あるフォトジャーナリストのブログ

ハイチや他国での経験、日々の雑感を書きたくなりました。不定期、いつまで続くかも分かりません。

ハイチ(4) 2010年1月27日

2010年01月27日 | 日記
岩波書店の月刊誌「世界」から依頼を受けた原稿の執筆に追われて、ブログの更新ができなかった。「ハイチ大地震」の背景、地震に至るまでのハイチの歴史と状況について、書いた。
来月、2月8日発売予定の3月号です。今、「世界」を読んでいる人は少ないと思う。思い起こしてみると、私が20年以上も前に、カメラマンデビューを果たしたのが、確か「世界」だった。サンフランシスコのミッション地区に住むインドシナ難民のフォトストーリーだった。雑誌なのに、ここまでやってくれるのかと驚いた。わざわざ、印刷所に私を招き、写真の上がりを確認しながら印刷する。写真集を作るような心遣いだ。おまけに、昼にはカツ丼。「世界の伝統です」、と編集者は語っていた。その後、何回か「ハイチ」や「メキシコシティのストリート・チルドレン」のストーリーを「世界」発表したが、あの時が最初で最後だった。今から考えると、まるで夢のような話である。

1月29日(金曜日)の夜の8時50分頃から、FM J-Wave(81.3)に生出演します。もちろん、ハイチと地震について話します。

追記:モナは数日前に、ポルトープランスの米国のNGOが運営する孤児院に避難した。食糧と水の心配はないそうだ。「水は地震前よりもある」と、冗談を言っていた。今日も電話で話したが、着替えのジーンズやTシャツ、他にシャンプーなどの日用品がほしいと言っていた。まだ市場には十分には出回ってはおらず、値段がとても高いとこぼしていた。物価の高騰が気になった。

ハイチ(3) 2010年1月21日

2010年01月21日 | 日記
モナの続報
1月18日(日本時間)、再びモナと話した。16日、ペチョンヴィルのイタリア大使館で野宿していたモナは翌日、友人の紹介で、そこからケンスコフ方面に徒歩で1時間ほど登った家に移動していた。家の主人は、着の身着のままで現われたモナと娘に着替えと簡単な食事をくれたそうだ。やっと、野宿から解放された。水も近くにあるらしい。
翌日(17日)、モナは早朝から、避難先の家からポルトープランスの自宅へと歩いた。食料を手に入れるためである。昨日、食事をくれたが、今日からは自分たちの努力で確保しなければならない。モナの自宅があるパコ地区(日本大使館もある)までは、下り道を徒歩で約2~3時間の距離だ。そこで何とか食料(援助物資は届いていない)を手に入れたモナは、また歩いて避難先の家に帰った。おそらく往復で6時間以上、歩いただろう。

電話のモナの声は、先日とは違い、ひどく疲れた様子だった。
「ポルトープランスはひどいありさまよ。建物がみんな壊れて、死臭とゴミと糞尿の匂いがひどい!あんなの見たことない。鼻を何度洗っても、匂いがとれない」
そう話したモナは動揺していた。
私もポルトープランスの匂いを覚えている。ゴミが燃える匂いだ。街中で一日中くすぶっているゴミの匂いは、いつのまにか私の記憶の中に埋め込まれていた。今でも、日本で同じ匂いをかぐと、ポルトープランスの街中へとフラッシュバックすることがある。だが、慣れ親しんだその風景は、もはや存在しない。モナは、その匂いを一生、忘れることはできないだろう。今後も、同じ匂いを嗅ぐたびに、被災時の記憶がよみがえるに違いない。
「また電話して。みんな電話をしてくれるように言ってね」
モナは何度も何度もこう言った。
残念ながら、このような大災害では個人ができることは、限られている。私と同じように、日本でハイチの友人を思い、何もできない自分に苛立ちを感じている人たちは多い。私が今できるのは、電話で励ますことしかない。

写真は、モナ

ハイチ(2) 2010年1月19日

2010年01月19日 | 日記
1月16日、モナ以外の友人たちと連絡がとれた。その一人はフォーベール。被災時は家にいたが、揺れを感じた瞬間に家を飛び出し、難を逃れた。家族も全員、無事。先ずはホッとした。

フォーベールは私が泊まるオロフソンホテルをベースに仕事をするドライバー・ガイドだ。無口だが、淡々と仕事をこなす、優秀なガイドである。私の他に、お世話になった日本人記者も多い。数年前に無くなった父親もガイドで、クリスマスイブに行なわれていたヴードゥー儀式に連れてもらったことがあった。
平時の仕事は空港とホテルへの送り迎え。料金は通常、30ドル。またジャーナリストやNGOとの仕事は、日当100ドル。しかし、仕事が無い日の方が多い。そんな時、ガイドたちは、ホテルの中庭の木陰に座り、ぼんやりと仕事を待つ。
「なにか仕事はないの?安くてもやるよ」
その問いに、「お前たちのような高級ガイドを雇う金はないよ」と言って、さらりとかわす。決して、高額ではないが、私のようなフリーランスには、それでも大変な額だ。あらかじめに決まった仕事がなければ、彼らを雇うことはできない。

