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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

わたしたちの町らんざん 7 町の人びとのしごととくらし のうかの仕事 ようさん 1977年

2010-08-06 08:13:20 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

・ようさん
 嵐山町では、ふるくからようさんがさかんでした。山の斜面や平地を利用してくわ畑がたくさんあります。ようさんは、のうかにとっては大切な収入源で、かいこをかっている家もたくさんあります。
 かいこは普通、春、夏、初秋、晩秋と四回にわたってはきたてを行います。中には五回、六回とはきたてる家もあります。
 かいこは、はきたててから、やく一ヶ月でまゆをつくります。短い期間ですが、くわとり、くわくれなど大へんなしごと量です。おこあげが、おわってから、一週間くらいで完全なまゆをつくります。のうかでできたまゆは、ようさんのうきょうをつうじて製糸工場にまとめてうられます。しごとのあい間を利用しておこなう、くわ畑の手入も大切なしごとです。こうしたふだんの努力があって立派なまゆがつくられてくるのです。

表:まゆ代金の比較(昭和50年度)(1975)
     まゆ代金(100万円) 養蚕戸数 平均まゆ代金
1.七郷     307      333    92万1000
2.八和田    275      363    75万7000
3.宮前     269      332    81万0000
4.菅谷     217      275    78万9000
5.福田     193      307    61万9000
6.野本     187      366    51万0000
7.高坂     169      225    75万1000
8.唐子     165      195    84万6000
9.亀井     106      176    60万2000
10.大岡     100      168    59万5000

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 6頁~7頁


わたしたちの町らんざん 6 町の人びとのしごととくらし のうかの仕事 こめと麦つくり 1977年

2010-08-05 23:51:00 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

(2)のうかのしごと
・こめと麦つくり
 子どもの日を中心にして、どこののうかでも、たんぼに、もみたねをまいて苗代つくりをはじめます。
 さい近では、きかい植えをする関係から箱で苗つくりをする家が多くなってきました。田植えは、六月中旬ごろからはじまります。この頃は「つゆ」といって雨がよくふりますが、苗のうえつけには、大事な役わりをはたしてくれます。また、この時期は「つゆ」の晴れ間を見つけて麦のかりいれなど、しなくてはならないので、のうかにとっては大へんいそがしい時期です。
 田植えがおわると除草剤や殺虫剤などの薬を、たんぼにまきます。のう薬を使うようになってから、のうかのしごとは大へん、らくになってきましたが、薬公害という、あたらしい問題がおきてきました。
 植えつけがすむと、田んぼに水をひくことがだいじなしごとになります。
 のうかにとって心配のたねは台風です。せっかくつくった稲も台風のために、すっかりだめになってしまうことがときどきあります。
 稲かりは十月なかば、お日まちを過ぎるころから一せいにはじまります。さい近ではバインダーを使ってかり取りをする家が多くなって、しごとはずっと能率的になってきました。
 麦まきは十一月に入ってからはじまります。しかし、いぜんとくらべると作づけ面積はずっと少なくなってきています。
 のうぎょう生産のとくしょくは、天候によって大きく左右されるということです。低温がつづけば病虫害は発生するし作物の生育はとまり、収かくは少なくなります。また干ばつになるとこれまた作物の生育はとまり、ときには枯れるばあいがでてきます。

表:米と麦の生産高(政府うりわたし量)

昭和48年(1973) 15450袋   7982万7000円
昭和49年(1974) 14203袋   9594万3000円
昭和50年(1975) 14417袋 1億1148万9000円


昭和48年(1973) 1452袋   318万1000円
昭和49年(1974)  953袋   267万5000円
昭和50年(1975) 1444袋   445万3000円

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 5頁~6頁


わたしたちの町らんざん 5 町の人びとのしごととくらし いろいろな職業 1977年

2010-08-04 23:02:26 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

二、町の人々のしごととくらし
(1)いろいろなしょくぎょう
 子どもたちを教育し、毎日の生活をしていくために、おとうさんやお母さんは、いろいろなしごとについて、はたらいています。どんなしごとについている人が多いかつぎの表をさんこうにして話しあってみましょう。

表:町の人びとのしごと(昭和50年【1975】国せい調査)
総数        6545人
せいぞう業     1890人 会社など
農業        1315人
商店         895人 おろし 小売
サービス業      890人 理はつ 洗たく
建設業        580人
運ゆ・通信      390人
金ゆう・保けん    255人
公務         225人
電気・ガス・水道業   50人
その他         55人

