画竜点睛

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余震頻発

2011-04-17 | 雑談
余震が続く中、このところずっと頭痛、かすみ目、鼻炎に悩まされ、集中して文章を書ける状態にありません。幸い生活そのものは平穏さを取り戻しましたが、外に目を向けるとどこを見ても原発問題が暗い影を落としているのを感じざるを得ません。視界をさえぎるこの障壁を取り除かない限り、将来の展望は拓けてこないでしょう。

そのためには日本中の英知を結集して事に当たらなければならないわけですが、逆に言えば日本中の英知を結集してもこの程度の対応しかできていないという見方もできます。そのことに軽いめまいのような絶望を覚えつつ、多くの研究者が解決に向けて知恵を絞っているという事実も忘れてはなりません。それを集約して明確な形として打ち出せるかどうかは、ひとえに政府の手腕にかかっています。

この問題についてこれ以上書き続けるとまた頭痛がぶり返しそうなので、別のことについて簡単に書くことにします。それは原発事故における情報開示についてです。

事故が起こった当初から、東京電力や政府は十分に情報を開示していないのではないか、あるいは不都合な事実を隠蔽しているのではないか、という声が聞かれました。僕もその点を否定するものではありませんが、情報を伝達するということはそんなに簡単なことだろうかという疑念も持っています。僕の目には情報を伝える側もそれを受け取る側も共通の幻想に陥っているように見えるのです。

いうまでもないことですが、人間はテレパシーによってダイレクトにコミュニケーションをとっているわけではありません。言葉によって情報を交換し合っています。ところが情報をめぐる発信する側、受け取る側の反応を見ていると、情報はダイレクトに伝わるものだと錯覚している節があるように思えるのです。

簡単な例として、自分の業務内容を他業種の人に説明する場合を考えてみましょう。同業の人同士で話すときには一言ですむところが、言葉をいくつもいくつも重ねないと正確な意味が伝わらないことに気づくでしょう。まして今回の件は原子力や放射能といった極めて専門的な分野に関わることです。生まの言葉を放り出しただけで情報が伝わるはずがありません。

一つの情報をどう評価すべきかについて突き詰めて考えていくと、自分がいかに無知であるか、いかに頼りない地盤の上に立っているかを思い知らされます。情報を発信する側は言葉を尽くしてそれを伝えるとともに、情報を受け取る側もそれを慎重かつ冷静に評価することが必要であるように思われます。

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