いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

5月22日 日々の聖言

2016年05月27日 | 日々の聖言

「神よ、あなたはわたしの愚かなことを知っておられます。

わたしのもろもろのとがはあなたに隠れることはありません。」詩篇69:5

 

 神様は私達の全てを知り尽くされた方です。何一つ隠すことができません。これはまた安心

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5月21日 日々の聖言

2016年05月21日 | 日々の聖言

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」ローマ8:6

 

 「肉の思い」とは生まれながらの性質、自我性であって、神様やイエス様のことを考えない、

認めない生き方です。その結果、不満や不平、高慢や劣等感、不安と苛立ちなど、喜びも望

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5月20日 日々の聖言

2016年05月21日 | 日々の聖言

「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。

わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」イザヤ45:22

 

 自分を低くしなければ神様を「仰ぐ」ことはできません。案外、高い所から神様を見下して

いるのではないでしょうか。自分で何か出来ると思い上がっているかぎり、神様は手を出さ

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5月19日 日々の聖言

2016年05月21日 | 日々の聖言

「…、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」第一コリント12:3

 

人の知恵・知識でイエス様の事を説明したり、研究したりすることはできますが、今も

共に居て救いを与えてくださる主であると告白する信仰を持つことは出来ません。イ

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聖書からのメッセージ(560)「約束のものを得る」

2016年05月21日 | 聖書からのメッセージ

 ヨシュア記」14章6節から12節までを朗読。

 

 12節「それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキびとがいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」。

 

 ヨシュアとカレブという二人の名前は切っても切れない関係があります。8節には「共に上って行った兄弟たちは、民の心をくじいてしまいました」と語られていますが、これは何のことかと申しますと、イスラエルの人々がエジプトから救い出されて、カナンの地を目指して荒野の旅路をたどってまいりました。神様が「与える」と約束してくださったカナンの地が目前というカデシ・バルネアという所まで来ました。後はヨルダン川を越えればカナンの地です。そこは乳と蜜の流れる実り豊かな恵まれた所であると、大いなる期待を持って来たのです。ところが、そのとき、神様は一つの試みをなさいました。モーセに対して12部族の中から一人ずつ代表を選んで、「これから入って行こうとするカナンの地を探ってきなさい。そこにどういう人たちが住んでいるのか、どういう地形なのか、いろいろなことを調べてきなさい」と、遣わしました。12人の人たちはカナンの地へ忍び込みまして、40日間にわたってあちらの町、こちらの町をつぶさに調べました。そして戻って来ました。そのときの記事を読んでおきたいと思います。

 

 「民数記」13章25節から28節までを朗読。

 

 12人の探って来た者たちは、その情報をモーセに報告をします。そのとき民衆の前で報告をいたしました。そこは“乳と蜜”の流れるような素晴らしい所である。しかもそこで得た果物を彼らは携えてきて見せてくれたのです。「こんなに素晴らしい果物が豊かに実る所だ」と。この知らせに多くの人々が喜びました。エジプト時代は奴隷の生活を強いられていましたから、「これからは、もっと豊かな余裕のある生活ができる」と、楽しみが湧いてまいります。しかしそこには大きな問題があったのです。28節に「その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく」と、いうならば、カナンの地には既に様々な民がそこに群雄割拠していたのです。それぞれが町を造り城塞(じょうさい)を築き、軍隊を装備して、外敵には必ず打ち勝つような力強い民がおりました。その後に「わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました」とあります。アナクびとというのは、格別強健な民、いわゆる背も高く体格も人並み外れて優れた民族であったようであります。ですから「彼らを相手にして自分たちが戦うわけにはいかない。彼らと戦いになれば一たまりもなくやられてしまう」。これはイスラエルの民にとって、非常に残念な話です。せっかくここまで希望を持ってやって来たのに、まさか、こんな所で討ち死にするような事態とは想像もしなかった。彼らはそこで失望落胆したのです。

 

