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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

嵐山町里づくり文化構想の提言 2 1980年

2009-01-31 10:25:37 | 嵐山地域

            里づくり文化構想 文化行政懇談会の提言

   第一章 独自性への構想

 一 自然を生かす
 嵐山町の自然は一言でいえば、「山紫水明の地」である。
 大平山を頂点として南北に連なる数個の低い山並は、遠くかすむ関東平野を望み、赤松や、くぬぎを主体とした林野を形成し、春夏秋冬に匂うが如き美景を展開する。さらに笠山に源を発する槻川と、都幾山から流れ来る都幾川とは、絶景武蔵嵐山渓谷を経て町の中央部、二瀬(ふたせ)において合流、広い河原と清冽な水をたたえて上水道の豊かな水源となり、東松山市に流れ去る。
 その二瀬の北岸は断崖を形成し、その上の台地に、かって畠山重忠公の居城であった菅谷館跡がある。また、低い丘陵の山ふところの至る所に、一九〇余の溜池があり満々と水をたたえている。市野川・粕川・滑川等の小河川に流入する無数の小川は美しい点景とともに水田の用排水となる。本町の中核である市街地さえも、清明の大気の中にむしろ田園都市としての風景を添えているといえるであろう。

 二 美しい自然の環境
□河川及びため池
 ○都幾川・槻川をきれいにし螢の里をつくる
 ○カジカの鳴き声を復活させる
 ○水遊び、川遊びのできる川にする
 ○土手、堤防あるいは河川敷に四季を通じ野生の花を咲かせる
 ○ため池を整備し遊園地化する
 ○川・ため池を利用し魚類養殖の促進
□丘陵地
 ○山間の湿地帯に菖蒲を植え、菖蒲谷をつくる。
 ○小高い山にツツジを植えツツジの山をつくる。
 ○梅林をつくり町民の憩いの場とする。
 ○道端にツリガネニンジンの群落・ヤマツツジの咲く山・山間にカタクリ・春蘭の群落等、四季折々の美しさをいつまでもなくさず育てていく。
 ○山林・ため池を活用し、自然公園をつくり、遊歩道・山小屋・釣り場・休憩所を設ける。
 ○山頂公園の設置
□田園
 ○ほ場整備の推進をはかり休耕田等の農地は農協等が借り受けて柿・栗等の産地化をはかる。
 ○嵐山郷周辺に桜を植え、桜の園にする。
 ○鎌形八幡神社の周辺にカエデの木を植え、カエデの森にする。
 ○歩道にもみじの木を植えもみじ並木をつくる。
 ○各施設への道標的に各種の木を植える
 ○道路の美化、花いっぱい運動の推進をはかる。
 ○道路の両側を借り上げ、道路公園をつくる。
 ○躍動的な美しい町づくりの推進
 ○豊かな自然と緑をどこまでも守り抜き子孫に残す。
□嵐山の味
 ○手打うどん・ゆず・ギンナン・クルミ・栗・桑の新芽・タラの芽・木の実等の山野草を利用した製品・果実酒・菓子を推奨する。
 ○新しい味への創造・発掘。ギンナン・クルミ・栗を利用し特産品をつくる。
 ○重輪寺の大かやの実の利用。
□民俗行事
 ○お正月・十日夜・おくんち・小正月・一升ぼたもち・さなぶり等の復興と伝承
□広告等の規制
 ○広告規制条例の制定。
□健康
 ○史跡めぐりマラソン・ジョギング・歩け歩け大会・オリエンテーリング等の推進。
□既存産業の振興と花木・盆栽等の産地化
□郷土に合った産業の開拓
 ○適産地のゆずの植栽をすすめ、ゆず巻・ゆず菓子・ゆみその作り方を広める。
 ○町の木である梅を利用する。(梅の木の植栽をすすめ、梅の実の加工梅精等)
 ○干ししいたけの生産を増進する。
 ○いも掘り畑をふやし盛んにする。
 ○ナラ・クヌギを利用した木炭の生産をすすめる。
 ○窯業の振興。
     『嵐山町報道』290号 1980年(昭和55)5月10日


嵐山町里づくり文化構想の提言 1980年

2009-01-30 13:04:15 | 嵐山地域

 埼玉県では、文化行政の推進を県政の最重点課題として位置づけ、各種の施策が実施されております。
 昨年(1979)九月、本町が埼玉県文化行政モデル市町村推進事業のモデル町として指定され、嵐山町文化行政懇談会が発足し、以来七回にわたる懇談会と、二回の講演会さらに県内県外等の視察を三回行いました。
 文化行政の重要な意味は、行政が文化の視点をもつことによって、人間生活の全体性という視点で、これまでの縦系列の個別行政を問い直し、自治体行政を主体的な総合行政として再構築しようとするところにあると考えられます。
 心豊かな安らぎのある里づくりこそ地域文化を創造する基盤であります。
 こうした視点から、文化行政懇談会で里づくり文化構想が作成され、二月二十九日、町長へ答申がなされました。
 報道委員会では、この答申の内容を町民の皆さまに知っていただくよう以下、四回にわたって紹介します。

