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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

嵐山町誌87 広野村宗門改帳

2009-05-31 05:29:08 | 嵐山町誌

第三章 村の生活(その二)
 第六節 村の家々とその盛衰

  広野村宗門改帳
 私たちの祖先の住んだ家屋は村の共同事業として建てられた。そしてそれは個人の住居であると共に、村の公共の施設であるという性格をもっていた。これが私たちの調査の結果である。そこで今度はこの住居にどんな人々が暮らしていたのか、しばらくこれに焦点を合わせて、百姓の家庭を覗いてみることにしよう。
 「武州比企郡広野村宗旨改帳」(永島一雄氏蔵)は旗本島田藤十郎支配の百姓二十二世帯の記録である。現存の元禄十五年(1702)、宝永八年(1711)、正徳六年(1716)、享保十六年(1731)、享保二十年(1735)の五冊の中から型の異った数種の世帯を選んで、当時の農家の家族構成や、その変動を探ってみると次のようになる。私たちの家も、この中のどれかの型にあてはまるものであったと見てよい。

【家系図】重兵衛の家庭 【準備中】

    『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)315頁~317頁


嵐山町誌86 明治以後の入会山

2009-05-30 00:16:00 | 吉田

  明治以後の入会山
 ここで序に江戸時代の入会地が明治になってからどう変ったか、その経路を概観して、入会地理解の一助としよう。明治初年の土地制度の改革は、従来は土地の収益に対して課税して来たがこれを改めて、土地の所有権に対して課税することを方針として出発した。政府は先ず官有地と民有地の区別を定め、民有地に対しては地券を発行して、その土地の所有者を決定し、担税者を明確にしようとした。そのため明治五年(1872)には有名な地所永代売買の禁制が解除され「自今四民共売買致所持候儀被差許候事」と布告された。それと共に「是迄官林請山或ハ立銀山等ノ唱ヲ以、年々下草永等上納致来候場所ハ其年ヨリ相廃シ……」と定められ、これを入札によって個人に払下げ、江戸時代に藩有林(本町は旗本領)に対し地元民が下草永などを納めて使用収益して来た慣行は廃止されたのである。次に又、従来村中入会、村々入会となっていた山林原野は、村の公有地として、その地券が交付された。
 「村持ノ山林郊原其地価定難土地ハ字反別而己記セル券状ヘ 従前ノ貢額ヲ記シ 肩ニ何村公有地ト記シ其村へ可相渡置事」
 「両村以上数村入会山野ハ其村々ヲ組合トシ前回同様ノ仕方ヲ以テ何村何村之公有地ト認メ……」等の規定がこれである。
 明治六年(1873)には、地所の名称区別を定める布告が出され、土地は官有公有私有の三種に大別された。
 公有地とは「野方秣場ノ類、郡市坊一般公有ノ税地又ハ無税地」であるとし、官有、私有の明瞭でないものは公有地の部類に入れられた。旧来の入会山野は公有地に編入されたのである。ところが明治六年(1873)に地租改正が行なわれると、「一村又ハ数村総持ノ山林秣場等ノ公有地ハ総テ相当ノ地租収入ノ積相心得仮ニ地価ヲ定メ規則ノ通収税可致事」となってしまった。それで官地か私有地か明確でなかった公有地も所有権の帰属を確定しなければならなくなった。よって翌明治七年(1874)には、前の地所名称区別を改正して、土地は官有地民有地の二種となり公有地の名称は廃止された。
 「村請公有地ノ内所有ノ確証有之モノハ民有第二種ニ編入可致……」と定められ、一村又は数村持の入会地は民有第二種となったのである。そして所有の確証とは、明治八年地租改正事務局の達示によって、必ずしも書類等による証拠とはせず、「従来数村入会、又ハ一村持、某々数人持等積年慣行存在シ(近隣村々でもこれを保証すれば)」その慣行を証拠として民有地として認めたのである。然しその反面に証拠のないものは勿論官有地となったのであるし、慣行があったとしても、その程度も強弱様々あったわけであるから、藩有林に対して地元村民が下草永等を納めて、利用していたものは、官有地に編入されたものもある。これらの処分に対する政府の具体的な方針は
一、旧領主や地頭が村持と定めて公(村)簿に記載してあるもの、口碑によるものも何村所有といいつたえ、近隣村で認めているものは民有。
二、村林などといって植樹や焼払等の手入をして、その村の所有地のように取扱って来たものは民有。
三、秣永、山永、下草銭等を納めていても、何等の手入などせず唯自然の草木をとって来たものは、地盤を持っていたのではないから官有。というわけであった。
 明治九年(1876)になると又、地所名称区別が改正されて、前回の民有地第二種は第一種に繰入れられた。「沿革」には各村共にこの名称区別による官民地の面積が「地種」の項に記載されている。例えば将軍沢村では総反別179町1反4畝24歩の中、民有地は122町1反1畝27歩、その中第一種は121町1反1畝27歩であり、林反別は93町余りであるから、この中には村有林もあったと思われるし、又、この村には官地の秣場芝地が50町近くあったことは前にのべたとおりである。
 然し、この官民有区分は、維新草創(そうそう)の時期で、その調査には不備の点があった。そこで政府は明治二十三年(1890)になり、官有森林原野引戻の申請を許可し、三十二年(1899)には国有土地森林原野下戻法を制定して、旧来「所有の事実」の明らかなものは申請によって、その土地の下戻をした。こうして一且官地になったものも、元の村やの所有地に戻ったのであるが、この時の村は江戸時代の村とは性格がちがい、法律的に定められた法人となっていたから昔の入会地は村の財産となって、村民全体の財産ではなくなった。又は法人格をもたないからそれ自身で財産をもつことが出来ず、代表者数人の共有地の名儀になったものが多い。小林文吉氏の話に出た吉田、越畑で払下げたという国有林は、多分このような経路をとって共有地となり、これが又個人に分割されて、純粋な私有地に変ったものと思う。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)311頁~314頁


