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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

嵐山町誌178 千手堂村明細帳

2009-08-31 10:43:00 | 千手堂

結び

  千手堂村明細帳
 町誌編纂に与えられた期限が来た。仕事は終ったわけではない。然し私たちはこの辺で一応仕事のしめくくりをしなければならない。そのために千手堂村の「村差出明細帳下書」を読んでみることにする。これは次のように「天保十四卯年(1843)壬(うるう)九月日」の日付のある記録で、関根関太郎氏の所蔵にかかるものである。

(表紙)
  天保十四年卯年壬九月日
 村差出明細帳下書
   武州比企郡 千手堂村
(村高 耕地反別)
 一高百拾四石弐升四合
  此反別弐拾九町壱畝弐歩
  五町四反四畝七歩  田方
  内 弐拾三町五反六畝廿五歩  畑方
        此内八畝八歩 元田畑ニ成入
(土質農作物)
 一田方用水掛水定水無之天水場ニ御座候
   但 土地黒真土ニ御座候 山谷ニ而悪場ニ御座候
 一畑方野土多有之真土場少◇ニ而ねばまじり 地あさニ御座候 大麦少し蒔小麦がちに作付仕候
 一種の儀は但壱反歩へ大麦八升位 小麦は壱反歩五升位種入仕候
 一秋作之義は 大小豆竝粟稗多作付仕 外いも竝大根少◇宛作申候
  但 山谷の村方故 猪鹿多分出喰あらし候ニ付 困窮の村方ニ御座候

(農作時期)
 一田方苗代之儀は 毎年八十八夜少し後ニ種蒔仕 半夏頃迄ニ植付仕候
 一早稲多太苗ニ植付 おく稲少◇作り申候
 一畑方之義は大麦十月中より 十一月せつ迄に蒔入仕小麦ハ九月せつより十月せつまて蒔込仕候
(質入値段)
 一田畑質入直段之義
   上田  但弐両より壱両三分
   中田  壱両壱分位迄ニ御座候
 一下田下◇田 谷合木蔭の場故 質入ニ相手無之程の悪場ニ御座候
 一畑方質入直段の儀ハ
   上畑 壱反ニ付 金壱両三分より壱両弐分位迄御座候
   中畑 金壱両弐分より壱両位迄御座候
   下畑 壱反に付 金壱両より三分位迄御座候
(肥料)
 一畑方肥の義は かり草其の外野山ニ而落葉などをとり養肥に仕候
 一田方肥の義 右同断 片毛作り御座候
(用水)
 一用水溜井     八ヶ所
   内 壱ヶ所ハ用水ニ相成候得共外 七ヶ所は水の保悪候故用水ニ相成不申候
     然候共 年々手入仕候
(戸数住民)
 一当村百姓家数    三拾三軒
   人数百七拾九人  但当卯年改
    外ニ僧弐人   馬四疋、牛ハ無御座候
   外ニ潰百姓弐拾弐軒
 一隣郷平沢村より入作百姓三軒御座候
 一道化者山伏竝之□無御座候
 一寺院弐ヶ寺
      内    禅 宗 千手院
           日蓮宗 光照寺
(自普請)
 一当村山付ニ而南さがの村故大雨の節は悪水押出し候ニ付小堀拾ヶ所程有之此上橋年々掛替仕候
 一郷境ニ槻川と申川有之 但歩行渡右川橋年々十月当村より竹木差出掛申候
(施設)
 一御高札
   此掛札   四枚
    切支丹札     壱枚
    鉄 砲      〃
  内 徒党強訴     〃
    火付之事     〃
 一千手観音堂    別当  千手院
    但三間四面
   此御除地
    反別合弐反四畝弐拾弐歩
    内 三畝弐拾歩   田方
      弐反壱畝弐歩  畑方
 一三十番神 壱ヶ所 別当  光照寺
   此御除地
    反別合弐反三畝四分  畑方
 一鎮守社    三ヶ所
    内 壱ヶ所(伊勢太神宮) 千手院持
      弐ヶ所(山王宮春日社)村氏子持
(年貢)
 一御年貢永方御上納之義ハ
    夏御成金    六月
    秋御成金    九月
    御皆済金    十二月十日限
  右は三度永方金之儀先年より四ヶ村ニ而最合格番ニ御上納仕来申候
 一田方御年貢  定石代金納ニ御上納仕来リ申候
   但御相場御張紙直段ニ而金三両賃ニ加江上納仕候
(村境)
 一隣郷村境
    南ハ   鎌形村
    西ハ   遠山村
    東ハ   菅谷村
    北ハ   平沢村
(主要都市への里程)
 一江戸日本橋江  道法   拾七里
 一川越御城下江  〃    七里
 一近郷市場江   小川村へ  壱り
          松山町へ  弐り
          熊谷へ   四り
(農間渡世)
 一当村百姓男女作間稼之義は男之方は莚皆川などをり出し女ハ木綿布を織出申候
 右は当村明細帳書面の通少茂相達無御座候
 以上
  天保十四卯年壬九月
       武州比企郡 千手堂村
             名 主 茂兵衛
             与 頭 源左衛門
             同   長左衛門
             百姓代 庄左衞門
御郡代所

 私たちがこれまで続けて来た調査は、まこにたどたどしいものであるが、とも角も、その結果に現われた結論とでもいうべきものを、この明細帳の上にどのように検証することができるだろうか。例えば村の成立については、検地を中心としたその時期の問題、村の生活については、領主の支配機構と村の共同体制の問題、村民の生産面生活面については、相互扶助の共同生活の問題等、これがこの検地帳の上にどのように現われているか。この明細帳は、たまたま入手し得たもので、特定の村のものではない。だから本文で述べたような結論が、この明細帳の中に矛盾なく読みとることが出来るとすれば、私たちの結論は、私たちの村々のいづれにも共通して正しいものであると考えてもよいであろう。そういうわけでこの明細帳を読んで結びとしようとするのである。
 先ず江戸時代の村勢を代表するものは「村高」であり、この「村高」がきめられた時村が成立した。そして検地によってこの「村高」がきまったのであるから、村の成立は検地の時期であるというのが、私たちの見方であった。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)613頁~617頁


嵐山町誌177 将軍沢村

2009-08-30 09:32:50 | 大蔵

▽将軍沢村 村名の起源については別に述べた。この地名が群馬県世良田の長楽寺文書に出ていることは「沿革」「風土記稿」の両方で紹介している。この文書は二つあり、将軍沢郷の土地を長楽寺の燈明料として寄進するという内容のもので、一通は正安元年(1299)、沙弥静真より、一通は元徳二年(1330)源満義から出されたものである。寄進の土地は前者は「田三段」とあり後者は、「二子塚、入道跡、在家一宇、并田三反、毎年所当八貫文之事」と書いてある。毎年八貫文の収入が長楽寺に寄進されたのである。
 静真というのは世良田次郎教氏のことで、三河次郎ともいった人である。幕末に幕府の奥儒者、成島司直の校正した。「改正三河後風土記」によると、徳川氏の先祖、徳川四郎義季は、新田義重の四男で源頼朝に従って功があった。義季の長男が世良田孫四郎頼氏で三河守となった。この頼氏の二男が教氏である。義満はその孫で弥次郎満義といい、この人は義貞の配下となって功を立てた。然し義貞の歿後は一族が世良田の片隅にかくれて世をはばかって暮した。これによって将軍沢郷が世良田氏の領邑であったことは明らかである。然しどういうわけでこの土地を世良田氏が領していたかは不明である。
 吾妻鑑に「木曾義仲が父義賢の事績を尋ねて信濃国を出て上野国に入った。これは上野の多古庄が義賢の遺迹だからである。」とあるから、義賢の領地は多古にあったわけである。そして義賢が大蔵に在住したことも事実のようである。
 世良田氏と将軍沢、多古の義賢と大蔵という風にならべて、これをつなぐものは何であったろうかと考えると、矢張これは当時の交通路だったのではなかったろうかということになる。前述のように武蔵の国府、府中から上信地方に往来するには、入間川から比企、男衾の山野を経由したと考えられるから、この交通路の一つが将軍沢、大蔵を通っていたと考へてよい。大蔵村境から将軍沢を通り笛吹峠の須江村の境までの里程約十六町を、明治のはじめ頃は八王子往還といっていた。
 「沿革」に従ってこの交通路をトレースすれば、北の方志賀村から「東京街道―西方中爪村界ヨリ東方菅谷村界ニ達ス。村内延長二十一町四間二尺」群馬県に通ずる一等県道であるといい、菅谷村ではこの東京街道は「北ノ方志賀村界ヨリ東ノ方上唐子界ニ至リ九町三間、北ノ方志賀村界ヨリ二十四間二尺吹上坂ノ坂路アリ」とのべている。これが大蔵村では、八王子道となって「北ノ方菅谷村ヨリ来リ都幾川ヲワタリ川原ヲ過ギ本村標杭ヨリ南ノ方将軍沢界ニ至ル、八町五十七間三尺」と記し、この道は都幾川の南岸から村の中央を南に向い、直進して秩父道と会同し、少し進んで、三筋橋で秩父道と分れ尚南進する。縁切橋を渡り不逢ヶ原の坂路をのぼって将軍沢村の不添ヶ森に入ると註釈を加えている。将軍沢村では前述のように八王寺道十六町と記し「北方大蔵村界ヨリ南ニ向カイ五町二十五間ハ平坦ニシテ、左ニ折レ五十五間ニ高城橋アリ、ソレヨリ平地一丁来ツテ笛吹峠ノ坂路ニ至ル」と説明している。重要路線であることがわかる。(志賀、菅谷、大蔵の「横町」はこの八王寺道に対する横町で、秩父往還を指している。大蔵の横町は新藤義治氏の家号となっている。)
 笛吹峠の辺は鎌倉街道の跡ともいわれている。国府や、鎌倉から、上州、信州に通ずる路線の一つが通っていたことを示す。この路線に沿って大小いくつかの聚落が発達したであろう。いやそのような聚落を綴ってこの道路が通っていたといってよい。これ等の聚落の中、尤も着目されるのは、川の渡し場とか、谷の入口、峠というような要害の地であったと思う。武士の時代だったからである。守って利あり、攻めて不利なる地形の場所は、争って彼等の手中に収められたであろう。要所々々は争奪の的ともなったであろうと思われる。将軍沢や大蔵はこのような要所として注意され、源氏の諸族や世良田氏の勢力下におかれたのではないだろうか。
 将軍沢村には、他の村々のように農耕生活や民間信仰から生じた地名が多い上に、何か中世の武士の生活に関係していたらしいと思われる地名がしばしば見られる。高城はその一つである。「沿革」に「高城山は高さ四十余丈、中腹より上は岩石多く芝草が生え、それより下は樹木が茂っている。東は仕止山鞍掛山が連り、その下を流れる都幾川を目近に見ることが出来る。西の方は上大ヶ谷を発した恵智川が流れ、北の方は不添が森の松林を眼下に眺められる」という説明がある。武士の館などに好適の地形である。高城とか仕止山、鞍掛山などは武士の生活が直接原因となってつけられたか、あるいは武士の生活を見ていた人たちによって呼ばれるようになった名であると思われる。武士に全く無縁のものとすればこの発想は生じないはずである。
 矢の袋栗挾(くりぱさみ)、鳴池稲示場など今のところ不明の地名である。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)606頁~609頁


