あるフォトジャーナリストのブログ

ハイチや他国での経験、日々の雑感を書きたくなりました。不定期、いつまで続くかも分かりません。

ハイチ大統領候補 ワイクリフ・ジョン (4)

2010年08月24日 | 日記
彼は、諦めてはいなかった。8月20日、選挙管理委員会(CEP)が発表した大統領候補資格者のリストから外れたワイクリフは,直後の声明で、「選挙管理委員会の決定には不本意だが、ハイチの法律を尊重してそれに従うこと」、そして「支持者たちも結果に従うように」と、呼びかけていた。しかし、数日後、選挙管理委委員会(CEP)の結果を不服とし、異議申し立てを行なうことを示唆した。
 大統領選への候補者資格を巡り、過去にも同じような例があった。2005年、大統領選に出馬を表明したハイチ系米国人のデュマ・シメウス(Dumas Simeusで)ある。当時は現大統領プレヴァルに次ぐ、有力候補者として注目されていた。シメウスはワイクリフのように、ハイチで生まれ、米国に渡って成功したディアスポラである。大手食品会社の会長兼最高経営責任者で、ワイクリフが音楽世界のセレブならば、彼はビジネス世界での、セレブである。しかし、出馬表明後、やはり選挙管理委員会の審査によって、候補者リストから外れてしまった。その理由は、米国の市民権を所有していたからだった。シメウスはこれを不服とし、直ちに異議を申し入れた。最高裁はシメウスの異議を認め、選挙管理委員会に対し、候補者リストに載せるように命じた。だが、選挙管理委員会はこれを無視。結局、シメウスは選挙戦から撤退し、その代わりにプレヴァルを推奨した。
 恐らく、ワイクリフのケースにおいても、選挙管理委員会がその結果を変えることはないと思う。しかし、彼が選挙選に固執する限り、政治的な影響力を持ち続けることに、変わりはない。たとえ、大統領になれなくても、キングメーカーとして、支持者を動かす力は、十分にある。ワイクリフは、次期大統領として誰を推奨するだろうか。今後の動向が注目される。

ハイチ大統領候補 ワイクリフ・ジョン (3)

2010年08月21日 | 日記
 大統領選候補者の資格審議を行なっていた選挙管理委員会(CEP)は現地時間の8月20日、その結果を発表した。登録した34人の候補者から、最終的に候補者としての資格を認められたのは19人。その中に、注目されたワイクリフの名前はなかった。
直後に発表されたワイクリフの声明文によれば、選挙管理委員会は大統領候補者としての条項「5年以上継続的にハイチに居住している」を満たしていないと、判断したようだ。 選挙管理委員会の発表は現地時間の夜9時過ぎだった。恐らく、失格した候補者の支持者たちによる抗議活動が起こるのを回避するために、意図的に発表を遅らせたのだろう。

 来年2月で大統領の任期が切れる。そのための、選挙だ。だが、果たして今年に行なう必要があるのだろうかと、今でも疑問に思う。地震から半年以上が過ぎても、未だに120万人以上の人々がテント村で不便な暮らしを余儀なくされている。このような状況で、正しく、公平な選挙を期待することが出来るのだろうか。選挙に大きな労力を費やすよりも、まずこれらの人びとの住居と、復興への正しい道のりを確保することが、最優先課題ではないのかと思えてならない。ワイクリフの出馬で、一挙に盛り上がり見せた選挙だが、実はこれが人々の本音では、ないだろうか。

 ワイクリフと支持者にとっては、残念な結果だろう。ワイクリフは声明文のなかで、選挙管理委員会の決定は不本意だが、ハイチの法を尊重してそれに従うこと、そして支持者たちも結果に従うようにと、呼びかけていた。そして、最後にこう結んだ。
「これは、愛する国を改善するのを助けるための、最後の努力ではありません。新しい始まりを印すものです」。
大統領選出馬の発表から、彼の非営利団体「Yele Foudndation」が集めた寄付金の私的流用や、ハイチでの活動を疑問視する報道が相次いだ。先ずは、原点に戻り、地震からの復興に力を注いでほしい。今回、大統領にはなれなかった。だが、真価が問われるのは、これからだ。