   里づくり文化構想
     文化行政懇談会の提言

 ここは比企丘陵の山ふところに近く、美しい山河とゆかしい歴史にはぐくまれ、わたしたちの先人が営々として築いてきた里である。里とは幸(さち)多き処(ところ)の意味だという。
 この先人の恵みを謝し、次代の人びとのしあわせを思うとき、今を生きるわたしたちの誰もが願うところは、文化文明の名に値する「里づくり」ではなかろうか。
 さて、嵐山町文化行政懇談会は、昭和五十四年(1979)九月から五十五年(1980)二月にかけ、前後七回にわたって開催された。最初は「文化行政」という言葉にとまどいを感ずるほどで、本懇談会の課題は、わたしたち委員にとって、全く新しい命題であった。そこで「文化行政とは何か」の学習から始められたが、ようやく「文化行政とは文化の視点から行政を見直す」ことにあること、また、行政の文化化等の新語についても理解が深まるにつれて、白熱した議論の中から数多くの提言が出された。
 それらの提言は、いずれも文化的視点から行政目標(里づくり)に的を合わせての発言であった。そこでわたしたちは、これを「里づくり文化構想」への提言としてとらえ、表題のようにまとめることにした。換言すれば「文化の視点から見た里づくり構想」の意味である。
 なお「里づくり」という語は、地域やコミュニティに代るべき言葉として、あえて採用した。それは日本語として古くて美しい里という語に、新しい意味と内容を与えることによって、「里づくり」という語が、新しくよみがえることを期待したものである。
 さて、討議のなかで、当初から特に問題にされたのは、「何が嵐山町の独自性であるか」という問いであった。それは、この構想は嵐山の独自性を主軸にまとめるべきであるという議論であった。討議のすえ、嵐山町の独自性として把握されたのは、(一)美しい自然、(二)ゆかしい歴史、(三)近代的な公共施設の三つであった。
 次に構想として掲げるものは、まず嵐山町の三つの独自性を中心にまとめた提言を記し、ついでこれと合わせ「里づくりへの新たな試み」としての提言を取りあげた。この両者をあわせて「里づくり文化構想」と呼ぶことにした。
     『嵐山町報道』289号 1980年(昭和55)4月5日


本多静六と小柳通義が嵐山を訪れる 1928年

2009-01-29 02:10:00 | 千手堂

   二人の恩人 歴史を自然、博士を魅惑
 嵐山町(らんざんまち)は、一面で県西、北部の文化の中心地ともいわれる。大蔵(おおくら)の向徳寺(こうとくじ)は、国定重要文化財の「銅造阿弥陀如来及両脇侍立像」があり、鎌倉時代の名将畠山重忠の「菅谷館跡」は国定史跡である。ここには、文化財の蒐集、整理、保存を目的とする県立歴史資料館と、同時通訳設備も備わり、国際会議も開ける国立婦人教育会館が隣り合って建っているからだ。
 おかげで、町には年間約二十万人の観光客の史跡めぐりのハイカーらが訪れている。町観光協会長の山岸宗朋(やまぎしむねとも)さんは「町が歴史や文化で有名になったのは二人の恩人のおかげです」という。この恩人とは、日本初の林学博士となった本多静六帝大名誉教授と漢学者小柳通義さんのことである。この二人の恩人、町がまだ菅谷村といわれ、重忠の史跡が世間に知られていなかった昭和三年(1928)、相次いで嵐山を訪れた。
     ◇          ◇
 小柳さんが、菅谷館跡を訪れたのは、昭和三年(1928)八月だった。東京・駒込の自宅で「鎌倉三代記」を読み、畠山重忠のものの哀れさを知る武者ぶりに感銘を受けたのが動機というが、家を出る時は、ふらりと日暮里にでも、という軽い気持ちだった。ところが途中で気が変わり、本にあった「菅谷館跡」をたよりに、地図で「東上線菅谷駅」を見つけて、まあ思いつきの訪問だった。
 こんな具合だから途中で道に迷い、関根茂良(せきねもりょう)さん宅の庭に入り込んでしまったのだが、これが縁で関根さんと知り合い、同年暮れには、小柳さんの方から「館跡に重忠公の像を建てよう」と相談を持ちかけるまでになったというから、重忠への熱の入れようはかなりのものだった。
 当時の館跡は畑ばかり。「由緒ある土地がこれでは-」という関根さんら地元の嘆きが、小柳さんに「金もだそう」という気持ちを起こさせたのである。
 場所は山岸さんの父親で、菅谷郵便局長だった山岸徳太郎さん所有の二の丸跡地、製作は小柳さんの知り合いの鋳造家浅井定吉さん、と話はまとまった。だが、重忠の肖像画と伝えられるものは何もない。困った浅井さんは、連日、重忠の活躍する歌舞伎の「一の谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)をみに行き、そのイメージで製作を開始したという。
 コンクリート製の像が完成、除幕されたのは、翌四年(1929)四月。重忠は烏帽子(えぼし)を被り、直垂(ひたたれ)と小袴(はかま)を身にまとい、鎌倉のある南の空を見守る姿。像の完成で、以前からあった重忠祭が本格化し、四月の祭り日には芝居小屋が建ち、相撲興行が打たれるなど大にぎわいとなり、「重忠の菅谷」で県内に知られるようになった。
 小柳氏は昭和二十年(1945)春、五十九歳で亡くなったが、この像は現在も町のシンボル的存在とされている。
     ◇          ◇
 「こりゃ君、京都の嵐山(あらしやま)に似ているよ」と、槻川にかかる槻川橋に立った本多静六博士が橋のそばの渓谷を見ながら言った。「武州嵐渓、埼玉嵐山、うん、武蔵嵐山(むさしあらしやま)がいいネ」-昭和三年(1928)十月のことだった。本多博士のそばには、関根さん、山岸郵便局長、それと本多文教さんの三人がいた。
 槻川橋付近は、最初地名から細原と呼ばれていた。だが、その景色の良さから地元では観光地化しようと秩父・長瀞に対抗して「新長瀞」(しんながとろ)と名付けた。ところが人気が全然出ない。そこで駒澤大学の学生だった本多さんが関根さんらと相談、本多博士を引っ張り出して名付け親になってもらったのだった。
 こんなわけで、本多博士によるいい名称もついたが、村がちっとも宣伝しない。せっかくの「武蔵嵐山」も“名前負け”の観があった。村の態度に業を煮した本多さんが昭和五年(1930)八月、「本多博士も称讃した名所がある」と、新聞社に投書したのがきっかけで、「東にも嵐山あり。東日本の新名所」と全国版に五段抜きで掲載され、武蔵嵐山は日の目を見た。
 新聞に出たその日、「武蔵嵐山はどこ」と聞かれた菅谷駅員が、「そんな名前は知りません」と答えたほど(関根さん)というから、地元より先に全国に知れ渡ったのだろう。
 昭和十年(1935)に駅名が「菅谷」(すがや)から「武蔵嵐山」(むさしらんざん)に変わり、四十二年(1967)の町制施行の際には町名も「嵐山」(らんざん)となったのである。