嵐山町誌85 入会山の利用

2009-05-29 08:11:57 | 勝田

  入会山の利用
 入会山野の利用の状況について江戸時代の記録は見当らない。然しこれも極く近い頃までの共有地の利用の仕方や、農家の燃料、田畑の肥料などの話をきくと、そこには矢張り昔からの慣習が残っており、それをたぐって江戸時代の実情を再現することが出来る。
 例えば遠山では、明治になってから払下げをうけた共有の原野があって、はじめ二十二名でもっていた。二十二名といえば遠山の大部分の農家である。これを雑木山に仕立てて、薪炭材は業者に売却し、その売上金を分配した。これは昔は、共同で自家の薪や草をとった習慣の名残りである。又、萱とがあってこの萱刈は十二月の農休みに、共同作業で行ない、希望者に入札で売り渡した。萱は屋根葺に使ったのである。入会地の萱をとって、屋根を葺いて来た名残りである。瓦や小麦からの屋根が多くなり、必ずしも萱を必要としなくなったからである。(高橋与平氏談)
 川島にも払下げの雑木林がある。ここから薪をとって、字の集会場や公民館の燃料としている。薪取りは字民の共同作業で行なった。これも払下げ地が、村の総有地であった名残りである。共有地は最近になって他に売却されたり、個々人に分割されたりして今残っているものは少い。鎌形の大ヶ谷原も、かやと秣場というのがあり、萱を刈って屋根葺の料料にした。夏は草刈りをした。誰がいってもよく制限はなかった。馬草(まぐさ)には大ヶ谷に行くというのが鎌形村民の相言葉であった。今は個人所有になっているが、右のような記憶を簾藤惣次郎氏が語ってくれた。
 雑木は燃料、萱は屋根に、下草や落葉は肥料にという利用の仕方が一般的であったようだ。農家の燃料も一変した。プロパンガスや石油や電気を使うようになり、炊事や暖房や風呂まで、最近は、薪や、枝をたく家は少くなったが、明治から大正の頃は、相当の大尽(だいじん)でも堅木(かたぎ)の薪(まき)を燃すことはなかった。松まきが普通であった。やくざの刈抜きボヤを九尺二間の木小屋一杯に積んでおいて、これを一年間の燃料にあてるのが通例であった。松の落葉を掃いてきて燃料とした。子供とも八人位の家庭で、年間の燃料は薪 一五〇把、枝二〇〇把、その他に下屑を補充に必要とした。そこで山のない人達は手間で落葉を掃かせて貰ったり、ボヤはボヤ刈りをして地主と半々に分けたりした。大体一家当り年間一反歩の山が必要であった。十五年毎に伐採するとして、一町五反が必要ということになる。実際は抜き伐りなどをするから一町程度あれば間に合う勘定であった。以上は委員(小林文吉、田中勝三、萩山忠治、小林恒治)の説明を綜合したものである。江戸時代は大体これを入会地から採取したのである。入会地は百姓の生活に大きく密着していたことが分る。
 小林文吉氏の話によると明治の末頃まで、精根のよい人は殆んど刈草と落葉だけで田畑を作ったという。鎌で削るようにしてまで、草を刈ったのである。苗代は短冊にきり、その中へ落葉を押し切りで切って、手で突き込んだ。尤もこれが多すぎると苗代でいぶったという。田中勝三氏の記憶にも、藤葉を苗代に使う家が沢山あったという。一畝に大籠で、五籠から六籠位、掻いた下へ突込むのである。又山草は、積草にした。小枝なども一緒に積込んでおき、積みかえすと枝はやけてボロボロになっている。これを除くと良質の肥料になった。田や、麦のひき肥などに使った。朝草を刈るものでなければ「しんしょう」は持てないといっていた。金肥を殆んど使はなかった時代では、落葉や芝草は不可欠の肥料源であったのである。山林原野はこのように、百姓の日常生活農耕生活の上に必要な物資を供給する不可欠の大切な場所であった。この山林原野が入会地であったのである。入会地は村民全体の総有で、村民なら誰でも利用出来る土地であった。村の性格が入会地に反映して管理や利用の方式が出来上った。そして入会地の運営を中心にして村の共同体制が保たれていったのである。入会地は村という共同体の物、心両面の基盤となっていた。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)309頁~311頁


嵐山町誌84 入会山の管理

2009-05-28 00:04:00 | 勝田

  入会山の管理
 遠山村の村林に戻ってみる。この村林は百姓平兵衛の地続きになっていた。村林は横吹きの郷境とあるから、鎌形村との境であり、その北に平兵衛の畑があったと想像される。それで何故平兵衛がこの村林の木を伐ったのかと考えると、これは畑の木蔭になっていたためではないかと思われる。はじめ村役人から注意したのにこれを聞き入れないということは、平兵衛側にも何かしかるべき主張があったのだと思う。「村持の地所を押領可致心底……」とあるところを見ると、材木が目的ではなく、土地を広くすることに目当てがあったものと思われる。つまり境木を切って木蔭を除き畑の生産をあげようというのが平兵衛のねらいであり、村林を侵かしたのではない、邪魔を排除したにすぎぬ。というのが彼の主張のように思われる。これが村役人の注意を無視した理由であろう。それにしても、再び文書の警告をうけてから急に平兵衛の態度が変化し、平身低頭専ら低姿勢に構えたのは何故だろう。それは平兵衛の行為が村の問題となったからである。平兵衛の利益と村の利害が対立するにいたったからである。これは始めから分らないわけではなかった。然し平兵衛は考えた。村の林は村民の林であり、平兵衛も村民であるからその村林を利用する権利はもっている。その村林の木が畑の邪魔をする。だからその村林の木を木蔭伐 (こさぎりし)てもよいではないかという議論である。だから村役人の注意をうけ入れなかった。だがこれは通用しないのである。村役人はこれを表汰沙にし、村全般の問題とした。
「我意を以て村林を勝手に伐取ってもよい理由があるなら遂一(ちくいち)申立てろ」と開き直ったのである。江戸時代の「村」は「村役人及惣百姓」「百姓総体」と同じ意味であって、村民全体の総合体であったから、平兵衛が村と対立抗争するという事態がすでに論理的にも不可能であったし、現実には存在し得なかった。村と対立するものは村以外のものでなければならない。それは村民としての資格を喪失することを意味する。平兵衛は村民平兵衛であって、村民とかかわりない人間平兵衛というものは存在しないのである。村と対立することは自己否定である。平兵衛の負けははじめから分っていたのである。この段階になると平兵衛も、「一言の申訳無御座候」ということになるのである。そして賠償(ばいしょう)として、金壱両を差出し、村役人を通じて「村方一統」へ詑を入れたわけである。
 右は一片の古証文にすぎないが、その中にも村林をめぐる村と村民の関係を読みとることが出来て興味が深い。村林の利用について各村民は自分達の寄合いできめた「村極(むらぎめ)」に従わなければならなかった。個々に権利があるといっても、それは我儘勝手に行使出来るものではなく、村のおきてに従わなければならなかった。村民は住民として村林の使用収益の権利をもっていたが、村は住民の全体として管理処分の権能をもっていたのである。遠山村の村林にも、成文、不文に拘らず何か規約があったものと思うが、その資料はまだ見出せない。