ビルマ KIA(カチン独立軍)の写真展

2010年08月19日 | 日記


8月15日の夜、東京の南大塚ホールで開催されたKIA(Kachin Independent Army、カチン独立軍)の写真展を見た。KIAとはビルマ北部のカチン州に住むカチン族の反政府組織、カチン民族機構(Kachin Independent Organization)の軍事部門のことである。写真家は長年、カチンを取材する米国人のRyan Lybreさん。会議室を借りた3時間だけの開催だったが、今年5月にLybreさんがNIKON Salonで開催した「Portraits of Independence: Inside the Kachin Independence Army(カチン独立運動の内側から)」の中から数十点の写真を展示していた。「夕刻、焚き火にあたる兵士」、「地雷で負傷した兵士を治療する医師」、「洗礼を受ける人びと」など、良質な写真と貴重な情報が多く、現在のカチンの状況を知るうえで良い写真展だった。



 1961年、カチン州で学生たちを中心に結成されたKIOは、民族の権利と自治権の獲得を目指して、ビルマ国軍と激しい戦闘を続けてきた。だが、1994年3月、ビルマ政府と停戦協定を結んだ。以来、不安定ながらも、停戦は保たれている。
今年11月に総選挙を予定したビルマ軍事政権は、KIOを含む停戦中の各反政府武装勢力に対し、国境警備隊として参加することを要求している。だが、民族の権利と自治を護るために戦ってきた彼らが、国軍の一部になるような、そんな申し出を受け入れることはないだろう。
 実は、私も1993年の冬、友人のフォトジャーナリストと一緒にカチン州のKIOの解放地域を取材したことがあった。タイのバンコックから中国の雲南省へと飛び、それから3日かけて、ビルマのカチン州に入った。国境に隣接する司令部をベースに、前線基地や、新兵の訓練所や、野戦病院などを訪ね歩いた。
不慣れな山歩きで、遅れがちになる私たちを気遣いながら、護衛し、荷物を持ってくれたのは、20歳前後の若い兵隊たちだった。夜、彼らは焚き火を囲みながら、Rod StewartのSailingを歌っていたのを、今でも覚えている。
彼らは今どうしているのだろうか…。
Libreさんの写真に写る若い兵隊たちの姿を見て、ふと思った。





写真は 前線基地から当たりを見下ろすカチン軍兵士(上)、木製の銃を持って、整列する訓練中のカチン軍新兵(中)、焚き火を囲みながら歌うカチン軍兵士たち(下)1993年

ハイチ大統領候補 ワイクリフ・ジョン (2)