メモ:昭和二年(1927)、ジャーナリストとして名高かった徳富蘇峰(とくとみそほう)が村を訪れている。山岸徳太郎さんが招待したもので、蘇峰は、その後も何度か嵐山を訪れた。昭和四、五年ごろ、山岸さん宅で話している蘇峰にお茶を出したのが、山岸さんの二男の宗朋さん。この時、蘇峰が「弟が死んだ時、私はこの村に居たんですよ」というのを聞いている。弟とは、「不如帰」(ほととぎす)などを書いた文豪の徳富蘆花(とくとみろか)のこと。蘆花の死去は昭和二年(1927)。蘇峰が初めて村に遊びに来た時のことらしい。
     『読売新聞』1978年(昭和53)4月23日 鎌倉街道・嵐山

武蔵嵐山を世に出したのは、『東京日々新聞』(昭和5年8月15日)掲載の記事。「武蔵嵐山地名発祥の由来」(http://blog.goo.ne.jp/gogoranzan/d/20081213)を参照。

※この記事を参照しているHPやブログ:『透明工房-伊東公恵 宙吹ガラスの世界 ギャラリーカフェ ラピュタ』さんの 「嵐山町の不思議な歴史 国立女性教育会館」と「埼玉県立嵐山史跡の博物館」の敷地の由来」やブログ『ギャラリーカフェ・ラピュタ~日々是好日』さんの「嵐山町へ提案・夢 「国立女性教育会館」・「埼玉県立嵐山史跡の博物館」を中心として」。


ふる里づくり推進協議会が発足 1981年

2009-01-27 07:04:36 | 嵐山地域

   「ふる里づくり推進協議会」が発足
      会長に安藤専一氏

 高度経済成長時代に失われがちでありました心の「あたたかさ」や「うるおい」を回復して【する?】、新しい地域づくり運動についての関心が、各地で高まっております。
 今度、町では地域づくり運動を従来から推進していただいた「町民憲章等推進協議会」と「コミュニティづくり町民運動推進協議会」の同じ目的の二団体を、発展的に解消いたしました。
 そして、五月九日新たに「ふる里づくり推進協議会」を三〇名の委員で発足し、今後町民全体の運動として、展開していくことになりました。会長に安藤専一氏、副会長に杉田正治氏、村瀬信子氏が選任されました。
 また、このふる里づくり運動を専門的に審議し推進するために、次のような部会も組織されました。

   第一部会(町民憲章等普及部会)   (敬称略)
 委員名 根岸善三郎  真下くに
     馬場春雄   関根弘子
     安藤専一   中村武一
     岡部孝子   中村常男
     内田厳    内田もよ

   第二部会(町の木・花、緑化、環境、浄化部会)
 委員名 恒木重    杉田正治
     馬場吉尭   簾藤惣次郎
     山岸宗朋   中島源之
     荒井清作   嶋本圭三
     青木彰    飯島勝見

   第三部会(コミュニティ・ボランティア部会)
 委員  水戸敏允   関根天津
     中島宣顕   村瀬信子
     山口克己   武谷敏子
     飯島康夫   吉野宏
     長島宗作   杉田正之
       『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日

   「ふる里づくり推進協議会」任意団体として発足
     会長に井上弥一氏 副会長に中野光子氏

 町民憲章の主旨に沿った、明るく住み良いまちづくり運動を全町的に展開するため、従来からその推進方策を専門的に審議していただいた「ふる里づくり推進協議会」を、委員の任期満了に伴い発展的に解消し、この協議会で提言された諸事項を実践段階に移行し推進することになりました。
 そこで、四月二十日新たな里づくりボランティア活動団体として「嵐山町ふる里づくり推進協議会」を二十五名の会員で発足し、実践活動目標を明確にして、関係団体・機関等と十分な合意形成を図り、この活動を繰り返し行う予定です。
     『嵐山町報道』322号 1984年(昭和59)5月31日