嵐山町誌176 根岸村

2009-08-29 09:24:00 | 大蔵

▽根岸村 根岸という地形の特長と名前の由来はすでにのべた。そして大蔵郷に属すとあるので、「大蔵館」の根岸であったかもしれないと想像したが、大蔵村と根岸村の関係では、観音様が安養寺の支配であり、村の鎮守神明社、三宝荒神社が安養寺持となっているから、両村の関係は深いと考えられる。安養寺は大蔵村鎮守山王社の別当をつとめている。いづれにせよこの村が古い開発の地であったことは、字名に我妻山シトメ山傾城谷等、昔の人達の意識や生活に結びついていると思われる名前があり、又都幾川の古い流路が残っていて、そこには皿淵女淵袈裟王淵などいう伝説めいた地名の場所があることなどから、推しはかることが出来る。

 我妻山(あづまやま) 吾妻山とも書き、前山ともいう。東北の二方は都幾川に向い、東南は神戸村の鞍掛山に連り、西は将軍沢村の耕地を一望し、北の一部は村内の水田、人家を見下ろしている。頂上に吾妻神社がある。祭神は日本武尊であるから、吾妻山の名は、日本武尊の「吾嬬者耶(あづまはや)」の伝説から出たものであることは明らかである。

 道灌(どうかん) 松山県道の両側字道上の一部である。珍らしい名前である。地元の古老に尋ねたが不明である。道灌といえば、すぐ太田道灌に結びつけたいところであるが、これは無理だろう。地名辞書によると「どうかん」と呼ぶ地名には、東京日暮里に「道閑山」があるだけである。この道閑山も太田道灌に結びつけて、道灌のつくった城のあとだという説がある。然し新編武蔵風土記稿ではこれを否定して、「大道寺幽山の落穂集追加に、ここは関道閑という人の屋敷蹟であるということを、北条安房守*が聞伝えていた。又谷中の感応寺と根岸村の善性寺は、関小次郎長耀入道道閑の開基であって、この人がこの辺を領していたというから、道閑山は関道閑**の住居蹟であることは明らかである。太田道灌が有名なので、近郷、ややもすれば、彼が事蹟に付会するのみ」***といっている。有名な道灌山(道閑山)でもこのとおりであるから、根岸村と太田道灌は縁がないようである。観音堂などと結びつけたい地名であるが、その手がかりが得られない。関道閑に関して同じ名の根岸村が出ているのは奇しき一致である。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)604頁~605頁

*北条安房守氏長(1609-1670)。後北条の一族、甲州流軍学の流れを汲む兵学者、旗本でオランダ築城法、攻城法、地図学なども学んでいた。地図作製当時は幕府大目付を勤めている。
**関道閑は、江戸付近の土豪。日暮里付近の「道灌山」という地名の由来は太田道灌と関道閑の両説がある。
***『落穂集』は江戸中期の兵学者、大道寺友山重祐(1639-1730)の1727年(享保12)の著作。徳川家康の出生から大坂夏の陣まで編年体にまとめたものと、家康の関東入国以後江戸時代初期の政治、経済、社会、文化等の各分野のおこりを随筆風に記録し、落穂選集といわれるものがある。

 道灌山之事
問云、今時本郷駒込之末に道灌山と申明候有之候、是も太田道灌斎江戸の城居住之節山居なども有之候哉其元にハ如何被聞及候哉、答て云、我等なども左様に斗相心得罷有候所に右江戸大絵図出来献上之前に至り、何れも致拝見候処へ岩城伊予守殿にも御出、江戸御城之噂など有之、伊予守殿久嶋伝兵衛に御尋候は、本郷の末に道かん山と申て有之候、太田道灌屋敷の跡にても有之候哉と尋給ひ候を以、側にて安房守殿御聞あられ、伊予守殿へ御申被成候は、あの道かん山と申ハ関道灌と申たる者の居申たる屋敷跡にて太田道灌とハ違ひ候と御申ニ付、其子細を承度候得共、岩城殿と安房守殿と対談の義故無其儀(そのぎなく)打過、三十年斗以前我等用事有之、毎度彼辺へ罷越ニ付在所之年寄たる者共に出合相尋候へ共、関道灌と申人の名を承りたる義も無之由申候也


嵐山町誌175 大蔵村

2009-08-28 14:12:55 | 将軍沢

▽大蔵村 「風土記稿」に「源義賢が久寿二年(きゅうじゅ)(1155)八月に武蔵国大倉館で義平の為に討亡されたということが『吾妻鑑』の外『平治物語』や『百練抄』などにも見え、義賢の墓もあり、又、瀬戸村の荻久保氏、馬場村の馬場氏、田中村の市川氏など近隣に義賢に仕えた武士の子孫も多いので、大蔵村が義賢の旧跡であることは間違いない。そして大蔵という地名は、久寿年間から称えていたものであることもわかる。」といっている。義賢の事蹟については、「風土記稿」の記載に従っておこう。然し大蔵という地名の起原は伝えられていない。後日の研究に任せることにする。

 寛文の字名中、坊の上(ぼうのうえ)は安養寺の上の意味であろう。

 特殊な地名としては、不逢ガ原(あわずがはら)がある。村の南方にあって中央から北は少し北東へ傾斜している。中央に一条の谷があって、平素は小泉が湧出している。これから南は平らな森で、将軍沢村の不添の森(そわずのもり)に属している。明治初年には村の秣場につかっていた。不逢ガ原の中央を流れる小泉は小谷から流れ出すもので、これを入加(にゆうか)堀といっている。この入加堀八王子街道と交るところに石の橋があり、これを縁切橋とよんでいる。この橋に祈念すると不思議に縁が切れると信じ、又嫁入、婿入の時はさけて通る。
 地名辞書では、鎌倉の栄えた頃、相模の国から上州や信州へ往来するものは、武蔵国の西部山添の地方を通り、府中から入間川に出て比企、男衾の山野を経由したとのべ、宴曲抄の中の「結ぶ契の名残をも、深くや思ひ入間川、此里にいさ又とまらば、誰にか敷妙の枕並べんと思へど妹にそはずの森にしも 落つる涙のしがらみは げに大蔵につき川の流も早く比企野が原、秋風はげし吹上の 梢もさびしくなりぬらん……」をひいて、その道筋を示している。
 宴曲は鎌倉時代から室町時代にかけて、貴族、武士、僧侶の間に流行した俗曲である。これは善光寺修行という道行きの歌詞に出ているものである。不添の森や縁切橋、不逢ガ原などがこの道中で、名高い風物として、往来の人の口の端に上ったことが想像出来る。それにしても、この人生の哀別離苦の悲しみを、風雅な言葉で表現した地名はどのようにして起ったのであろうか。