 勝田の田中勝三氏の話によると「勝田には長沼の東に草刈場があった。ある一人の百姓が朝早くから馬で草刈りに出かけ、大入道が出たとか、天狗が現われたとかいって、他の百姓の草刈りを牽制(けんせい)し、草を独占しようとした。…そのため後になってこの草刈場は高い値段でこの百姓に押しつけて買いとらせた」という伝えがある。このような話が伝るのは、矢張り草刈場が(入会地)総村持ちがあって、個人の無制限の利用を許さなかったことを物語っている。村民は自分達のきめた規則に反しない限り、自由に入会地を利用することが出来た。村民という身分があれば誰でもこの権利をもっていた。今の共同山は村の性格が変ったので、昔の入会地とは大分ちがったところが多いがそれでも今、村の入会地であったと思われるものにはその当時の片鱗が残っている。

 奥平武治氏によると、平沢には丸山という九反程の共有地がある。共有のいわれは不明だという。多分村山の変形であろう。この所有者ははじめ四十九名旧来の村民だけであった。道路普請の杭をとったり、又三十年樹令の松を売って共有者で分けたりした。公会堂の修理など字の事業にこの山からの収入をあてた場合、権利のないものは金で負担した。近頃分家や外来のものが加入して権利者がふえた。この人達は、立木や土地の時価を計算し、これを旧来の権利者数で、割って出た金額を納めるのである。かといって他の地区に出ていってもその権利を持って行くことは出来ない。放棄するのである。用益の方法は総会を開いて一年毎にきめたというのである。昔の入会地の慣行が大分残っているではないか。その中新加入の場合に、旧来の持人一人分の山の評価額の金を出すということは、旧来の人たちが、村民たる資格に於て、この共同山の権利者であったことを裏書きするものであり、転出者がその権利を放棄することは、村民たる身分の得喪が、山に対する権利の得喪に連っている証拠である。今の字は昔の村の後身であり、今の共有地は昔の入会地の変身である。似ているのが当然である。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)306頁~309頁


嵐山町誌83 入会山と村の性格

2009-05-27 00:14:00 | 大蔵

  入会山と村の性格
 村の持っている土地といえば、旧菅谷村には将軍沢南鶴に二町七反、仲の町に三町五反の村有林があった。昭和二十五年と昭和二十九年に菅谷中学新築の時、その立木の松を売却して建築費の一部にあてた。薪下草落葉等の採取を大蔵と将軍沢にまかせ、新植の小松の育成管理を依頼して両字とその契約を結んだ。村有林の立木は村で処分し、村の公共事業にあてたのであって直接村民の利用に供せらるべき性格のものではなかった。ボヤや下草落葉は、契約によって、大蔵、将軍沢区民の利用が許されたのである。野ばなしに誰でも入ってとってよいというものではなかった。この村有地と江戸時代の村持ちの山林、村の百姓が誰でも利用収益することが出来たという入会関係の村持ちの土地とは、その性格が大分ちがっているようである。この点はどうなっているのか。
 再び学者の説明を聞こう。これは入会地に対する法学上の分析である。

「村の住民は単にその村の住民であるという身分を取得することによって、当然に入会地に対する使用収益の権能を取得し、その他に何の取得名儀を必要としなかった。入会地が村に所属している限り、入会地は分割されずに止まり、入会地が分割されない限り、入会地は村の住民全体に所属し、村の住民全体は入会地に対して権利を有したのである。」
 この入会地に対する村民全体の権利がいわゆる入会権であるといい、
「徳川時代に於ける村の本質が、その村民の人格と不即不離の関係に立ち、村民と分離独立しない村民全体であった以上、いいかえれば村の人格がローマ法的な擬制(ぎせい)的法人として、個人人格に還元されない限り、村の入会地は村民全体の総有地であり、村民は全体として入会地に対し団体的所有権をもっていたといわなければならない」

といって、村は村民全体の総合体であったから入会地は村民全体の総有地であるとし、然しこの入会地に対する村民全体の所有権の行使については

「村は団体として総体権をもち、この村の総体権によって村は団体として組織的活動を営んでいた。入会地が村民の全体に帰属した点では、今日の共有と何ら、異るところがないが、入会地に対する所有権の行使について、村民の総合体である村が団体として総体権をもち、これをもって村民の入会地に対する個別的利用権を統制した。この点で共有関係とはちがっている。そこに又入会権の特質が存在しているのである。即ち入会地に対する住民の個別的利用権の上に村の総体権が干渉したことによって入会権は私有権化しなかった。又村が入会地に対して総体権を行使することによって村民の平等、全体の幸福、村の平和が保たれ、村は団体として自治的機能を発揮したのである。村は村民の権利の平等全体の幸福のために、入会地の利用に関し種々の規則を設け、その機関を通じてこれを執行したのである。村民は入会地利用の時期方法割合等総て入会地に関する事件は、村の意志機関である「寄合」で之をきめた。入会地の分割譲渡質入のような処分はすべて村民全体の同意によって行なわれた。各々の村民には入会地の分割請求権がなかった。即ち村は団体として入会地に対する管理の機能をもっていた。この村の管理処分の権能が村の総体権であった。村民は村の住民であるという身分の取得によって当然入会地に対する利用権を獲得した。そして村民は村の規則に違反しない限り、自由に入会地を使用し収益することが出来た。入会地に対する村民の使用収益の権能は、直接入会地に対する所有権の一部であり、所有権に含まれている権能の一部であった」

といって、入会地に対する村の権能と村民の権利の内容と両者の関係を明らかにしている。更にこの両者の関係は相待的組織的な結合であったとして

「以上のように入会地に対する権利を行使するという関係で、村は住民の全体として管理処分の権能をもち、村民は住民として使用収益の権能をもっていた。この村の総体権と村民の個別権は他人行儀的に対立していないで、お互に制約し補充し組織的に結合して、完全な団体的所有権を作りあげた。これが入会権として現出したのである。入会地は全体の目的と個人の目的との双方に役立ち、入会地の上には全体の利益と個人の利益が不可分的に結びついていた」

とのべている。そしてこのような関係が生じた原因は

「入会地に対する村の単一的総体権と、村民の複多的個別権とが組織的に結合したことは、全体の単一と部分の複数とが組織的に結合していた当時の村落の性質が入会権の行使の上に反映したものである。つまり村が村民全体として、村民と分離独立しない組織的結合を有したと同じように入会権の行使についても、村民全体の総体権と各村民の個別権とが組織的に結合していた」

