あるフォトジャーナリストのブログ

ハイチや他国での経験、日々の雑感を書きたくなりました。不定期、いつまで続くかも分かりません。

ビルマ・ハイチ お知らせ 2010年3月16日

2010年03月16日 | 日記
3月18日に発売されます月刊「解放」で、ビルマ難民のポートレート・シリーズ(仮題:難民の肖像)を掲載します。お近くの本屋でご覧になってください。

写真は、ビルマ難民ミャテインさん。2005年、入管に収容されたミャテインさんは、そこで体調を崩し、放免後の今でも病院に通っている。(注:この写真は誌上では使用してはいません)



報告会のお知らせ
ハイチ地震被災の現地NGOリーダー センティル・ラゲル氏緊急来日 
『ハイチ大地震 現地報告会』 3月20日(土)19時 開催
◆開催概要
『ハイチ大地震 現地報告会』
~ハイチ大地震の爪あと、そして復興支援のために~

講演 :NGO Initiative Against Hunger 代表 センティル・ラゲル氏(ハイチより緊急来日)
    フォトジャーナリスト 佐藤 文則氏
日時 :2010年3月20日(土)19:00~21:00(受付開始18:40)
会場 :EBIS 303 501会議室(別棟)
    東京都渋谷区恵比寿一丁目20番8号 エビススバルビル
参加費:1,000円
定員 :80名(定員になり次第締切)
 2010年1月12日のハイチ大地震は、首都ポルトープランスを中心に甚大な被害をもたらし、死者数23万人、被災者300万人といわれています。現在 多くの国際援助も入っていますが、その復興には10年かかるといわれています。2月27日には、南米チリでも大地震が発生し、世界中の人々が被災地への支 援に目を向け、それを他人事とせず、いま自分たちにできることを改めて考え実践に移し始めている時期でもあります。

今回緊急来日するセンティル・ラゲル氏は、現地NGO Initiative Against Hunger(IAH飢餓撲滅運動)の代表として、約15年間、首都ポルトープランス近郊で、貧しい人々の命と健康を守るための医療保健センターを運営し てきました。その医療保健センターも地震で被災し、被害がひどいため移転が必要であり、まだ活動を再開できない状態にあります。

こころのビタミン研究所は、センティル・ラゲル氏と直接のパイプをもち、保健センター運営を支援してきました。今回、センティル・ラゲル氏を緊急で日本 に招き、被災地への支援に関心をもたれる日本の皆様に現地の被害状況を直接センティル・ラゲル氏より報告し、今後の復興支援策を共に考える機会を持つこと を目的に、報告会を開催いたします。同時に、2月に現地を取材されたフォトジャーナリストの佐藤 文則氏に、映像による現地取材報告および、ハイチについてお話いただきます。

お問い合わせ先:こころのビタミン研究所
TEL  : 03-5765-1956
E-Mail: info@cocoro-v.org
http://cocoro-v.dreamblog.jp/22/39/

JVJA緊急報告会のお知らせ「ハイチ なぜ被害は拡大したのか?」

2010年03月07日 | 日記
今日、神奈川県の「あーすぷらざ」でハイチ地震の報告会を行ないました。雨天にもかかわらず、主催及び、ご来場してくれた皆様、ありがとうございました。



改めて、私が所属するJVJA(日本ビジュアルジャーナリスト協会)主催のハイチ報告会の告知です。現在のハイチを知り、語ることができる最高のゲストをお招きしての報告会です。

3月13日(土)
JVJA緊急報告会
「ハイチ なぜ被害は拡大したのか?」
http://www.jvja.net/

2010年1月13日(現地時間12日)、ハイチでマグニチュード7.0の地震が発生した。大地震は首都を直撃。人口300万のポルトープランスは一瞬にして、壊滅状態に陥った。政府発表によると、死者は23万人以上。被災者は100万人以上に達すると言われ、多くは不便なキャンプ生活を強いられている。人は地震の発生を止めることはできない。しかし、何故これほどまでに被害が拡大したのだろうか。地震から2ヶ月後、被害の検証と今後のハイチの復興、再建について語る。

日時 2010年3月13日(土)
時間 開場 13:30 開演 14:00~16:00
会場 明治大学リバティータワー 地下1001教室
資料代 1,000円
共催  日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)/現代史研究会
お問合せ JVJA事務局: 090-6101-6113  office@jvja.net

※先着順に受付(予約は必要ありません。定員 280 名)
定員を超えた場合は会場収容人員の都合により、ご入場を制限いたします。
あらかじめご了承ください。

会場までのアクセス
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html

【プログラム】 司会進行:佐藤文則

1)佐藤文則  地震発生から現在までの被害状況の報告
        なぜ被害は拡大したのか?

