大字川嶋ト存置候方大ニ便宜ト存候

第四條 元禄年間ノ頃及前後之水帳及御割付等之古書類及元広野村旧役相勤候各家等ヲ相尋ネ候得共旧役人数々更迭シ古書類等給乱之趣キニ付止ムヲ得ス仝郡七郷村役場ニ付キ廉々証明ヲ得ル事別紙写之通リニ御座候

第五條 比企郡元広野村之飛地川嶋トスベキ内部之字名及筆数取調并現今絵図面其他本郡七郷村役場之証明書認可之写相添候事

右之條々御諮問ニ付取調答申上候也
                 比企郡菅谷村大字志賀
                         人民惣代人
明治二十二年(1889)十月十日            小川喜六
                 仝 仝 大字仝
                          仝
                              権田縫太郎
                 仝 仝 大字仝
                          仝
                              森田浦蔵
埼玉県比企横見郡長鈴木庸行殿


戦勝祈願とハイキングは池袋から東上線で 1930年代後半

2009-01-07 01:17:30 | 川島

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1930年代はハイキングが世界的に流行した時代です。日本では1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件以降、日中戦争が拡大し長期化する中で、38年厚生省設置、39年体力章検定(スポーツテスト)、40年国民体力法公布。戦争に勝つための「体位向上」「心身鍛練」が叫ばれます。鉄道各社は国策に便乗し、割引運賃をセットして沿線の行楽地を健康と鍛練のハイキングコースとして宣伝します。ここに紹介する資料は「戦勝祈願とハイキングは池袋から!!」という東武東上線のパンフレットです。

   吾等の信ずるハイキングの目的
 一、大地踏占め史蹟を訪ね吾が血を知つて祖国愛を養ふ
 二、心身の鍛練、修養
 三、健康の蓄積

Photo_8    古史を訪ねて 岩殿山脈めぐり
省線池袋駅より一時間で高坂駅に下車する岩殿山(物見山)まで約三〇丁。途中には坂上田村麻呂が大蛇を退治しその頭を埋めて池となり為めに蛙が鳴かないと云ふ不鳴池あり。尚足利基氏居住の史蹟や加賀爪氏累代の墓がある高済寺あり県の史蹟保存指定となつて居る。岩殿山は阪東十番の観音様で裏山が物見山で、つつじの名所と秋の柿栗と展望が良いので春秋家族連れハイクに最適である。物見山から森や田畑を抜けて松山へ出て箭弓稲荷、松山城跡、吉見百穴と将軍沢から武蔵嵐山へ行くコースであるが、この後ろのは松柏の林や小松原、山つつじも咲けば山百合、秋の七草も咲き殊に丘陵を縫ふ山道は実に朗らかで自ら出る口笛もいと軽い。嵐山は槻川の一大屈曲が小半島を為す河畔にして岩盤に松柏茂り春の桜山つつじ、夏の山百合鮎釣り秋の紅葉に良く山川の風趣教の嵐山に似通ふ。尚付近に源の義賢の廟木曽義仲産湯の井畠山重忠公の像等もある。

Photo_9     比企高地、地歴ハイキングPhoto_10
省線池袋駅乗車し武蔵嵐山駅に下車して畑道や森間の道を通って畠山重忠公の館跡に史蹟をたづね、木曽義仲の産湯の水に昔を偲び小川のせせらぎを耳にしながら鎌形八幡様に参じ風趣和ごやかな武蔵嵐山を通りて遠山に出づこれより槻川の流れに沿ふて山村を抜け道元山(丘)を越へて古寺の鍾乳洞を見学してバスで小川町駅に出る。鍾乳洞は内非常に広く多岐に亘つて居て未だ知られざるだけで毀損されず参考となる事大なりと信ず。

   武人の守護神 鬼鎮神社
 一、祭神 衝立船戸大神、八衢比古命、八衢比売命
 二、場所 埼玉県比企郡菅谷村(東上線嵐山駅下車)
 三、割引運賃 往復一円五〇銭
神社は稀なる珍社仙台伊達公の塩釜神社と同じ。縁起は壹千七百余年前に発す。大神は神代より塞の神(厄除)で諸々の抂神(魔神)のおさへの神で且つ勇武にすぐれ武人の守護神として尊崇さらる。
霊験灼かなる神話数知れず明治の勤皇志士の霊も厚く合祀さる信者は東都壹万、地方近約を挙ぐれば十四五万五千人にして月詣りの方亦尠からず。(冥加金三〇銭)
     祈願者へ特遇
特別奉仕祈願券を御希め下さい(東上線武蔵嵐山駅へ)
本券は大祓ヒ、肌身守、祈願守木札、御神酒(土器付)御供物を差上げます
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このほか「二本木峠(公園)登谷山→釜伏峠→玉淀ハイキング 史蹟に富み三六〇度の展望と舟下り」「三峰と妙法ヶ岳めぐり 植物と伝説をきく」「越生高山、史蹟コース」「上武国境、宝登山、長瀞ハイキング」が掲載されている。
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大正期の鬼鎮神社と川田屋・岡島屋広告(『発展の武州松山』より)

2008-08-12 13:40:00 | 川島

一、村社 鬼鎮神社

比企郡菅谷村大字川島に在り、当町【松山町】より西方一里余、東武鉄道東上線菅谷駅下車仝駅より僅かに五町なり。
祭神は衝立久那斗命、八衢比古命、八衢比賣命にして、今より七百余年前、安徳天皇の御宇寿永元年(1182)菅谷城に建設したるものなり。
祠宇の周囲は老杉、古松蓊鬱(おううつ)として繁茂し真に幽邃(ゆうすいしんのう)、之れに賽(さい)するもの誰か神霊の儼然(げんぜん)たるを覚えざらん、毎年初春の百花研美の季又は仲秋賞月の候、四時近郷は言はずもがな、遠く数十里の所より特に参拝するもの絶ゆる事なし。
現社掌は河野要氏なり。
     (『発展の武州松山』1925年(大正14)発行、50頁)