goo blog サービス終了のお知らせ 

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

マイクロチップマイクロチップと口ずさみ

2010-03-05 | 我妻俊樹全短歌
マイクロチップマイクロチップと口ずさみつつ潜み売るポテトチップス  我妻俊樹


三句から四句への句またがりというのはとくに、読み方としては大きく間をあけずに読めないんだけど、意味的には音の空白をまたいでつながっていくので、そこに何か口調のようなものがくっきり出てくるように思います。何かが語られている途中にはさまれる息継ぎ、のようなものとして、語っているのが息づかいをもつ何者かであるということを言葉の意味以前に伝えるというわけです。
呪文をとなえるみたいにあまり意味内容をもたないこの歌にとって、口調が出るというのはけっこう命綱になってるところなのかなと思いますね。短歌が呪文のようなものであるためには、読者ではなくあくまで話者がそれを唱えている、ということにならないとまずいと思うので。そこには微妙にして絶対的な一線があるのではなかろうか。

アイスクリーム嫌いを直す催眠術

2010-03-04 | 我妻俊樹全短歌
アイスクリーム嫌いを直す催眠術みたいな意味のドイツ語の橋  我妻俊樹


そんな橋が実際にあるどころか、そんな意味のドイツ語が何というのかもまったく知りません。何と言うのでしょう。
これは上下句の切れ目のところでいったん切れて読めて、そこから付け足されるみたいに催眠術から橋のほうに焦点が変わるというところに、短歌であることの意味が生じているかなと思います。短歌の読み方でこの内容が読まれることの意味、のようなものが。
題詠blog2006、題「クリーム」より。

逃れないあなたになったおめでとう

2010-03-03 | 我妻俊樹全短歌
逃れないあなたになったおめでとう朝までつづく廊下おめでとう  我妻俊樹


2004年の題詠マラソン「廊」のお題でつくった歌で、のちに連作「インフェル野」に入れたもの。
廊下という言葉も私の歌における最頻出単語のひとつだと思います。何しろ廊下は建物内部に収納された道路です。空間把握における私の倒錯した好みを刺激してやまず、こういううわごとみたいな内容の歌をつくらせたりもする。しかし建物の中に道路があることの喜び、などうわごと以外どんな種類の言葉にできるというのでしょう。

東京タワーを映す鏡にあらわれて

2010-03-01 | 我妻俊樹全短歌
東京タワーを映す鏡にあらわれて口紅を引きなおすくちびる  我妻俊樹


私が短歌の中にえがこうとする景色は、どこか短歌に似たものが多いと思うけど、たとえばこの歌の「鏡」は短歌のようだといえなくもない。
短歌は鏡に似ている。景色はその輪郭どおりに切り取られ、裏返しになり、覗き込めば景色を遮って自分自身の顔が映り込む。短歌とはそういうものかもしれない、などとつぶやいてみればもっともらしく聞こえもするわけですが、そういうことを考えてつくった歌ではないことはたしかです。そういうことを考えて歌をつくることはできない。しかし短歌に書かれる景色が短歌そのものをなぞりはじめるのは当然のことで、それを食い止める力があるいは筆力というものかもしれないけど、私は短歌が人をどのように無力にするかということにしか関心がないのです。
初出ポプラビーチ「日々短歌」2006年2月。

パーマン何号が猿だっけ? このゆびは

2010-02-28 | 我妻俊樹全短歌
パーマン何号が猿だっけ? このゆびは何指だっけ おしえて先輩  我妻俊樹


第二回歌葉新人賞候補作「ニセ宇宙」より。
この頃つくった歌はあんまり定型かっちりじゃないのが多くて、それはまだ短歌をつくる意識と定型がシンクロしてないというか、あくまで短歌をつくるという意識によって言葉は出てきてるんだけど、その言葉が定型とは微妙にずれた型をあらかじめもってしまってるという場合が多かったのだと思う。
その後、歌のつくりかたが変わり、はじめに定型が絶対的なフレームとしてあってそこに言葉をつめていくような発想になった。それは自分の中であらかじめ言葉が固まりになったものを外に出していく、ということができなくなった(短歌にすべき言葉の固まりが枯れた)ということかもしれないし、題詠などで短歌を量産する習慣がついたからかもしれない。わざとらしい破調はたまにあっても、自然な固まり感のある破調の歌というのがすっかり消えてしまったのです。
最近それがちょっと戻りつつあるような気がしてて、それはいい傾向だと自分では思っています。

