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喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

歩いてもどこにも出ない道を来た

2010-04-20 | 我妻俊樹全短歌
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい  我妻俊樹


視点の軽い反転(「出る」→「来る」)を読みどころと意識した歌だったと思います。
この歌はまあうまくいってるかなと思いますが、こういう瑣末なところの違和感に何かやらせようって考えると失敗しがちですね。

短歌はかなり細部まで意識して読みとってもらえる、という前提でつくられるものだと思いますが、たとえば極端なこと言うと、つくり手の意識の動きが一文字以下で表現されててもそれは誰の目にも見えないわけですね。その動きは文字の中に完全に隠れてしまう。だから最低二文字以上の組み合わせからしか何も読み取ることはできない。
まあ実際には、一首全体にわたるアクションを前提にしたうえでの最低二文字、ということだと思います。一首でひとつの大きなアクションを見せていて、その流れの中で意味があるかぎりにおいて、二文字間に起きている程度の微細な動きも読み取られる(可能性がある)ということだと思う。
それ以上細かいことしようとすると、印刷で文字がつぶれるみたいに、ただ真っ黒にしか見えなくなる。もちろんつくった本人には読み取れるんですが、作者ほど長時間一首の中にとどまってしまう読者、というのは普通いないと考えたほうがいいので。
連作「ペダルは回るよ」(『短歌ヴァーサス』第11号)より。

七時から先の夜には何もない

2010-04-14 | 我妻俊樹全短歌
七時から先の夜には何もない シャッターに描き続けるドアを  我妻俊樹


この歌の上句では時間的な行き止まりを、下句では空間的な行き止まりを扱っているといえるでしょう。時間的な行き止まりの認識に対し、空間的な行き止まりにずらしてあがいている(開くことのできないドアを描いている)というねじれを、上下句の間に読み取ってもいいかもしれない。
七時に閉まってしまうシャッターの向こうに「七時から先の夜」にあるべきだった何かがあるのだとしても、シャッターに描いたドアは開かないので、そこへ行くことはできません。あるべき場所へは絶対に行けない、すなわち「ない」ということなのだという確認のための、まわりくどい行為がここではひたすら「続け」られているのでしょうか。
連作「水の泡たち」より。

その頭ぶつけてきたの豆腐屋の

2010-04-13 | 我妻俊樹全短歌
その頭ぶつけてきたの豆腐屋の角をまがった夜ふけの風に  我妻俊樹


題詠blog2008、お題「豆腐」より。
「豆腐の角」と「豆腐屋の角」の大きな違い、などについてあれこれ考察する文章を書きかけましたが、やはり掲載するのをやめました。そんな文章を添付してしまった時点で、この歌の存在理由はほぼゼロになると気づいたからです。
つまりこれは、そういう歌なのだと思うんです。

忘れてた米屋がレンズの片隅で

2010-04-12 | 我妻俊樹全短歌
忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅  我妻俊樹


連作「案山子!」(『風通し』その1)より。
『風通し』の合評ページで連作中とくに俎上に載せられた歌ということもあり、その後もいろんな場所で言及される機会が多くて、私の歌の中では一番人目にふれたし批評の対象にもされた歌ということになるでしょう。
この歌はもともと「忘れてた本屋が駅の北口でつぶれてるのを見るという旅」たしかこんな感じの歌としてストックしていたのを、連作を編むにあたり上記のようなかたちに改作したのでした。
改作前の状態でも全然私の基準では人前に出せる歌だけど、連作の場合私の意見より連作自身の意見が尊重されるので、顔色をうかがいながら手を入れていってああいうかたちになりました。それは私にとっては多く偶然による結果で、結果に対しやや不本意でさえありますが、「案山子!」という連作にとってはかなり必然の、こうなる以外にないという結果だったのだと思います。連作ってそういうものですよね。ルールが発生するというか。

悩殺せよ、悩殺せよと祈ってる

2010-04-11 | 我妻俊樹全短歌
悩殺せよ、悩殺せよと祈ってる にぎりこぶしをくちにくわえて  我妻俊樹


題詠blog2008、お題「悩」より。
にぎりこぶしを口にくわえたら、「悩殺せよ」と声に出して言うことはできません。したがってこの言葉は、心の中で唱えられたか、言葉にならないうめきのようなものとして、この場に漏れているだけだと考えることができます。
本当にそうでしょうか。私はこぶしを口にくわえることができないので、実際にたしかめてみたことがありません。つまり一首の読みから、「口にこぶしをくわえたまま『悩殺せよ』とはっきり声に出して言っている」という解釈を完全に排除していいのかどうか、確信がもてないのです。
もちろん、たとえこぶしをくわえられるだけの大きな口、または小さなこぶしを私が持っていたとしても、私の実験した結果がすべての「拳を口にくわえられる人々」と共有されるという保障はありません。たまたま私の結果だったものが、私のつくった歌の解釈を左右すると考えるのも作者の傲慢というものでしょう。
「悩殺せよ」の声ははたしてこの場に響いているのか否か。それが文字としてわれわれの目に読まれており、われわれは文字から一歩も出ていないという最初にあった事実以外、たしかなことは何も言えないようです。

