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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

安藤幸蔵の酒一合会 1922年

2008-08-16 12:24:00 | 古里

諺に「酒は百薬の長」とか「酒は憂さの玉箒(たまばはき)(蚕室を掃くのに用いた箒の称)」といわれて、酒を愛飲する人は多く、また、日本人には「古来百礼ノ会酒ニ非ラザレバ行ハレザル」と云うように、冠婚葬祭は勿論祭礼、祝宴、各種行事にと、寄れば触れば酒となる慣習が横行していた。
その様な中、一九一八年(大正七)古里の安藤幸蔵は「酒一合会」を発起した。その趣旨を見ると、
酒に十の徳ある事を肯定しながらも、「多量ニ過クルトキハ自ラ産ヲ傾ケ身ヲ滅シ命ヲ縮メ徳ヲ失フ等其害至ラザルハナシ」と、酒を一種の悪液ときめっけ、その上で古人の「酒ハ微酔ニ飲ミ花ハ半開ニ観ル」の言を引いて、飲酒は一合を適度と定め、祝祭冠婚は二合を限度とすることを提唱した。
禁酒運動の歴史は古く、1875(明治8)横浜で禁酒会が組織されたのに溯る。その後1890年(明治23)禁酒雑誌「日の丸」発刊、同じ年東京禁酒会結成、1898年(明治31)大日本禁酒同盟も組織されている。一方、万国婦人嬌風会は1886年(明治19)レビット夫人を、1890年(明治23)にはアッカマン嬢を日本に派遣、各地で公演、1892年(明治25)には世界禁酒会会頭ウエスト嬢が来日、各地で演説会をひらいて啓蒙に努めた。こうした情勢を背景に幸蔵の「酒一合会」は誕生したものと思われる。
また、本会発起の趣旨の末尾に「一ハ自己ノ修養ニ資シ一ハ風教ノ改善ヲ図ル所以ナリ」と記されている。1917年(大正6)政府は第一次世界大戦後の好況による浮華嬌奢の弊を改め、勤倹節約の美風を浸潤させるため民力涵養運動を展開した。それに対処して1919年(大正8)古里においても「風俗改善申合規約」十ヶ条が制定執行された。規約のうち酒に関する箇所は冠婚の際の「饗応
ハ一人ニ付二合又ハ三献」、「凶事ニアリテハ飲酒ヲ廃シ」、「入営除隊祝ハ神酒一升」、参宮の時は「出発帰郷ニ際シ酒宴一切廃止」等々であった。幸蔵の「風教の改善」の一念はここに具現されたと言えるだろう。
酒と風俗習慣とのかかわりは深い。父金蔵が風俗改善実行委員になったこともあって、幸蔵自身もその実践に挺身、1922年(大正11)県募集の生活改善標語に応募、「驕ルナ飾ルナ礼欠ナ」ノ一文で二等に入賞した。その文の頭に「酒飲ムナ」の一語をいれたかったのではないだろうか。しかし、「節酒」による矯風はそれ程の実をあげえられなかったのか、1923年(大正12)彼は遂に「
禁酒致シ候ニ付辱知諸君ニ謹告仕候」の一文を各方面に送って禁酒してしまった。

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生活改善運動標語綴
1921年(大正10)、埼玉県に社会課が新設され、社会事業や社会教育事業を積極的に推進、翌22年(大正11)、生活改善事業推進のため標語を募集した。多くの応募があり、賞金は一等30円、二等20円、三等10円だった。


花酔・三兆・蓬軒

2008-08-12 14:39:00 | 七郷地区

『岩殿山案内』巻末に掲載された俳句から

  夜雪庵宗匠撰

     月に手の届きさうなり物見山  七郷 花酔

                      花穂は七郷村広野の栗原慶次郎の俳号。

     心願をたゝむ月夜や観世音   七郷 三兆

  指頭庵宗匠撰

     茸狩の女淋しかるや九十九谷  七郷 蓬軒

     岩殿山案内

      編集人:渡邊巌(比企郡高坂村岩殿)

      発行人:小谷野忍海(比企郡高坂村岩殿)

      発行所:文耕舎活版所(比企郡松山町松山)

      印刷人:福田米吉(比企郡松山町松山)

      大正七年(1918)五月二十日印刷

      五月廿五日発行  定価:拾五銭


雪見峠は笛吹峠

2008-08-12 14:16:00 | 将軍沢

四、雪見峠(一名笛吹峠) 観音の西北に雪見峠あり、昔坂上田村麻呂東夷征伐の時、六月一日此の山上に登り雪を眺めしにより此名ありと、又畠山重忠月明の夜、此の山嶺に於て笛を吹きしに依り、笛吹峠の名起れりと謂ふ。天平八年(二〇一三年)【正平の誤記。2013年は皇紀】新田武蔵守義宗、義軍を率ゐて笛吹峠に二陣を取りたるに、義に勇む忠烈の士(武蔵国人)多く来り属せり。足利尊氏大に驚き、鎌倉を立って来り戦ふ。義宗終日決戦数度懸(カケ)破りしも、衆寡敵せず、遂に止むなく夜中越後に引上げたり。
          (『岩殿山案内』1918年発行、16頁)