2010年08月15日 | 日記
ワイクリフ・ジャンが大統領出馬のニュースを聞いて、大変なことになったと思ったが、特に驚きはしなかった。「将来、ワイクリフが大統領になる日が来るかもしれない」。数年前から、友人たちと、そんな冗談めいた話をしていたからである。
ワイクリフがハイチで存在感を示し始めたのは、彼が非営利団体「Yele Foundation 」を設立した2004年頃からだった。
2004年2月、アリスティド大統領は旧軍人・警察からなる反政府武装勢力の反乱によって失脚。その後、首都ポルトープランスの治安は悪化した。アリスティド支持者が多い、べレアやシテソレイユなどの低所得者層が居住する地区は、シメール(幽霊)と呼ばれるアリスティド派の民兵・ギャングが支配し、ギャング同士の抗争や、ギャングと国連平和維持部隊やハイチ警察の間で銃撃戦が頻発した。ハイチの政治家や国連関係者はもちろんのこと、一般の人々でさえも、立ち入ることが難しい危険な地域である。2004年11月、ワイクリフはべレア地区を訪問し、和解と平和の呼びかけた。また、シテソレイユでは、銃撃戦の影響で食糧難に苦しむ住民たちのために、ギャングと交渉し、WFPと共同で、食糧援助を行なった。ちなみに、ワイクリフは2004年2月のアリスティドの失脚では、旧軍・警察の武装組織による反乱軍を支持していた。それでも、ギャングと人びとは彼を歓迎した。ワイクリフならば、中立の立場で彼らの話を聞いてくれるだろうと、期待したからである。幼い頃に米国に渡り、富と栄誉を手に入れた。ハイチ人にとって。ワイクリフは成功者のモデルであり、あこがれの存在であることはもちろんだ。だが、それ以上に、彼がハイチの政界や経済界に属さない、外の世界からきた中立的な人間であると思えたからだろう。
あくまで個人的な意見だが、ワイクリフの出馬には反対だ。彼の大統領としての資質を問題にしているわけではない。これまでのように慈善運動家とヒップホップのスターとしての立場で、人々に夢と希望を与える存在であることの方が、政治家としてよりも、ハイチの社会と政治に、より大きな貢献をもたらすことが可能だと考えるからだ。実際、政治家になりたい人たちは多いが、夢と希望を与えることのできる人は稀だ。もちろん、ワイクリフ自身も、そのことを十分に考慮した上での決断だったに違いない。今となっては、彼の出馬によって、ハイチの復興と再建に向けての活発な議論が交わされることを期待したい。
現時点で、ワイクリフは正式に大統領候補として認められたわけではない。彼の運命は、大統領候補者としての資格を審議する選挙委員会(CEP)の結果にかかっている。候補者としての資格を満たすには、「ハイチ出身者であること」、「国籍を所有していること(2重国籍は不可)」、そして「5年以上継続的にハイチに居住していること」が必要だ。ワイクリフは、9歳の時から米国に住んできたから、「5年以上~」の規定に該当するかどうか微妙なところだ。だが、彼は、2007年からプレヴァル政権で、移動大使を務めている。つまり、政府の要人として認められているのだから、この規定に反することはないとの意見がある。
現在の選挙委員会は、現プレヴァル大統領の息がかかったメンバーによって構成されている。プレヴァルの政党は、独自の大統領候補を擁立している。8月17日、選挙委員会がワイクリフに対して、どのような決定をするのか、全く予想ができない。もし、ワイクリフが候補者として認められなかった場合、支持者らの抗議運動など、新たな政治的混乱を招くかもしれない。それが、一番の心配だ。

追記
ワイクリフの他に、ハイチのコンパ音楽のスター、Michelle Martelly(通称Sweet Micky)が大統領選への出馬を決めた。国外での知名度はないが、国内での知名度はワイクリフよりも高い。彼らの出馬が決まった数日後、私はハイチの友人にこんなメールを送った。
Wyclef & Sweet Micky,! Wow! You guys are going to have a big party in November. 




ハイチ大統領候補 ワイクリフ・ジョン (1)

