あるフォトジャーナリストのブログ

ハイチや他国での経験、日々の雑感を書きたくなりました。不定期、いつまで続くかも分かりません。

土浦・阿見空襲

2015年06月21日 | 日記
 毎年の3月10日と6月10日を迎えるたびに、亀谷敏子さん(83才)は心に誓う。
「2度と戦争を起こしてはいけない」

2015年6月10日、土浦市大岩田の法泉寺では土浦・阿見空襲の70回目の慰霊祭が行われた。敗戦間近の1945年6月10日の朝、阿見村(当時)上空に現れた米軍のBー29の編隊は、主なターゲットである土浦海軍航空隊付近を空襲。数度にわたる爆撃によって、374人が犠牲となった。そのうち飛行予科練習生(通称予科練生)ら土浦海軍航空隊の軍人が281人を占めた。

慰霊祭には遺族や元予科練生ら約50人が出席した。以前、東京大空襲の取材でお世話になった亀屋さん(83才)も出席者の一人である。1945年3月10日の東京大空襲で、父と一緒に避難した敏子さんは父の機転で助かったが、一足先に近くの避難所へと逃げた母、姉、妹、弟ら家族5人が犠牲となった。唯一残された兄弟は兄の俊治さん。俊治さんは前年に甲飛14期の予科練生となり、奈良海軍航空隊で訓練を受けていた。だが、1945年4月、土浦海軍航空隊に転属となり、6月10日の空襲で亡くなった。その日は予科練生の外出日であり、特攻に選抜された者たちの面会日でもあった。俊治さんは、長男だったことで、特攻要員から外れていた。同じ隊の練習生の回想では、空襲警報後、隊員たちは指定された防空壕に避難したが、その中に俊治さんの姿はなかった。俊治さんはその途中の民家の防空壕で亡くなっていた。17歳になったばかりだった。
 
6月末、土浦から兄が出征時に肩にかけた寄せ書きの日の丸の旗が送られてきた。兄は死んだのだろうか……。だが、公報は届いていない。公報がないということは、兄は死んではいないかもしれない。敏子さんと父は、わずかな期待を持って兄を待ち続けた。敗戦になり、8月が過ぎても兄は帰ってこない。9月、父が土浦に赴き、兄の安否を確認した。兄はやはり亡くなっていた。遺骨は受け取ってはいない。
 
「誰か一人でも生き残っていてほしかった」 
東京大空襲後、敏子さんは福島の親戚に一人で疎開した。兄は休暇中に、疎開先を訪ね、悲しみにふける敏子さんを励ましてくれた。戦争が終われば、また兄と父と一緒に住める。だが、そんな願いが叶うことはなかった。
兄が予科練の志願を望んだ時、両親は猛烈に反対した。兄に頼まれ、両親の目を盗んで、こっそりと志願書を送ったのは敏子さんだった。あの時、志願書を送らなければ……。
戦後70年が過ぎても、悔いが残る。




阿見町の法泉寺で行われた阿見空襲の犠牲者の慰霊祭




亀谷敏子さん(83才)。兄の俊治さんは、土浦海軍航空隊の予科練生だった。1945年6月10日の阿見空襲で犠牲となった。




慰霊祭に出席した元予科練生と遺族




慰霊祭が終わった午後、一人で参拝に訪れていた甲飛15期の元予科練生。阿見空襲では二度命拾いをした。一度目は近くに落ちた爆弾で、足首を負傷した。だが、傍にいた隊員3人が亡くなった。その後、隊に戻り、負傷者たちを病舎に運んでいると、また空襲が始まった。急いで近くの防空壕に逃げたが、そこはすでに満員。仕方なく、遠くの防空壕へ逃げた。空襲が終わり、戻ると、満員で入れなかった防空壕は爆弾の直撃を受けていた。そして、さっき負傷者を運んだ病舎も跡形もなく消えていた。


  
茨城県阿見町
Photo by Fuminori Sato with iPhone


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