笛吹峠の戦い:正平7年(1352)閏2月、南朝勢力の回復を目指す新田義貞の子、義宗・義興軍が宗良親王を奉じて足利尊氏軍と戦った「武蔵野合戦」最後の決戦。小手指ヶ原の合戦に続き、足利勢が再び勝利したことにより、室町幕府の実質的な関東支配が開始されることになった。


日帰り行楽地、菅谷村・鎌形八幡神社(『発展の武州松山』より)

2008-08-12 13:52:00 | 大蔵

一、村社 鎌形八幡神社

東上線駅菅谷駅にて下車し杖を畠山の館趾に曵くものは南方に都幾川の清流を隔てゝ鬱蒼たる樹林の河涯に傑出せるを見るなるべし、之を鎌形八幡神社の境域となす。

当社は人皇五十代桓武天皇の朝田村将軍東夷征伐の勅命を奉じて下向の砌群を塩山々頂に屯め山河の景勝を愛でゝ此処に当社を勧請して武運の長久を祝祷せし処にして、其後源氏の主帥勢威を東国に振ひし頃に至りては武将の崇敬特に厚く中にも源為義の子先生義賢は当地大蔵の庄を伝領して其中央なる御所谷戸に本館を構へ当社の後方なる木曽殿の地に別墅(べっしょ)を置きて夫人山吹姫を居住せしめ、茲に其子義仲及び其孫義高も生れたりければ当社は其産土神にして当時掬(すく)みて産湯に供せしといふ、霊水今尚境内より流出して昔日の如し、下りて天正の末年徳川氏関東入国の時より累代の将軍家御朱印書を以て社領二十石を当社に寄進せられて崇敬を尽くされ以て明治の新政より大正の大御代に及び近在総郷の崇敬益(ますます)集まる処となれり、而して当社は境内頗る広く都幾川の清流に臨み四時の景色に富みて自から一公園の趣をなせるを以て、先づ畠山の館趾に眼界の眺を満たし歩を当社に進めて詣礼祈念し心身の清廉を誓ひ先生義賢の霊廟を大蔵の庄に拝して関東武士の典型を偲び、而して順路菅谷駅に戻らば方に一日間の清遊を試むるに足らん。

          (『発展の武州松山』1925年(大正14)発行、48頁~49頁)


大正期の鬼鎮神社と川田屋・岡島屋広告(『発展の武州松山』より)

2008-08-12 13:40:00 | 川島

一、村社 鬼鎮神社

比企郡菅谷村大字川島に在り、当町【松山町】より西方一里余、東武鉄道東上線菅谷駅下車仝駅より僅かに五町なり。
祭神は衝立久那斗命、八衢比古命、八衢比賣命にして、今より七百余年前、安徳天皇の御宇寿永元年(1182)菅谷城に建設したるものなり。
祠宇の周囲は老杉、古松蓊鬱(おううつ)として繁茂し真に幽邃(ゆうすいしんのう)、之れに賽(さい)するもの誰か神霊の儼然(げんぜん)たるを覚えざらん、毎年初春の百花研美の季又は仲秋賞月の候、四時近郷は言はずもがな、遠く数十里の所より特に参拝するもの絶ゆる事なし。
現社掌は河野要氏なり。
     (『発展の武州松山』1925年(大正14)発行、50頁)


大正期の根岸子育観音広告(『発展の武州松山』より)

2008-08-12 13:32:00 | 根岸

   子育観音

松山町より二里半、東上線菅谷駅下車東南へ約十町菅谷村大字根岸にあり。
当子安如意輪観世音菩薩は今を去る事一千有余年、天台密教の祖と称せらるゝ叡山第一の座主慈覚大主一刀三礼の御作にして古来道徳の崇敬参拝するもの陸続踵(きびす)を接し利物の大用響の声に応ずる如く祈れば必ず霊験あり殊(こと)に安産、育児の擁護を祈り験(しるし)を得る者頗(すこぶ)る多く四方より来り皆其の妙益を希(ねが)ふ毎年二月及十月各廿日祭典を執行す。

          
          (『発展の武州松山』1925年(大正14)発行、広告)


立身出世のモデルとなった紺屋軍次郎

2008-08-08 23:09:34 | 古里

 「徳義(とくぎ)(社会生活上、互いに守るべき義務)ヲ涵養(かんよう)シ知識ヲ研磨シ身材ヲ発育シ、以テ人類ノ完全ヲ謀(はか)ル者ハ唯(ただ)教育ヲ然(しか)リトナス」として1883年(明治16)に結成された埼玉私立教育会が発行した雑誌に『埼玉教育雑誌』がある。