 入加(にゆうか) 入加はこの不逢ヶ原の地域で、昔は将軍沢村の地域に跨っていた。入加の意味は地元の古老も分らない。そこで大変に大胆な想像を試みれば、これは入会地に関係して出来た地名ではないかということである。前述のように不逢ヶ原は村民の秣場となっている。
 一定地域の人たちが共同で使用収益する場所は入会場、入会地、入会山、入付場、入稼場、立入場、立会山、稼場所、稼山などと呼ばれていた。入会はニューカイであり、入稼はニューカである。入会、入稼の文字を見て誰か学問のある人がこれを音読みした。文字を知らぬ里人たちはこれを真似て「ニューカ」といい、又誰かがその発音をきいて入加と書いた。あまり珍らしい文字と発音の地名なので右のような想像さえ出てくるのである。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)602頁~604頁


嵐山町誌174 鎌形村

2009-08-27 14:01:00 | 勝田

▽鎌形村 鎌形村の名前の起原は全く不明である。又、今の処、研究の手がかりも得られない。ただ「沿革」に「鎌形村 俚碑ニ曰ク 本村ハ鎌倉八幡ヲ遷セリト 因ッテ鎌形ノ語アリト云ヘリ」とあるからこれを参考に上げるに止める。次に「風土記稿」に「鎌形村ハ鎌形郷、大河原庄松山領ニ属ス」とあり、「沿革」ではこれを「松山領ニ属シ鎌形郷大河原ノ庄ト唱フ」といっている。一体この郷、庄、領というのは、どんな意味のものなのだろうか。
 古里村の項でのべたように大化改新によって、五十戸を単位として「里」が置かれ、この「里」が後に「郷」に改められた。郷は令制上の末端行政区劃である。ところが庄園が成立し、これが全国的にひろがるにつれて、私有地の荘や名に対して、国の開拓地は、郷又は保といったという。然しその郷や保も次第にその内容が変り、公私有に拘らず、土地の一区劃の名称ということだけになってしまった。応仁の乱からはじまり豊臣秀吉の全国統一と、徳川家康の幕府開設まで続いた一世紀半の戦国動乱のために、荘園の領主や守護、地頭などが、支配者としての位置を失い、これに代って新らしい支配者として侍が抬頭し、従来の名荘郷という土地所有の単位は破れて村を単位とする土地所有に代った。太閤検地は、村単位の検地帳を作って村の区域を確定したのである。従来の庄郷はここで消えたわけである。
 それにもかかわらず、風土記稿に鎌形村に庄や郷や領についての記録を掲げたのは、当時の土地支配の関係を表わしたのではない。かといって、過去の支配の過程を系統的に説明したものでもなく、いわば無秩序に名前を並べたものに過ぎない。編纂当時そのような伝えがあったことを示したものに止るものとうけとれる。つまり大河原庄と唱える庄園があって、ある時その下に属していた。鎌形郷といっていたこともある。領というのは戦国時代、群雄領地の意味であるから、松山領といえば松山城の支配下あったことを示しているという程度のものである。「風土記稿」の総説では、庄については、現在そう唱えているといっているだけで、その外の説明を加えていない。領は郡内に川島領、多磨川領、松山領の三つがあり、松山領は松山城のあった頃の、城付の村々のことであろうといっている。
 郷については、玉川郷を説明して「合村八、文禄三年(1594)郷中に御代官陣屋ヲ置レシヨリ、其支配ニ属スル村々イマ多ク玉川領ノ唱アリト云フ」といい、大蔵郷と鎌形郷については「大蔵村一村ニテノミ唱フレバ郷トイハンモヲボツカナシ村名ヲシイテ郷名トナセシモシルベカラズ」「鎌形一村ニ限レリ、大蔵村ニ同ジキカ」といって、玉川村は玉川領といわれる八ヶ村の中心地で、この八ヶ村を総括して玉川郷という場合には、その本郷に相当するものであるから玉川村を玉川郷というのは尤であるが、大蔵や鎌形のように一ヶ村限りで郷といっているのは、本来村と称すべきところを私称して、郷といったにすぎないという見解をとっている。郷とは、いくつかの村々を含んだ行政区劃だと考えているようである。そして郷も領も、本質的に変りがあるのではなく唯称え方のちがいだという考に立っているようである。要するに、庄、郷、領については、そのような呼び方の伝えがあることを書いたにすぎない。行政区劃としてはすべて村が単位となっていたのである。尚参考のため、「郡村誌」と「風土記稿」により、各村々の庄、郷、領の呼称を上げれば

▽亀井庄 根岸村、千手堂村(玉川郷松山領とある)
 大河原庄 鎌形村、遠山村
 水房圧 勝田村、太郎丸村、広野村、吉田村、古里村
▽松山領 鎌形村、大蔵村、遠山村、勝田村、太郎丸村、広野村、越畑村、吉田村、古里村
▽玉川領 将軍沢村、根岸村、平沢村(玉川郷ともある)

となっていて、菅谷や志賀の村は庄郷領の唱を称えずといっている。庄、郷、領は制度として画一的に存在したものではなかった。
 鎌形村の地名では女久保小畔千騎沢シヤラク屋敷夜打久保木ノ宮等が説明困難である。尚二、三の地名について考えてみよう。

 アナタ 今の曾利町の区域にある。穴田の意味であろう。曾利町にはドブ田もあるが、穴田というのはまるで穴でもあいているように馬の足など、スッポリと入ってしまう田をいうのだそうである。遠山にも穴田がある。この穴田は麦から一把位スッポリはいるという。平沢にはアナ畑といって、雨水などどんどん吸ひ込んでしまう畑があるという。志賀の籠田なども水もちの悪い田を称したものではないだろうか。

 木曾殿屋敷 「風土記稿」に「村の南方に竹籔から湧き出る小流があって、これを木曾殿清水といいひでりの時でも水が涸れない。その辺を木曾殿屋敷といっている。この附近に総計六つの清水があったが、今はその形も残っていない」と書いてある。木曾殿屋敷の地名は別に述べたように、この清水が義仲の産湯清水の一とも考えられ、又、義高の産湯清水だともいわれており義高はこの木曾殿屋敷で生れたのだとも伝えているから、その話から生じたものであることはすぐわかる。木曾殿屋敷の東、地続きに曹洞宗の禅寺(ぜんでら)班渓寺がある。これは義高がその母「威徳院殿班渓妙虎大姉」追福のために草創したもので、これを中興したのは寛永三年(1626)に死んだ鶴峯という僧であるとなっている。この説は江戸時代にも信じられていたもので、享保四年(1719)に同村の簾藤佐五左衛門という人が奉納した鐘の銘に「鎌形村威徳山班渓禅寺者木曾義仲 長男清水冠者義高為阿母威徳院殿班渓妙虎大姉所創建矣……」と書いてあるということが「沿革」に記されている。この鐘は戦時中金属回収のため供出し今はない。木曾殿屋敷で、義高が出生したという話とうまく結びつくわけである。又、八幡神社の神宝に銅の華蔓が二つあり、その一つは円形五寸五分の中に弥陀の坐像を鋳出して、右側に「奉納八幡宮□□」左側に「安元二丙申天(1176)八月之吉清水冠者源義高」と書いてある。「風土記稿」には「当初ニ置ケルユエンハ伝ヘズ」としてある。どういうわけでこの華蔓がここにあるのかわからないというのである。正徳年間(1711-1716)に書記したという「鎌形村八幡宮縁起」にもこのことは記してない。とに角義高が八幡宮に奉納したものであることは動かぬ事実であるし、その八幡宮が鎌形の八幡宮だとすれば、義高がこの地に何かの関係をもっていたことが想像出来る。宮崎氏【宮崎貞吉】の「菅谷村史」は大蔵谷の戦の時当時二才の駒玉丸、後の義仲が畠山重能に救われ長井の斎藤実盛を介して信州の中原兼遠の許で成人した。駒王丸の生れた場所を里人が「木曾殿」と唱したのは後世のことであるが、義仲は誕生の地を慕って、ある時ここを訪ね、その母が大蔵経長の娘であることを知り、その菩提のために寺を建てた。これが班渓寺である。義高も又、後日ここを訪ねて八幡宮に華蔓を奉納したのだと説いているが、事実はこれにうまく辻妻が合っているかどうか。甚だ疑わしい。義仲、義高二人の誕生に関する伝説が混同して区別出来ない。強いて区別すれば、この二人について、誕生の地、誕生の産湯が同じ場所で同じように二回行われたことになる。これは常識的に信じられない。然し伝説の通りではないが、何かこの伝説の生ずるような機縁が義仲乃至義高とこの地との間にあったのであろうということだけは分るのである。木曾殿屋敷はこの伝説にもとづいて起った名前である。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)597頁~602頁