大乗民主会主催戦没者慰霊祭で芳魂殿に仏像を安置 1952年

2009-01-22 00:30:12 | 七郷地区

Web125
   芳魂殿仏像安置に就いて 大乗民主会
 芳魂殿に英霊を祀りて以来芳魂を御守りする仏像を安置したいと云う意見が春の山野に萌出(もえいず)る蕨(わらび)の如く抬頭して来たので昨年(1951)の秋本会に於て理事会を開いて相談した処議が一決したので会員の意向を取纏(とりまと)め本年(1952)三月再び理事会で協議した結果、意見の一致を見、来る十月九日慰霊の式典当日安置する事に決定致しました。其の費用は額は少くもなるべく多数の方から尊い御芳志(ごほうし)を結集し又作者も信仰の上に立ち、全身全霊を打ち込んで彫刻する人に御願いすることに致しました。七月中旬頃理事の方々が会員の皆様宅へ御伺いして御喜捨(ごきしゃ)を御願いすることになりました。家中揃って煙草代の内から或は冗費節約の内より御小遣銭の中からでも其の立場は変っても其の方法は違っても芳魂を慰むる気持ちは一筋に聚(あつ)めて御報謝を御願い致します。
 占領政策で公式慰霊祭が出来なかったけれど本村に於ては大乗民主会が発足以来七ヶ年春秋の二期会員の拠出により慰霊祭を挙行し続けて来たのであります。他村の如く遺族会自体で行うことに対比して隔世の感が致すのであります。
 国で顧みられなかった行事も本村に限り芳魂に対する感謝の気持は勇敢に発揚し得た事を遺族の方々には御了解して頂けると思います。是の美挙ありて昭和二十五年(1950)秋芳魂殿祀り込の盛儀が挙げられ今又芳魂を守護する観世音菩薩安置の議が纏(まとま)ったのは当然の事と云わねばなりません。
 抑々(そもそも)観世音菩薩とは凡夫(ぼんぷ)の苦悩を御救い下されて覚(さと)りの世界に化導し下さる大慈悲心の菩薩で御座います。其の名の如く苦難の音声を観でて解脱して下さる佛様であります。然も弥陀の浄土たる西方極楽世界に住せらるるけれども大慈大悲の心已(や)み難く一切衆生の苦を救い楽を与えんと佛の修行は終ったけれど佛の位極楽浄土に安座することを好まず一段下って菩薩となり迷の世界より悟りの世界に衆生済度(しゅじょうさいど)を計って御座るのであります。こうして大慈悲心の心深い菩薩を芳魂殿に祀ることは永遠に芳魂を御守り下さることになるのでありまして、芳魂殿が観音堂に化する杞憂(きゆう)は少しもないのであります。寺の本堂にも諸佛の像が安置せられ、我々の先祖を守護してござるのであります。又家庭の佛壇にも其の家の守本尊が安置されて先祖を御守りすると同時に先祖と共に其の家を守護して下さるのです。佛教の上から見れば芳魂殿に観世音が祀り始めて完成されたのであります。霊魂もさぞかし永遠に冥福出来ると思います。五月十一日常任理事会を開いて金泉寺塚本智導師の斡旋により信仰の厚い彫刻師高山市の都升峰仙師に高さ尺八寸観世音の立像を依頼しました。師は昨年秋中部日本の美術展に入選された大家だそうです。六月一日より水垢離(みずごり)取って原型の作にかかり八月八日に観世音様が御生れなさるそうです。
 秋には会員の皆様と御迎えして立派に入佛の式典を挙げたいものです。
 以上佛像安置の趣意を簡単に述べて会員皆様の御賛意願う次第であります。文責会長慈徳
     『七郷村報道』1952年(昭和27)6月1日
Web124

 七郷村では小学校の校庭にあった奉安殿を中学校の裏山に移転して芳魂殿と名付け、大乗民主会主催で春・秋の年二回戦没者慰霊祭を行っていた。完成した観音像の「祀込式」は1952年(昭和27)10月9日の慰霊祭で行われ、大沢埼玉県知事も参列した。


電燈料値下げ運動で大衆党比企支部員が続々取調べられる 1931年

2009-01-20 00:50:40 | 七郷地区

   大衆党比企支部員 続々取調べらる
     不穏文書配付に端を発し

比企郡下の電燈料値下運動に関し大衆党比企支部の不穏文書配付問題で党員宮前村早川義夫(18)(仮名)を七日松山署で取調べたに端を発し同支部の或種の計画が発覚支部長菅谷村助役大野幸次郎氏は七日小川署の取調べを受けると共に家宅捜索を受け続いて同党幹部鞠子、千野、松浦、早川の諸氏八日続々と松山及小川両署に召喚取調べを受けてゐるが同支部の重鎮で文書部長、企画部長の菅谷村歯科医今村重雄(33)氏が数日前九州方面に立つてしまつたので取調べに困難を来してゐる。
     『東京日日新聞』埼玉版 1931年(昭和6)6月10日


昭和農民クラブが比企青年連盟と提携 1929年

2009-01-20 00:43:21 | 七郷地区

   昭和農民クラブ 青年連盟と提携
     近く比企,大里両郡を一団として運動

比企郡七郷、八和田、菅谷、福田、宮前村等を中心にした昭和農民倶楽部では社会民衆党支部を設立すべく過般来協議中であつたが社民党本部の島中氏の来援を乞ひ愈々具体化したので比企青年連盟との提携をなすべく農民倶楽部代表者鞠子稔、大野幸次郎等数氏は廿八日比企青年連盟幹部と会見の上松山町某所で関係者の協議会を開き今後の運動方法等に関し密議したが近く比企、大里両郡を一団とした大々的運動を開始すると。
      『東京日日新聞』埼玉版 1929年(昭和4)8月29日


ハイタウン・比企21構想がまとまる 1986年

2009-01-14 23:20:17 | 嵐山地域

    比企広域圏協が提唱 ハイタウン21構想
     21世紀の比企は森林文化都市
       歴史的遺産を活用 ハイテク産業とも調和

 広域的な都市づくりに取り組む比企広域市町村圏協議会(会長・芝崎亨東松山市長)はこのほど、二十一世紀を展望した比企圏の都市整備の指針となる「ハイタウン・比企21構想」をまとめた。それによると、同地域の歴史・文化の伝統的特性を生かし、首都圏に残された貴重な森林資源を土台とした「森林文化都市」の創出を目指している。また、同構想の中核となる森と緑を保全するため、森林文化財団(仮称)の設立を提唱するなど、例えば田園都市論といったこれまでの都市類型とは違った新しいタイプのユニークな都市論を展開している。