 その第7号(明治17年4月発行)に「紺屋(こんや)軍次郎の話」が掲載されている。軍次郎は1815年(文化12)古里(ふるさと)村に生まれた。生まれつき剛毅(ごうき)で常に独り立ちの志があり、十七歳の時に家を出て、所々の紺屋(こうや)(染め物屋)で修業すること五、六年。家に帰り身内の助けを借りて紺屋を始めたがうまくいかず、再び家を出て諸国を巡り難行苦行の末、本庄に家を構え魚屋を始めたが子供は飢えて膝に泣き、妻は疲れて床に臥(ふ)すというようなありさま。

 幸い人の助けがあって紺屋を開業したが、1846年(弘化3)の大火で家財残らず焼けてしまい丸裸となってしまった。しかし、「我、歳すでに三十に余れり。而(しか)して、その過ぐるところ、おおむね他人に使われたり。今にして立つ能(あた)わずば、また生涯息(やす)む時なかるべし」と初心貫徹。身内から再度金を借り紺屋を再開するが、二、三年は却(かえ)って借金を作ってしまう始末。それでも屈せず昼夜働いて、しだいに利益も大きくなり商売繁昌。家産は数十万、八人の使用人を使い、家族にも恵まれ、「今の身代に至りたるは、ただ正直を守りて働きたるのみなり」と語っているというサクセス・ストーリーである。軍次郎は時流に乗った商売を始めて大当たりした訳ではないし、たまたまチャンスに恵まれて富を築いたという訳でもない。「独立」の初志を忘れず逆境に立ち向かい、運命を切り開いて成功したのである。

 この話は、教師が子どもたちを説諭する修身口授(ギョウギノサトシ)の時間の教材として、全文ひらがなで書かれている。そのテーマは、「勉強忍耐の人能(よ)く身を起す」である。近代日本が幕を開け、学校教育が始まって十年ほどのこの時期には、「勉強」は学習という意味で使われることはまだ少なく、ここで使用されているように、努力して困難に立ち向かうこと、熱心に物事を行うこと、励むこと、勤勉という意味を指すことが多かった。

 当時、嵐山町域には、吉田学校、杉山学校、菅谷学校、鎌形学校、大蔵学校があった。江戸から明治へ、大きな社会変革の時代の子どもたちは、努力、勤勉により初志を貫(つらぬ)いて成功した紺屋軍次郎を、「立身出世(りっしんしゅっせ)」の夢を叶(かな)えたモデルとして学んだのである。

 因(ちな)みに、この話の主人公紺屋軍次郎の実家は、今も紺屋の屋号を持つ古里の中村常男家であり、作者は、杉山村出身で当時、児玉郡立中学の教員をしていた杉山文悟である。

          博物誌だより110(嵐山町広報  年 月号)から作成

※『埼玉教育雑誌』の原文は、「こんやぐんじろおのはなし 杉山文悟 1884年」に掲載。


菅谷小学校校歌・応援歌

2008-08-08 13:09:00 | 菅谷

  菅谷小学校校歌? ? ? ? 1917年(大正6)年制定
? ? ? ? 作詞:菅谷第一尋常高等小学校訓導新井順一郎

? ? ? ? 作曲:東京高等師範訓導田村虎蔵

 一、とおの大平 山美しく ? ?  都幾の川波 清らかなれば

? ? ? 菅谷のむらと 名に負いて ? ?  人の心も すがすがし

 二、智あり仁あり 勇さえありて ? ?  あるが中なる もののふ彼と

   人に知られし 英雄も ? ?  かつてはここに 住みたりき

 三、日々につとめん 学びのわざを  たえずみがかん 心の玉を

   かくて止まずば 埼玉の ? ?  玉の光も あらわれん

 現在の菅谷小学校校歌は1959年(昭和34)7月福島常雄編曲のものです。

  菅谷小学校応援歌

 一、峨々たる峰は遠ノ平 ? ?清流絶えぬ都幾川に

   重忠公の徳うけて ? ? ? ?生い立つ菅谷の健男児

 二、陣容今やときめきて ? ?見よや選手の面影を

   無限の力あふるるを ? ?月桂冠は我にあり

 三、

    ? ? ? ? ? ? ? ?ふるえやふるえ我が選手

  菅谷小学校応援歌の三番の歌詞は三節まで不明です。昭和初期、菅谷部会(福田小学校・宮前小学校・七郷小学校・菅谷小学校)の運動会が盛んだった時期によく歌われていたらしく、作詞者は宮崎貞吉校長ではないかとのことです。