知り合いの安否を尋ねた。同じガイド仲間のアレックスは無事だ。また、近所で土産屋を営むミルフォートも無事だそうだ。だが、娘は地震で倒壊した自宅の中で亡くなった。
ミルフォートは、私の本「ダンシング・ヴードゥー」に、登場する人物だ。
十年前に、彼の家を訪ねたことがある。家はホテル沿いの道をさらに15分ほど登った、低所得者層(最底辺ではない)が暮らすの地区の一画にある。今回、最も被害を受けた、コンクリート・ブロックの壁とトタン屋根を組みあせた住宅だった。妻は十数年前に亡くなり、男手ひとつで2人の娘と息子を育ててきた。訪問のさいに、娘を一人、紹介された記憶がある。すでに成人した女性だった。もしかしたら、亡くなったのはその娘かもしれない。心からお悔やみを申し上げます。

今回のような大事件が起きると、ガイドたちは途端に忙しくなる。フォーベールは今、ウオール・ストリート・ジャーナルの記者のガイドをしている。普段よりも、さらに高額な日当で働いているに違いない。元気で、がんばれと言いたかった。不謹慎に聞こえるかもしれないが、「稼げよ」と告げた。
その言葉に、フォーベールが笑っているのを確認した後、電話を切った。ジャーナリストたちは突然、津波のように大挙して押し寄せては、皆一様に去っていく。日本のハイチの報道も、あと一週間で消えていくだろう。それが、マスコミである。そして、自分もその一人であることには違いはない。
今から17年前、ハイチは軍政の厳しい時代だった。その頃、ガイドのアレックスがふともらした言葉を今でも覚えている。
「ジャーナリストやNGOが来ない、そんなハイチになれば嬉しい」
 全く、同意見だ。しかし、悲劇は繰り返されてしまった。

写真は、祈るミルフォート



ハイチ(1) 2010年1月16日

2010年01月17日 | 日記
ハイチ 1月16日

地震直後から連日のようにハイチの友人たちに電話をかけるが一向につながらない。テレビとPCでニュースやメール情報を追いながら、片手に持った受話器に繰り返し番号を打ち込む。被害の大きさが報道されるにつれて、あせりと苛立ちだけが募っていく。そんな悶々とした時間を過ごしていた。
 昨日(15日)の午後、電話が鳴った。番号を見ると、米国の友人からの電話だった。
「聞いて!モナは無事よ!」
その知らせに、思わず歓声を上げた。その声は近所にまで響いたかもしれない。嬉しかった。彼女の娘も、無事だった。モナは私の本「ダンシング・ヴードゥー」に登場する女性である。モナに始めて会ったのは、ヴードゥーの取材中の十数年前。以来、ハイチでは、最も親しい友人の1人である。
 地震前は、崩壊した大統領府の近所に住んでいた。知人の話によれば、家は崩壊。今は娘と一緒に、ポルトープランから少し離れた高台にある町ペチョンヴィルの公園で野宿しているらしかった。早速、連絡を試みるが、やはり繋がらない。だが、モナが無事の知らせを聞いただけで、十分だった。
 翌日、電話が繋がった。現地は深夜である。眠たげな声だが、間違いなくモナだ。モナと娘は昨日の公園から、近くのイタリア大使館の前で野宿していた。大勢の人びとが垂れ流す糞尿の匂いに、耐え切れず、そこへ移動してきたと言う。今日、食べたのは誰からともなく配給されたピザとソーダのみ。水はほとんど手に入らない。近くに水場はあるようだが、争いが絶えず、近寄るのは危険だ。 モナの故郷はポルトープランスから北へ150キロの町ゴナイヴである。兄弟と親戚が住むゴナイブに帰りたいが、お金はなく、またバスも運行していない。それに、運良く、バスを見つけても、法外な値段を吹っかけられることは間違いない。私自身、何度も経験しているが、ドライバーたちは、どんな状況であっても、容赦はしない。しばらくは、ポルトープランスに留まるしかないようだ。
「心配しないで。私の隣にはマンボ(ヴードゥーの女性司祭)、後ろにはオンガン(男性司祭)が寝ている。彼らと一緒に野宿しているから、大丈夫よ」
その言葉で、私とモナは大声で笑った。彼女の冗談である。ヴードゥーの魔術に護られていると言いたかったのだ。昨日、友人の話では、モナは混乱しているとのことだった。
だが、受話器から聞こえてくる彼女の声は、私が普段から知っている、快活でたくましいハイチ人女性のモナだった。
思わず、涙が出そうになった。

写真は、ヴードゥー儀式で正装したモナ 20007年4月