調度品をむやみに崖で買い込んで

2010-04-09 | 我妻俊樹全短歌
調度品をむやみに崖で買い込んで三叉路からは勘であるいた  我妻俊樹


題詠blog2009、お題「調」より。
わたしが短歌にもちこむことの多い言葉に、最近くわわったのが「崖」だと思う。
線路や道路など「道」的なもののアナロジーで短歌をとらえ、それらの語を歌にもちこむことも以前は多くて、いまも多いんだけど(掲出歌にも「三叉路」が出てきてる)、そこに「崖」的な把握が最近になって追加されたらしいということです。

短歌において崖を意識し、崖でものを考えるように短歌を考えるということ。それは定型と、定型の外との落差のようなものを地形に置き換えた把握ということになるでしょうか。
そこには質的な差はなく、ただ高低差だけがある。われわれが日常につかう言葉と同じ材質で、同じ規則をもった言葉でありながらそこに見おろす/見あげるような高低差を見いだせる、そういう短歌がつくれないだろうかと考えているうちに「崖」があらわれるようになったのだと思う。

コスプレ感というか、そこでいったん着替えて頭を切りかえてその垂直さを受け入れる、という(私にとっては)めんどうな手続きをとらなくていい垂直性、というものを短歌にどうやって獲得するか。
短歌をつくるためにそういうことを考えるというより、そういうことを考えるのが好きで私は短歌をつくるのだと思います。そういう考えごとの場に最近「崖」が登場したということです。

今夜こそ麻酔の残るくちもとを

2010-04-08 | 我妻俊樹全短歌
今夜こそ麻酔の残るくちもとをゆらゆらさせてけりをつけたい  我妻俊樹


これがいい歌だとは贔屓目にもぜんぜん思えないけど、「麻酔の残るくちもと」の感覚を「ゆらゆら」と表現してるところがちょっと面白いかなと思いました。
題詠の歌はその時々の手癖がけっこう無防備に出てることが多いので、まとまった数つくることで手癖を意識できるという効果がある気がする。掲出歌は手癖以外の、ちょっと面白い表現の部分をつくった記憶がかなり薄れているので、その部分が今の自分と無関係に「ゆらゆら」してるように感じて気が引かれたのでした。
しかし何に「けりをつけたい」というのか自作ながらさっぱり読み取れません。
題詠マラソン2005、お題「麻酔」より。

ヘッドフォンで殴りかかってきたくせに

2010-04-05 | 我妻俊樹全短歌
ヘッドフォンで殴りかかってきたくせに友達なのかキスしてくれ  我妻俊樹


これは自分ではけっこう気に入っている歌です。短歌をつくるということは、短歌で自分が出せる声に何らかの耳慣れない響きを付け加えることでなければつくる意味がない、と思うけど、去年はそういう面ではそれなりの成果があったという自己評価をしていて、その成果の一部を代表する歌だというのはたぶん自分にしか意味のないことだけど、自分にとってはけっこう重要なことです。
話し言葉が話しようもなく書かれる、という側面から短歌のなかで考えるべきことは多いと感じますね。私が短歌におぼえる興味はわずかな側面だけなので、そこだけ集中して偏って考えたということの記録として、録音するように歌もつくっていきたいものだと思う。
題詠blog2009、お題「達」より。

バス停の先の日なたに置いてきた

2010-03-26 | 我妻俊樹全短歌
バス停の先の日なたに置いてきたワゴンがとりあえずの目的地  我妻俊樹


なにげないようでいて、微妙に屈折したことを言っているというか、やっている歌ではないかと思います。「バス停」も「日なた」も私の歌の頻出単語ですが、そういう珍しさのないなじんだ言葉を使うと、微妙な複雑さに向かいやすいということはあるかと思う。
連作「助からなくちゃ」より。

あなたには正装した子供に見える

2010-03-21 | 我妻俊樹全短歌
あなたには正装した子供に見えるサボテンが点々と門まで  我妻俊樹


植物は人間に似ている。たとえば犬猫のように身近な動物や、猿のように人類と近縁の動物と比べても、植物のたたずまいにはたやすく擬人化の視線を受け入れるようなところがあります。
犬猫や猿には言動がある。しかし植物にはありません。だからわれわれが勝手に動かし、しゃべらせるための空白をわれわれとのあいだに持っている。しかもかれらの姿。かれらの多くは重力に屈せず直立しています。その姿勢のよさと、両手(のように見える枝葉)を地面につく気のないところは、動物界では人類だけの特権と看做されているものです。
われわれが自分の家の植物に服を着せる習慣をもたないのは(嫌がる犬に着せるよりずっとたやすいはずなのに)、何かそのあたりに原因のあることではないでしょうか。着せたら何かが決定的になってしまう。われわれはそのことを不安に感じているのです。

