義仲の古里 暴れん坊も当時二歳
今東光氏のほかにもう一人、嵐山に縁の深い暴れん坊がいる。平安末期に平家を京都から追っ払い、朝日将軍と呼ばれた木曽義仲である。
義仲は久寿元年(1154)父義賢の大蔵館で二男として生まれた。この館跡は、今東光氏が住職だった安養寺のすぐそばにあり、その規模は「東西百七十メートル、南北二百十五メートルの広さ」(『埼玉県史』)だったという。大蔵館の下屋敷が、鎌形地区の班渓寺=立川禎一住職=付近に建っていて、この下屋敷で義仲は生まれたとされている。現在、屋敷跡は「木曽殿屋敷」と呼ばれ、寺の裏の小道には「木曽殿坂」という地名が残り、寺の裏の竹やぶの清水と、寺と隣合わせの鎌形八幡神社境内の清水が、「義仲産湯の清水」と伝えられている。
嵐山での義仲の生活は短い。父義賢が久寿二年、義仲のいとこで悪源太の異名を持つ源義平に討たれたためだ。「その時義仲二歳なりしを、母泣く泣く抱えて信濃へ越へ」と木曽へ逃げた模様を「平家物語」は伝えているが、実は、義賢が討たれた時、義仲も一緒に捕らえられたのである。
身柄を預けられた先が、畠山重忠の父重能。義平から「殺せ」と言われたが、重能はわずか二歳の子供を殺すに忍びず、義仲の乳母の夫で、木曽にいる中原兼遠(かねとう)の下に逃した、というのが真相。従って義仲が、嵐山にいたのは一年たらず、それも赤ん坊時代だったのである。
この義仲が、歴史の表舞台に登場するのが、治承四年(1180)、平家討伐をもくろむ源氏によって押し立てられた以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第二皇子)の命令を受けてからのこと。旗挙げをしてからの義仲は、まず信濃(長野県)一帯を制圧し、上野国(群馬県)に進出。さらに越中(富山県)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で、有名な牛の角にたいまつをつけた戦術で平家七万の軍を破り、挙兵からわずか三年で京都入りを果たすというすさまじい勢いだった。
義仲は、ここで征夷大将軍の官位を受け、その破竹の勢いを称して朝日将軍とも呼ばれた。だが、義仲の天下はあまりにも短かった。義仲の軍勢は京都で群盗化し、時の後白河法皇にきらわれた。そして、源頼朝の命を受けた義経らの軍によって宇治川で敗れ、義仲は敗走した粟津原(大津市)で落命した。入京してわずか半年後の寿永三年(1184)三十一歳だった。
後世、京都での暴れん坊ぶりで、悪名をはせた義仲だが、ファンは多い。芥川龍之介は、十五歳で書いた「木曽義仲論」で、義仲を革命の英雄とし「彼の生涯は男らしき生涯也」と結んでいる。
あまりにも、短く忙しすぎた生涯だったためか、義仲は二歳で生まれ故郷を去った後、二度と嵐山の土を踏んでいない。このため、伝説や伝承が地元には少ない。班渓寺をめぐる伝承だけがあるだけだ。
それによると、同寺は義仲の母とも愛妾とも伝えられる山吹姫が追手から逃がれ、義仲の生地に庵を建てて住んだのが始まりだという。そして、入間川畔(狭山市)で、追手に殺されたわずか十一歳の義仲の長男義高はこの庵に向かう途中だったと地元では信じられている。班渓寺の名前は、山吹姫の班渓尼からとったもので、「威徳院殿班渓妙虎大師」の戒名が刻まれた位牌(いはい)が、寺には残っている。
ところで、「嵐山が義仲の古里であることが知れ渡っていない」と残念がるのは、町教育委員長の簾藤惣次郎さん。どうも、義仲は、有名になり過ぎた「重忠の嵐山町」の陰に隠れてしまったようだ。簾藤さんは、今年中に「義仲会」を発足させ、悲運に終わった義賢、義仲、義高の三代の埋もれた事実をさぐろうという計画を立てている。
メモ:義仲の父義賢は、源頼朝や義平の父親である義朝の弟で、義仲と頼朝はいとこ同士。義賢の宮中での官位は、帯刀先生(たてわきせんじょう)で、皇太子の住んでいる東宮警衛長官という職務だった。「平家物語」によれば「仁平三年(1153)夏ヨリ、上野国多胡郡(群馬県)ニ居住」。そして、秩父重隆の娘と結婚し、大蔵(現嵐山町)に進出した。義平に殺された場所は、児玉郡上里町や東京都町田市説もあるが、大蔵には義賢のものと伝えられる五輪の墓がある。墓守をしているのは新藤貴司さんの家。新藤さんの祖先が義賢の家来だったためで、今も三月二十八日の義賢の命日には、神主を呼び、赤飯を炊きその霊をまつっている。