2)熊谷雄一 被災時の体験。NGO職員としての活動経験から見たハイチの姿と復興に向けての支援
         
3)小澤幸子 医師の立場から見た被災者の姿と医療の現場。NGO職員としての活動経験から見たハイチの姿と復興に向けての支援

(休憩と質疑応答あり)

【プロフィール】

佐藤文則 (SATO Fuminori)
1954年生まれ。1979年に渡米し,サンフランシスコ・シティ・カレッジで写真を学ぶ。Impact Visuals、SIPAなどのニュース・エージェンシーを経て現在 Asia Work に所属。『TIME』、『NEWSWEEK』、『S.F.CHRONICLE』、『世界』、『サンデー毎日』などに発表。1988年からハイチを専門に取材。著書に『ハイチ 目覚めたカリブの黒人共和国』(凱風社)、『ダンシング・ヴードゥー ハイチを彩る精霊たち』(凱 風社)、写真集に「ハイチ 圧制を生き抜く人びと」(岩波書店)。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)会員。
佐藤文則 ホームページ
http://www.k2.dion.ne.jp/%7Esatofoto/

熊谷雄一(くまがいゆういち)/予定
名古屋NGOハイチの会の職員。アフリカのブルキナファソで青年海外協力隊の一員として、農業指導。2004年、ハイチの会の職員となり、ハイチ山間部の町エンシュの近郊で総合農園プロジェクトを指導。2005年~2008年まで、在ハイチ日本国大使館の専門調査員を努める。その後、ハイチの会に復帰、現在に至る。2010年1月13日の移動中に、震源地に近いポルトープランス郊外で、他の職員らと共に被災した。

小澤幸子(おざわさちこ)
ハイチ友の会代表 アメリカの難民キャンプでハイチ人と出会ったことをきっかけにハイチを初訪問。1995年草の根でハイチ支援をするためにハイチ友の会を立ち上げる。ハイチ渡航歴14回。ハイチ地震後は日本赤十字社の医療チームの協力者として現地入りし、調査および診療に従事。山梨市立牧丘病院内科勤務。山梨県山梨市在住。
ハイチ友の会
http://friendsofhaiti.home.mindspring.com/j_new/

皆様のご来場をお待ちしております。




ハイチ(14) 2010年3月4日

2010年03月04日 | 日記
モナに再会したのは、ハイチに入国した翌日の2月4日だった。モナが避難していた米国のNGOが管理する孤児院はデルマ地区のはずれにある、まだ舗装されていない凸凹道と建設半ばの建物が多い新興住宅地の一画にあった。そこには、数十名の孤児(震災孤児ではない)と障害を持った子供たちが収容されていた。モナは、地震のストレスからか、食欲がなく、以前よりも痩せていたが、元気そうだった。孤児院の建物は一見すると、被災していなようだが、安全が確認されるまで、みな敷地のテントの中で寝ていた。モナと娘レイカは、子供たちの世話を手伝うという条件で、ここに滞在していた。多くの被災者たちが、空き地や公園に粗末なテントを建てて、不便な生活を強いられているのに比べれば、 食糧と水があり、そして何よりも安全が保障されている。
早速、出発前に頼まれていたモナ用の緊急物資が入った袋を渡した。驚くかもしれないが、袋の中身は、シャンプー、香水、ブレスレットとネックレスとイアリングなどの装身具、T-シャツなど、まるで地震とは関係のない品物ばかりだ。シャンプーなどの日用品が品不足で、値上がりしているとのことだった。
地震時の話を聞いた。モナの話によれば、地震時は最も被災した地区の一つであるポルトープランスの中心部にいた。帰宅するために乗ったタップタップ(乗り合いバス)の中だった。他の乗客と出発を待っていた時、地震が発生した。強い揺れを感じたモナは、どうすることもできず、そのままバスの中で揺れがおさまるのを待っていた。だが、慌てて飛び出した乗客の男性は、落ちてきた瓦礫が頭に直撃し、その場で亡くなったと思われる。揺れがおさまり、バスを降りると、モナは瓦礫の埃を被り、全身が真っ白になっていた。
学校に行っているはずの娘レイカの安否が気がかりだった。電話をしたが、いっこうに繋がらない。
倒壊した建物、負傷した人々、呆然と立ちすくむ人々。変わり果てたポルトープランスの光景に驚かされながらも、急いで家に帰ると、レイカはそこにいた。無事だったのだ。レイカは、前日学校をさぼった。外出前に、モナは「今日は学校へ行くように!」と、何度も注意したが、レイカはその日も、学校をさぼっていた。地震時は家の庭でマニキュアを塗っていたそうだ。その、おかげで助かった。レイカが通っていた学校は地震で倒壊した。もし、その日、母親に言われた通りに、学校に行っていたならば、亡くなっていたかもしれない。学校をさぼったのが、幸いしたのだから、運が良かったとしか言いようがない。
再開したその日から4日ほど、モナには出発直前に決まったテレビ取材を手伝ってもらった。
テレビ取材が終わり、モナと再び合ったのは数日後だった。髪を綺麗にセットし、爪に綺麗なマニキュアを塗り、白いドレスで表れたモナの姿に驚いた。震災のイメージとは、まるでかけ離れたものだったからである。
土産のシャンプーや香水や装身具など、モナは女性らしく、おしゃれをしたかったのだ。テレビ取材で稼いだ数百ドルを持って、美容院で過ごした数時間は、モナにとって、地震後に初めて味あうことができた至福の時だったに違いない。

写真は、友人宅でまどろむモナ



報告会のお知らせです

■とき:3月7日(日)14:00-16:30
■会場:あーすぷらざ・映像ホール(5階)

http://www.k-i-a.or.jp/plaza/news/20100207_hiroba.html#d
 
2月に現地を訪れた報告と、
ここまで被害を大きくしたその社会的な背景についてを話す予定です