 構想によると、比企地域の林野面積は一万四千六百七十三ヘクタールで全県の一一・四%を占め、東京から四十-七十キロ圏にあり、首都圏有数の森林地帯を残している。また、仏教文化の源流である慈光寺(都幾川村)をはじめ多くの歴史・文化を伝統的な遺産としてもつ。こうした貴重な財産を都市整備の骨格として位置付け、比企全体の街づくりを計画。
 森林と文化の貴重な財産を中核として、先端技術産業などの導入を図り、産業と自然環境が調和するうるおいと快適さにあふれた「森林文化都市」づくりを構想のテーマに据え、これまでになかった新タイプの都市論を打ち出している。
 また、核となる森と緑を保全するための方策として①森林所有者と住民、企業との間に「緑の協定」を結ぶ②分収育林制度③第三セクター「森林文化財団」の設立-など実現化戦略を提言している。
 伝統文化の側面からは、県が昨年(1985)3月に策定した「新長期構想」の主要施策の一つ「比企歴史のむらの整備」も、構想に組み込んだ。具体的には四つの歴史・文化ゾーン▽吉見百穴(吉見町)▽菅谷館跡と歴史資料館(嵐山町)▽和紙の里・和紙センター(小川町)▽慈光寺(都幾川村)-を散歩道や緑道で結び、自然散歩を楽しみながら、歴史文化に触れ合う。
 さらに、森林文化都市の具体的な実現目標として①緑につつまれたハイテクのまち②個性的人材の育成③自然と調和した健康と文化のまち④人口四十万の自立型都市-を挙げ、首都に近い地の利から民間研究機関、先端産業、大学などの積極的な誘致が必要としている。
 「ハイタウン・比企21構想」は昨年、比企広域市町村圏協議会が構想調査を財団法人埼玉総合研究機構に委託し、その結果を研究委員会(座長・牛見章東洋大教授)と同協議会で検討を加えまとめた。同協議会は東松山市、小川町、滑川町、川島町、吉見町、鳩山町、嵐山町、都幾川村、玉川村、東秩父村(秩父郡)の一市六町三村で構成している。
 この構想がまとまったことで、比企地方の指針ができたことになり、今後、各市町村の振興計画やテクノグリーン構想などと、どのように整合性を図っていくのかが大きな課題となる。
     『埼玉新聞』1986年(昭和61)8月19日


重忠慰霊祭復活 1978年 源家三代慰霊祭実施 1979年

2009-01-11 21:06:44 | 大蔵

   義仲の古里 暴れん坊も当時二歳
 今東光氏のほかにもう一人、嵐山に縁の深い暴れん坊がいる。平安末期に平家を京都から追っ払い、朝日将軍と呼ばれた木曽義仲である。
 義仲は久寿元年(1154)父義賢の大蔵館で二男として生まれた。この館跡は、今東光氏が住職だった安養寺のすぐそばにあり、その規模は「東西百七十メートル、南北二百十五メートルの広さ」(『埼玉県史』)だったという。大蔵館の下屋敷が、鎌形地区の班渓寺=立川禎一住職=付近に建っていて、この下屋敷で義仲は生まれたとされている。現在、屋敷跡は「木曽殿屋敷」と呼ばれ、寺の裏の小道には「木曽殿坂」という地名が残り、寺の裏の竹やぶの清水と、寺と隣合わせの鎌形八幡神社境内の清水が、「義仲産湯の清水」と伝えられている。
 嵐山での義仲の生活は短い。父義賢が久寿二年、義仲のいとこで悪源太の異名を持つ源義平に討たれたためだ。「その時義仲二歳なりしを、母泣く泣く抱えて信濃へ越へ」と木曽へ逃げた模様を「平家物語」は伝えているが、実は、義賢が討たれた時、義仲も一緒に捕らえられたのである。
 身柄を預けられた先が、畠山重忠の父重能。義平から「殺せ」と言われたが、重能はわずか二歳の子供を殺すに忍びず、義仲の乳母の夫で、木曽にいる中原兼遠(かねとう)の下に逃した、というのが真相。従って義仲が、嵐山にいたのは一年たらず、それも赤ん坊時代だったのである。
 この義仲が、歴史の表舞台に登場するのが、治承四年(1180)、平家討伐をもくろむ源氏によって押し立てられた以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第二皇子)の命令を受けてからのこと。旗挙げをしてからの義仲は、まず信濃(長野県)一帯を制圧し、上野国(群馬県)に進出。さらに越中(富山県)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で、有名な牛の角にたいまつをつけた戦術で平家七万の軍を破り、挙兵からわずか三年で京都入りを果たすというすさまじい勢いだった。
 義仲は、ここで征夷大将軍の官位を受け、その破竹の勢いを称して朝日将軍とも呼ばれた。だが、義仲の天下はあまりにも短かった。義仲の軍勢は京都で群盗化し、時の後白河法皇にきらわれた。そして、源頼朝の命を受けた義経らの軍によって宇治川で敗れ、義仲は敗走した粟津原(大津市)で落命した。入京してわずか半年後の寿永三年(1184)三十一歳だった。
 後世、京都での暴れん坊ぶりで、悪名をはせた義仲だが、ファンは多い。芥川龍之介は、十五歳で書いた「木曽義仲論」で、義仲を革命の英雄とし「彼の生涯は男らしき生涯也」と結んでいる。
 あまりにも、短く忙しすぎた生涯だったためか、義仲は二歳で生まれ故郷を去った後、二度と嵐山の土を踏んでいない。このため、伝説や伝承が地元には少ない。班渓寺をめぐる伝承だけがあるだけだ。
 それによると、同寺は義仲の母とも愛妾とも伝えられる山吹姫が追手から逃がれ、義仲の生地に庵を建てて住んだのが始まりだという。そして、入間川畔(狭山市)で、追手に殺されたわずか十一歳の義仲の長男義高はこの庵に向かう途中だったと地元では信じられている。班渓寺の名前は、山吹姫の班渓尼からとったもので、「威徳院殿班渓妙虎大師」の戒名が刻まれた位牌(いはい)が、寺には残っている。
 ところで、「嵐山が義仲の古里であることが知れ渡っていない」と残念がるのは、町教育委員長の簾藤惣次郎さん。どうも、義仲は、有名になり過ぎた「重忠の嵐山町」の陰に隠れてしまったようだ。簾藤さんは、今年中に「義仲会」を発足させ、悲運に終わった義賢、義仲、義高の三代の埋もれた事実をさぐろうという計画を立てている。

