神奈川県庁合唱団

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良寛相聞を歌うために2

2011-10-23 02:10:06 | 曲解説
以下、練責が書物やインターネットで調べたことから、練責の想像も含めて書かせていただきます。練責はもともと理系男子ですし、良寛のことはあまり資料が残っておらず、いろいろ解釈があるようですので、事実異なる点があるかもしれませんが、そこはご容赦下さい。また、ご意見がある方、是非メールをください。

良寛70歳、貞心尼30歳で二人は出会います。
良寛の書にふれた貞心尼が教えを受けるために良寛を訪れるのです。
でも、最初に貞心尼が良寛のもとを訪れた時、良寛は不在で貞心尼は会うことができません。
良寛は貞心尼のことをうわさで聞いていて、あまりよく思ってなかったそうです。歌好きの尼など鬱陶しいと思っていたとあります。この、最初の訪問も、もしかしたら居留守を使ったのでは、と想像したりします。
良寛に会うことができなかった貞心尼は良寛に手作りの手毬と、一つの歌を残します。
「これぞこの仏の道に遊びつつつきやつきせぬ御法なるらむ」(4曲目の冒頭に使われます)
手まり、これこそが仏道に遊びつつ、ついてもついても尽きることのない御法を体現しているのかしら  というの、大意です。
この歌を読んで、良寛の気持ちは急激に動きます。
良寛というと手まりを子供と一緒につくというイメージが強いのですが(2曲目の手毬がまさにそう)、そのことについて、彼は詩の中で「児童と手毬なんてかついて一体どういう訳なのだと問われても、相手に説明のしようなんかない」という、記述があります。手毬をつくということは良寛の寂しい心が実は背景にあるのです。なぜ、そうなったかは詳細は後に書きます。
そんな、良寛の手毬について、一つの明確な理由を貞心尼は提示します。手毬をつくことによって仏に近づいているのだと。
良寛はこれにこう答えます。
「つきてみよ ひふみよいむなやここのとお」
解釈は「さあ、あなたもてまりをついてごらん。ひふみよいむなやここのとお。てまりをつく、この行為の無限の反復の中に仏道の悟りがひそんでいるのだよ」
良寛は貞心尼から歌で、自分がやっている手まりが仏道に近づくためのものだという考えに、同調していきます。
つく という言葉には弟子につくという意味もあり、貞心尼の弟子入りが認められたという解釈もあります。この、返歌をもらった貞心尼の喜びもすごかったでしょう。
また、「ひふみよいむなやここのとお」は 悟りに至るキーワードとして、この曲全体に一貫して使われていきます。
二人の心が高まっていくところでも、坊さんと尼さんという本来そういう関係が好ましくない中で、心が接近していきますが、常に「ひふみよ・・・」それをおし止めようとしたでしょう。でも、その上で二人の関係は接近していきます。

その3に続く


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