あるフォトジャーナリストのブログ

ハイチや他国での経験、日々の雑感を書きたくなりました。不定期、いつまで続くかも分かりません。

ハイチ大統領候補 ワイクリフ・ジョン (1)

2010年08月10日 | 日記
ワイクリフとは
ハイチ出身で米国育ちのヒップホップの音楽スター、ワイクリフ・ジョンが、2010年11月28日に行なわれる総選挙で大統領に立候補することが決まった。
 初めて、彼の名を聞いた人たちも多いかもしれない。ワイクリフとは、どのような人物だろうか。
1970年、首都ポルトープランスの郊外の町クロワデブケで生まれたワイクリフは9歳の時、家族と共に米国に移住。米国で育った彼は88年、同じくハイチ移民の子供である従兄弟のプラズ・ミシェルとローリン・ヒルらとザ・フージーズ(The Fugees)を結成した。
グループ名は「レフジー(Refugee)」(英語の難民の意味)という語に由来している。
96年、彼らの第2作目のアルバム「ザ・スコアー(The Score)」が大ヒット。97年、ザ・フージーズはグラミー賞の最優秀ラップアルバムと最優秀R&Bパフォーマンスを受賞し、国際的な人気アーチストとの仲間入りを果たした。同年、彼らはハイチで凱旋コンサートを開いた。そのコンサートには約8万人が集まったと言われている。世界的な音楽スターとなったザ・フージーズのサクセス・ストーリーは、ハイチの人々に勇気と誇りを与えた。
 現在、ザ・フージーズとしてのグループ活動は休止中だが、それぞれのメンバーはソロとして活躍している。
ワイクリフは現在までに、7作のソロアルバムを発表している。ヒップホップの枠にとらわれず、ハイチのコンパやレゲエやロックやラテン音楽などを取り入れるなど、自由な発想で表現してきた。
ワイクリフのハイチへの強い思いが感じられるのは、2004年、ハイチの独立200周年を記念して製作された4作目のアルバム『ウェルカム・トゥ・ハイチ クレオール101(Welcome To Haiti Creole 101)』である。ハイチの地図上に独立英雄、トゥサン=ルヴェチュールの肖像画をもじった軍人(ワイクリフ?)が描かれたアルバムジャケット。
まずは、アルバム冒頭の「ジャン・ドミニク イントロ(Jean Dominique intro)に、驚かされた。
「ジャン・ドミニク イントロ(Jean Dominique Into)では、2000年4月に暗殺された著名なラジオ・ジャーナリスト、ジャン・ドミニク(詳しくは「慟哭のハイチを読んで下さい」のインタビューが使われている。ちなみに、ドミニクの妻Michel Montas は現在、国連事務総長の潘 基文(パン・ギムン)のスポークスマンだ。
「ジャン・ドミニク イントロ(Jean Dominique Into)」は米国海兵隊占領していた頃の父親と会話を回想したものだ。父親は幼いドミニクに、こう諭した。

お前はハイチ人だ!
お前はこの地で生まれた!
お前はフランス人ではない!
お前はイギリス人ではない!
お前はアメリカ人ではない!
お前はハイチ人だ!

それは、ディアスポラとして米国に育ったワイクリフ自身への、「ハイチ人の歴史を忘れるな!誇りを持て!」との、戒めと決意のようにも聞こえた。
そして、3曲目の「プレジデント(President)」では、このように歌っている。

もし僕が大統領だったなら、
金曜日に(大統領に)選ばれて、土曜日に暗殺されて、日曜日に埋葬されて、
月曜日に仕事へ戻る
何億ドルも戦争に使う代わりに、僕ならその金を貧しい人々のために与える。
だって僕は貧しい人々を知っているから。
シャワーを浴びるために、雨を待つしかない人々を。

でも、ラジオはこの歌を放送しない。
奴らはこれを反逆の歌だと言う。

「俺が大統領になったら、すぐに殺されてしまう」と、ただそんな歌かもしれない。だが、私には、「もし僕が大統領だったら、金曜日に選ばれて~月曜日に仕事へ戻る」、淡々と繰り返すワイクリフのリフが、ハイチの政治状況を見事に歌っているように思えた。ちなみに私が、初めてハイチを訪れたのは1988年9月16日。その日は金曜日だった。
翌日の9月17日の土曜日、地図を買い求めて、ポルトープランスの中心部を歩いていると突然、「パーン・パーン・パーン」と銃声が鳴り響いた。銃声は20分ほど続いた。その夜、クーデターのニュースが伝えられた。
「午後に勃発したクーデターで、大統領のアンリ・ナムフィ将軍は失脚し、プロスペル・アヴリル将軍が新大統領に就任した」
その年、2度目クーデター、そして3人目の大統領であった。

そして、ワイクリフがこの歌に込めたメッセージはハイチ、米国、そして世界へと、国境を越えて心に響いてくるように感じた。

ワイクリフの活動は音楽だけに留まらなかった。2004年、彼は非営利団体「イェレ・ハイチ(Yele Haiti)」を設立。この団体を通じて、シテソレイユなどの貧困街への食料支援やハイチの恵まれない子供たちへの教育支援など、様々なプログラムを行ってきた。
2007年1月、ハイチ政府は、彼の知名度と功績を称えて、ハイチの移動大使(恐らく親善大使のようなもの)に任命された。

(長くなりそうなので、次回に。(2)は、なるべく早くアップします)

写真は 「Welcome to Haiti Creole 101 」のカバー

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