歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい 我妻俊樹
視点の軽い反転(「出る」→「来る」)を読みどころと意識した歌だったと思います。
この歌はまあうまくいってるかなと思いますが、こういう瑣末なところの違和感に何かやらせようって考えると失敗しがちですね。
短歌はかなり細部まで意識して読みとってもらえる、という前提でつくられるものだと思いますが、たとえば極端なこと言うと、つくり手の意識の動きが一文字以下で表現されててもそれは誰の目にも見えないわけですね。その動きは文字の中に完全に隠れてしまう。だから最低二文字以上の組み合わせからしか何も読み取ることはできない。
まあ実際には、一首全体にわたるアクションを前提にしたうえでの最低二文字、ということだと思います。一首でひとつの大きなアクションを見せていて、その流れの中で意味があるかぎりにおいて、二文字間に起きている程度の微細な動きも読み取られる(可能性がある)ということだと思う。
それ以上細かいことしようとすると、印刷で文字がつぶれるみたいに、ただ真っ黒にしか見えなくなる。もちろんつくった本人には読み取れるんですが、作者ほど長時間一首の中にとどまってしまう読者、というのは普通いないと考えたほうがいいので。
連作「ペダルは回るよ」(『短歌ヴァーサス』第11号)より。
視点の軽い反転(「出る」→「来る」)を読みどころと意識した歌だったと思います。
この歌はまあうまくいってるかなと思いますが、こういう瑣末なところの違和感に何かやらせようって考えると失敗しがちですね。
短歌はかなり細部まで意識して読みとってもらえる、という前提でつくられるものだと思いますが、たとえば極端なこと言うと、つくり手の意識の動きが一文字以下で表現されててもそれは誰の目にも見えないわけですね。その動きは文字の中に完全に隠れてしまう。だから最低二文字以上の組み合わせからしか何も読み取ることはできない。
まあ実際には、一首全体にわたるアクションを前提にしたうえでの最低二文字、ということだと思います。一首でひとつの大きなアクションを見せていて、その流れの中で意味があるかぎりにおいて、二文字間に起きている程度の微細な動きも読み取られる(可能性がある)ということだと思う。
それ以上細かいことしようとすると、印刷で文字がつぶれるみたいに、ただ真っ黒にしか見えなくなる。もちろんつくった本人には読み取れるんですが、作者ほど長時間一首の中にとどまってしまう読者、というのは普通いないと考えたほうがいいので。
連作「ペダルは回るよ」(『短歌ヴァーサス』第11号)より。