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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

わたしたちの町らんざん 35 嵐山町年表 1977年

2010-09-26 23:12:32 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

 嵐山町年表

むかし
一〇〇〇年以上前 千手堂千手院慈恵大師により開かれる
 八〇〇年以上前 木曾義仲 大蔵の館に生まれる
 七〇〇年以上前 畠山重忠菅谷の館を立って鎌倉に向い二俣川にて殺される
 一五〇年以上前 狂歌師 元杢網八十一才にて歿す
明治
  一八七三   杉山小学校ができた(学校のはじめ)
  一八八六   埼玉県になった
  一八八九   旧村合併して菅谷村(九ヶ村)七郷村(七ヶ村)となる
  一九〇九   菅谷村駐在所ができる
大正
  一九二一   菅谷地区に電気が入る
  一九二三   東上線が通り武蔵嵐山駅ができた
         関東大震災で大きなひがいをうけた
昭和
  一九二九   畠山重忠像が菅谷館跡に建つ
  一九三一   菅谷村に電話開通(一三本)
  一九三五   菅谷に大火あり、菅谷尋常高等小学校も類焼する
  一九三八   菅谷小学校今の位置に建つ(工費五万五千円)*
  一九四一   太平洋戦争がはじまる
  一九四七   菅谷 七郷両中学校設立される
  一九五五   菅谷村・七郷村が合併して菅谷村となる
  一九五八   鎌形小学校給食開始(村内初めて)
  一九六一   役場新庁舎落成(鉄筋二階建)
   〃     武蔵嵐山駅より東松山へバス開通
   〃     嵐山カントリー(ゴルフ場)開場
  一九六二   菅谷小学校給食開始
  一九六三   武蔵嵐山古里間にバス開通
  一九六四   菅谷幼稚園開園
   〃     村営水道給水開始
   〃     菅谷中学校・七郷中学校給食開始
  一九六五   菅谷中学校体育館落成
  一九六七   嵐山女子高校が開校され一六二名が入校する
   〃     菅谷村町制を施行して嵐山町となる
  一九六八   菅谷中学校プールができる 七九五万円
  一九六九   七郷小学校プールができる 一七三五万円
  一九七〇   自動電話局開設となる
  一九七一   町立幼稚園 東昌会館を借用開園する
  一九七二   菅谷小学校新築落成 一三七八〇万円
  一九九二   大妻女子大学嵐山女子高校となる
  一九七三   全町水道給水を始める
   〃     町立幼稚園完成
  一九七四   七郷小学校改築工事落成 一億七千六五万円
   〃     菅谷小学校プール竣工
  一九七五   菅谷中学校落成 四億五〇〇万円
  一九七六   コロニー嵐山郷
   〃     歴史資料館落成

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 32頁~34頁

*:新築の校舎に卒業学年の児童が移動したのが1938年(昭和13)9月から、全校児童が新校地に移ったのが1939年4月からである。


わたしたちの町らんざん 34 これからの嵐山町 1977年

2010-09-25 23:06:00 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

六、これからの嵐山町
 わたしたちの嵐山町は、今から二十一年前(1955)、菅谷村と七郷村がいっしょになって、大きな菅谷村になりました。その後、すむ人がだんだん多くなって、九年前(1967)町になりました。この二十一年前の間、嵐山町はずいぶんかわってきました。
 今までの嵐山町では、米作りやむぎ作り、ようさんなど、のうぎょうが中心でした。しかし、この頃は、のうぎょうをする人よりつとめにでる人の数の方が多くなり、のうかのようすもだいぶかわってきました。
 のうかでは、米作りやようさんをするだけでなく、野菜やくだものを作ったり、かちくをかったりすることが行なわれるようになりました。一年に一どだけの米作りでは、しゅう入がすくなからです。
 そのために、新しいぎじゅつをとり入れたり、みんなで力を合わせたり、いろいろくふうしています。役場やのうきょうでも、このことをいっしょうけんめい考えています。
 町のあちこちにじゅうたく団地や工場ができ、また、菅谷館跡には県立歴史資料館ができました。全国婦人教育館の建設工事も進められています。
 バイパスも作られ、交通はもっともっと便利になると思われます。しかし、交通事故、自然はかい、公害などがこれからの問題としておこってきます。
 美しい自然、数多くの史跡、文化財に囲まれた嵐山町は、これから新しい産業地として、また文化の中心地として、さまざまの問題をかいけつしながら大きく発展していくことでしょう。

