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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

郷土の剣豪 中村清介

2008-05-31 11:56:22 | 千手堂

 剣(けん)の名手中村家三代
 古里村に生まれた中村清介の家は、祖父の代から続く剣術(けんじゅつ)の名家であった。
 初代の中村熊蔵義正(なかむらくまぞうよしまさ)は、忍藩(おしはん)の剣道(けんどう)指南役(しなんやく)を勤(つと)めていた三田三五郎暉房(みたさんごろうてるふさ)について神道無念流(しんとうむねんりゅう)を学んだ。しかし、中村熊蔵の嫡男(ちゃくなん)として生まれた二代目の中村森吉義行(しんきちよしゆき)は、近くの上横田村(かみよこたむら)(現小川町上横田)に道場を持つ松本半平(まつもとはんぺい)のもとに通って甲源一刀流(こうげんいっとうりゅう)を学んだ。比企郡に甲源一刀流をもたらしたのは志賀の水野清吾年賀(みずのせいごねんが)で、士関道場(しかんどうじょう)を開いて門弟(もんてい)の指導に当たっていた。その高弟(こうてい)であった松本半平は、独立して上横田に道場を開いていた。やがて松本半平は病床(びょうしょう)に臥(ふ)すようになったとき、森吉の力量(りきりょう)をみて、さらに磨(みが)きをかけさせるために、江戸四谷(よつや)に道場を持つ甲源一刀流の強矢良輔武行(すねやよしすけたけゆき)に師事(しじ)することを勧めた。強矢良輔武行は、秩父郡の小鹿野町(おがのまち)の出身で剣名が高く、紀州藩江戸詰(えどづめ)家老水野家の剣道指南役であった。森吉は強矢良輔武行の道場で修業し、甲源一刀流と戸田武甲流(とだぶこうりゅう)薙刀(なぎなた)の技(わざ)を究(きわ)めた。やがて古里村に帰って門弟の指導を行なっていたが、1852年(嘉永(かえい)5)に,古里村の領主,旗本長井筑前守又五郎(ながいちくぜんのかみまたごろう)に召し出されて家臣となり、江戸の長井邸(てい)で家臣の剣術指導にあたった。森吉の長男清介は、父が長井筑前守に召し出されたとき、4歳で父に同行して江戸に上った。しかし明治維新で江戸幕府の時代が終わると、森吉は古里村に帰り晴耕雨読(せいこううどく)の生活を送ったという。
 三代目の中村清介は、江戸の強矢良輔武行の道場で学び、1867年(慶応(けいおう)3)、19歳の時に父と同じように長井家に召抱(めしかか)えられ、家臣に剣道の指導を始めた。しかし翌年の明治維新で父と同様に古里村に帰り、農業に従事するようになった。
 1876年(明治9)に政府から廃刀令(はいとうれい)(士族の帯刀を禁じた)が出されると、剣術の前途(ぜんと)が危ぶまれた。その頃、1876年(明治9)の萩(はぎ)の乱(らん)、神風連(しんぷうれん)の乱(らん)、77年(明治10)の西南戦争(せいなんせんそう)などが続いて起こったが、抑圧されて武力による士族(しぞく)の抵抗はおさまった。やがて民間では剣術や柔術(じゅうじゅつ)などで新しい動きが始まった。1882年(明治15)には嘉納治五郎(かのうじごろう)による講道館(こうどうかん)が創設(そうせつ)され、近代的な柔道への動きが始まった。剣術では明治10年代から20年代に入ると、埼玉県内でも各地に道場が開かれるようになった。古里村では中村清介が長養館(ちょうようかん)を開き門弟の指導を開始した。

 軍神の碑と長養館
 古里の中村家の庭には、中村清介の立てた軍神(ぐんしん)の碑がある。碑の表面には次のように刻まれている。
  軍神  経津主命(ふつぬしのみこと)   鎮座(ちんざ)  
      武甕槌命(たけみかづちのみこと)
    従二位(じゅにい)子爵(ししゃく)北小路随光(きたこうじずいこう) 敬書(けいしょ)
 裏面には、「明治二十九年十一月 中邨(なかむら)清介建之」と記されている。経津主命と武甕槌命は日本書紀に出てくる神で、武勇の神として崇拝されている。碑の台座の正面には、長養館幹事一三名の名前が刻まれている。台座(だいざ)に記されている長養館は中村清介の主宰(しゅさい)する道場である。道場の創立年代ははっきりしないが、門弟はそれ幹事以外に多数いたと思われる。
 千手堂村の瀬山鉄五郎(せやまてつごろう)は甲源一刀流の名手で、彼は自分の行なった試合、稽古(けいこ)、面談(めんだん)、そして会見した剣士の名前と流派(りゅうは)を記した『英名録(えいめいろく)』を残しているが、その中で1896年(明治29)5月8日比企郡大谷村秋葉(あきば)神社境内で行われた撃剣会(げきけんかい)参加剣士に、長養館主中村清介と門下の剣士30名の名前が記されている。多数の門弟を持っていたことがわかる。

