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ザ人物伝 山葉寅楠 音楽教育普及促進  概要 来歴・人物

2021-12-11 15:29:59 | 連絡
〇概要
山葉 寅楠(やまは とらくす、1851年5月20日(嘉永4年4月20日) - 1916年(大正5年、65歳没)8月8日)は、日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の創業者。日本における初期のオルガン(リード・オルガン)製造者の一人であり、日本のピアノ製造業の創始者の一人でもある。
〇来歴・人物
嘉永4年(1851年)4月20日、紀州藩の下級武士だった山葉孝之助の三男として生まれる。父が紀州藩で天文係を務めていたこともあり、幼少の頃から機械いじりが得意であった。また16歳頃には剣術修行に出て、大和の小野派一刀流の師範・澤田孝友のもとで腕を磨いたという[1]。二刀流にも造詣があったという[要出典]。だが、後に職人の道を歩むこととなる。
明治維新後の1871年に長崎に出て英国人のもとで時計の修繕法を学び[2]、その後大阪の医療器具店に勤め医療器具の修理工として働いた。
1884年から浜松支店に駐在していたが医療器具の修理だけではなく、時計をはじめとした機械器具全般の修理などを請け負っていた。
1887年に浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)アメリカ製オルガンの修理を手がけたことからその構造を学び[2]、1888年に日本最初の本格的オルガンの製造に成功した。
1889年に合資会社山葉風琴製造所を設立した。
1891年には山葉風琴製造所が出資引き揚げにより解散するが、河合喜三郎らと共同で「山葉楽器製造所」を設立した。
1897年10月12日に資本金10万円で日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)に改組し初代社長となった。
1899年、アメリカへ5か月間の視察旅行に出た。キンボールやメイソン・アンド・ハムリン、スタインウェイ・アンド・サンズなどを視察し、
1900年にアップライトピアノを製作。
1902年3月、緑綬褒章を受章した。浜松鉄道(後の遠州鉄道奥山線)の取締役も務めた。河合楽器製作所創始者の河合小市、山葉直吉(寅楠の養子)を育てた。
1911年、浜松市会議員当選、浜松市会副議長に就任[3]。
1916年8月8日、死去。享年66(満65歳没)。


 


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