 わたしたちは、この嵐山町をいつまでも美しくて住みよい、楽しいふるさとにするようにどりょくしましょう。
 みなさんが考える『よい嵐山町』というのは、どんな嵐山町でしょうか。
 また、そのような嵐山町になるようにするには、みんながどんなことをしたらよいのでしょう。よく話し合ってみてください。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 30頁~31頁


わたしたちの町らんざん 33 町のうつりかわり 町へのあゆみ 人口の変化・団地・工場 1977年

2010-09-21 23:42:08 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

・人口の変化 団地 工場
 わたしたちの町の人口について考えてみましょう。人口というのは、おとなもこどももそしてとしよりもあかんぼうも、町にすんでいる人ぜんぶの人ずうです。
 人口はまい年すこしずつかわっていますが、長いあいだのかわりかたのようすをみると、とくべつなできごとがあったときのほかは、すこしずつふえていくようです。
 下のグラフは、およそ四十五年ぐらいまえからのわたしたちの町の人口のかわってきたようすをしるしたものです。
 町の人口がどのようにかわってきたかグラフをみながら、みんなではなしあってみましょう。
 昭和三十六年(今から十五年ほど前)に、平沢に嵐山町ではじめて、じゅうだく団地ができました。
 菅谷・川島・広野地区などにもつぎつぎにじゅうたく団地ができ、昭和四十五年(今から六年ほど前)に志賀地区の田んぼをうめたてて、そこに大きなじゅうたく団地ができ、きゅうげきに人口がふえました。そこにすむ人たちの多くは、むさし嵐山駅から東松山や東京方面へつとめに出かけます。
 また、工場もたくさんできました。明星食品、昭和機器、嵐山プレス、その他いろいろな工場があり、それらの工場へつとめる人も多くなっています。
 このように人々のしごとは、いろいろにかわってきました。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 28頁~29頁


わたしたちの町らんざん 32 町のうつりかわり 町へのあゆみ 町村合併 1977年

2010-09-20 18:42:06 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

・町村合併
 明治のはじめ(一〇〇年ぐらい前)今の鎌形は、鎌形村内郷、鎌形村植木山とわかれていました。どちらも小さい村で、家の数も三〇戸たらずの小さな小さな村でした。小さな村が別々に仕事をしていることは、なにかと不便なので、合併して鎌形村となりました。
 古い名前の村が菅谷村、七郷村となったのは、明治二二年(今【1976】から八十七年ほど前)です。昭和三十年(今【1976】から二十一年ほど前)に、菅谷村と七郷村が一しょになって菅谷村が生まれました。また、昭和四十二年(今から九年ほど前)に、町にすむ人達が多くなったので、菅谷村を嵐山町としました。今の嵐山町ができるまでには、長い年月がかかりましたね。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 28頁


わたしたちの町らんざん 31 町のうつりかわり 町へのあゆみ 学校のうつりかわり 1977年

2010-09-19 00:24:22 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

・学校のうつりかわり
 町には、三つの小学校と二つの中学校があります。なかでも、三つの小学校は、それぞれふるい歴史があり、世の中の役にたつりっぱな人びとがそつぎょうしています。
 わたしたちの学校の歴史を年表でしらべましょう。

年次       ことがら
明治 六年(1873) 杉山小学校ができた
  一二年(1879) 杉山小学校を新しくつくった
  一二年(1879) 吉田小学校ができた
  一九年(1886) 昇進学校ができた(杉山・吉田学校がっぺい)
  一九年(1886) 城山尋常高等小学校ができた(千手堂)
  二二年(1889) 昇進学校が七郷尋常小学校となる
  二五年(1892) 宗信寺尋常小学校ができた(鎌形)
  二五年(1892) 校舎を大字菅谷東側にうつす
  三三年(1900) 城山尋常高等小学校となる
  四一年(1908) 菅谷第一尋常高等小学校となる
  四三年(1910) 七郷尋常高等小学校となる
大正 六年(1917) 菅谷第二尋常小学校やける。七年に新しい校舎できる
  一一年(1922) 鎌形尋常高等小学校と名前をかえる
昭和 五年(1930) 七郷小学校二階建校舎となる
  一四年(1939) 菅谷村の火事で学校がやけた(1935)ため、新しい学校ができる
  一六年(1941) 菅谷・鎌形・七郷国民学校となる
  二二年(1947) 菅谷・鎌形・七郷小学校となる
  三〇年(1955) 菅谷村立菅谷・鎌形・七郷小学校となる
  四二年(1967) 嵐山町立菅谷・鎌形・七郷小学校となる
  四七年(1972) 三階建鉄筋校舎にうつる(菅谷小)
  四九年(1974)   〃        (七郷小)