嵐山町誌173 千手堂村

2009-08-26 17:17:53 | 千手堂

▽千手堂村 村名の起源については次のような伝説が、「沿革」に記してある。
「村上天皇の天暦三年(てんりゃく)(949)に千手観音堂を造営され、武蔵国比企郡に土地を給与された。それでその土地を千手堂村と名づけ、寺を千手院といった。寺の建物は一年余りで竣工した。その後、文治(ぶんじ、1185-1190)建久(けんきゅう、1190-1199)の頃に兵火にかかって、この建物は焼失した。そして更に数代を経て天文年中(てんぶん)(1532-1554)に幻室伊芳という住職の時再建した。ところが又々享保元年(1716)に火災にあって烏有(ちょうう)に帰した。然し観音像は無事であったという。又、菅谷の館に重忠がいた頃その家来がこの村に居住し、そこに塚が三つあって鎧塚(よろいづか)といっている。」というのである。これに対し「風土記稿」では、千手院の解説で、「当院は昔、わづかの堂であったが、幻室伊芳という僧が一院とした。それでこの人を開山としている。伊芳の命日は天文十五年二月朔日(1546年3月1日)である。又、入間郡黒須村の蓮華院の観音堂に掛けてある鰐口(わにぐち)の銘に『奉施入武州比企郡千手堂鰐口大工越松本、寛正二年辛巳十月十七日釜形四郎五郎』とあるから、この鰐口は千手院のものであり、寛正(かんしょう)の頃(2年は1461年)はまだ堂であったことが分る。」といっている。
 「沿革」でははじめから千手院であったといい、村名を千手堂村といったという。風土記稿では、寛正の頃はまだ千手堂であったといっている。院というのは一応形のととのった寺院であり、堂というのはただ仏を安置したにすぎない建物という意味がうかがえる。さてこれは千手院のいわれに関することで、直接村名について述べたものではないが、風土記稿の述べるように鰐口の銘文という動かぬ証拠があるとすれば、この千手堂が千手堂村の村名になったということは正しいと見なければならない。「沿革」で村上天皇の時(在位946-967)千手堂村と称したというのは、当時の地方制度の上から見ても異論のあるところである。とも角村の名は千手観音の千手堂から出たものとしてよいであろう。

 比丘尼山(びくにやま) 「沿革」雷電山(らいでんやま)の条に「本村の字比丘尼山から雷電山に登る道が一本ある。七丁余りあって、至ってけわしい。」といっている。比丘尼山は雷電山の西麓から中腹の地帯に当っている。比丘尼の住居でもあったのであろう。比丘尼は、広野の天ヶ谷(あまがやつ)でも触れたように、民間信仰に活躍した尼形の巫女(みこ)で、元は熊野修験者の妻であった。千手堂では最近まで、熊野信仰に基く神事芸能が行なわれていた。これについて昭和三十七年(1962)七月の「菅谷村報道」に、行者西沢富次郎氏の体験談が紹介されている。これによれば火渡りや、剣の刃渡りなどの神事が行なわれ、信者たちはこの神秘な行事に驚嘆し、争って火ぶせ厄除けのお札を頂いたという。火渡りの神事は次のようにして行なわれる。
 先ず松薪(まき)百本を積み重ねてこれに火をかける。中座と称する行者を中心にし講人がこれを囲んで祈禱をはじめる。「オンサンバタラヤシリソワカ」の呪文が口々に繰り返えされ、祈禱が最高調に達すると、神が中坐にのりうつる。中座の手にある大幣束が風もないのに急に逆立(さかだち)する。両足を堅く縛って胡座していた行者がそのまま二、三尺跳とび上る。かくして神霊がのりうつり精神統一の出来た行者は、やおら立ち上って、燃えしきる猛火の上を、真跣足のまま歩き渡るのである。行者の目には炎の色がカニ色に映り、熱さを全く感ぜず、火傷もしないという。
 刃渡りの方は、剣の刃を上に向けて、梯子のように組みたて、これを垂直に立てて、これを昇り、且つ降りるのである。西沢さんは十三段の梯を昇降した。勿論怪我はなく、つるぎの刃元からは白い御光のさすのを感じたそうである。この熊野信仰は数人の同志により講が結成され、熊野神社の社(やしろ)も建てられた。
 本山派に属する修験者が昔の村々に居住したことは前にのべたが、この本山派の中央根本道場が、和歌山県の熊野山であった。院政の行なわれた頃、法皇、上皇がたびたび熊野詣をしたので、その風が一般民衆にも及び、中世には熊野参詣が大流行となった。熊野道者が全国各地から集ったのである。これに呼応して熊野山からも、御師や先達などが出て霊験の宣伝につとめた。この御師や先達、道者のあるものが山伏である。山伏は近世になると、村々に住みつくものもあり、神社の神職としてくらすようになった。修験道は天台や真言の密教と習合して成立したものであるから山伏は寺院の支配に属し乍ら、一方では神職として神社に奉仕したのである。元来山伏は神道的な作法に馴れていたからである。この山伏には、妻帯の禁制がなく、巫女を妻として神社に仕えて来た。この巫女が比丘尼である。比丘尼は熊野山伏の憑り祈禱の時、ヨリマシ尸童の役をつとめたものであったことも前にのべた。火渡り行事の中座というのはこれに似たものであろう。巫女は近世になると口寄せといって、生霊(いきりょう)を呼びよせたり死霊を呼出したり吉凶禍福を語ったりする「おがみ」を行って生計をたてたりした。諸国を廻り歩いているものや、村の堂に籠(こも)り定住しているものなどがあった。関東地方では、これを口寄せ、梓巫子などというとあるが、この土地で昔「イチコ」といったのがこれに当ると思う。
 さて話が大分横道に入ったが、千手堂村の熊野信仰の起原は語られていない。内田孫三郎さんの話によれば西沢さんより前に福造さんという先達があって、この人が熊野講をはじめたという。然し最近までこの信仰があったという事実は、ずっと昔からこの信仰があったか、又は近世になってその信仰が講となって実現するような信仰の基盤が前から存在していたかを示している。従来何にも関係のない処女地に、この信仰が突然に出現するとは考えられない。そこで古くから信仰があり、又はその素地が養われていたとすれば、その根元となったものは、山伏の活動とか、その妻である比丘尼のはたらきであったろうと想像することが出来るのではないか。西沢さんの語る火渡り神事には、ヨリマシとしての巫女は出て来ないが、これは最近になって変形したもので、本来は矢張り女性のヨリマシであったのではないだろうか。こんなわけで比丘尼山はこの熊野信仰の角度から、そうした比丘尼に関係して生れた地名であると考え得るのではないだろうか。若し又、熊野には関係ないとしても、口寄せを業とする比丘尼の存在は明らかな事実であるからこのような比丘尼に関係した地名とも考えられるわけである。
 尚、内田孫三郎、高橋正忠両氏の語るところによれば、比丘尼山はもと五郎谷といった。ここで死んだ人などあり縁起の悪い場所と考えられている。住家のあとのような平地があり、椎かしの古木があった。この古木の下に尼さんの住んでいたという比丘尼堂があったらしい。布目瓦の破片が出たという。比丘尼の住居があったのだろうという想像はあたっているのである。

 小千代山 「こじょう山」と発音する「口上山」の意だという。平沢の舞台でキリスト教信者が芝居をし、その口上が聞こえたのでこの地名を生じたというが、これは付会のようである。

 トイの入 樋の入である。ここには豊富な清水の湧く井戸があった。谷の一番奥で、摺鉢の底のような地形になっており、周囲は大木が生い繁って夏でもヒンヤリする場所である。旱魃の時はこの水を汲んで生活した。この湧水から生じた地名である。今は木を伐ったため水が長もちしないという話である。

 阿弥陀の又 阿弥陀様の堂があり、今もその跡に石碑がある。門先はその門先の意味であろう。この辺に信仰の建造物があったものと思われる。その他の地名については調査が及ばない。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)593頁~597頁


嵐山町誌172 遠山村

2009-08-25 01:11:21 | 嵐山町誌

▽遠山村 「沿革」に遠山村の地形について、「北に物見山を負い、この山脈があたかも屏風のように連り左右に開いて東は大平山、西は寺山で止っている。南は小倉城址から山脈が東の方に延びて、槻川がその裾を流れている。この山々に囲まれた平坦地は民居や耕地となっている。槻川は平常舟が通じないで、出水の時筏が通るだけである。」と書いてある。山間の盆地で、他との交通が不便なので、周囲の人達からは、遠い山中と感じられたのであろう。村名の起りはこのように常識的に考えてよいと思う。
 「風土記稿」に「遠山寺本堂の軒に釣鐘がありこれに『遠山右衛門大夫光景家臣杉田吉兼』という者が鋳造して納めた鐘がこわれたので、元禄十一年(1698)に再造したと書いてある」とのべている。この鐘は今はない。
 遠山光景は隣の田黒村にその城址といっている場所があるから、遠山村もその所領だったのだろう。遠山寺も光景の開基とされている。光景の事績はよく分らない。多分北条氏に仕えた人であろう。遠山はその在名(ざいみよう)である。
 遠山村の地名についても、今までに度々ふれてきた。尚冥加沢は植物の「みようが」には関係ない場所だという。物見山の南側に冥加沢打越谷と二条の谷間があり、湧水が絶えず流れて梅の池に入っている。冥加の意味は不明とされている。その外、サイモジヤト白石大境等も解明不能である。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)592頁~593頁