といって、村の性質がその根底となっているといっている。
 そこで更にこの村の性質についての説明をきけば次のとおりである。

「江戸時代の村は、ローマ法の法人のようにその村民から離れて、その村民に対して、恰も第三者のように対立している擬制人ではない。それは村の住民によって支えられ、村住民と分離独立しないつまり住民の人格と村の人格とが不即不離の関係にある村民全体の総合体であった」

という。そこでもう一度ローマ法の法人による単独所有や共有関係と対比して入会権の内容を解明すれば

「村の入会地は個人所有に還元された法人の単独所有ではなく、村民全体の総有地であった。村は入会地に対して管理処分の権能をもっていたが、土地を所有する能力はなかった。入会地は村の単独所有に属し、村民がこれを利用する権利は、他人の物に対する物権であるという関係ではなかった。村の住民であるという身分の得喪によってこの利用権の得喪が生滅した。利用権は村の住民たる身分を前提としたのである。そしてこの身分関係の外に入会地に対して独立の持分権はなかった。又、村民は、入会地を使用収益する権能はもったが管理処分は出来なかった。これはローマ法の共有のように完全な所有権の分数的な一部分ではなかったことを示している。入会地の分割請永権はなかったのである。ローマ法の共有権とは符合しないのである。このように入会権はローマ法の法人の所有でもなく、又各村民の共有でもなく、両者の結合でもなかった。個人の所有か、法人の所有か、多数人の共有かであるという以外に村という特殊の人的結合が、所有権の行使の上に強く反映したものであった。これはゲルマン法の総有権と同じように、わが国古来の慣習によって成立した権利であり、わが国村落の団体的性質と結合したものである。」

といっているのである。
 地方自治法に「地方公共団体は法人とする」とある。法人とは、自然人ではなく、法律の上で、権利義務の主体であるという資格を与えられたものである。これは明治二十一年(1888)に発布された市町村制の第二条で、

 町村は法律上一個人ト均ク権利ヲ有シ義務ヲ負担シ凡町村公共ノ事務ハ官ノ監督ヲ受ケテ自ラ之ヲ処理スルモノトス

と定められたことに基くのである。この法律によって、旧来の村々は分合されて一つの新しい村となり、その村に個人の人格と同一の、法律上の人格を与え、村は個人とひとしく、権利義務の主体となったのである。旧菅谷村七郷村がこれである。新しい村の人格は法律が与えた抽象的な人格であり、しかも個人人格に還元されたものであった。だから村は、村民とは分離し独立したものであり、村の人格と村民の人格とは何の関係もないし、村はその成員に対して第三者のように対立したのである。そこで村の財産は、村そのものの財産で、村民全体の共同財産ではなかった。これが現在の村の性格であり、将軍沢の山林はこの村の所有に属していたのである。それで村は個人が自分の山の木を伐って家の建築にあてるのと同じ意味で村有林の松の木を売り、大蔵、将軍沢の字民は、他人の山を利用するのと同じ意味で、村との契約に基いて下草落葉を採取したのである。
 これに対し江戸時代の村はその村民の人格と全然分離独立した抽象的な人格者ではなく、各村民によって組織され各村民の人格によって支持された村民全体の総合体であり、村の人格とその成員である住民の人格が不即不離の関係にあった総合人であったということになる。「村」「村役人及惣百姓」「百姓総体」であった。ここに今の村有林と昔の村持の山との性格の相違がある。次に入会地の管理や利用の状態を本村の事例に基いて、検討してみよう。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)302頁~306頁


嵐山町誌82 大ヶ谷原・高城原

2009-05-26 14:38:44 | 嵐山町誌

  大ヶ谷原・高城原
 鎌形村の大ヶ谷原や高城ノ原は、原野が不分割のまま村民の利用に供せられていたことを示す顕著な事例である。これは元文五年の検地帳に「玉川郷鎌形村入会秣場」と書いてあるのでよく分る。玉川郷の村民と鎌形村の村民が入り合って共同で薪芝草等を採取した場所であって、玉川郷の何某、鎌形村の誰某という風には分割所属されていなかった。二十数町の土地がすべて共通に玉川郷と鎌形村とのものであった。いはば村の土地であったのである。このように二ヶ村以上の村で共同に使う土地を村々入会、一ヶ村だけで使う土地を村中入会といった。前にも触れたように分割区分されない土地は、百姓の一人々々に私有されていない土地という意味であるから、誰の土地かといえば村のものということ以外にはならないわけである。反別もなく持主が定かでないといっても、全然自由にこの土地が開放された状態にあったのではない。どこの村からでも自由に入り込んで薪をとってもよいというのではなかった。村々入会は、二ヶ村以上の限られた村であり、村中入会はその村だけの村民に限られたのである。山林原野等入会利用の土地は、村のものだったのである。ただこの場合、その地盤を村がもっているという意味に限定されない。その山林原野を使用収益する場合の管理権を村が持っているということが村持という言葉の内容であったのである。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)301頁~302頁


嵐山町誌81 杉山村の山年貢

2009-05-25 00:10:00 | 嵐山町誌

  杉山村の山年貢
 元文五年(1740)「申年田畑御勘定帳山御年貢共 杉山村」(初雁喜一氏蔵)は、百姓個人別に田、畑、山の年貢を割当てたものである。この記載によると「畑方」の部に