メモ:義仲の父義賢は、源頼朝や義平の父親である義朝の弟で、義仲と頼朝はいとこ同士。義賢の宮中での官位は、帯刀先生(たてわきせんじょう)で、皇太子の住んでいる東宮警衛長官という職務だった。「平家物語」によれば「仁平三年(1153)夏ヨリ、上野国多胡郡(群馬県)ニ居住」。そして、秩父重隆の娘と結婚し、大蔵(現嵐山町)に進出した。義平に殺された場所は、児玉郡上里町や東京都町田市説もあるが、大蔵には義賢のものと伝えられる五輪の墓がある。墓守をしているのは新藤貴司さんの家。新藤さんの祖先が義賢の家来だったためで、今も三月二十八日の義賢の命日には、神主を呼び、赤飯を炊きその霊をまつっている。
     『読売新聞』1978年(昭和53)4月21日 まちかど風土記88 鎌倉街道・嵐山


   復活した重忠慰霊祭
 今年もいろいろなできごとがありましたが、あう意味で大きなできごととして、重忠祭の復活があります。
 畠山重忠については、報道でも何回も掲載したように、嵐山に居を構えた代表的な武蔵武士として名高く、その無念の最期を慰めるために、慰霊祭が行われ、かなり盛大なものであったといいます。いろいろな事情で中止されていたものを、いつかは復活させようという念願がかない、今年(1978)六月二十二日、有志により、菅谷館跡の重忠公像前で慰霊祭が行われました。
 これには、町長、議長、教育委員長などの町の公職者、町内有志に、県立歴史資料館長などが参列し、重忠公の霊を慰める神事が行われました。
 あいさつに立った町長は、重忠公像の建立、保存、そして今度の慰霊祭の復活には、重忠公を敬愛する地元の人々の力が大きい。
 大変な努力を要することであったと思うと述べ、来年以降もこの催しが有志の手により続けられていくことを望むとし、重忠をしのんで次のような漢詩をひろうしました。
 「我をして哭(こく)せしむる者は英雄の流薄命多し
  我をして慟(どう)せしむる者は賢哲の士銷魂しやすし
  天命は達人も未だ測るべからず
  勝敗は兵家も豈に能く論ぜん
  只一誠のとこしへに朽ちざるあり
  風神奕々として後毘を射る」
 このあと、本丸跡の杉木立の中で車座になり、公をしのんで酒をくみかわしました。
 午後からは、国立婦人教育会館大ホールを会場に、女流歴史小説家の第一人者杉本苑子先生の講演「畠山重忠と武蔵武士」が行われ、この催しのため、わざわざ来町した、これも重忠研究家として知られる畑県知事が、その博識ぶりを披露し、また町長もあいさつに立ち、重忠公への深い思いを述べました。
 杉本先生は重忠を中心とした武蔵武士の成り立ち、系譜、その行動様式について小説家としての観点からの推論もまじえながら、ほぼ満員の聴衆をひきつけました。
     『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日

   ゆかりの班渓寺(鎌形)で源家三代の霊をとむらう
 大蔵の館に住み、おい悪源太義平に討たれた源義賢公、この地に生まれ、いとこ源頼朝に討たれた源義仲(木曽義仲)、人質の身、鎌倉から逃れてこの地への途中、義父頼朝に討たれた源義高、この悲運の父子三代の武将とそのゆかりの小枝御前(さえごぜん)、山吹姫の霊を弔う慰霊祭が行われました。
 義仲の命日である一月二十日、ところも山吹姫開基の班渓寺本堂で、発起人をはじめ、町長、議長、地元関係者など約五〇人が集まりしめやかに行われました。
 住職によるたむけの読経、町長、議長、発起人代表の義仲らをしのぶ言葉、そして参会者による焼香などが行われました。
 歴史資料館々長も姿を見せ、雑誌、新聞からも取材に来るなど、地味なうちにも価値ある催しとなりました。

  源家三代について  発起人代表簾藤惣次郎
 帯刀先生源義賢は大蔵に館を構え、鎌形の下屋敷に上野国多胡氏の娘小枝午前を住まわせその間に義仲が生まれた。久寿二年八月十六日、義賢は悪源太義平に討たれ二歳の義仲は畠山重能、斎藤実盛の慈悲で、乳母の夫木曽の中原兼遠の所へ送られ成人した。
 義仲は以仁王の平氏追討の命を受け、信濃に兵を挙げ平家を都から追ったが、義仲追討の命を受けた頼朝との戦にやぶれ、寿永三年一月二十日、相模国石田次郎のために近江粟津の辺において討たれた。
 これより先、義仲は木曽の中原兼遠の娘山吹姫を妻とし、嫡男義高を設けていたが、寿永二年三月頼朝の軍との戦をさけるためこの義高を人質として鎌倉へ差し出した。義高は、頼朝の娘大姫を婦人として、鎌倉にいたが、義仲の死後身の危険を感じ、鎌倉を脱出父義仲の生地鎌形を目指しての途路、元暦元年四月二十六日、頼朝の家臣、藤内光澄によって、入間川で討ち取られた。
     『嵐山町報道』278号 1979年(昭和54)2月15日


戦勝祈願とハイキングは池袋から東上線で 1930年代後半

2009-01-07 01:17:30 | 川島

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1930年代はハイキングが世界的に流行した時代です。日本では1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件以降、日中戦争が拡大し長期化する中で、38年厚生省設置、39年体力章検定(スポーツテスト)、40年国民体力法公布。戦争に勝つための「体位向上」「心身鍛練」が叫ばれます。鉄道各社は国策に便乗し、割引運賃をセットして沿線の行楽地を健康と鍛練のハイキングコースとして宣伝します。ここに紹介する資料は「戦勝祈願とハイキングは池袋から!!」という東武東上線のパンフレットです。