『読売新聞』1978年(昭和53)4月21日 まちかど風土記88 鎌倉街道・嵐山
復活した重忠慰霊祭
今年もいろいろなできごとがありましたが、あう意味で大きなできごととして、重忠祭の復活があります。
畠山重忠については、報道でも何回も掲載したように、嵐山に居を構えた代表的な武蔵武士として名高く、その無念の最期を慰めるために、慰霊祭が行われ、かなり盛大なものであったといいます。いろいろな事情で中止されていたものを、いつかは復活させようという念願がかない、今年(1978)六月二十二日、有志により、菅谷館跡の重忠公像前で慰霊祭が行われました。
これには、町長、議長、教育委員長などの町の公職者、町内有志に、県立歴史資料館長などが参列し、重忠公の霊を慰める神事が行われました。
あいさつに立った町長は、重忠公像の建立、保存、そして今度の慰霊祭の復活には、重忠公を敬愛する地元の人々の力が大きい。
大変な努力を要することであったと思うと述べ、来年以降もこの催しが有志の手により続けられていくことを望むとし、重忠をしのんで次のような漢詩をひろうしました。
「我をして哭(こく)せしむる者は英雄の流薄命多し
我をして慟(どう)せしむる者は賢哲の士銷魂しやすし
天命は達人も未だ測るべからず
勝敗は兵家も豈に能く論ぜん
只一誠のとこしへに朽ちざるあり
風神奕々として後毘を射る」
このあと、本丸跡の杉木立の中で車座になり、公をしのんで酒をくみかわしました。
午後からは、国立婦人教育会館大ホールを会場に、女流歴史小説家の第一人者杉本苑子先生の講演「畠山重忠と武蔵武士」が行われ、この催しのため、わざわざ来町した、これも重忠研究家として知られる畑県知事が、その博識ぶりを披露し、また町長もあいさつに立ち、重忠公への深い思いを述べました。
杉本先生は重忠を中心とした武蔵武士の成り立ち、系譜、その行動様式について小説家としての観点からの推論もまじえながら、ほぼ満員の聴衆をひきつけました。
『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日
ゆかりの班渓寺(鎌形)で源家三代の霊をとむらう
大蔵の館に住み、おい悪源太義平に討たれた源義賢公、この地に生まれ、いとこ源頼朝に討たれた源義仲(木曽義仲)、人質の身、鎌倉から逃れてこの地への途中、義父頼朝に討たれた源義高、この悲運の父子三代の武将とそのゆかりの小枝御前(さえごぜん)、山吹姫の霊を弔う慰霊祭が行われました。
義仲の命日である一月二十日、ところも山吹姫開基の班渓寺本堂で、発起人をはじめ、町長、議長、地元関係者など約五〇人が集まりしめやかに行われました。
住職によるたむけの読経、町長、議長、発起人代表の義仲らをしのぶ言葉、そして参会者による焼香などが行われました。
歴史資料館々長も姿を見せ、雑誌、新聞からも取材に来るなど、地味なうちにも価値ある催しとなりました。
源家三代について 発起人代表簾藤惣次郎
帯刀先生源義賢は大蔵に館を構え、鎌形の下屋敷に上野国多胡氏の娘小枝午前を住まわせその間に義仲が生まれた。久寿二年八月十六日、義賢は悪源太義平に討たれ二歳の義仲は畠山重能、斎藤実盛の慈悲で、乳母の夫木曽の中原兼遠の所へ送られ成人した。
義仲は以仁王の平氏追討の命を受け、信濃に兵を挙げ平家を都から追ったが、義仲追討の命を受けた頼朝との戦にやぶれ、寿永三年一月二十日、相模国石田次郎のために近江粟津の辺において討たれた。
これより先、義仲は木曽の中原兼遠の娘山吹姫を妻とし、嫡男義高を設けていたが、寿永二年三月頼朝の軍との戦をさけるためこの義高を人質として鎌倉へ差し出した。義高は、頼朝の娘大姫を婦人として、鎌倉にいたが、義仲の死後身の危険を感じ、鎌倉を脱出父義仲の生地鎌形を目指しての途路、元暦元年四月二十六日、頼朝の家臣、藤内光澄によって、入間川で討ち取られた。
『嵐山町報道』278号 1979年(昭和54)2月15日