 14章1節には「そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした」とあります。彼らは立つ力もなくなった。これから出掛けて行く気力も失ってしまった。14章のその後にも「もうエジプトに帰った方がいい」と、3節の終わりに「エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」と、そして4節に「彼らは互に言った、『わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう』」と。モーセもアロンもいらない、「自分たちは別の指導者を立ててエジプトに帰ろう」と言うのです。5節に「そこで、モーセとアロンはイスラエルの人々の全会衆の前でひれふした」とあります。6節以下に「このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、 7 イスラエルの人々の全会衆に言った、『わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です』」とあります。このとき、ヨシュアとカレブは派遣された12人のうちの二人でありましたので、自分たちも見てきたのです。しかし、彼らは信仰に立って、「確かに、そこは約束の通りに非常に良い場所である」。だから、8節「もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう」と。神様が許してくだされば、必ずそのとおりになる。私たちのものになるのだ。だから9節に「主にそむいてはなりません」と。自分たちの計画でここまで来たわけではありません。神様が約束してくださって「あのエジプトの過酷な生活から救い出してカナンの地にお前たちを入れてあげよう」と、引き出してくださったのです。そして「そのカナンの地をあげる」と言われるのは、人が約束したのではなくて、神様の約束です。神様の約束を真実なものとして信じるのかどうか。その信仰がここで試されているのです。見えるところ、聞くおとずれは失望するようなものばかり、思いも掛けない悪い事態が待ち受けているように思われますが、しかし、ここまで導かれたのも神様、これからも「その地をお前にやる」と約束してくださったのも神様です。だから、ヨシュアとカレブは、神様が約束してくださったのに、それを疑う、そのことを無視してしまうのは神様に背くことだ。それだけは決してしてはならないと、二人は民を説得します。9節に「ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます」と。神様が「よし」とおっしゃるならば、必ず、それを取り除いてくださる。9節の終わりに「主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」と。ここです。神様の約束を信じる者に、神様は「いつでも共にいてくださる」。このことを信じるのです。「神様の御言葉を信じる」と、私たちは繰りかえし言いますが、それは御言葉を信じる者と神様が共にいてくださるからです。言葉だけではないのです。神様のお言葉を真実に守ろう、信じようとする人と神様は共にいてくださって、その御言葉を具体的な生活、事柄の中で神様は具体化してくださるのです。だから、御言葉を信じることが大きな力なのです。だから「主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」と民を励ましました。ところが、会衆は聞く耳を持たず、「会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした」と10節にあります。

 

 とうとう神様はイスラエルの民に怒りを発して、「この民をカナンの地に入れない」とお怒りになられたのです。ところが、それに対してモーセは神様の前に執り成して「どうぞ、この民を憐れんでください。あなたが導いてきた民ではありませんか」と、神様に求め、執り成しをしました。そのために神様は御思いを変えて、彼らをカナンの地に導きいれるけれども、「更に40年間荒野の旅路をたどりなさい」と。今すぐに入るわけにはいかないと、とどめられました。そのため、更に40年間、彼らは荒野の旅路を続けます。考えてみたら、エジプトからカナンまで、そんなに広大な土地ではないと思います。そんなところを40年間も長い間、旅をし続けるのです。その間に神様に背いた世代の大人たちは全部死に絶えてしまった、といわれています。そして、次の世代に代替わりをした40年後、神様はヨシュアをモーセの後継者として立ててくださって、カナンの地へと導き入れることになりました。

 

 このヨシュアとカレブは本当に信仰に立った勇者でありました。

 

「民数記」14章22,23節を朗読。

 

 神様は「このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった」と言われますが、エジプトの地を出てから、この時に至るまでの間も、イスラエルの民は何度となく神様の約束を信じようとせず、神様に背いたことがありました。それら全部のことを神様は覚えておられたのです。「この際彼らをカナンの地に入れない」と語っておられます。24節に「ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう」と。神様はカレブの心を知っていてくださった。「カレブは違った心をもって」と、他のイスラエルの民とは違っていた。だから「わたしは彼がわたしに完全に従ったゆえにカナンの地に彼のために土地を与える」と約束してくださった。この約束から40年間イスラエルの民は荒野の旅路をたどりました。そして、やがてカナンの地に入りました。

 

 「ヨシュア記」14章10節以下に「主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、11 今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます」。カレブは40年間荒野の旅をしました。そしてなお壮健といいますか、健康で元気に満ちていた。「四十五年の間」とありますが、40年間の荒野の旅路をたどった後、カナンの地に入りました。「カナンの地は約束の地、乳と蜜の流れる地だ」といわれています。ところが、行ってみたら、そこにカナンびとやエブスびとや様々な民族、アナクの子孫ももちろんですが、31もの王国がそこにあった。イスラエルの民がヨルダン川を渡って、まず出会ったエリコの城を攻略することから始まりまして、5年以上の歳月をかけてカナンの地を平定するといいますか、全部勝ち取って行くのです。