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 4頁


わたしたちの町らんざん 4 嵐山町のようす 1977年

2010-08-03 00:30:38 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

一、嵐山町のようす
 わたしたちのすんでいる嵐山町は、埼玉県のほぼ中央部にあります。町の東は滑川村【現・滑川町。1984年町制施行】、東松山市、南は鳩山村【現・鳩山町。1982年町制施行】、玉川村【現・ときがわ町。2006年都幾川村と合併】、西は小川町、北は大里郡の江南村【現・熊谷市。1985年町制施行。2007年熊谷市と合併】、川本村【現・深谷市。1977年町制施行。2006年深谷市、岡部町、花園町と合併】、寄居町とせっしています。
 町の広さは、やく三〇平方キロメートル、東西四キロメートル、南北一二キロメートル、南北に細長い地形で、ほぼ市の川を境として菅谷地区と七郷地区にわかれ、さらに古里、吉田、鎌形、菅谷など一七の大字にわかれています。
 町の東と南には水田が多く、北と西には山林が、中央部は台地で、畑がたくさんあって、交通の便とあわせて、工場や住宅に適しています。鎌形から将軍沢にかけて広がる、嵐山カントリーは、丘陵地を利用してつくられたゴルフ場です。
 川は、南部を槻川・都幾川、中央部を市の川・粕川がながれ、滑川は、町の北をながれています。なお、山あいには、大小あわせて、やく一九〇の沼地があって、水は田んぼの用水として利用されています。また、槻川橋から上流を見たながめは武さしらんざんとよばれ景勝地としても有名で、キャンプ場などのしせつがあります。
 このほか、嵐山町には歴史上有名な史跡もたくさんあります。
 気候は、春秋には、あたたかい日が多く、冬は北西の季節風がふいて寒い日もありますが、雨量は適当にあって、大体しのぎやすい地域にぞくしています。
 つぎの図に、字名をかきいれましょう。
3
表:町の広さ(ha)
全体  30.02
田    4.02
畑    6.36
宅地   1.67
山林   9.22
沼地   0.32
その他  8.08

表:人口のうつりかわり(S46.5.1)

全体   10912人
男     5407人
女     5505人
人口密度  363人/平方㎞
世帯数   3624戸

 急に人数がふえたのはなぜでしょう。

 年 世帯数  人口
昭41  1988  9921
 42  2100  10151
 43  2182  10375
 44  2271  10521
 45  2311  10707
 46  2414  10912
 47  2711  11875
 48  3209  13553
 49  3332  14013
 50  3430  14226

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 2頁~3頁


わたしたちの町らんざん 2 もくじ 1977年

2010-08-01 23:08:29 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

一、嵐山町のようす
二、町の人々のしごととくらし
(1)いろいろなしょくぎょう
(2)のうかのしごと
  ・米と麦つくり
  ・ようさん
  ・らくのう
  ・くだものや野菜つくり
  ・観光さんぎょう
  ・花つくり
(3)農業協同組合
(4)のうかのくらしとへんか
(5)つとめにかよう人びと
(6)工場のしごと
(7)商店のしごと
(8)商工会
  ・しごとの内容
(9)町の金ゆう機関
三、町の人々のくらしと町役場のはたらき
(1)役場のしくみやしごと
(2)町長・町ぎ会のしごと
(3)しごとに使われるお金
(4)きょういくいいん会のしごと
(5)町のしせつ
(6)安全なくらし
  ・しょうぼうしょ
  ・ほけん・えいせいのしごと
  ・ちゅうざいしょ
  ・交通安全と公害のかんしのしごと
四、交通や通信
(1)道路・電車・バス
(2)通信
五、町のうつりかわり
(1)むかしの嵐山町
(2)町の名所めぐり
(3)むかしのくらし
(4)町へのあゆみ
  ・のりもののうつりかわり
  ・学校のうつりかわり
  ・町村合併
  ・人口の変化・団地・工場
  六、これからの嵐山町
* 嵐山町年表

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月) 1頁


わたしたちの町らんざん 1 社会科副読本『らんざん』によせて 1977年

2010-08-01 23:07:09 | 『わたしたちの町 らんざん』(1977年)

   社会科副読本「らんざん」によせて 嵐山町教育長 阿部富育
 嵐山町内の社会科の先生方のおほねおりで社会科の副読本「らんざん」が出来たことを大変うれしく思います。
 美しい自然にめぐまれた嵐山町は、むかしからおおぜいの人が力を合せて努力して今のようなりっぱな町になったのです。
 みなさんが郷土の勉強をするためにつくられたこの「らんざん」をとおして町の歴史や産業の移りかわり、生活をゆたかにするために、くしんした人たちのことを知ってしっかりと勉強し、立派な人になって下さい。
  昭和五十二年三月

   嵐山町社会科研究部『わたしたちの町 らんざん』(1977年3月)