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 27頁~28頁


わたしたちの町らんざん 30 町のうつりかわり 町へのあゆみ のりもののうつりかわり 1977年

2010-09-18 23:21:00 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

  (4)町へのあゆみ
・のりもののうつりかわり
 むかしは、ほとんどのりものはありませんでした。遠くの神社やお寺におまいりするにも、みな歩いて行きました。
 そのころは、道もせまく、あかりもありませんでした。またとちゅうで、病気や大水によるきけんも多かったのです。このため、安心して旅ができるように、道のあちらこちらにこうしんとうやじぞうさまなどをまつりました。
 どんなところにあるか気をつけて見てください。いろいろな石のとうがあるところが、むかしの大どおりなのです。馬やかごにのって旅をしたのも、このころのことです。
 今から九十三年ほど前(1883)から熊谷を汽車が通るようになりました*。
 東上線は、大正十二年(1923)、今から五十三年ほど前から走るようになりました。石たんをもやした汽かん車で、東京まで二時間ぐらいかかったそうです。それでも、熊谷まであるかずに嵐山駅から東京に行けるので、村の人たちはたいへんよろこんでいました。
 バスは、大正のはじめごろ一時走りましたが、のる人が少ないのでやめになり、大正のおわりごろに、ふたたび走るようになりました。
 まがった道をなおしたり、新しい道が作られたりして、嵐山町の交通もこれからますます便利になることでしょう。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 26頁

*:1883年(明治16)7月28日に上野 ― 熊谷間に仮営業を開始した日本鉄道。上野、王子、浦和、上尾、鴻巣、熊谷駅が作られた。


わたしたちの町らんざん 29 町のうつりかわり むかしのくらし 1977年

2010-09-17 18:04:12 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

  (3)むかしのくらし
 家はみな、わらぶきのやねで、ほとんどの人がのうぎょうをしてくらしていました。
 のうかには、だいどころという広い土間があり、たべものをにたりやいたりするのにつかう、大きないろりがありました。あがりはなには、てつびんをかけた火ばちがおいてあり、夜はここで、ランプをともし、わらしごとや、はりしごとなどをしていました。
 だいどころのすみには、たいてい馬屋があり、多くの家で馬をかっていました。
 庭は、いねやむぎをほしたり、いろいろなしごとをする大切なところでした。ですからほとんどののうかに、日あたりのよい、風があたらない、広い庭がありました。
 このころつかわれたどうぐには、せんばこき、くるりぼう、からうす、とおみ、石うすなどがあります。かいこもたくさんかっていたので、まぶしおりき、かいこかご、もみがらやきのどうぐなどがどこのうちにもありました。
 はたおり、糸くり車、あんどん、ランプ、ちょうちん、田ころがし、馬ぐわ、くわつみなど、むかしのどうぐをあつめて、何につかったものか、おじいさんやおばあさんにお話をきいてみましょう。
 ぼんと正月、菅谷神社のおまつり、根岸の観音様、鬼鎮神社の節分祭、八宮・兵執神社のささらなどは、人々の楽しいおまつりのひとつで、ふだんのしごとのつかれをなおしたり、しぜんや神仏への心をあらわしたものです。
 このころは、お店もよろずやが一けんぐらいしかありませんでした。このお店はなんでもうっていたので、村の人たちみんなが利用しました。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 25頁


わたしたちの町らんざん 28 町のうつりかわり 町の名所めぐり 1977年

2010-09-16 23:16:04 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

  (2)町の名所めぐり
 わたしたちの町には、けしきがよいのでゆうめいな武蔵嵐山や、菅谷館跡など、鎌倉時代(七〇〇年ぐらい前)からの数多くの史跡、文化財があります。また、美しい自然と歴史をたどるハイキングコースもあります。
 春はお花見、夏はキャンプ、川遊び、秋はきのこがり、ぶどうがり、いも掘りなどでにぎわいます。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 23頁~24頁