 

 考えてみたら「どうして、神様はそんなことをなさるのか? 」と思います。エジプトであんなに苦労したのだから、後はおんぶに抱っこ、天国のように働かなくても、苦労しなくてもいいように、万事万端整えてイスラエルの民を慰めてくれるかと思いきや、そうではないのです。カナンの地に引き入れて、次から次への戦いです。その戦いがヨシュア記に細かく記されています。原住民といいますか、住んでいる人たちを追い払って、皆殺しにしたり、そういう意味では非常に過酷であります。読んでいると、時に残酷なことが語られています。そこまでして、彼らはカナンの地を平定して行く。どうしてこんな目に会うのだろうかと思います。

それは、私たちの信仰生活そのものです。私たちは地上に命を与えられて、生活を営んでいますが、自分の力のないゆえに、また知恵のないために、いろいろな悩みに遭い、困難に遭います。思い掛けないつらいことにあって悲しんだり、失望落胆したり、いろいろなことに遭います。その結果、私たちは何とかそういうものがない安心立命を得たい。事のない静かな生活を望みます。というわけで、私を救ってくれるものは何かないかと? その結果、現世ご利益、この世で心配のない生活、思い煩わないでいい生活を送らせてあげようと、そういう宗教が数多く生まれてきました。ともすると、キリスト教もそういうものの一つではないか。イエス様を信じて救いにあずかったら、何の心配もない、悲しみもない、苦しみもない、つらいこともない、楽ちんの生活が待ち受けているに違いないと期待する方がおられますが、ところが、イエス様の救いにあずかっても一向に生活は変わらない。悩みも、悲しいことも、つらいこともあります。いったい、信仰をして何の役に立つのか? と、ともするとそういうことを考えます。しかし、神様は私たちをカナンの地、そういうところに置いていらっしゃるのです。私たちはイエス・キリストを信じることによって、神の民、神の子供として新しく造り替えられた者です。いうならば、エジプトの奴隷の生活から、カナンの地の生活に移してくださった。といって、カナンの地は奴隷ではないけれども戦いの連続であります。そこで戦うことを神様は願っておられる。なぜでしょうか? それは私たちがいろいろな問題や悩みや事件を通して、いよいよ神様を知る者となる。神様の力によって立つこと、言い換えると、神様と共に生きる者に変えられて行くのです。片時も神様から離れられないように私たちを造り替えてくださるためです。だから、悩みや事がない、心配がない生活は、理想的に思いますが、もし私たちの生活に悩みがなければ、悲しみがなければ、つらいことがなかったら、神様を忘れます。イエス様から離れてしまいます。ところが、今はいろいろな悩みがあり、夜も眠られないような事柄や事態がありますから、そこで絶え間なく祈らざるを得ない。御言葉にしっかりとしがみ付かなければ生きられない自分であると痛切に思います。そしてしっかりと主につながることを求めようとします。なぜならば、自分一人の力ではどうにもなりません。知恵もありません、だから、主にすがって……、すがること、これが私たちの大きな恵みなのです。生活の事情や事柄や問題がなくて、物事が全て順調、思いどおりに事が行くことが私たちの幸せではなくて、主が私と共にいてくださる、主の恵みを味わい、また主がここにおられましたと、感謝をもって主に触れる。これが私たちの幸せというものです。だから、私たちにとって事がないのは不幸なことです。だから、イエス様を信じて救いにあずかったから、何にも思い煩うことがなくなるかと思いきや、いや、むしろいろいろなものが、次々と問題が起こってきます。それは当然です。私たちはともすると、そういう悩みを避けて、悲しいことはできるだけ遠ざけて、何も事がない平坦な道を行きたいと思いやすい。しかし、神様はそうではない。むしろ、カナンの地へ入れて、次から次と様々な問題の中で、そこで神様を信じて従う道を選びとって行くことの喜び、神様が信頼する者に戦いの中から、問題の中から慰めを与え、力を与え、望みを与えてくださることを体験する。これは大きな喜びです。

 

