あるフォトジャーナリストのブログ

ハイチや他国での経験、日々の雑感を書きたくなりました。不定期、いつまで続くかも分かりません。

父の軍歴証明書

2015年01月18日 | 日記
 厚生労働省に父の軍歴証明書のコピーを申請したら、数週間後に届いた。マスコミに紹介されたことで、最近は軍歴証明書を申請する人が増えたらしく、3か月ほどかかると言われたが、厚生労働省の素早い対応に驚いた。
きっかけは父の軍隊時代の写真だった。写真が入っていた茶封筒には「土浦海軍航空隊」と記されていた。なかの写真を確認すると、軍服姿の父と訓練中のものだった。だが、航空隊内で撮影されたようには見えない。背景に写る建物はすべて西洋風で、日本ではなく、外国で撮影されたように思えた。ネットで検索すると、同じ写真を見つけた。持ち主は海軍技術科見習尉官として、中国の青島で訓練を受けていた。父の写真も、そこで撮影されたものに間違いない。では、なぜ「土浦海軍航空隊」と記してあったのか。そこに所属していたのだろうか?

 届いた軍歴証明書によれば、昭和17年9月に高等専門学校を卒業した父は、翌年9月、海軍見習尉官として入隊。その後。中国の青島方面特別根拠地隊附きとなり、そこで基礎訓練を受けた。
そして、昭和18年末に土浦海軍航空隊附きとなった。土浦では技術士官としての実習訓練を受けていたようだ。あくまで隊歴のみだから、実際、どんな仕事をしていたのか、分からないが、一先ず謎がとけた。

それから一年後、父は第一海軍燃料廠に出仕した。第一海軍燃料廠とは、現在の横浜栄区本郷台駅付近にあった海軍で使用する燃料や潤滑油などを研究、実験する施設である。現在、本郷台駅付近にある地球市民かながわプラザはこの跡地にたった。これを知って驚いた。数年前まで洋向台に住んでいた私は、プラザで何度か写真展や講演会を行ったことがあるからだ。

その数カ月後、父は艦船・兵器に関する計画・試験・製造などを行う専門機関があった海軍艦攻本部に出仕。まもなく敗戦を迎えた。敗戦時は仙台の軍事工場で監督官をしていたようだ。
父は生前、戦争についてあまり語ることはなかった。また、私自身も若く、米国に長く滞在していたので、尋ねる機会を逃してしまった。残したのは十数枚の写真だけで、日記や手記のようなものはない。父が母と結婚したのは、復員から数年後だった。だから、母も父の軍隊時代のことは知らない。父の兄弟は、ずうっと以前に亡くなった。もう、これ以上のことを知ることは不可能だろうが、それでも調べて良かったと思う。

先月、「土浦海軍航空隊」があった霞ヶ浦湖を訪れた。湖上では水上飛行機がけたたましいエンジン音を響かせながら、優雅に飛行していた。湖畔のベンチに座り、しばらく飛行を眺めていた。70数年前、20歳だった父も、きっと湖上を飛ぶ水上飛行機をこのように眺めていたに違いないと思った。



写真は、土浦海軍航空隊と同じく霞ケ浦湖畔にあった鹿島海軍航空隊跡地に着水した水上飛行機




Photo by Fuminori Sato with iPhone

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1 コメント

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Unknown (フランツ)
2019-04-13 21:19:42
突然のメールにて失礼いたします。
偶々、お父様の軍歴を興味深く拝見しました。お父様の軍歴を拝見しますと、お父様は、海軍技術科士官33期のグループで、昭和18年9月から青島(チンタオ)で昭和19年2月末まで訓練を受けた所謂 青島二期の方だと思われます。
おそらく、土浦海軍航空隊では、燃料管理の仕事や予科練の教官をされていたと思います。
終戦直後、仙台におられたとのことですが、当時、松根油の製造などに従事されていたかもしれません。
自分の父は、34期技術科士官で、静岡県の浜名湖の畔の「浜名海兵団」で訓練を受け、呉海軍工廠造機部に配属になっております。
平成24年8月から、父の軍歴調査に基づいて、父の足跡を調査して、一冊の本に纏めております。(自費出版・非売品)題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟 第4版」と云います。
都内は、12の区立図書館、全国では、140箇所の図書館で読めます。33期の皆様の話も記載しております。
お時間あれば、是非とも御一読ください。
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