嵐山町誌171 平沢村

2009-08-24 01:04:00 | 嵐山町誌

▽平沢村 平沢寺は成覚山実相院といって、昔は大きな仏寺であった。それで平沢村もこの寺領の中に含まれていたことは勿論である。そのためにこの村の地名は、この平沢寺やその鎮守の白山の社、別当院坊に関するものが多い。これ等のものをあげると

 延命橋(えんめいばし) 現在の延命橋のある地帯、この地区に延命と称する寺があったので地名となったという。

 深山(みやま) 御山房があった。三山(みやま)ともいった。これはオソバシシコスイタカンボの三山を指すという。

 下道寺(げどうじ) 解道寺の意味である。

 知明ヶ谷戸(ちあけがやと)は、知明院(ちみょういん)という寺院があったのでその名から出たものである。

 赤井(あかい)は仏前に捧げる閼伽の水を汲んだ井戸ために生れた地名である。この井戸は現存し、一時は平沢地区給水施設の水源として利用された。見るからに、清澄な湧水が滾々と豊富に流れている。

 兵庫屋敷(ひょうごやしき) 延命橋の上の堰のあるところで、持正院別当七代目奥平兵庫がこの辺を開墾して水田とし、堰を作って水をひいた。堰(せき)を兵庫堰という。その屋敷にちなんで地名となったという。

 神花道(じんがどう)・遠道(えんどう)・デチウ坊等いづれも堂、坊の所在にもとづく地名らしい。

 掛折(かけおり) 地形によるもので、菅谷から延命橋の方に傾いた場所、駈(か)けおりる意味である。

 舞台(ぶたい) 南と東にゆるやかな傾斜をもつ高台である。舞台の名にふさわしい。

 膳棚(ぜんだな) 金平にあり、これも傾斜地を利用して、だんだん状に水田が作られている。それで一枚一枚の田は小さく五畝の面積が六枚の田に分けられているのもある。田毎の月を見る地形である。膳棚と名づけてその景観を現わしたものである。

 トウカ面は、灯火面であろう。

 オソバはわなをかけて獣をとる場所の名である。

 挽野田(ひきのだ) 比企郡のヒキと同じ意味だと思う。「比企」は低いという意味だという。「比企郡は低くくぼんで水田が多いのでこの名が起った」という説がある。ヒキと発音する地名は全国的に存在する。その中で、信濃、安曇郡の日岐だけに地形の説明があり、「これは今広津村といっており、池田の東一里半ばかり犀川の西岸にある。対岸は生坂村と八坂村で共に岡巒(こうらん)の間に居る。」とあるから岡の間にある低い土地であることが分る。そこで郡名の起原であるひくく、くぼんだ土地というのはどの辺を指したものか、おそらく今の川島村【現・川島町】辺でなければならない。和名抄には比企郡の中に、郡家(ぐうけ)渭後(ぬのしり)都家(とけ)醎瀬(からせ)の四つの郷名をのせている。「風土記稿」では郡家は仙覚の「万葉集抄」に「文永六年(1269)於武蔵国比企郡北方麻師郷政所記之」とあり、麻師宇というのは今の増尾村のことである。ここは秩父郡から比企郡に出る咽喉(いんこう)に当る。だからここに郡家(郡役所)があってその名残の地名かも知れないといい、役所と郡家を結びつけ、渭後(ぬのしり)は郡の東部はみな水涯(水のほとり)であるからこの辺らしいという。「ぬ」は沼の意である。「ぬた」というのは沼地湿地を意味する地形語であるからこう考えたのであろう。又、都家(とけ)は西平(にしだいら)・雲瓦(くもがわら)の二村を都幾庄(ときしょう)というから、これは都家が転化したものだろうといい、醎瀬(からせ)は唐子村(からこむら)も或はこれが訛ったのではないかと考えている。「風土記稿」では和名抄の時代には(延長年中、923-930)、今の比企郡(吉見村【現・吉見町】を除く)の形が出来ていたと考えているようである。然し別項のように吾妻鑑元久二年(1205)の条には男衾郡菅谷館とあるから、菅谷の地区は男衾郡に属していたことになる。「風土記稿」では郡名は誤って書いたのだろうという見方をしている。私たちは吾妻鑑の記載に従って考えを進めよう。仙覚抄になって増尾村(ますおむら)の辺まで比企郡がひろがっている。仙覚が比企郡北方といっているのは、朽木家の文書中に、比企郡南方岩坂郷という語と相対するもので、南方が本来の比企郡、北方は男衾郡が合併した部分を指しているのだろう。はじめは横見郡と入間郡との間の狭い土地を比企郡といったのだという地名辞書の考え方が当っていると思う。又、比企を在名とした比企能員の根拠地は川島村の中山村である。越辺川に沿う低湿水田地帯である。ひきが、くぼんだ低い土地という意味であるとすれば、郡名のおこりは矢張りこの辺の地形を指したものと思われる。それが北方にひろがり男衾を合併して今の比企郡になった。(横見郡は明治二十九年(1896)比企郡に合併した。)私たちの村々を含む比企郡の西北方は、丘陵地帯で低湿地とはいい難い。比企という地名に合致しない。この辺はあとから比企郡に編入したのである。従って「風土記稿」の四郷の比定は誤っている。これは地名辞書でも指摘している。即ち郡家郷は今の野本村の古郡であり、郷の政所と郡家とは別ものだとして、摩師宇説を排し、からせ郷は松山町、福田村、伊子村の辺といい、都家郷は今の高坂村であるといい、渭後郷についてだけ賛意を表して「今出丸、中山、伊草、小見野など市野川の南、荒川と越辺川に囲まるる低野を指す如し、渭後とは沼沢の後辺の謂なるべく、今も小見野と野本との間、沼沢の遺形を弁識すべし。けだし郡名比企も、此沼沢と相因り、低野の義に出づるか」といっている。私たちの考え方と一致している。平沢村のような地形にはまわりが高くくぼんだ低い地が所々ある筈である。挽野田はこのような地形の場所であろう。然し現在は不明である。唐子村の引野は平坦地である。何故低湿地が「ヒキ」といはれたかは分らないが、低湿地は各地にあるから「ヒキ田」「ヒキ野」などどこにあってもよいわけである。串引もこの「ヒキ」と関係あるものかもしれない。

 その他不明のもの京枝ツブロウカおしがさわ塩谷カチ畑などがある。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)588頁~592頁


嵐山町誌170 志賀村

2009-08-23 16:23:18 | 嵐山町誌

▽志賀村 「沿革」に昔は「四ヶ村」といったが、後に「志賀村」と改めた。然しその年代は不明である。又、元は菅谷村と一ヶ村であったが、寛文年中(1661-1672)に分村して独立したものであると書いてある。「風土記稿」もこれと一致している。そしてこの村は正保年間(1645-1648)の図面には載っていないが、元禄の図面には出ているから、寛文年中に分村したものだろうという説明を加えている。
 志賀村の名称の起りは「四ヶ村」であったというところまでは分るが、何々の「四ヶ村」であったかという点は不明である。この村にも古い地名が多い。その大部分についてはこれまでに紹介して来たが、尚特殊なものを上げると次のとおりである。

 ザラメキドウドウメキ これは水の音を形容した地名で、その例は他国にもある。瀬の早い川の岸にあるや田畑にこの名がついている。ザラメキは、ザワメキで、ザワザワと音をたてることで、どよめくという動詞が、どよめきという名詞になったのと同じ形である。ザラメキ、ドウドウメキは、はじめ、川の水音のするその一地点を指したものであろうが、やがてその名が周囲にひろがって、これを含むややひろい地域がその名で呼ばれるようになった。後代の人はザラメキの地域の中に、その名に相当する事実がないので、その意味を忘れたり、その付近に新しく人の関心をとらえるものが現われたりすると、その方に注意をひかれて、別の名前になってしまったりする。志賀村でも、ドウドウメキといっている場所は今もあるが、ザラメキは地名も場所も不明になっている。(高橋甚右衛門氏談)

 吹上(ふきあげ) 前掲水の音から起った地名に対して、これは風の吹く状態から出て来た地名である。東昌寺裏の東上線の北側の地域である。束昌寺坂を登ると菅谷村の地内で、古くは吹上げの坂上といった。吹上げの起原については、朝日新聞の埼玉版題字下の「地名を探ねて」でもいくつかの説を紹介しているが、この吹上げは風の吹き方を形容したものである。冬になると西北の季節風が志賀県道に沿って烈しくこの村を通り抜け、鼠島蜻蛉橋の水田地帯を渡って、菅谷台地の北斜面に吹き上げる。ここを吹上とは全くうまくつけたものだと感心させられる。吹上の東は向原で、これも別に書いたように、季節風の吹きぬける場所である。志賀村の吹上げは風の吹き方から出た地名である。これと同じものが遠山に二つある。風早横吹きである。風早は、平沢と遠山との境の高地で風早山がある。風当りの強く、風通しのよい場所であり、横吹きは大平山の西傾面で小倉からの風がここに横に吹きつけるからだという。