 現行体操課目中剣道編入請願書
 1894年(明治27)12月3日、長野県の関重治郎、清水太一郎、埼玉県宮前村の大塚■恵八、七郷村の中村清介、男衾村(おぶすまむら)の吉田伝次郎、東京市の新井朝定の六名による請願書が、文部大臣侯爵(こうしゃく)西園寺公望(さいおんじきんもち)に提出された。これは学校の体操課目に剣道を入れることを求める請願であった。同趣旨のものは1893年(明治26)12月19日と94年3月30日にも建白(けんぱく)していたが何の返事もえられず、同年8月1日に日清戦争の勃発(ぼっぱつ)を見て、12月に三度目の請願をしたものである。学校の生徒に剣道を導入すれば、やがて徴兵(ちょうへい)入営(にゅうえい)となった際には義勇忠節(ぎゆうちゅうせつ)の兵士となるであろうと述べている。しかしこの請願も取り上げられなかった。それから10年後、同様の請願が他からも国会に提出されて本格化するのは、日露戦争の始まる1904年(明治37)からであった。
 なお中村清介は、1905年(明治38)から小川警察署の剣道の嘱託(しょくたく)教師も担当していた。

 村政でも活躍
 1889年(明治22)4月1日に杉山、太郎丸、広野、勝田、越畑、吉田、古里の七ヶ村が合併して七郷村が成立すると、中村清介はその村会議員に選ばれた。1896年(明治29)には七郷(ななさと)村の助役に就任、1899年(明治32)10月24日に七郷村の七代目の村長に選ばれた。1903年(明治36)3月10日に村長を辞任(じにん)するが、その後も村会議員に選ばれ、議員を最終的に辞任したのは1921年(大正10)4月4日であった。
 中村清介は1848年(嘉永(かえい)元年)に生まれ、1923年(大正12)に他界。七十五歳の人生であった。人生の後半は、若き日に剣道で鍛(きた)えた行動力で村政の中心で活躍した。

 古里兵執(へとり)神社甲源一刀派の奉納額
 奉納年月日   明治二十七年一月十三日
 掲額(けいがく)場所    兵執神社
 所在地     嵐山町古里766
 願 主     中村清介
 流 派     甲源一刀派
 
      写真  軍神の碑
           中村清介奉納額


村の法度(五人組帳)

2008-05-22 08:38:00 | 吉田

 江戸時代の農民統制は領主にとって極めて大切なことであった。この時代の経済の基本が米価であり、所有する土地からの米の収穫高(石高)が人の地位価値を決めるほどであったから、「農は国の大本」といわれ、それに従事する者の身分は「士農工商」と社会の第二に置かれていた。従って幕府・領主の農民に対する政策は重要な課題とされてきた。その一端を示すものが「法度」である。法度というのは掟(おきて)・禁令・触(ふれ)・議定等名称は区々であるが、生活を規制・拘束する法律の総称である。

 農村に対してはどんな法度が課せられたのだろうか。幕府の庶民統制として知られている制度に「五人組」制度がある。五人組は五戸前後の家を組み合わせて設置されたもので、年貢の納入、キリシタン・浪人の取り締まり、日々の生活にまで立ち入って、彼等に連帯責任、相互監察の役目を負わせ、支配の末端組織として重要な役割を荷(にな)わせた。名主は「五人組帳」というものを毎年領主に差し出した。この五人組帳には組員全員が署名捺印している部分と、その前に彼等が守らなければならない法度が数々記された部分とがあり、この法度の部分を「五人組帳前書」といつている。

 1836年(天保7)吉田村の「五人組帳」の前書を見て行こう。この五人組帳は山本大膳版と刻印され、木版仕立のものであり、旗本山本大膳(六百石)の知行所全部へ配布されたものと思われる。

 冒頭次ぎの様に述べて、五人組のあり方をしめしている。

一、兼(か)ねて仰(あおせ)出され候通大小百姓五人組を極(き)め置き、何事によらず五人組内にて御法度に相背(そむ)き候義は申上るに及ばず、悪事仕(つかまつ)り候もの之有り候はばその組より早速申し上べく候、 (中略) 若(もし)五人組に外れ申し候もの御座候はば名主組頭曲事(くせごと)(法に背く事柄)に仰附らるべく候事