いつまでも真っ赤な小学校なわけ

2010-03-12 | 我妻俊樹全短歌
いつまでも真っ赤な小学校なわけ無いじゃないポストじゃあるまいし  我妻俊樹


短歌はもっと話し言葉でつくられていいんじゃないかという気がするけど、自分の歌にもあまりないですね。話し言葉というのは、まあじっさいには書いてるわけですが、だらだら書くことで話し言葉らしさが出るというところがある。そういうだらだらの中で、あるおもしろい瞬間を切り取ったような歌、ってのはおもしろいんじゃないか。
でもなかなかうまくいかなくて、やっぱりだらだらの一部を切り取ったというより、フレームの中で意識的にだらだらのふりをしてる、としか見えないものに大抵はなってしまう。そう見えるのが正しいというか、じっさいはそうなんだけど。
掲出歌は、そういうねらいの感じられる歌としてはうまくいってるほうじゃないか。という自分での判断です。現実というよりは芝居のセリフっぽいけど、だらだらした芝居(のようなもの)から切り取った数秒くらいには見えないかな? と。

畦道へ軽トラックが荷台から

2010-03-11 | 我妻俊樹全短歌
畦道へ軽トラックが荷台から指示する人をバックで搬ぶ  我妻俊樹


連作「自転車用迷路」より。
これはたぶん実際に目の前の光景として見た場合、荷台にいて指示してる人の姿がいちばん目立つというか、真っ先に目につくと思うんですね。
でもこの歌で「指示する人」が登場するのはようやく四句目に入ってからであり、さらに結句にいたってはじめて軽トラックが「バック」していることが明らかになる。つまりこれは、目の前にある光景の自然な認識の順番ではないわけです。
このような認識の転倒を含んだ一文(のかたちをした短歌)に対し、定型のリズムが句ごとにカットを割るような効果をもたらすことで、一種の“映画”としての短歌があらわれてくることがあるのではなかろうか。
あくまで言葉のうえの出来事として、映像化することはできない“映画”を短歌のかたちで読んだと思う経験はたしかにあって、自分でもそういうことをしてみようと思ったのだと思う。
短歌のかたちをとるしかない“映画”。短歌の外に持ち出せない映像的な経験、というのは絶対にあるはずで、もう少しそのあたりには意識的でありたいという気がします。

アンテナに引っかかってる水泳帽

2010-03-10 | 我妻俊樹全短歌
アンテナに引っかかってる水泳帽 全部の窓が映すほどの雲  我妻俊樹


題詠blog2008、題「帽」より。
これは上句は上句、下句は下句でそれぞれ短い詩のようなものとして、その短さによって獲得される余白へむけた滲み、ひろがり、みたいなものを待っている感じの言葉のかまえをした歌、だと思います。
私のこのタイプの歌は、けっこう定型にもたれかかりすぎというか、短歌のフレームが行き止まりになることをあてにして二つの“詩”を手軽にぶつけちゃってることが多いと思うけど、この歌はあるひとつの、全体像のない事態を上下句がそれぞれの側面から言っているように見えるので、そういう定型への甘えはないかなと思う。言葉が定型に対してつつましい感じがして自分では好感が持てますね。
読み返して自己評価があまりぶれないので、完成度(自分の歌としての)は高い歌かもしれない。

目線からはみだしている泣きぼくろ

2010-03-07 | 我妻俊樹全短歌
目線からはみだしている泣きぼくろ('82.3.10)  我妻俊樹


題詠マラソン2005、題「泣きぼくろ」より。
この「目線」はもちろん“上から目線”の目線じゃなくて写真にうつった人物の、顔が誰かわからないように入れる黒い線のことです。
私の歌ではよくあることですが、この歌は上句だけで意味的に完結しているようにも読めます。蛇足のように続けられる下句が、ここでは写真を思わせる上句に添えられた日付の位置にあり、また読まれるべき音数にくらべて字数がとても少ない。字というかほとんど記号ですね。ルビなしで誰でも七・七の音数で読めると思うんですが、それは短歌だからそう読むんであって、下句をぱっと見たらべつに読まずに一瞬で意味を理解してしまうはず。
その一瞬での理解が、実際に日付の入ったこのような写真を見たときに近い印象を、読む人に与えないだろうか。といったあたりを意識してつくった歌だと思います。このような写真(人物の目元が黒線で潰され、二十年以上前の日付を刻まれた写真)のもつ意味、を歌で語るのではなく、そのような写真そのものとして歌を提示したいという欲望があったのだろうと思うし、その欲望は今でもとてもよく理解できます。

追記
ここでいう“欲望”は視覚的な短歌への欲望みたいなものかなと思い、ということは横書きのネット環境にふさわしい短歌への欲望、のひとつともいえるかなという気がしますね。
横書き=視覚的である、といったことも含めた短歌の縦書き/横書きについての私の考えはこのあたりに書いてあります。
http://d.hatena.ne.jp/ggippss/20050129/p1