 我田分(がだぶん) 市の川に沿い、七郷県道の西側の地帯である。古くは滑川村加田の領分であったので、この名が生じたという説がある。然しこれはおかしい。加田はもとの中尾村の一部で、加田と我田分とは離れてその間に水房村、太郎丸村などが介在している。別の意味があると思う。「沿革」には「我田分野」の状況をのべて、地形は頗る低く平素湿地となっており、ややもすれば冠水をうける。草木はなく冠水のたびに肥土(へどろ)を置くので、村民はこの土を削りつって肥料に充あてている。といっている。村持の共有地である。我田分の名はこの地形とも結びつかない。

 押出し(おんだし) おんだしと呼んでいる。山崩れの場所らしい。そのような地形をしているという。山の先が突き出ている突端のこと押出しという場合があるそうである。

 その他地元の人も意味不明といっているものに、尾先(をさき) 清岩(せいがん) 石合(いしあい) 三角(みかど) 芝付(しばつけ) 道光田 蚊山 津金沢(つがんざわ) 船頭田(せどうた) ソヤ潟 鼠島 芝際 千部経 田通し 町屋 トウカの前がある。
 読み方まで不明のものに、潟田所柄の二つがある。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)586頁~588頁


嵐山町誌169 菅谷村

2009-08-22 15:57:00 | 嵐山町誌

▽菅谷村 「沿革」に「往昔ハ須加谷ト書シ寛文年中(1661-1672)今ノ字二改ムト」とあり「風土記稿」にも同じように書いて「梅花無尽蔵二長享年間(1387-1488)、須費谷之地平沢山ト云フコトミエタリ」といい、正保年間(1645-1648)にはまだ須賀谷で、元禄の図面には菅谷と書いてあると説明している。
 菅、菅山、菅田、菅沼、菅野、菅原、菅内、菅生等、菅のついた地名は全国的に多い。地名辞書によると菅谷だけでも北足立郡桶川町の菅谷村、千葉県山武郡の菅谷郷、茨城県結城郡の菅谷、那珂郡の菅谷、福島県相馬郡の菅谷(須萱とも書く)及び菅谷郷など数ヶ所を数えることが出来る。
 さて文字はどう書いてあっても「すが」は「すげ」であろう。
 菅(すげ)はカヤツリグサ科のスゲ属にぞくする植物の総称であり、日本には二五〇種もある。山野に自生し茅に似ている。茅はチガヤ、ススキの類であると書いてある。
 菅の生い茂った山野の印象から「菅」何々の地名が生じたと考えて間達いないだろう。菅谷もその一つである。菅は全国的に分布するというが「菅」のつく地名は大和より東方の国々に多い。とくに菅谷は埼玉、千葉、茨城、福島の諸県に存在していることなどを見ても、「武蔵野はかや原のみとききしかど」という後土御門天皇の御歌のように、東方の未開発地に来るに従って草原が多く、菅谷などと名付けるにふさわしい土地が各所に広く連っていたのであろうと思われる。私たちの「菅谷」もこうして起った地名であろう。然し「谷」とはおかしいではないか、今の菅谷の地区は、旧菅谷村でも高台の地である。「谷(たに)」といっては当らないという疑問が出ると思う。然し「谷」はタニではなく「野」の意味であることはすでに述べた菅の自生した野の意味である。高台の地であって一向さしつかえないのである。

 寺山(てらやま) 寛文の検地帳に出ている寺山の地域が現在も寺山と呼ばれている。農士学校の敷地の場所である。「風土記稿」には、東昌寺は元、長慶寺といって、古城の鬼門にあった。誰が開山であるか伝わっていないといっている。鬼門は丑寅(艮)の方、東北隅で隋書に「廻風従艮地鬼門来」とあり、ここは万鬼のあつまるところで毒気がこもっているとも説き、日本でも東北の隅は日之少宮(ひのわかみや)の所であるから犯してはならないとされていた。日之少宮は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)のおられた宮である。比叡山は王城の鬼門、寛永寺は江戸の鬼門であって、いづれも東北の方角に当る。寺山の名はこの長慶寺の所在地であることから起ったと考えられる。農士学校の崖下、本丸と二の丸との境の谷の出口付近を、もと長慶寺渕といっていたというから、この崖の上に長慶寺があったと思われる。とすると長慶寺が古城の鬼門にあったとする説はおかしい。寺山は古城の東北ではなくて東南である。この矛盾はどう解決したらよいだろうか。一説には川島の鬼鎮神社が、菅谷の館の鬼門除けとして祀られたのだといわれている。これは東北方に当っているから鬼門としての条件には叶っている。長慶寺が古城の鬼門だとすれば、この方角に持って来なければならない。然しそれでは長慶寺渕の名が無意味になる。それでは結局のところ「風土記稿」の古城の鬼門という説は誤りとしなければならないだろうか。
 「沿革」の寺院の項には、東昌寺について「往昔ハ長慶寺ト云ヒシ由、村ノ東方多田堂トモ千日堂トモ云ハル堂地ニアツテ、年久シク無住ナリシヲ本寺九世ノ僧、村民関根孫右衛門ト謀リ、今ノ地ニ移シ、旧寺名ヲトリ山号トシ……」とあって、長慶寺は村の東方の多田堂(千日堂)の敷地にあったと述べている。そして別に「多田山千日堂」について、これは村の東隅にあって開基は志賀村の多田平馬、正徳四年(1714)に建立したものである。ここは昔の長慶寺の廃寺跡で、宝永二年(1705)に多田平馬がこれを領主の岡部元親から貰って、堂宇を建立したのである。といっている。千日堂の地はもと菅谷小学校の敷地内で、古城の東北方に当る。ここが長慶寺の廃寺跡というのであるから、長慶寺は鬼神様と同様に古城の鬼門である。然しこれをとれば、前述のように長慶寺渕や寺山の名が無意味となる。
 この矛盾を解く鍵は案外手近い場所にあった。今、千日堂(観音様)の傍に一つの石碑が残っている。この碑文に「武蔵国比企郡菅谷村者畠山重忠之墟也 方盛城傍置仏寺曰長慶 至中世遷於此云 寛永中岡部某公受邑是地 有故廃寺 宝永三丙戌(1706)遂以其址賜先太夫多田重勝 命永為塋域 乃安干千手大士多田堂……」
とある。寛政九年(1797)に多田英貞が誌したものである。
 これによれば、城の盛んな時代に重忠館址の傍に長慶寺を建立した。その後中世になってその寺をこの地(千日堂)に遷した。而してこれが廃寺となっていたが、多田氏が貰いうけて千手観音を安置して多田堂といったというのである。これで先の疑問は一切解決する。長慶寺ははじめ寺山、長慶寺渕の崖上の辺(あた)りにあったのである。然し鬼門除けの意味ではなかった。中世になりこれを千日堂の地に移した。あるいは城の鬼門除けのためであったかもしれない。この寺が廃(すた)れたあとに千日堂が建立されたのである。その廃寺が復活して長慶山東昌寺となったという筋道になる。これで「風土記稿」と「沿革」の記載が了解出来るわけである。寺山は長慶寺所在の地名であった。

 渕の端(ふちのはた) 都幾川は農士学校下の崖の下に大きな渕を作って流れていたらしい。今の坂下の一部に渕の端の地名があった。農士学校の水田の辺らしい。

 (じょう) 現在の城の地域は、城の内城の下城の堀合など、いくつかの小字に分れていた。いづれも城を目印しにつけたもので、古城が菅谷村の代表的な施設であったことを示す。

 東裏(ひがしうら)、西裏(にしうら) 今の東側西側の地域と考えてよい。東裏、西裏となるともう菅谷の中心部は、城を離れて街道筋に出たことを示す。そのころの街道は今の菅谷の国道から志賀を経て奈良梨に通ずるものであった。これを示す資料として「風土記稿」に天正十年(1582)北条家から奈良梨の鈴木氏に対して発せられた伝馬継立の掟書に
「一西上州表伝馬之事 奈良梨より高見へ可次 此方者須賀谷へ可次事」とある。菅谷、奈良梨、高見、男衾、寄居を連ねた街道があったのである。
 同じ「風土記稿」に「奈良梨村諏訪社は、古くはこの近辺十五ヶ村の鎮守として崇敬された大社であって、その一の鳥居は須賀谷村、二の鳥居は中爪村にあったといっているが、当該村にはその伝えがないからあやしい。」といっている。鳥居の存在はともかく、そのような通路のあったことを示す資料としてよい。
 志賀村でもこの街道をはさんで、東町裏西町裏とがあった。同じ道路によって発想された名前である。もう一つ菅谷にも志賀にも、この道路から分れた場所に「横町」の家号がある。地名から来たものだろう。木村智昭氏と滝沢丑造氏である。成程志賀県道を本街道とすれば、これは横町というにふさわしい場所である。
 以上のような点から、菅谷の街道は志賀に通じるものが本街道であったことが分る。この頃からこの街道に上、下の区別がおこり、裏側には西裏東裏の地名が生じ、城に通ずる地区に本宿の名が出来て来たのであろうと思われる。

 御陣屋裏(ごじやうら) 今の久保の地区で、ここに山続御陣屋裏との二つの字があった。陣屋は江戸時代、領主代官の役宅である。陣屋は今の中島長吉氏の屋敷の辺にあったという。

