http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0918.html
<書き越し>
第五福竜丸のビキニ沖水爆実験被曝で死者も出て、原水爆禁止の運動が高まった。その反対運動を抑えんとしたのが「読売新聞」の正力松太郎、そのブレーンが柴田。正力と柴田はアメリカから原子力平和利用使節団ジョン・ホプキンス氏を招き、大々的なプロパダンダを行う。ジョン・ホプキンス氏は、原子力発電の会社の社長。
正力はテレビと新聞を活用して原子力安全キャンペーン、平和利用キャンペーンを行う。広島では被爆者の遺品が撤去され、原子炉の模型が展示された。この「原子力博覧会」は日本各地で催されて、一気に国民世論を安全利用へと傾けた。
広島の被爆者の森瀧さんも、それまでの原水爆絶対反対から、考えを変えた一人。人類の未来に発展をもたらすと信じた。広島大学教授の三村も、キャンペーンの後は沈黙していく。日本の科学技術の発展のためには平和利用を推進すべきと科学者達も経営者達の意見に追随する。
正力は政治家に転進し、5年以内に原子力発電を作ると宣言。
湯川秀樹を招聘するが、最初から衝突する。湯川は基礎研究から行うべきだとするが、正力は実現を急ぐため、アメリカから購入すべきと考えていて、わずか1年で湯川は原子力委員会を辞任する。
元通産省の島村は「湯川さんは毎日来て、嫌になったんじゃないかな。普通の人だったらよきにはからえ!ということが、あの人には心配だったのでは。」湯川「原子力には’急がば回れ’が一番当てはまる。」湯川博士のアイディアを生かすという考えは当初から無くて、ただ湯川博士の署名お墨付きが必要だった。と藤川博士
科学者の去った後に、商社が参入してきた。三井・三菱・住友などなど。先頭をきったのは三菱商事だった。浮田が担当「戦後の財閥解体からその日暮らしになっていたところに、原子力ムードになってきた世の中を見て手を挙げた。」と島村に語った。もちろん三井物産も呼ばれた。商社を追いかけて建設会社・銀行が乗り遅れまいと追いかける。その経済界を牛耳っていたのが正力松太郎だった。1955年4月「原子力平和利用懇談会」が立ち上げられて、原子炉の日本初導入が決まった。
茨城県のARR1がそれで、日本のメーカー企業は多くがそこに出向した。日立・三菱・東芝などから3人程度の技術者が出た。1997年8月、運転開始。
しかし トラブルが続出した。日本の湿気の多い気候に合わずに、アメリカと連絡を取りながら補修していった。電話線を代用したり、日立の神原さん「今じゃ規則が多くてあんなことはできないと思いますよ。」その神原さんの下で働いていた佐藤さんも「良くこんな状態のままでやったなと思いますよ。」、佐藤さんは地下水の漏れがあったときに、地元の消防署の手押しポンプを借りて持ってきて排水したという。実際に扱ってみると原子炉は予想以上に扱い難いものであることがわかった。
そんな現場をよそに、ビジネス界は沸いた。三菱は研究炉など次々と原子炉導入の担い手となる。浮田さんの奥さん久子さんは、夫の禮彦さんの話してくれることを聞きながら 危険なものを扱いながら取引きが進む話に「怖い」と思ったという。
研究炉を導入させた正力大臣は、次に商用の原子炉へと進める。
1956年10月コールダーホール原発が英国で稼動開始。正力はコールダーホール型を導入することにする。通商産業省では、安いといわれる原発が実は火力発電所よりも高くつくことが試算されていた。伊原義徳さん「当時の石炭の値段がイギリスでは安かった。」、伊原さんたち官僚はあえて原発を購入する必要は無いとしていた。さらに取り出されたプルトニウムは、イギリス政府が核兵器の材料として購入していることがわかり、代金も上乗せされていることが官僚のチェックで明らかになる。その話を正力大臣に持っていくと「役人は黙っておれ!」と一括されて終った。
もうひとつ、グラファイトブロックを積み上げただけで、地震が起きれば崩れ、炉心溶融を起こす可能性がコールダーホール型原発にあることがわかった。地震国日本と地震の無い国英国では、その危険性が大きく異なる。官僚により、すぐに研究者が集められたが、ジックリ研究するより、早く結論を出すことを求められた。
「安全第一では無くて’進め進め’だった。」と伊原さん。
1966年7月、3年がかりで改良を加えたコールダーホール型は、東海村に設置された。しかし当初からトラブルが続き、その保守に毎年1億円から3億円が必要だった。東海の1号はコストに見合わなくなり、その後はコストが重視されるようになった。
元東電副社長の豊田さんと通産省の島村さんの会談がテープに残っている。この島村研究会に参加していた豊田さんは「日本のメーカーは当時頼りにならなかった。」東京電力は自前の原子力発電を目指した時期があった。国は1961年「原子力長期計画」をたてて、本格的な普及を目指した。慎重な電力会社と、積極的な国。その狭間にあって、アメリカで新たな原子炉が開発されたというニュースが飛び込む。
ゼネラル・エレクトリック社が開発した軽水炉型だ。日本からは各電力会社がサンフランシスコに集まって視察した。
契約方法は「ターン・キー契約」、設置から稼動まで全てメーカーが引き受けるというもの。スペインで建設する予定の設計と全く同じ設計であれば、安い値段で購入できることになり、東電はGE社と、この契約を結び導入する。豊田正敏さんもその場に居たひとりだった。
1967年1月、福島第一原発の建設開始。軽水炉型のマーク1だ。島村原子力政策研究会では当時のことが語られている。「有力な筋から軽水炉はキレという話があった。」その理由は使用済核燃料を使用した重水炉・高速炉などを造るほうに方針転換したのだった。
電力会社と政府の綱引き、科学技術庁と通産省の綱引き、ゆがんだ形で進んだ原子炉政策だった。
GEの冷却用の海水をくみ上げるポンプ能力が、10mの高さが限界であった。福島の建設予定地は標高30mの高台にあり、難題となった。そこで、福島第一では、地中深く掘り起こし標高10mの高さに削った。ターン・キー契約は、パッケージ契約のため、設計の変更が困難だった。こういった落とし穴があった。今回の事故で重大な問題点であるタービン建屋の設計も見直すことなく、非常用電源は設計図通りにつくり海岸近くに設置することになった。その後、非常用電源は事故まで見直されることは無かった。
日本への早期導入を国策として進めた政府と財界。意見が通ることのなかった科学者。ターン・キー契約で手出しが全くできないメーカー技術者。島村原子力政策委員会のテープ「輸入技術だから日本のメーカーも自信がない。基本が解明されていないままに流れて、それを言い出すと’何を今更言っているんだ’になる。」