鍵かけて展望台に山羊を飼う

2010-02-26 | 我妻俊樹全短歌
鍵かけて展望台に山羊を飼う きみにひとことの相談もなく  我妻俊樹


これは三年以上前に歌会に出す用につくった歌です。「台」の字での題詠ですね。
「ひとことの相談もなく」というのはもちろん慣用表現で、相談があってしかるべきだったのに、という相手への非難を込めた言い回しだと思いますが、ここではそれを自分自身の行動を言うのに使っている。
あと、鍵かけて動物を飼う場所が、閉じ込めるというイメージにそぐわない展望台であるということ。そこにあるものを鑑賞するのではなく、そこから景色を観賞する場所である展望台(しかも高いところにあるはずだし、個人の所有する施設には普通ない)をわざわざ選んでいること。
そのあたりが気になるところから、読みはじめられる歌になっているのではと思います。鍵というのも私のよく使う言葉かもしれない、と今思いました。

草萌えて線路は母の近道に

2010-02-25 | 我妻俊樹全短歌
草萌えて線路は母の近道に 人だけが人を名乗る今では  我妻俊樹


題詠blog2006、「萌」の題より。
私には線路をうたった歌の数がかなり多いと思う。現役時よりも廃止された線路、線路が取り除かれたのちの痕跡のほうがずっと好きなので、おのずと歌にも廃線感ただよう登場のしかたが多くなるようです。
あと、定型というのはそれじたいちょっと線路っぽい。だから題材としての線路がなじむという無意識の実感がある可能性もあるし、定型という線路を走らせるにふさわしい車両を持たない私は、そこをただの遊歩道として使ったり、むりやり車で走破しようとするかもしれない。その場合定型は廃線跡のように扱われているわけです。

「よい廊下を」と敬礼で見送ってくれる

2010-02-24 | 我妻俊樹全短歌
「よい廊下を」と敬礼で見送ってくれるおばあさんたちのいるジャンプ場  我妻俊樹


オリンピックはまだ続いているのでしょうか。今回私は一秒も見てない(見たのは0.5秒くらい)ので、見るかわりに自分のつくった唯一のスキー競技の歌を取り上げます。
ジャンプ競技場というのはあの形にしろ大きさにしろ、夢の中の構造物みたいにすごく印象的で変なものだと思うんです。小さい頃からジャンプに心惹かれてたことを今思い出しましたが、あれはふつう夢の中でしか見られないスポーツだと思う。スポーツというのはそもそも見慣れない競技はすべて夢っぽく見えはするのですが、だからオリンピックはまさに夢のスポーツ祭典という側面があるけど、中でもジャンプの夢スポーツとしてのスケールは群を抜いてる。空間も行われてることも現実の頭上をはるかに超えている。子供はそういう魘されそうなものに目を釘付けにされる性質がありますね。
題詠blog2008、お題「ジャンプ」より。

体育館よりも小さな月をもつ

2010-02-22 | 我妻俊樹全短歌
体育館よりも小さな月をもつ惑星がこの町を通過する  我妻俊樹


連作「実録・校内滝めぐり」より。
これは学校を舞台にした連作中の一首で、「体育館よりも小さな月をもつ惑星」という把握で体育館という言葉を題詠的にすべりこませているのですね。
だから体育館というのは比喩なんだけど、比喩によってイメージの飛躍を歌に持ち込むんじゃなく、逆に、非日常的な光景を日常的なアイテム(体育館)に喩えることで日常性のほうへつなぎとめようとしている。そういう比喩の使い方だと思います。私は比喩によって気軽に付け足される非日常性、というのがものすごく嫌いなので、そこで日常と非日常の位置を転倒させてしまいたい、非日常は一瞬の味付けじゃなくどーんと現れるべきだ、という気分がここには出ているのかもしれない。
その転倒がこの歌の、わかりやすいようなわかりにくいような微妙な複雑さ、に貢献していたらいいなあと思います。

傘立てに花束たてて雨宿り

2010-02-20 | 我妻俊樹全短歌
傘立てに花束たてて雨宿りしてるあなたも見ている林  我妻俊樹


連作「助からなくちゃ」より。
どうってことない光景なんだけど、微妙に意識を刺激する細部を含んだ内容を、音の快感が裏付けている。といった感じの歌をこの連作ではわりと意識してやろうとして、これはうまくいったほうの歌だという自己評価です。
快感というか、ちょっと音の反復がずれながらいくつか重なっててうるさい感じですが、それが窓に付着した雨粒みたいに景色全体のノイズになる、ということはべつに意図したわけじゃないけど、そういう読み方も可能かなと今の目からは思いました。