  高五百八拾五文    勘多郎
    五拾八文   新畑
   〆 六百四拾八文
      五百六文
   高 百廿文  山  同人
      九拾四文

というように、山の永高と、納付銭高が書いてある。全員について「山銭」の割当がある。これは個々に山を分割して持っていたからではないか。更に又、年度は不明であるが、杉山村「山反別改帳」というのがあり、百姓六十一人について、夫々所有反別と思われる面積を個々に掲げてある。その総計は「拾町六反六畝拾六歩 永壱貫三拾壱文弐分五リン但し口永共ニ」とある。個人持の山があった証拠ではないか。
 これは例外といえばそれまでであるが、余りハッキリ原則に反しているので、何かわけがありそうに考えられる。第一に気のつくことは、総計一〇町六反六畝を六一人の百姓に分割すると平均一反七畝余りである。小規模である。事実、九反九畝四歩 忠次郎、六反 小右衛門が例外で他に四反以上が三人、三反以上が三人、二反以上が七人で、一反以下が大部分である。然し四畝以下はない。山にしてはいかにも面積が小さい。これは何か基準があって、山の反別を指定したものではないだろうかと思われる。四畝以下の持主がないことも、作為的な分配であることを匂わせる。ところで一方こころみに元文八年の帳簿を見ると、はじめからの三人は
  勘太郎  米  一石〇六七六  山永一二〇文
  喜八郎  〃  一石〇四二〇  〃 一〇〇文
  新 八  〃  〇石五八四二  〃  五〇文
とあり、途中では
  小右衛門 〃  二石六二八四  〃 二三四文
となっている。
 右は無作為にひろい出して見たのであるが、大体山永は年貢米高に比例していることが分る。そこで前に想像した何かの基準というのは、年貢米高ではないだろうかということになる。年貢米高は田の反別に従うと考えてよいから、年貢の米高そのものでなく、田の反別に従って、山が割当てられたと考えてもいいだろう。山は農業経営に必要な芝草や落葉の供給源であるから、右の考え方は無理ではないし、又、田の地先木蔭の部分を田に付属せしめて利用させたと考えても順当であろう。こうなると杉山村の「山反別改帳」などの記載も、その本質に於ては山林は反別もなく持主も定まらず、総村持の土地であったという原則と変らないことになる。村内の山全体についてではなく、ごく一部の山を、百姓経営に必要な資材の供給地として、個人に割当てた。それは各自の田畑屋敷の周辺の山だけで、奥山までは至らなかったにちがい。大部分の山は村民全体の利用にまかせられたと考えていいだろう。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)299頁~301頁


嵐山町誌80 入会山の由来と役割

2009-05-24 00:02:00 | 嵐山町誌

  入会山の由来と役割
 以上のように各村共、共有の入会地をもっていたことがわかるのである。さてこの入会地というのはどうして生れどのような役割をしていたのだろうか。
「わが国では上古から山林や原野は分割されずにあって、その付近に住む村民の共同収益にまかせられていた。不分割の山林原野は、誰の私有ともならず、その地元の住民が自由に利用して来た。徳川時代になっても、山林や原野は原則として反別もなく、持主もきまらず、総村持の土地であった。当時の農民は村の入会地である山林原野にいって農業経営に必要な秣草肥草を刈りとり、農民生活に必要な薪炭や、道路橋梁井堰等の用材を伐採し、萱葭(かやよし)をとって屋根を葺き、竹木を伐って家財道具を作ったりなどした。だから入会地は農耕上欠くべからざる補充財であったし、又、当時の農民生活上なくてはならない補足財であった」これは入会地の起源と、それが果した役割についてのべた学者の説明である。この説明に従って本町の場合を考えていこう。
 上古から山林や原野が不分割のまま、何人の私有ということにもならず地元の住民が自由に利用したという点は、本町でも同じであったと思う。徳川時代にも、原則として山林原野は反別もなく、持主も定らなかったと考えてよいだろう。唯一つ本町にはこの原則に反した例がある。例外とでもいったらよいのであろうか。これを検討してみよう。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)298頁~299頁


嵐山町誌79 村々の入会山

2009-05-23 23:14:25 | 勝田

  村々の入会山
 江戸時代には、村持の山林原野を一般に「村山(林)」「村受山」「百姓林」「村持の原野秣場」などといった。村持であるから、村の住民が共同でこれを使用収益した。この村民が共同で使用収益する場所を、入会地、入会山などといったのである。遠山村の村林はこの入会山に相当するものであったと思われる。
 江戸時代の村は必ずこの入会地を持っていたようである。「沿革」にはこのことが明らかに記載されている。例えば千手堂村の項に山岳雷電山を説明して、
「本村字上ノ山ニ連互シ 東林下ニ民家アリ…… 又岳ヨリ三分シ 西ハ遠山村ニ境シ、西ハ鎌形村入会秣場ニ属シ 北ハ山脈平沢村ニ接ス」
とある。雷電山の三分の一、西方が鎌形村との入会株場になっていたのである。又、同村原野の項に「小千代ノ原」をあげ
「中央ニ耕作道アリ、該道ヨリ南ハ平坦ナリ北ハ西北ニ傾斜シ二条ノ小谷アリ民有ノ小田アリ、柴草生ズ 村民ノ秣野トス」と書いてある。これは官地に属し、面積は四町二畝八歩であった。
 鎌形村では元文五年に秣場の検地が行なわれた。検地帳の表書が「沿革」にのこっている。

(表書) 元文五年申十一月
   武蔵国比企郡玉川郷
         鎌形村入会秣場検地帳
         御代官 柴村藤右衛門
            手代 八木仙右衛門
               木村儀助
(合計)
  秣場 弐拾弐町壱反壱畝拾弐歩

「沿革」には原野としてある。これは江戸時代からの入会地であったのである。この秣場は「大ヶ谷原」のことである。「沿革」で大ヶ谷原は鎌形村と玉川郷との入会で民有に属し、反別は二二町六一畝二一歩、村民の秣場であるといっているのがこれに当っている。その他鎌形には同じく玉川との入会地高城の原、五町六反五畝一四歩もあった。これも「沿革」に「生産 萱草生茂村民ノ秣場ナリ」と説明している。
 以上二ヶ村の例から各村共に相当広大な入会地をもっていたことを想像することが出来る。それをもう少し調査してみよう。そのために千手堂村と鎌形村の秣場で次のことに注意しなければならない。即ち「小百代ノ原」は村民の秣場だと書いてあるがその地盤は官地である。鎌形村の「大ヶ谷原」と「高城ノ原」は「民有ニ属ス」と明記してある。この相違が一つと、鎌形村の場合は、玉川郷と二ヶ村の入会であると書いてある。この二つのことである。今必要なのは最初の問題だけである。第二のことは後にゆずる。
 村民の秣場であり乍らどうして地盤は官有地であるのか。いや官有地を何故村民の使用収益にまかせてあるのか。これが一つの問題である。その解決は鎌形村の検地帳が物語っている。検地はその土地を年貢賦課の対象とするためである。そして年貢高を定めるために行なうのである。元文の検地によって鎌形村ではこの地から年貢を上納するようになった。「沿革」の旧雑税の項に
 「野手米  壱石壱斗六合
  柴草冥加 永弐百五拾文」
とあるのがこれである。ところが明治初年地租改正のため、土地の官民有区分が行なわれた時、旧幕時代に納税等をなし、私有の証拠の明らかなものは私有地とし、そうでないものは官有地に編入した。この時、村有山林原野の多くは官有地と定められたのである。鎌形の秣場は検地をうけ、年貢を納めていたので、民有となったのである。「小千代ノ原」はこれがなかったので官地となったわけである。然しこの地は幕府時代から長い間、柴、草等の給供地として、村民の生活に密着していた。それで官地だからといって、今すぐこれを禁止してしまえば、百姓の生活を破壊することとなる。そこで旧来の慣行通り、ここが村民の秣野としてその使用収益に委せられたのである。これが「小千代ノ原」が、官有で村民の秣場となっている理由である。こうなると、菅谷村をはじめ、官有地の原野が沢山ある。これはこと改めて秣場とか入会地とかいう説明はないが、いずれも旧幕時代は村の入会地であったと見てよいようである。「沿革」により菅谷地区からその面積を調査してみよう。