 即ち大百姓から小前、下人に至るまで全てを五人組で組織し、組員で法度に背いたものを報告させ、若し隠しておいて他から判明した時は五人組員、名主全員が処罰された。謂所五人組のあり方は連帯責任制であり相互監視で、そのことを始めに規定している。五人組帳前書の内容項目は地域、時代により区々であり数か条から五十ヵ条、百ヵ条にも及ぶものもあったが、この吉田村のものは十二項目で、比較的少ないものであった。

 一項目は前書のとりであるから第二項から逐条概略見ておこう。

一、欠落(かけおち)者、あやしき者、一人(ひとり)者に宿を貸さぬこと。但し縁者のときは名主組頭で穿鑿(せんさく)し証人を立て許可すること。

一、手負い(傷を負っているもの)行き倒れ(病気、疲れ、寒さ等で路上に倒れること)の者があれば報告すること。煩っている者は看病し早速申し上げること。

一、奉公人の請け人(保証人)には猥(みだ)りにならぬこと。

一、浪人を抱え置くときは名主に申上げよく理解し請け人を立て手形を取って役所の帳簿に記載すべし。

一、切支丹宗門御制禁のこと。不審なる者は捕らえ置くこと。また召仕(めしつかい)等は寺請状(庶民がキリシタン信徒でなく寺の檀家であることを檀那寺に証明させた書状)を取り入念吟味すること。

一、耕作商売もせず遠国まで遊び歩き博奕(ばくえき)賭け事を好み不似合いの衣裳を着るような不審なる者あれば早速報告すべし。一夜泊まりで他所へ外出するときでも行き先用事の仔細を名主五人組へ断るべし。盗人訴人は密々御役所の定めの筒に書付を入れること。

一、鉄砲は許可ある以外所持すべからず。

一、聟取養子取は名主組頭立合い念を入れ後日争いにならぬようにすべし。

一、婚礼の節は貧富によらず一汁一采有り合わせの野菜肴二種に限り、過酒をせず、衣類櫛簪等は華美にならぬこと。

一、婚礼の節は奢ることなく名主組頭の内一人立合い客は親類組合本家分家に限るべし。

一、婚礼の節大勢にて申し合わせ途中にて妨害したり、船着場で船頭(えた)祝儀をねだったりすることあれば訴出るべし。

 末尾に「月々再々読諭し悪事に移らず善事に導候様心掛け申すべし」とむすんでいるので、毎月五人組の者共へ読んで諭しこの法度を徹底させようとした意図が窺える。なおこの法度に違背したものがあれば組合員は言うに及ばず、村役人までも罰せられることが再度うたわれている。

 更に1838年(天保9)には鉄砲の再調査があり「議定連形之事」として「相改候得共鉄砲は勿論筒台似寄候品にても一切無御座候」と山本・松下・菅沼・折井知行所村々小前全員が署名捺印して報告している。鉄砲の不法所持の禁止取締りである。

 又1858年(安政5)には「議定一札之事」として「博奕宿は申すに及ばず二銭壱銭之諸勝負事一切致間敷候」と山本・松下・菅沼知行所小前役人連印して議定書を提出している。

 そして又、1866年(慶応2)年「組合村々一同相談之上議定取極御趣意左之通り」と組合村々三十一カ村が評議して次の事柄を議定し連印の上報告した。その内容は、

一、婚礼・紐解(幼児が附け帯をやめ帯を用いる祝)・孫祝(初子の誕生祝)等の祝儀の折酒は一切無用、婚礼のみ酒一升、客は両隣、組合総代、親類総代、村役人各一人とすべし

一、葬儀に酒は無用、追善法事も質素にすべし

一、諸振舞(饗応すること)の儀は相止めるべし

一、九月九日の日待ちに客の行来を止め、初米を神仏に備える儀は家内限りとすべし

一、正月の祝も門松も質素に、餅は支度せず、酒盃一切無用、年頭品は紙一折とすること

一、村々の付き合いと称して良いにつけ悪きにつけ酒を用いたが今般取極め候上は致さざること

一、日々の食物なるべく粗食相用うべきこと

の七項目だが、祝儀不祝儀、年中行事付き合い、日々の食生活まで細かく規定している。

 吉田村の五人組帳を中心に幕末の村の法度をみてきたが、要するに切支丹宗の制禁、博奕の厳禁、鉄砲不法所持の禁止、祝儀不祝儀日常生活の質素倹約、浪人部外者の排除対応等々が中心になっていた。

 思うに、幕府は天変地災(旱天・大水)から飢饉となり困窮疲弊の農民が一揆を企て、欠落、逃散した農民が浪人博徒に操られて騒乱を起こすことを恐れて、治安の維持のためこの様なやや過酷とも思われる法度が定められたのであろう。