Since1994 "ROCK BAR" GLASSONION 高田馬場

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名問

2009-01-24 | 時代の光景U+203CU+FE0E
数年前、某有名国立大の入試論文に出題されたある作家のエッセイのコピーを頂いた。

名問題と評価の高い入試問題だそうだ。

まず驚いたのが、18歳の若者にはかなり難しい文章だと思った。
それに応える文章力があるのだから、いつの時代も頭の良い若者はゴロゴロいると言うことなのだ。それに感動した。

僕の18歳時代の脳レベルでは、右脳も左脳もきっと機能停止したことだろう。

どんな問いかはわからないが、このエッセイを読み、年齢的なものだろうが、また別の角度から僕なりの風景が見えた。

『四十二.一九五キロの旅』

人は皆、ある種の虚構と幻想の中に安心を求める。

誰もが、こうありたかった自分、自分に描くヒーロー像がある。

自分に確かめる術はない。

なぜなら、決してなれない自分と、決めつけした前提があるからだ。

しかし、確かに永遠に存在する憧れの自分像がある。
無い物ねだりで固めた自分像である。

それは、酒やその場の雰囲気を踏み台にして、気持ちが高揚し、雄弁になった時のみに、顔を覗かせる。

熱く雄弁に語る時の自分程、日常と程遠い自分はいない。
それは紛れもなく自分が自分に語りかけている時でもある。

自分の弱さを憎む人は、尚更よりもう一人の強く逞しい自分像を誇示したがる。

もう一歩踏み出す勇気がなく挫折をする。
後一歩足りずに失敗をする。

自分だけが自分の本音を知っている。

生きるとはその自分との葛藤である。

ダメな自分に愛想尽かす時、自己嫌悪や自虐的な気持ちになる。

それは恐らく、もう一人の自分が描いた、憧れの自分像とのギャップから起きる、勝手な幻想なのだろう。

本来どこまでいっても、もう一歩足りない。
それが人生である。

それでも生きてきた。
その証は何だろう。

もう一歩、後一歩まだ何とかなりそうな自分がそこにいるからだ。

そのもう一歩を諦め立ち止まった時に、人は今いる自分の風景に気づく。

そして、その風景こそが、人の心に残る歌や詩や小説や映画や絵となった。

芸術とはその風景を知る者へのレクイエムでもある。


各々がもう一歩、各々が風景。

そのバランスこそが生きることの折り合いなのかもしれない。