▽菅谷村
  用材林         三六畝一六歩
  芝地          五三畝一六歩
  草生地        三六一畝二一歩
  原野(境原)       三三畝二九歩

▽志賀村
  秣場(民)       四四三畝二〇歩
  原野(金平ノ原) (民) 三六三畝二三歩
    (我田分野) (村持) 三六畝一三歩
(註)この村でも、柴草冥加永一二〇文を納めている。

▽平沢村
  秣場         五三八畝一三歩
  芝地         一四一畝 九歩
  原野(遠道原)     一二五畝〇〇歩
    (丸山原)      八〇畝二五歩

▽遠山村
  原野         六七七畝二三歩

▽千手堂村
  秣場         三九九畝〇八歩
  芝地          六六畝〇〇歩
  原野(小千代ノ原)   四〇二畝〇八歩

▽鎌形村
  用材林        一一六畝二六歩
  薪炭材         一四畝一七歩
  芝地        一一〇五畝二五歩
  秣場        二八六八畝〇四歩
  秣場(民)      二八二七畝〇五歩
  萱生地(民)       七三畝一〇歩
  芝生地         七九畝〇三歩
  原野(大ヶ谷原)(民) 二二六一畝二一歩
    (高城ノ原)(民)  五六五畝一四歩
▽大蔵村
  林           三五畝一二歩
  原野          二七畝〇四歩
  〃 (不逢ヶ原)(民)  八一二畝〇〇歩
(註)野手米八斗、柴草冥加二五二文二を納めていた。

▽根岸村
  林            一畝二六歩
  芝地          四九畝〇九歩
    (民)       一六六畝〇五歩

▽将軍沢村
  用材林        一二六畝一八歩
  芝地        一四八四畝一五歩
  秣場(仕止ヶ原)   三二二五畝一七歩
(註)各村とも原野何々原の面積は他の面積と重複しているものがある。又官民有の区別の明らかでないところもある。

 七郷地区の村々については、まだ史料を見ることが出来ないので、菅谷地区のように計数的に上げることは出来ないが、同じように入会地をもっていたことは間違いない。編纂委員は次のように語っている。

▽小林文吉氏
 吉田越畑には原山という大きな原野があって、草刈に行き、冬にはつつじの根を掘って薪木にする人もあった。小川県道の両側にあり、国有林となっていた。日清戦争後払下げをうけ、吉田では分筆して八畝宛、三十数名で分けた。御林山というのもあり、これも払下げた。堂山(杭木山)という共同山があった。田の木蔭にならないよう伐採して杭木にした。今は田の地先関係で持っている。

▽荻山忠治氏
  古里では共有の原野があったが、村社合併の経費に充てるため分割して田の地先に売却した。官有地の木はとるわけにいかぬが、枯れっこや下草を採取した。

▽馬場覚嗣氏
 越畑には十三間原という共有地があり、明治四十年頃十四町余の面積で、誰がいってもよい草刈場であった。後に五軒組合へ分割し、今は立派な山林になっている。

▽田中勝三氏
  勝田には明治九年(1876)の調査で官有地四町四畝と、八畝十一歩がある。草刈場であった。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)293頁~298頁


嵐山町誌78 遠山村村林

2009-05-22 23:06:00 | 嵐山町誌

第三章 村の生活(その二)
 第五節 入会山

  遠山村村林
 岐阜県の家ぶしんの話に、材木は入会山で取ってくると書いてあった。入会山とは何だろう。
 ここに遠山杉田角太郎氏所蔵の「差上申一札之事」と標記する証文を紹介しよう。

一 従前々郷境ニ相立置候字横吹ニ而 村林三ヶ所之内川筋通り之地所 境等聢(しか)と有之候所其元持分下々畑弐畝廿八歩之続キニ者有之候得共 右村林境木を伐取 川端迄伐下ヶ候ニ付 村役人上より心得違之旨申聞候得共一切不相用 村役人申条を等閑ニ相心得 村持之場所ヲ押領可致心底不得其意儀ニ候 尤我意ヲ以村林ヲ勝手ニ伐取候而茂宜敷次第御座候ハバ其段遂一可申述候
 前書之報披見仕候処不調法之次第全心得違一言申訳無御座候 依之右村林為木代金壱両村方江差出し申候間 村御役人方右様御勘弁ヒ下村方一統江不始末相働候段御宥ヒ下候様奉願上候 然上者心底相改 我儘不法不仕重而急度相慎可申候 仍而組合連印為証一札差上候如件
               当人  平兵衛
               五人組 文右衛門
 弘化五戌申三月        〃  直吉
                〃  磯右衛門
 村方
  御役人中
  判頭中

 横吹は大平山の西斜面槻川に沿った地域である。ここに遠山村の「村林」が三ヶ所あった。その中、川に寄った部分で、百姓平兵衛の畑と地続きになっている村林の境木を平兵衛が川端まで伐ってしまった。そこで村役人がその注意をしたが、一向に取り合わない。よって改めて文書をもって当人を詰問(きつもん)した。平兵衛は急に恐入って、代償として金壱両を村へ差出し、今後は絶対にこのような我儘不法はしないことを誓い、許しを請うて事件は決着したという筋である。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)291頁~292頁


嵐山町誌77 住居の公共性

2009-05-21 00:01:00 | 嵐山地域

  住居の公共性
 とも角も昔の家屋は、公共的な性格が強かった。このことからみても、家屋建築の場合に近隣、村人が、その資材や労力を提供し合った理由がわかるのである。村人たちは、個人の私宅をたてるのではあるが、同時に村の共同の建物を造るという意識も半分位はあったのであろう。自分の家も又、こうして建てて貰うのだと考えていた。こうして建てて貰っておかなければ、寄合いやお日待の時、お互に困ると考えた。ましてそれが、名主、組頭等村役人の家である場合は、今の役場庁舎の建築と異らない。村役人の家は、役場の「窓口」であり「事務室」であり「会議室」であり、更に「講習会場」でもあったからである。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)290頁