わたしたちの町らんざん 27 町のうつりかわり むかしの嵐山町 1977年

2010-09-15 19:08:00 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

五、町のうつりかわり
  (1)むかしの嵐山町(一〇〇年ほど前)
 むかしの嵐山町は、菅谷村 志賀村 平沢村 遠山村 千手堂村 鎌形村 大蔵村 将軍沢村 根岸村 太郎丸村 広野村 勝田村 越畑村 吉田村 古里村 杉山村 などと今の大字が村とよばれ、小さくわかれていました。
 人びとはおもにのうぎょうでくらしをたてていました。山をかいこんして畑にしたり、ひくいところを田にしたり、沼や用水路をつくったりして、じぶんたちのせいかつがゆたかになるようにどりょくしてきました。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 23頁


わたしたちの町らんざん 26 交通や通信 通信 1977年

2010-09-14 15:45:22 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

  (2)通信
・有線電話
 有線は、農業協同組合によるもので、嵐山町内にかけられるほか、他の市町村にもつなぐことができます。また、一度に町内の人にお知らせができるなどの便利な点があります。現在、菅谷では約一〇〇〇戸、七郷では約六〇〇戸の家が、はいっています。

・ふつう電話
 ふつう電話は、どこにもかけられるので、とても便利です。さい近ふつう電話の入っている家が多くなり、嵐山町では約三五〇〇の家がはいっています。
 嵐山には、菅谷に無人の自動交換局があります。

・ゆうびん局
 ゆうびんの受け入れ、はいたつ、電ぽうなどの仕事は、嵐山ゆうびん局でしてくれます。また、ちょ金、小づつみ、かわせのしごともしています。
 嵐山ゆうびん局では、局長さんのほか二〇人あまりの人がはたらいています。いつもゆうびん局にいて、しごとをする人が一〇人。ちょ金や年金の集金をする人が四人。手紙や、小づつみをはいたつしてくれる人たちです。
 また、ゆうびん局では、毎日約三〇〇〇通の手紙を、集めたりはいたつしたりします。小づつみは、一日に約四〇個ほどあつかいます。
 ゆうびん局で一番たいへんなことは、暮れからお正月にかけての年賀ゆうびんだそうです。楽しいお正月も、いつものしごとの三倍くらいのいそがしさで、アルバイトも使ってやりきるそうです。わたしたちが、うれしい年賀状を受けとれるのも、ゆうびん局のおじさんたちのたゆまぬ仕事があるからなのです。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 21頁~23頁


わたしたちの町らんざん 25 交通や通信 道路、電車、バス 1977年

2010-09-13 18:05:23 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

四、交通や通信
 町の人たちは、よその土地と行き来をしたり、話をしたり、また車で物をはこんだりして、くらしています。

  (1)道路、電車、バス
・道路

 嵐山町とまわりの市町村をむすぶ、おもな道路は、県道です。県道は、熊谷、小川、玉川、東松山、寄居をむすぶ道路が走っています。これらの道路は、全部ほそうされてよくなっています。
 また、嵐山町には、国道二五四号線という道路が走っています。この道路は、交通量がふえ、朝の七時~九時の二時間で、約一八〇〇台もの自動車や自転車、バイクなどが走っています。(昭和五十一年九月調べ)そのため、町の中がこんざつするようになってこまるので、南部にバイパスを作る工事がすすめられています。

・電車
 嵐山町を通っている電車は、東武東上線です。さい近ではだん地ができたり、遠くへ働きに行く人が、多くなったので、のりおりする人が多くなってきています。
 町の人たちは、東上線を利用するのに、武蔵嵐山駅や小川町駅などからのります。駅までは、とほ、自転車、バイク、車、バスなどで行きます。

・バス
 バスは、東松山から武蔵嵐山、小川から熊谷、古里から武蔵嵐山、東松山から玉川をむすぶ四つの線がありますが、一日に通る回数は、あまりありません。でも、町の人たちのたいせつな足となっています。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 20頁~21頁