指に蛾をとまらせておく気のふれた

2010-02-19 | 我妻俊樹全短歌
指に蛾をとまらせておく気のふれたガール・フレンドに似合う紫  我妻俊樹


第三回歌葉新人賞候補作「インフェル野」より。初出はたぶんブログです。
「気のふれたガール・フレンド」なるものの扱いが、短歌にかぎらず自分の書くものでしがちな扱い、にここではなっていないと思う。偶然でしか私はこういう着地のしかたはしないかもしれない。でもそのことによって、かえって私の何かわずかな部分を代表した歌になってるような気もする。そのわずかな部分が今もあるのか、あるわずかな時間をともにしただけなのかといえばわからないけれど。

くだものの皮をつないだドレスしか

2010-02-15 | 我妻俊樹全短歌
くだものの皮をつないだドレスしか売らない店にあれからなった  我妻俊樹


題詠マラソン2004、「皮」の題でつくった歌。
短歌というのは「くだものの皮をつないだドレス」みたいな奇想の置き所、伝えるメディアとしてちょうどいいサイズを持っていると思う。定型にうまくなじませるだけで、その場面に前後する文脈の形成を無視して差し出せてしまうから。
それがどうも安直に思えるのと、あとで連作にしにくいこともあってこういうタイプの歌はその後あまりつくらなくなったのです。奇想の瞬発力みたいなものは、連作で殺さないようにあつかうのが難しい。奇想ばかりならべると力が相殺されるし、あるストーリーの一場面のように組み入れると、短歌が奇想を奇想だけで保存できる意味というのが薄れてしまう。
そんなことを考え込んでしまうわけです。

ひだまりの犬小屋の壁に「大恐慌」

2010-02-11 | 我妻俊樹全短歌
ひだまりの犬小屋の壁に「大恐慌」って書くのを見てからすすり泣いた  我妻俊樹


題詠blog2009、題「ひだまり」より。
去年は意識的に文体をコントロールして歌をつくってみたのだが、たとえば掲出歌みたいな以前ならつくらなかったはずのタイプの歌ができた。だから私はこれを自分が(それもごく最近)つくったという気がしない。私は絶対に歌の外に立っていると断言することができる。その意味においてかなり満足している。
そしてこの歌には共感もするのだが、まるで他人の、真意はわからない歌を読んだように勝手に共感するということです。

砂壁のくずれる日々をながめては

2010-02-10 | 我妻俊樹全短歌
砂壁のくずれる日々をながめては ぼくらはいつか穴でつながる  我妻俊樹


一文でひとつながりに言ってしまえるようなことを、一字空けまで挟んでつながりを切ってる歌でしょうか。切ってるように見えてじつは繋いでるんじゃとか、上句と下句が並列してることを字空けは示してるのかもとか、いや直列だけどあいだの何かが抜けてるのかもとか、抜けてるように見せてるけど何も抜けてないみたいとか、そういうことを一字空けの周囲でいろいろ考える歌にこの歌がなってるかどうかは心許ないけど、そういう歌は言葉をフラットに使わないとつくりにくいと思う。言葉がつながってること前提の磁場、みたいのが歌にないとつながりをめぐる読みの揺れが生じないので。で、この歌をつくった頃は斉藤斎藤さんや宇都宮敦さんの作品を参考にしつつ、自作のフラット化を試みてた頃で、その試みはいったん中途半端に終わった気がするけど、今も中途半端に血肉化しているようでもある。
第四回歌葉新人賞候補作「水の泡たち」より。

夏空がはるばると焼く休日の

2010-02-05 | 我妻俊樹全短歌
夏空がはるばると焼く休日のだれもがいずれ滅びる家族  我妻俊樹


題詠マラソン2004、題「家族」より。
つくったとき「何かうまく言い遂げた感じ」みたいな満足感があった歌ほど、しばらく時間置いて読み返すと鼻について嫌な気分になることが多い。
それは歌そのものの独りよがりな表情を、純粋に読者として読み取る距離が得られたせいなのか。それとも過去の自分という、純粋に読者として眺めることはできない相手に対し、微妙に自己嫌悪のまじる距離にいるということなのか。
どっちかわからないけど、2004年頃つくった歌というのは今丁度そういう距離に入ってるなあと思います。できのよしあし、というのとまた別な意味で読むのが苦痛な歌が多い。掲出歌はその中で例外だったもので、それはつくったときの、言葉をいじってる感触を忘れてる歌だからっぽいので、自己評価というのは正しく低く下すことすら難しいものだと思いますね。