 天神廓(てんじんくるわ) 重忠像の手前水溜りのそばの高い場所だという。天神社(風土記稿所載)のあったところであろう。

 女堀(おなぼり)の起原は不明である。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)581頁~586頁


嵐山町誌168 太郎丸村

2009-08-21 10:24:09 | 勝田

▽太郎丸村 この村は明治の地租改正の時、従来の字名をすてて、十二支の子から亥までの十二と十干のとの十三の字名に統合改称したので古い地名は不明になっているが、残ったものを拾うと前掲のようになる。この中に居屋敷瀬戸申山など問題の名称がある。
 瀬戸は全国的に数多く、尾張の瀬戸はセトモノで有名である。「せと」という言葉の意味は小さな海峡であり、せとぎわは瀬戸と海とのさかいのところであるという。尾張の瀬戸は陶処(すえと)の訛りであろうといはれる。太郎丸の瀬戸はこのどちらにも当っていない。郡村誌によると、瀬戸内谷(うちやつ)の北に当る地域となっている。背戸の方角である。背戸の呼び名が有名な瀬戸に転じたのではないだろうか。
 申山は勝田の猿田と同じように、猿を山の神の使者、又は、猿神として信仰したことから出た名前であろう。尚、猿のつく地名については明治初年にも猿、鹿、猪など数多く付近の山々に棲息していたという記録があるから、現実に猿が棲んでいたのでその名が起ったと考えてもよい。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)580頁~581頁


嵐山町誌167 杉山村

2009-08-20 10:18:00 | 嵐山町誌

▽杉山村 村名についてはすでにのべた。村内の地名についても、解説し得るものはその都度触れて来た。難解なものとして稲笠笠張くつがた清明、その他では火打田杢の入等がある。

 本繩田(ほんなわだ) 検地のことを竿入繩打などというから、正式に繩を入れ検地をうけた田という意味ではないだろうか。

 関口(せきぐち) 市の川をさかのぼってはじめての堰のあるところである。市の川の水が灌漑に利用されるのはこの堰から上流である。これが地名の生れた理由であろう。

 又、特殊な地名として初雁不二彦氏から報告のあったものに代官面(杢の入)、御前田(谷、関口)、六万坂(谷前)、御林とね山(薬師前)、十三塚(表猿ヶ谷戸)の六ヶ所がある。これについて考えてみよう。代官面は、前述のように、代官の行政費を支弁するために設定された耕地であろう。領主は江戸時代の森川氏に限定せず、もっと古い時代の領主と考えてよいだろう。御前田はこれと同工異曲のもので、地元では御前(ごぜん)様の田と伝えているらしい。御前様は地位ある人の敬称である。これも領主、殿様に限定せず、その地区の勢力家、土豪の手作地と考えてよいだろう。前述のように関口は帯刀、杢の入は、大蔵院の勢力の地であった。これ等の人か、あるいはその父祖が御前様とよばれたのだろう。
 御林とね山は、領主直轄の山林、即ち百姓が自由に立入ってこれを利用することの出来ない山林、これを留山といった。とね山はとめ山の転じたものであろう。
 十三塚は、一つの場所に大小十三の塚がならんで立っているのでその名がついているが、塚の起原についてはまだ不明だとされている。とに角供養の場所であったらしいという。十三塚の地名は十三塚があったので出来たものだということは疑いない。今、塚はない。六万坂は金子慶助氏による(『菅谷村報道』一四七号「首なし地蔵」)と、杉山村の北部を東西に通ずる道筋にあり、今の切通しとは異り、古くは北側の丘陵の中腹をゆるやかな傾斜に従って登る長い坂道であった。杉山城主源経基が六万部の大般若経を埋めた場所と伝えられ、その経塚が今も残っているといっている。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)579頁~580頁


嵐山町誌166 広野村

2009-08-19 12:33:00 | 勝田

▽広野村 村名の起原については既に述べたので、二三の地名についてその由来をたづねてみよう。

 天ヶ谷(あまがやつ) 深谷の一部にある地名である。地元ではそのいわれは不詳だといっている。同じ広野村の飛地、川島には、天沼(あまぬま)があり、吉田村には雨ヶ谷戸(あめがいと)がある。これらの「あま」は尼ではないだろうか。尼は出家した女性で尼法師、比丘尼などともいう。千手堂村に比丘尼山がある。比丘尼が住んでいたのでこの名がおこったのではないかと思う。私たちの村々にも比丘尼の活動のあったことが想像出来るからである。この比丘尼は民間信仰に活躍した尼形の巫女(みこ)で仏教でいう比丘尼とはちがって、元来熊野修験者の妻であった。そして熊野山伏の祈禱の時、その「ヨリマシ」の役をつとめたものだという。近世は主として口寄せを業としたり、巷(ちまた)に立ち門戸にただずんで雉の羽根をもって地獄極楽の絵解きをし、口承文芸の伝播(でんぱ)者として活動したと説かれている。この比丘尼がこの辺にもやって来たにちがいない。その活動のあとが、あまがやつ比丘尼山等の地名に残ったのではないだろうか。比丘尼については千手堂村で再び触れるつもりである。

 荒井(あらい) 荒井は新居であろう。勝田の西新井と同じである。

 金皿(かなさら) 金皿には金讃社がある。児玉の金讃村の金佐奈神社を遙拝するために建てた社だという。それでこの名が起った。金皿の一部に大明神という場所がある。ここにも祠がある。神佐奈の社が風で吹き落されて、大下の権田氏の氏神として祀られているという。児玉の金讃とこの地との関係が不明である。児玉の金佐奈神社については、神祗志料に「金佐奈神社の後の山を金華山といい、銅を掘った岩穴が今でもあるという。それで『金佐奈』というのは多分『金砂』の意味であろう。銅を出す山なので、之を神として祭ったのであろう。」といっている。金皿は金塚と共に、金物の鋳造などに関係して起った地名だと思う。これは別に説いたとおりである。

 深谷(ふかやつ) 深谷は現在八宮神社のあるところで、谷(ヤツ)の地形ではない。深谷の沼があり、清水も湧いて水田になっているところもある。地名の理由が了解しがたい。越畑にも深谷がある。これは大体地形と一致している。

 慶願(けいがん) 慶願には慶願寺という寺があったという。竹の花の一部の地名である。「風土記稿」にはこの寺のことを伝えていない。広正寺は元、万福寺といったとあるが、万福寺と慶願寺の関係は分らない。果して寺院の名から生れた地名であるかどうか疑わしい。

 的場(まとば) 陣屋(じんや)は杉山城下の的場、陣屋の所在地と考えられている。一応これに従っておく。川島の屋田前述のように不明である。

 尚、大田坊については金子慶助氏の研究を紹介しておく。大田坊は広野村の、中南部にあって西は杉山村に粕川を跨いで、水田六町、畑二町、平地林一・七町と宅地を含む地域である。杉山村の猿ヶ谷戸の崖と、広野村の畑地の間に狭まれたせまい場所で、洪水のときには沼のようになって、なかなか水のひかない低湿地である。ここに「ダイダン坊堰」がある。大田坊は、ダイタラボッチ(大太法師)の伝説から来た地名である。この伝説は、昔ダイダン坊という大男が、土を一ばい入れた籠を背負ってここを通った。その時の足あとの一つがダイダン坊堰のあたりに残り、もう片方は羽尾辺にある。籠のめどからこぼれた土が太郎丸の「御堂山」である。めど山が御堂山になったのである。という内容である。そしてダイダン坊つまりダイタラボッチの伝説は関東地方に多く、これが地名となったものに、東京の代田、浦和の太田窪などがある。千手堂にはデイラ坊の「あっしこ沼」がある。これもこの巨人伝説に関係あるものだろうとつけ加えている。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)577頁~579頁


嵐山町誌165 勝田村

2009-08-18 15:29:34 | 勝田

▽勝田村 勝田の名は、吉田と同様、よい水田の村という意味であろう。吾妻鑑の建久四年(1193)の条に、武蔵国、勝田の地を毛呂太郎に与えたという記事があるというから、古くからの地名である。勝田、勝山、勝浦など武将には縁起のよい地名である。毛呂太郎は満足したことだろう。

 柳町(やなぎまち) 勝田村の東部、滑川に沿った耕地で、上田の場所である。町は田の一区劃を意味する言葉である。これに柳がついたのは何故だろう。柳のついた地名は他村にもある。志賀村の柳原柳町、平沢村の柳原、鎌形村の柳沢、越畑村の柳原、杉山村の柳田など大分多い。委員会の意見をきくと、柳は護岸に植えたものである。川岸の崩潰を防いだのだという。そのために柳の地名が生れたと考えてよいだろう。柳原といっても、それは昔のすがたで、今は開発されて耕地となり、その中を小川がうねうねと流れる。その護岸に柳を植える。このような風景の地名である。

 猿田(さるた) 広野村下広地(耕地)の上にある山の部分で水田はない。農村では猿を山の神の使、あるいは山の神そのものとして考える習慣がある。村内の各所に庚申塚や庚申塔が残っているので、庚申講や庚申待があったことが分る。この庚申信仰も猿を神の使と考えていた。猿を猿田彦神に連想して、庚申塔を道祖神の碑と同じように扱った例もあるという。猿田の名はこのようなところから起ったのではないだろうか。庚申塔でもあったのではないか。