   吾等の信ずるハイキングの目的
 一、大地踏占め史蹟を訪ね吾が血を知つて祖国愛を養ふ
 二、心身の鍛練、修養
 三、健康の蓄積

Photo_8    古史を訪ねて 岩殿山脈めぐり
省線池袋駅より一時間で高坂駅に下車する岩殿山(物見山)まで約三〇丁。途中には坂上田村麻呂が大蛇を退治しその頭を埋めて池となり為めに蛙が鳴かないと云ふ不鳴池あり。尚足利基氏居住の史蹟や加賀爪氏累代の墓がある高済寺あり県の史蹟保存指定となつて居る。岩殿山は阪東十番の観音様で裏山が物見山で、つつじの名所と秋の柿栗と展望が良いので春秋家族連れハイクに最適である。物見山から森や田畑を抜けて松山へ出て箭弓稲荷、松山城跡、吉見百穴と将軍沢から武蔵嵐山へ行くコースであるが、この後ろのは松柏の林や小松原、山つつじも咲けば山百合、秋の七草も咲き殊に丘陵を縫ふ山道は実に朗らかで自ら出る口笛もいと軽い。嵐山は槻川の一大屈曲が小半島を為す河畔にして岩盤に松柏茂り春の桜山つつじ、夏の山百合鮎釣り秋の紅葉に良く山川の風趣教の嵐山に似通ふ。尚付近に源の義賢の廟木曽義仲産湯の井畠山重忠公の像等もある。

Photo_9     比企高地、地歴ハイキングPhoto_10
省線池袋駅乗車し武蔵嵐山駅に下車して畑道や森間の道を通って畠山重忠公の館跡に史蹟をたづね、木曽義仲の産湯の水に昔を偲び小川のせせらぎを耳にしながら鎌形八幡様に参じ風趣和ごやかな武蔵嵐山を通りて遠山に出づこれより槻川の流れに沿ふて山村を抜け道元山(丘)を越へて古寺の鍾乳洞を見学してバスで小川町駅に出る。鍾乳洞は内非常に広く多岐に亘つて居て未だ知られざるだけで毀損されず参考となる事大なりと信ず。

   武人の守護神 鬼鎮神社
 一、祭神 衝立船戸大神、八衢比古命、八衢比売命
 二、場所 埼玉県比企郡菅谷村(東上線嵐山駅下車)
 三、割引運賃 往復一円五〇銭
神社は稀なる珍社仙台伊達公の塩釜神社と同じ。縁起は壹千七百余年前に発す。大神は神代より塞の神(厄除)で諸々の抂神(魔神)のおさへの神で且つ勇武にすぐれ武人の守護神として尊崇さらる。
霊験灼かなる神話数知れず明治の勤皇志士の霊も厚く合祀さる信者は東都壹万、地方近約を挙ぐれば十四五万五千人にして月詣りの方亦尠からず。(冥加金三〇銭)
     祈願者へ特遇
特別奉仕祈願券を御希め下さい(東上線武蔵嵐山駅へ)
本券は大祓ヒ、肌身守、祈願守木札、御神酒(土器付)御供物を差上げます
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このほか「二本木峠(公園)登谷山→釜伏峠→玉淀ハイキング 史蹟に富み三六〇度の展望と舟下り」「三峰と妙法ヶ岳めぐり 植物と伝説をきく」「越生高山、史蹟コース」「上武国境、宝登山、長瀞ハイキング」が掲載されている。
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オオムラサキの森づくり計画がまとまる 1986年

2009-01-03 05:22:07 | 菅谷

   オオムラサキの森 町民の力で造ろう
     計画策定 夢膨らませる関係者
       嵐山町・菅谷地区

 県民休養地事業の一つとして県と、比企郡嵐山町、同町民らで進めている「オオムラサキの森づくり」計画が、二十二日までにまとまった。それによると、同町菅谷地区の雑木林一・八ヘクタールを国蝶(ちょう)オオムラサキの生息する森として保全する一方、林内に活動センターや観察林を設け、町民自らが管理運営する計画。この計画は、激減しているオオムラサキの保護に取り組む町民が中心になって策定、県や町の行政機関は、いわばわき役的立場でつくられた点が特徴。このため今回のケースは自然保護運動の新しい在り方として期待されている。

 この計画をまとめたのは、嵐山町立菅谷小学校、同鎌形小学校と両校PTA、学識経験者、住民団体で構成する「オオムラサキの森づくり協議会」(開発欣也会長)。同協議会は昨年秋、宅地化が進む町内にオオムラサキのすむ雑木林を保全、子供たちに身近な自然を残していこうと発足した。
 この計画の狙いは①オオムラサキを中心に多くの生物が共存できる自然環境の維持と回復②自然に親しみ学ぶ場③町民参加の原則-として森づくりをすすめる。森は、県の県民休養地事業として県が買収した同町菅谷地内の雑木林約一・八ヘクタール。
 森の中には、オオムラサキを中心に雑木林の生物の生態などを分かりやすく学べるよう活動センター(仮称)と観察林をつくる。さらに、雑木林の生物を研究しようとする人のために実験林を設け、野外実験場として使える。これらの施設の管理と運営は、町民が行う。
 また、同町内の鎌形、菅谷両小学校には「オオムラサキ観察舎」がすでにつくられ、昨年夏、オオムラサキの羽化に成功。人工飼育したオオムラサキを森に放し、増殖させる準備も整っている。町民が参加した観察会や生息調査も何度か行われ、こうしたなかからも森づくりの協力者も生まれた。
 このため、来春にも具体的な施設建設に着手できる状態で、この計画の完成がまたれていた。菅谷、鎌形両小のPTA関係者は「オオムラサキの観察を通じて親と子が触れあい、自然を見直し思いやりのある心をもてると思う」と夢を膨らましている。
 一方、わき役的立場に回された形の県自然保護課では「自然保護という場合、行政中心に考えられるが、この森づくり計画の主役は町民。新しい自然保護運動のモデルケースになりえるユニークな計画」と期待している。