嵐山町誌76 へや

2009-05-20 06:59:17 | 嵐山地域

  へや
 へやの語源は字典には「家の中に、何か特定の用にあてるために、分け仕切ってある室のことで隔屋の意味」であると述べてある。へやは元来特別の目的のために建造されたものらしい。隔屋と書くとすれば或ははじめは別棟であったのかもしれない。これが家の中に入っても他の室とは区別されてへやという名前をもちつづけたのであろう。他の三室の仕切りは、板戸や、襖や、障子を用いてあるが、へやと茶の間、でいとの境は壁で仕切った部分がある。全部ではないが、仕切の半分とか、三尺位とか、壁の部分が残っている家がある。これは隔屋が別棟であった名残りでもあろうし、それにも増してこの室が他と隔絶した独特の目的のために準備されたものであることを示している。
 その特別の目的とは何かといえば、この地方では結局寝室ということになる。へやの使い方で最も固定しているのは寝室である。他の室も勿論寝室として使われている。然し家人の増減によって、これらの室には異動がある。家族の少い家では、でいやざしきは空室になる場合もある。然しへやだけは変らない。家族の多少に拘らない。一年中一貫して寝室として使われるのである。へやは寝室である。一年中寝室として使われるということは、一年中この家に住む人の寝室という意味である。一年中住む人は主人である。へやはその家の主人夫婦の寝室なのである。その家の当主の寝室である。代がかわれば老人や弟妹や孫たちは、ざしきや、でいを寝室にする。然しこれらの人達はやがて成長して、家を巣立ち、老人は天寿を終えて他界に去る。ざしきやでいの住人は流動的である。然しへやは一貫して当主の寝室である。固定している。ここは又、茶の間の私的性格を更に一層深めたものである。裏側の奥に位置しているこの部屋は、昼もうす暗く、何か他人の覗(うかが)うことを許さないといった特異の雰囲気をもっている。茶の間までは家族以外の人達も時々出入する。然しこのへやに限って、第三者が入ってくるという用事は全くない。日常の生活ではそんな必要は全然起ってこないのである。このように他からうかがうことの出来ない私室をもつということは、公私の別を明らかにして、表側の二室はいつでも、公の用に準備しておくことが出来るという基盤をなすものである。これは茶の間のところでのべたのと同じである。
 そこで私たちは茶の間のだんらんや憩(いこい)、又、お互に他人の私生活を尊重して犯すことのないへやの生活が村の共同体の中に立派に存在し、その個人的の生活が公共の生活に結び、表裏密着して、村の共同生活を推進していたと考えたい。家屋の間取りとその名称と使い方から見た場合、右のような結論に達するのである。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)288頁~290頁


嵐山町誌75 茶の間

2009-05-19 06:57:00 | 嵐山地域

  茶の間
 茶の間は前二者に対して私的の性格が強い。茶の間は日常飲食の場所であり、いこいの場所である。茶の間から土間に床を張り出して板の間を作っている家が多い。大ていこの板の間に、囲炉裡が切ってある。板の間の部分を勝手と呼んでいるが、この板の間の勝手がない場合は、茶の間そのものが勝手である。この地方で、「手前勝手な奴」といえば、わがまま者の意味である。勝手という部屋の名前はこの辺から起ってきたのかと思う。勝手や茶の間は、家人の飲食を主とした日常生活の場所であるから、他人がここまで足を入れることは先づないのである。他人の食事は覗き見ないのが礼である。美味いものを食っていれば、分不相応と噂されるし、ひどい粗食はケチだと非難されるだろうし、時には家計の窮迫(きゅうはく)を人目にさらすことにもなるので、他人には見せたくないのである。又見てはならないのである。ここに勝手がある。勝手は外部からの目を遮断(しやだん)して、気儘に自由に振舞うことの出来る場所なのである。まことに勝手次第で都合のよい場所である。ざしきやでいが公的性格の強い場所として、いつも隣人や村人に開放し提供することの出来るように備えられているといったが、それが出来るのはこの茶の間乃至勝手が存するからである。勝手は個人の生活を守るとりでである。誰もこれを侵すことは出来ない。面白いのは囲炉裡を囲んだ座席である。通常土間からの正面は横座といって主人の坐わるところ、その横の裏口の側が女房や家族の席、かゝ座などといい、入口に近い側は客座といって外来者の席、土間の側は下男や下女の席で焚物の尻にあたるから木尻などといっているという説明が学者の間に行なわれている。この村では必ずしもこの通りの名前で四つの席を呼んでいるとは限らないが、四つの席がそれぞれ誰の席であるかということは、右の説のようにきまっている。ここで面白いのは、主人と客との席の配置である。主人は厳然(げんぜん)として正座に坐し客はその横に坐するのである。これがざしきやでいの場合は趣を異にし、客は上席で主人は下座(しもざ)乃至客と相対して、客よりひくい場所、ざしきなら茶の間の側、でいならへやの側に坐るのが通例である。ところが、茶の間勝手に入ると、主人が正座を占めて、客に譲らないのである。茶の間や勝手は、個人の私的生活のとりでであり、従ってこの場所の最高の権威者は主人であることを示している。いかなる外来者も勝手のルールには従わなければならない。これを犯す者は「横座に坐る馬鹿と猫」といって軽蔑される。このような私的生活の保証があって、はじめてざしきやでいの秩序が維持出来るのである。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)287頁~288頁