 尺尻(しやくじり) 高山は勝田村で一番高い所である。この高山と猿田の間に狭まれて尺尻の沼がありこの附近を尺尻という。勝田村には石神があり、これは社宮司の項でのべたが尺尻も又しやぐじの転化ではないかと思う。

 花見台(はなみだい) 風雅な地名である。高倉の地域にある。ところが別の場所に花見堂がある。昔は堂が残っていたという。花見でもした場所かと考え易いが、そのようなレジャーを楽んだ人は一体何者だろうか。農村には縁が薄いようである。一茶の句に「里の子や鳥も交はる花御堂」というのがある。花御堂は四月八日の灌仏会に、釈迦の誕生像を安置する小さな堂で花で屋根を飾って供養する。私たちの記憶にも新らしい行事である。里の子供達には楽しい年中行事であった。花見堂はこの花御堂であろうし、花見台にもこのお堂があったのではないだろうか。そして越畑村の「花火原」も、花見原とすれば花御堂に関連させ同じように考えられると思う。川島の花見堂はいうまでもないだろう。

 金塚(かねづか) 現在塚はないが、庚申様を祀ってあったという。前述のように庚申塚を金塚、金井塚という筈はないというから、この金塚に庚申様を祀ってあるのは、かね塚の発音に引かれたためだろうと思う。

 (おき) 沖とは田野の広く開けたところと字書にある。和田という地名があるがこれと同じ意味である。谷間の入野に比較して稍々広ところを和田といい又之を沖といった。勝田と広野の沖はこの地形に相当していると見てよい。大蔵村は平坦な場所であるが、全く当っていないということはない。

 西新井(にしあらい)は西の方の新居、新開地の意味である。

 高倉(たかくら) 石神に関係した地名で、石で積んだ塚などあったところから発生したのではないだろうか。「クラ」というのは山のけわしい所を意味する地方もあるし、岩のことをクラという地もあるという。然し岩倉、倉橋などという語もあって、只の岩石地ではなく、岩や石が積み重ったものをいい、それも自然に出来たものでなく、人為の石組のことであるという説がある。いはば石塚であるという。私たちも子供の頃、川の中に石倉をきづいて、魚のかくれ場を作り、魚取りをしたものである。これも正に石の塚である。高倉はそのような石の塚でもあったのではないか。石神は石を御神体とする祠である。高倉の地名を石の塚に結びつけることはそれ程唐突の考え方ではないと思う。

 オタケナイ北の内陣場洞分など、まだ問題の地名が沢山ある。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)574頁~577頁


嵐山町誌164 越畑村

2009-08-17 19:10:11 | 嵐山町誌

▽越畑村 「おつぱた」の地名は珍らしい。地名辞書を見ても、同じ発音と思われるのは、下野国塩谷郡に乙畑(おっぱた)という地名が一つあるだけである。乙畑姓の武士もこの乙畑の出身であるという。後に乙幡などと書いた。この地のいわれも説明がない。
 越畑の文字だけ眺めめていると、越石の制度にでも関係ありさうな気がする。江戸時代に領主から家来に知行を与える時一ヶ村または数ヶ村でちようど二百石なら二百石という高にならない時に、隣村からその一部、例えば不足の十石を足してこれを補った。これを隣村からの越石といった十石は越石高(こしこくだか)である。
 越畑村は徳川氏入部の後、高木広正の領地となり、元禄までこれが続いた。広野村と同じ支配である。然し高木氏の根拠は広野にあったらしく、その氏寺に当る広正寺が広野村にあり、越畑村には広正寺の末寺に当る宝薬寺、金泉寺があった。広正寺で修行をとげた僧侶が、宝薬寺の住職になった例などは前にのべた。
 元禄以後はちがうが高木氏の本拠は広野村で、越畑村はその領地内に属していたようである。所で話は変るが、志賀村の「歩越」、遠山村の「打越」、越畑村の「小越」は、いづれも「おつこし」と読んでいる。「つ」でつまらせて「おっこし」と発音するのである。(杉山村では打越「うちこし」といっている)「おつこし」の意味は山や谷を越したそのむこう側の場所ということである。何かの場所を越して行ったところを指している。この地方の方言に、ある動作におの促音をつけるものがある。強勢の接頭語である。「おっ立てる」「おっ始める」の類である。そこで村境を越えて向うがわの畑はおっこしの畑ではないか。おっ越しの畑は、越畑とはならないだろうか。
 只ここで、高木氏の領土関係を出発点とし、広野村と越畑村を江戸時代の越石の角度からだけ見ると越畑村の名がごく新らしいものになってしまう。おそらくもっと古いものであったろう。そこで高木氏がこの二ヶ村を兼ねて領有したという点に焦点をおけば、この二つの村が、親子兄弟のような親しい関係で結ばれていた。そのため両村共に高木氏の知行となったと考えられるであろう。それ以前の支配者は誰であったか分らない。高木氏であったかも知れない。高木氏はこの地区の土豪であって、家康入部の時、とり敢えず所領安堵の形で、この地を与えられたとも考えられる。高木氏は元禄になると、転封になっている点など、何か理由がありそうである。徳川初期の外様大名取りつぶしに似た匂いがしないでもない。それはとも角、広野村から見れば越畑村は他村をうち越して存在する親しい村であった。粕川やその低地を越えて行く村であった。越畑という文字を眺めて、以上のような空想が浮ぶのである。空想の域を出ない。いつの日か、このような空想など浮ぶ余地のない真実の意味が明らかになるであろう。それを希ってやまない次第である。

 串引(くしひき) 市の川と粕川に挾まれた丘陵地の西側の地区が串引である。前面に市の川沿岸の水田が開け、対岸は小川町奈良梨、横田、中爪の村々である。地名の意味は解き得ない。
 地名辞書によると、大里郡岡部村の南方に櫛引(くしびき)野がある。「林莾榛々(りんもうしんしん)として、草木が乱生していて実に榛沢の名に合へり」とあるだけで、地名のいわれは窺(うかがい)得ない。常陸国行方郡の串挽(くしひき)は櫛引とも書くとあるだけであるし、陸奥、三戸郡の櫛引、羽前の東田川郡に櫛引郡、櫛引川等の名があるが、いづれも起源を示唆(しさ)するような記載はない。
 ただ気のつくことは、この地名が関東、奥羽に限られていること、地名辞書に櫛引郡というのは、天正、慶長の頃の私称であり六国史にはその名がないとのべていること、天正の頃陸奥の櫛引に櫛引清長という武士のいたという記事などである。このことからおして、この地名は、中央から離れた低開発地におこった名であり、且つその名も戦国のはじめ頃、著名になって来たことが察せられるのである。この辺から櫛引の起源を探り出すいとぐちを求めることは出来ないものだろうか。尚、国語辞典には「櫛挽き」はくしを作ること、くしを作る職人とあるが、これもこの地名に直接結びつくとは考えられない。

 日陰(ひかげ) 日向に対する地名である。日向は平沢、遠山等にもあって、例の多い地名である。日向はその語の示すように、南面緩傾斜の丘陵の中腹で日当りよく、冬は暖かく夏は凉しい、高手で見晴らしもよいから、今なら絶好の住宅地である。
 昔はここに屋敷を構え、丘陵地は畑、丘陵の裾に続いた低地には水田を開いた。人間が住んで先ず第一に占拠(せんきよ)する一等地である。ところが村が発展し、人の数が増してくると、このような上等の土地ばかり求めることは出来ない。若干不利な条件の地でも我慢して村を作らなければならないようになる。この時代になって生れた地名が日陰である。南東に山を控えた日当りのよくない土地である。越畑の日陰は、日向の裏側で、地形をそのまま正直に現わした地名である。

 山の神(やまのかみ) 山の神には山の神が祀ってあった。山の神は山を支配する神として全国一般に尊信されている。祭神は大山祇(おおやまづみ)命や木花開耶(このはなさくや)媛とされる場合が多いが、必ずしも祭神は明らかでなく、山の神とだけいって、岩の上や、古木の株、古墳の上、山の頂上、峠などに祀ってあるものが多い。越畑の場合もこれと同じで、何様であるかハッキリしない。山の神の信仰は農耕に関するものでこの神は春になると山を降って田の神となり、耕作の始る頃から里に止って田の守護をする。そして秋の収穫が済むと、又山に帰って山の神となるのである。十月から十一月頃山の神の祭りを行う土地がある。これは田の神を山に送り、もとの場に還御(かんぎよ)をねがう行事で、新穀を捧げて感謝し、山神祭といっている。山の神は鎌形村にもある。杉山村には山神脇がある。これ等の山の神は、前述の山の神、田の神の性格をもつものであったかどうか不明であるが、地名のおこりは「山の神」が祭ってあるところからはじまったと考えてよいだろう。

 越畑にはこの外に、相模花火原幡後谷等の難解の地名がある。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)570頁~574頁