オオムラサキとは:一年間に二回、三回と世代を繰り返す蝶が多い中で、毎年夏に一回だけ羽化する大型の青紫色に輝く蝶。県内では昭和三十五年(1960)ごろから低地や丘陵で姿を消しはじめ、今では八高線以東の地ではほとんど絶滅してしまった。昭和三十二年(1957)、日本昆虫学会で国蝶に指定された。
     『埼玉新聞』1986年(昭和61)4月23日


小学校にオオムラサキ飼育舎設置を計画 1984年

2009-01-03 03:47:27 | 菅谷

   よみがえれ 国蝶オオムラサキ
     嵐山県民休養地に聖域の「森」
       県、町が人工増殖 保護条例制定の動きも

 県と比企郡嵐山町は、今年から県内ではほとんど姿が見られなくなった国蝶(ちょう)・オオムラサキを人工増殖、嵐山県民休養地に聖域「オオムラサキの森」をつくって放つ。増殖には町内の児童たちがあたり、学校教育の場でも蝶が生きていける自然環境の重要さを体験させる。町には保護条例制定の動きもあり、町民ぐるみで国蝶復活に取り組む。こうした実験は全国的にもめずらしく、最終的には、蝶が自然増殖できる豊かな自然環境の復活を目指している。

 増殖は、町内の小学校に高さ二メートル、約八〇平方メートルの巨大なかごを造り、中に産卵するエノキを植樹する。児童たちは、秋に、幼虫がついたエノキの落ち葉を探しに出して、かごの中で越冬させ、夏に羽化、成虫になるまで、水分管理などを交代で行う。成虫は、県立比企丘陵自然公園内の嵐山県民休養地の雑木林一・八ヘクタール(オオムラサキの森)に放つ。この増殖を毎年繰り返し、個体数を増加させる。同時に、オオムラサキが休養地の全域で自然増殖できるような環境を整えていく。
 オオムラサキは、県内の東部低地、奥武蔵、秩父地方に分布していたが、愛好者の間で一匹数万円で取引される貴重種なため、愛好者や業者による越冬虫の採捕や雑木林が荒れ、生息環境が悪化して大宮台地などでは、生息地が昭和四十五年(1970)までに消失した。五十三(1978)年の環境庁調査では奥武蔵高原、秩父周辺山地などに限られて生息としているが、その個体数は極めて少なくなっている。嵐山町の蝶研究家の調査によると、同町では昭和三十五年(1960)に百七十二匹確認されたが五十年(1975)には七十匹までに減り、五十七年(1982)には姿を見ることが出来ないほど消滅寸前となった。
 県民休養地は、五十七年(1982)から十年計画で嵐山町と飯能市の二カ所で進められているが、同町では、運動公園、農産物直売所、大平山展望園地などの施設がすでにつくられ、今後も自転車専用道やテニス場、キャンプ場などが予定されている。こうした施設づくりの一方、オオムラサキやカブト虫、ホタルなどの小昆虫が生息できる環境の保全計画が考えられ、「将来は、テニスコートにオオムラサキの大きな姿が舞うのも夢ではない」と関係者は期待。
 今年度はオオムラサキの森づくりとして、増殖施設などに数百万円を投入、来年度以降飯能県民休養地で増殖したホタルを放つ「ほたるの里」や「バッタの原っぱ」などもつくる。
 蝶が生息する森づくりのねらいはこれまでの保全、保護計画が地域を指定し、それを維持することで済まされていたため、十分な成果があげられなかったという反省から考えだされ、「高い自然度を持つ小さな地域をいくつも増やしていくことで全体の自然度を高めていく足掛かりにしたい」と県自然保護課はいっている。
     『毎日新聞』1984年(昭和59)4月20日


1930年元旦の『永嶋義次日記』

2009-01-01 13:42:41 | 広野

 1930年(昭和5)1月1日、広野の永嶋義次さんの博文館当用日記には、次のように書かれている。

   一月一日(水曜日) 晴
一年の計は元旦にあり。十一年前出征中、多忙中■日記を休けたり。久し振りにて日記記入をはじむ。向後幾久しく日記記入を思ひ立つ。心と努力。一日の計にあり。栗原氏の村費負担に付きての話。学校増築費一万三百円との事。尚水管三十間寄付申出。恒例に依る鎮守社頭の字内一同の手打の儀は午前七時に行なはれ引続き昨年度農事組合諸品評会の賞品授与式。昨年は米五等、小麦一等、菜二等。概して好成績なるも、米の五等は残念なり。農家主要物産として本年こそ昨年の不成績の回復を元旦の計として行なはん事を思ふ(賞品瀬戸引鍋)。
午后は宮田金作君の送別会(出組)。杉田佐軍次様方宿。永島慶重君不参。可成盛大なり。費用三段別の事。上二十二銭、中十五銭、下十銭。外に四十一銭掛り。午后十時帰宅。来る七日午前九時より分会の送迎会。会費三十銭。二名出席の事を約す。

 文中の「栗原氏」はおそらく栗原侃一さん(当時七郷村会議員・助役。この年の10月に村長に就任)。学校増築費とは、3月に落成する七郷尋常高等小学校の二階建新校舎の事。
 「送別会」の宮田金作さんは1909年(明治42)生まれ。宮田長吉・きちさんの第六子で三男。1月7日、在郷軍人分会主催の送別会が開かれ、8日夕方、鎮守の八宮神社で健康祈願祭、10日午前8時20分発の電車で立川に発ち、飛行聯隊に入隊しました。