11月27日午後、牛久での取材を終えた私は、車で約30分ぐらいの距離にある霞ヶ浦に向かった。霞ヶ浦は国内で2番目に大きい湖である。以前から、行ってみたいと思っていた。父が戦時中に帝国海軍の将校として、霞ヶ浦の航空基地に勤務していたと母親から聞いたからだ。
将校といっても、根っからの軍人ではない。当時通っていた高等学校が、兵力不足から繰り上げ卒業となり、海軍に入隊した。だが、父が海軍でどのような勤務をしていたのかはよく分からない。父はあまり戦争中のことを語らず、私も興味がなかった。そして、私が興味を持ち始めた時には、父はすでに亡くなっていた。だが、私が知っているのは、中国の青島と茨城県の霞ヶ浦で勤務し、宮城県の仙台で敗戦を迎えた。入隊中、実際に戦地に行くことはなく、仙台では軍事工場に勤務していたようだ。理工系の学生だったので、武器や弾薬など製造・管理する技術系の任務を与えられていたのだろう。これを書いている途中、父の死後に写真を整理していたら、軍服姿の写真を数枚見たことを思い出した。実家にあるはずだから、こんどチェックしてみたい。そのなかに、父の戦時中の足跡を知る手がかりがあるかもしれない。
牛久から20分ほど運転すると、山本五十六の大きな肖像画が見えた。それは、道端に停まっていた大型バスを改造した街宣車の後ろに描かれていた。帝国海軍土浦航空基地跡、現在の陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校が位置する阿見町は、もう目と鼻の距離だった。