わたしたちの町らんざん 24 町の人々のくらしと町役場のはたらき 安全なくらし 1977年

2010-09-13 00:22:44 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

  (6)安全なくらし
 町には、人びとが安心してくらせるように、いろいろなしくみがあります。

・しょうぼうしょ
 町では、火事をふせいだり、火事になったらそれを消すために、近くの小川町、都幾川村、玉川村、東秩父村と力を合わせて、しょうぼうしょを作っています。嵐山町には、その分しょがあります。また、このほかにも、むかしからのしょうぼうだんというのがあります。しょうぼうしょやしょうぼうだんの人たちは、火事がおこると、すぐ火事場へ出かけて消します。また、空気がかわいて火事のおきやすいころになると、わたしたちの家のまわりや、火のもとを見て「火の用心」の紙をはり、注意するように話します。
 また、じこにあったり、きゅうなびょう気になった時には、きゅうきゅうしゃではこんでくれます。
 嵐山町のしょうぼうしょではたらいている人は、十三人で、五つの地くのしょうぼうしょ全体では、七十三人にもなります。しょうぼう車は、各地くごとに五つあり、しょうぼうしょには、一台、その他の車も二台あります。

・ほけん・えいせいのしごと
 役場のじゅうみんかのえいせいがかりや、地区のえいせいの役員は、町の人びとのけんこうをまもるしごとをしています。
 地区ごとにいる区長さんや、えいせいの役員さんが、役場のえいせいがかりの人とそうだんして、しょうどくや村の人びとのえいせいけんさや、よぼうちゅうしゃなどをします。また、病気になった時には、町にある医院や小川にある日赤などの病院を利用します。
 しにょうしょりについては、小川町のほか五つの町村が、えいせい組合を作って、きょうどうでしょりしています。また、ごみしょりは民間の人にたのんでやってもらいます。

・ちゅうざいしょ
 町には四つのちゅうざいしょがあり、そこにはおまわりさんがいます。おまわりさんは、わるいことがおこらないように、また交通事故などがおこらないように、町中を見てまわったりしています。また、わたしたちが安全に通学できるように、正しい交通の決まりを教えてくれたり、朝、交通せいりをしてくれたりします。

・交通安全と公害のかんしのしごと
 交通安全協会というところで、町の人びとが交通事故にあわないようにするために、いろいろの仕事をしています。
 また、町役場のそうむかでは、水のよごれを調べて、まちがいのないように、町の人たちに注意したり、教えたりしています。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 18頁~20頁


わたしたちの町らんざん 23 町の人々のくらしと町役場のはたらき 町のしせつ 1977年

2010-09-12 23:28:00 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

  (5)町のしせつ
 町の人たちのために、町でつくったしせつには、公民館、町民グランドや、ぶどう館があります。
 公民館は、町に二ヶ所あって、町の人たちが集まって話し合いをしたり、勉強したりするのにりようします。また、町民グランドやぶどう館は、町の人たちがスポーツをするところです。
 嵐山町には、このほかに、県でつくったれきししりょう館や、心身に重いしょうがいをもった人たちが入っている、コロニーがあります。このほかに、国でつくっているふじんきょういくかいかんもあります。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 17頁~18頁


わたしたちの町らんざん 22 町の人々のくらしと町役場のはたらき きょういくいいん会のしごと 1977年

2010-09-11 06:42:30 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

  (4)きょういくいいん会のしごと
 役場には、わたしたちにとくにかんけいのある、きょういくいいん会があります。きょういくいいん会は、わたしたちが、勉強しやすいようにせつびをととのえるしごとや、おとなの人たちが勉強できるように、こうしゅう会をひらいたり、図書館の本を借しだしたりするしごとをします。また、町民体育祭や日曜日のいろいろなスポーツ大会を開いたりすることも、きょういくいいん会のしごとです。

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 17頁


わたしたちの町らんざん 21 町の人々のくらしと町役場のはたらき しごとに使われるお金 1977年

2010-09-10 19:08:12 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

  (3)しごとに使われるお金
 町ぎ会で決まったことは、役場の人たちが中心になって、しごとをすすめます。これらのしごとにひつようなお金は、わたしたちの家でおさめるぜい金と、そのほか、国や県からくるお金で、まかなわれています。前の表は、町のお金が、どのように使われているかを表わしたものです。

表:つかわれたお金 昭和50年(1975)
総務ひ(役場で、つかわれる) 15.1パーセント
民生ひ(こまっている人をたすける) 9.1パーセント
えいせいひ 6.6パーセント
農林水産ひ(農業・林業) 9.0パーセント
土木ひ(道路やはし) 16.5パーセント
教育ひ(学校のこと) 30.4パーセント
消防ひ 5.5パーセント
公さいひ 4.3パーセント
商工ひ 0.6パーセント

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 16頁~17頁