2010年08月10日 | 日記
ワイクリフとは
ハイチ出身で米国育ちのヒップホップの音楽スター、ワイクリフ・ジョンが、2010年11月28日に行なわれる総選挙で大統領に立候補することが決まった。
 初めて、彼の名を聞いた人たちも多いかもしれない。ワイクリフとは、どのような人物だろうか。
1970年、首都ポルトープランスの郊外の町クロワデブケで生まれたワイクリフは9歳の時、家族と共に米国に移住。米国で育った彼は88年、同じくハイチ移民の子供である従兄弟のプラズ・ミシェルとローリン・ヒルらとザ・フージーズ(The Fugees)を結成した。
グループ名は「レフジー(Refugee)」(英語の難民の意味)という語に由来している。
96年、彼らの第2作目のアルバム「ザ・スコアー(The Score)」が大ヒット。97年、ザ・フージーズはグラミー賞の最優秀ラップアルバムと最優秀R&Bパフォーマンスを受賞し、国際的な人気アーチストとの仲間入りを果たした。同年、彼らはハイチで凱旋コンサートを開いた。そのコンサートには約8万人が集まったと言われている。世界的な音楽スターとなったザ・フージーズのサクセス・ストーリーは、ハイチの人々に勇気と誇りを与えた。
 現在、ザ・フージーズとしてのグループ活動は休止中だが、それぞれのメンバーはソロとして活躍している。
ワイクリフは現在までに、7作のソロアルバムを発表している。ヒップホップの枠にとらわれず、ハイチのコンパやレゲエやロックやラテン音楽などを取り入れるなど、自由な発想で表現してきた。
ワイクリフのハイチへの強い思いが感じられるのは、2004年、ハイチの独立200周年を記念して製作された4作目のアルバム『ウェルカム・トゥ・ハイチ クレオール101(Welcome To Haiti Creole 101)』である。ハイチの地図上に独立英雄、トゥサン=ルヴェチュールの肖像画をもじった軍人(ワイクリフ?)が描かれたアルバムジャケット。
まずは、アルバム冒頭の「ジャン・ドミニク イントロ(Jean Dominique intro)に、驚かされた。
「ジャン・ドミニク イントロ(Jean Dominique Into)では、2000年4月に暗殺された著名なラジオ・ジャーナリスト、ジャン・ドミニク(詳しくは「慟哭のハイチを読んで下さい」のインタビューが使われている。ちなみに、ドミニクの妻Michel Montas は現在、国連事務総長の潘 基文(パン・ギムン)のスポークスマンだ。
「ジャン・ドミニク イントロ(Jean Dominique Into)」は米国海兵隊占領していた頃の父親と会話を回想したものだ。父親は幼いドミニクに、こう諭した。

お前はハイチ人だ!
お前はこの地で生まれた!
お前はフランス人ではない!
お前はイギリス人ではない!
お前はアメリカ人ではない!
お前はハイチ人だ!

それは、ディアスポラとして米国に育ったワイクリフ自身への、「ハイチ人の歴史を忘れるな!誇りを持て!」との、戒めと決意のようにも聞こえた。
そして、3曲目の「プレジデント(President)」では、このように歌っている。

もし僕が大統領だったなら、
金曜日に(大統領に)選ばれて、土曜日に暗殺されて、日曜日に埋葬されて、
月曜日に仕事へ戻る
何億ドルも戦争に使う代わりに、僕ならその金を貧しい人々のために与える。
だって僕は貧しい人々を知っているから。
シャワーを浴びるために、雨を待つしかない人々を。

でも、ラジオはこの歌を放送しない。
奴らはこれを反逆の歌だと言う。

「俺が大統領になったら、すぐに殺されてしまう」と、ただそんな歌かもしれない。だが、私には、「もし僕が大統領だったら、金曜日に選ばれて~月曜日に仕事へ戻る」、淡々と繰り返すワイクリフのリフが、ハイチの政治状況を見事に歌っているように思えた。ちなみに私が、初めてハイチを訪れたのは1988年9月16日。その日は金曜日だった。
翌日の9月17日の土曜日、地図を買い求めて、ポルトープランスの中心部を歩いていると突然、「パーン・パーン・パーン」と銃声が鳴り響いた。銃声は20分ほど続いた。その夜、クーデターのニュースが伝えられた。
「午後に勃発したクーデターで、大統領のアンリ・ナムフィ将軍は失脚し、プロスペル・アヴリル将軍が新大統領に就任した」
その年、2度目クーデター、そして3人目の大統領であった。

そして、ワイクリフがこの歌に込めたメッセージはハイチ、米国、そして世界へと、国境を越えて心に響いてくるように感じた。

ワイクリフの活動は音楽だけに留まらなかった。2004年、彼は非営利団体「イェレ・ハイチ(Yele Haiti)」を設立。この団体を通じて、シテソレイユなどの貧困街への食料支援やハイチの恵まれない子供たちへの教育支援など、様々なプログラムを行ってきた。
2007年1月、ハイチ政府は、彼の知名度と功績を称えて、ハイチの移動大使(恐らく親善大使のようなもの)に任命された。

(長くなりそうなので、次回に。(2)は、なるべく早くアップします)

写真は 「Welcome to Haiti Creole 101 」のカバー