嵐山町誌74 でい

2009-05-18 07:05:04 | 勝田

  でい
 出居は普通、四間住宅なら、表側の方の土間に近い間をいう。京都上流の家にも用いられた語で客を応対するために出て居る間という意味であった。それが農村には今も広く保存されている。東北でデコ、デェザというのは、常に使はぬ奥の一室に限られている。これに反して、もっと口もとの間だけを出居というところが多い。ここには多く神棚がある。デイの語を「本家」の意味に使う例があるのは、本家の他に出居を持つ家がなかったという重要な事実を暗示するかと思われる。
 以上は「民俗学辞典」の説明である。この説明とは若干相違して、この地方のでいは奥の一室である。東北デコ、デエザに共通するものである。客を応待するための場所であることには変りないが、ここで応待する客はただの客ではない。いはば貴賓であり、又、祭祀に関する客である。この部屋で行なわれる行事は祭祀である。でいは祭祀の間であり、礼の部屋である。でいには床の間があり、床の間には「天照皇大神宮」の掛軸をかけた家が多かった。神棚のある家もある。結婚式には床の間を背にして媒酌人や新郎新婦が座る。榛名講のお日待には、ここに榛名山の軸をかけて、神酒や神饌物を供える。葬儀にはここに祭壇を設ける。十三仏の軸をかけて七七日の供養を怠らない。でいは冠婚葬祭の式場である。勿論でいは普通の来客にも寄合にも使われる。寝室にも蚕室にも使われている。然し私たちは、一定の行事がその部屋をさしおいて他の部屋では絶対に行なわれないという事実を知れば、その部屋はその行事のために準備されたものであると判断してよいわけである。でいを差しおいてざしきやへやや茶の間で右にあげたような祭祀の礼は行なわれないのである。でいは祭祀の間と考えてよいだろう。尚、でいの庭先には築山がある。右住いの家なら大体南西の隅に築山が造られている。規模や趣向は様々であり、石や木や水の配置の妙をつくし、いわば庭園の部類に属するものもあるが、松の木二三本に草花数種という簡単なものもある。築山には木精、木こく、松、柏、きやらの五木が備なわらなければならない。(永島氏談)といわれた。このような場合の庭は客をもてなし、観賞するためという意味が強く出ているが、二、三箇の石と一本の松という庭の精神は自然の風致を愛する国民性のためというだけでは腑におちないものがある。田中氏、永島氏はこのことについて、築山は神の遊び場であり、又万一火災の場合家屋は焼失してもここは残る。即ち神の宿りがここに残るという考え方があったという。今の人達にはこの考え方は殆んど残っていないようであるが、私たちはこの考えを支持したい。とに角築山は今でも神聖な場所である。頑是ない子供と雖も築山を遊び場にすることはないし、これを汚すことは自ら慎しんでいる。又、それは親たちからきびしく禁止されることである。でいはこの築山と結びついて一層その性格を明確にし、祭祀の間であり礼の部屋となって村々の慣習に固定したのである。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)285頁~287頁


嵐山町誌73 ざしき

2009-05-17 10:59:03 | 嵐山地域

  

ざしき
 次にその使い方をみよう。先ずざしきである。ざしきは、外来者と応接する場所である。土間から直接、ざしきになる場合は、ここが「上りはな」である。「上りはな」には、普通火鉢などをおき、冬は手をあぶり、夏は喫煙の用具とする。来客はこの火鉢のそばに腰をかけ、家人と訪問の用件を語る。主人は火鉢をはさんで来客と対坐するか、土間に向って正座に坐ったりするかする。ここで茶菓の接待もする。来訪者が近隣の人達で用件も日常の些事(さじ)である場合はここで済ませる。来訪者の身分が高いとか、そうでなくても話の内容が重大であるとかいう場合は、腰かけでなく、ざしきに上る。個人のことなら冠婚葬祭に関すること、公のことなら村の建設事業とか紛争とか公職者の選出とかは重大な話にぞくするわけである。ざしきは応接の場所である。更にざしきは会合の場所である。現在どこのでも三月には、「大遊び」「男遊び」という「お日待」が催されている。昔からの風習である。作物の豊穣を祈る「榛名講」などが多い。
 「男遊び」に対して「女遊び」がある。子供達の「天神講」の集会もある。橋をかけ、道普請を行ない、堰を補強し、沼の修理をして、役員や当番をきめ、経費を清算し、慰労会を催すなど今でも私たちの周辺には沢山の会合がからみ合っている。旧幕時代には、村の自治や年貢の割付や領主からの命令伝達やら更に多くの寄合が行なわれた。今は各で公会堂を作り、或は出荷所や社務所や飼育所を使って大抵の会合はここで済ませるようになったが、昔はこのような施設がなかったので、一切の会合が個人の家で行なわれた。この会合の場所がざしきである。村政の執行機関である村役人の居宅が、村政の運営のために使われることは勿論であるが、個々の百姓達の家もそれぞれその属するグループの会合の宿として順番に会場に充てられた。私の好悪でこれをのがれることは出来なかった。グループのために家を開放しなければならなかった。そしてこの時に提供する部屋がざしきだったのである。しかもざしきに限られたのである。勿論人数の都合ででいも共に使われ、会場が茶の間まで拡張されることは間々あったが、根幹はぎしきである。ざしきを外して他を使うということはあり得ないのである。ざしきは公会場だったのである。個人の家の一部であるが、それは公会の席として村の人々の集合の場所として準備されたものであった。ざしきは公のためのものであるという観念が、昔の人達の間には支配的に存在したのであった。このことを物語る事実がある。筆者の祖父が村議をしていた時、菅谷、鎌形両小学校の合併問題が起って、鎌形地区には賛否両論があった。冬のある早朝、村の青年たちが、村議である祖父の意見を訊(ただ)すために十数名来訪した。青年達は「上りはな」に腰をかけたり土間に立ったりして、祖父と訪問の挨拶を始めようとした。「上りはな」とざしきの間は、障子四本で仕切ってある。早朝なので寝床はそのまま敷し放しであった。寝乱れたふとんの不始末を恥じて、母があわててこの障子を閉めた。すると祖父は声を荒げて、これを叱責し「しめてはいけない。あけておけ」と命令し、自らも立ってこの障子を押しあけた。少年であった筆者は、この祖父の言行がただ奇異に感じられただけで、その時その理由を解することが出来なかった。然し今にして思えば、これは前述のようなざしきは公のものであるという観念のあらわれであると分るのである。学校合併の問題について、村の青年の訪問をうけ、村議という公の立場で意見をのべる機会に際会したわけである。これはざしきに招じて、公明に堂々とその意見を開陳すべきである。然るにふだん寝室に使っている。ざしきはこの朝まだ公の席に供する状態にない。まことに不本意のことである。恥ずべきことである。名分が立たない。然るにそれを障子でたて切ってしまうことは、その上に尚、公のものを、「私」するそりしをまぬかれがたい。罪の倍加である。そこでよし、古く破れたせんべいぶとんの恥をさらすとも、公のものを私する卑劣のそりには及ばない。一切を開けひろげて、これを以って何等私心のないことを明らかにしようというのが祖父の意志であったと思うのである。ざしきは公の会合のために準備された部屋である。ざしきという言葉のおこりは、昔、板の間であった部屋に藁の円座を敷いて客を迎えたからだという。円座は今の座ぶとんにその風が残っているように一人一人の敷物である。でいとざしきの呼び方が逆になっている地方もあるが、いずれにしてもこの二室は客に関連のある部屋で、これに畳を敷きつめたのは近世のことである。ざしきはもと客を迎えるために、座を敷いた部屋である。この地方では応接や会合の場所をざしきと呼んだのはこのようないわれを含んでいるのである。
     『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)282頁~284頁