私も今に至るまでいろいろなことを振り返ってみまして、事がないわけではない。次から次へといろいろな事があります。思いも掛けないことがあります。しかし、事があることは、確かに嫌なことに違いありません。また正直、嫌です。しかし、その中で祈って、御言葉を信じて、与えられたその目の前の問題の一つ一つに、力のない者でありますが、与えられた僅(わず)かな力をもって踏み出して行ったときに、神様が応えてくださった。「ここに主がおられたのだ」、「神様がこうやって支えてくださっておられる」と、そのことを知ったときの喜びは、問題があるとかないとかいう以上の喜びで、これは天の喜び、御霊による喜びです。これを味わうことがクリスチャン生活のだいご味です。だから、事を避けるのではなくて、そこで神様がどのように私を恵もうとしてくださるのか、神様の恵みを受ける幸いな時だと覚えておいてください。

 

イスラエルの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入って、31もの王様の地を次から次へと戦い抜いて行きますが、その一回一回の戦いは真剣勝負です。時には神様の御言葉から離れて大失敗をします。痛い思いをする。また逆に神様のお言葉を信じて、力はないけれどもそこで踏み出して行く。そうやってイスラエルの民の心を清めて、神様だけに思いと心が一つになるように、神様はカナンの地で彼らをはぐくみ、訓練し、清め、新しく造り替えておられるのです。神の民にふさわしい者にするために、このカナンの地での戦いというものが不可欠です。

 

私たちはイエス様の救いにあずかって、ヨルダン川を越えてカナンの地での生活です。しかし、私たちの生活の中にいろいろな問題がありますが、その中身をつぶさに振り返ってみますと、自分の肉の思いであったり、感情であったり、あるいは世の様々な人の思いや計画や利害や、そういう欲得が自分の中にあるのです。問題の中で、悩みの中で悔い改めて、自分の弱さや力のなさ、そうでありながら高慢であった自分を認めて、悔い改めて、神様と共にあることの喜びを体験して行く。これがクリスチャン生活のだいご味です。だから、事のないこと、あるいは、何も悩みのないことをと願いますが、そうであったなら、神様の恵みをわずかしか受けることができません。イスラエルの民はカナンの地に導き入れられて、そこで神様の恵みに出会うのです。

 

ですからこのときカレブは10節に「主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが」と、ヨシュアもほぼ同年だったと思います。40歳でカデシ・バルネアから探りに行ったのです。そして40年間の荒野の旅路、そしてヨルダン川を渡っての戦いの連続の5年間、45年の月日を彼らは過ごしてきた。しかし、11節に「今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます」。なかなか意気軒こうといいますか、意気盛んです。85歳になっても40代と同じ体力、気力、何一つ欠けていないと彼は自負しています。だから、12節に「それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください」。「あの日語られた」と、先ほどお読みいたしました民数記に語られていますが、「カレブは他の人と違った心をもっていたから、わたしは彼をカナンの地に引き入れて、彼が歩んでいるその土地を彼とその子孫とに与える」と、神様は約束してくださったのです。カレブはその約束を45年間忘れないで覚えていたのです。そして民がいよいよ31の王様を平定して、その土地を12部族に分割していくのです。ユダやベニヤミン、マナセと各部族に分割しました。そうやって12部族がそれぞれに領有する土地を得ました。もっともレビ族だけは何一つ嗣業を得なかった、と語られています。目に見える財産や土地というのは与えられなかった。なぜならば、レビ族は神様に仕える民なのです。神様の養いの中に置かれているから、「そういう物を持たなくてもよろしい」というのが、神様の御心だったのです。そうやって、全ての土地が分割されて、12部族の人々がそれぞれの土地に定住するようになりました。これで事が終ったと思いきや、カレブは忘れないのです。

 

ヨシュアの所にやって来まして、「モーセがかつてこう約束したじゃないか」と、「それで」と12節に「主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください」と、ここで彼が求めたのは「山地」です。広々とした大地を目の前にして、「さぁ、お前、好きな所を取れ」と言われたら、やはり見晴らしのいい所とか、平坦な所、できるだけ楽ができそうな所を選ぶに違いない。アブラムが自分の甥ロトと別れようとしたときに、高い山に登りまして、どの土地を取るかを決めました。そのときロトはソドムとゴモラの隅々までよく潤っていた平野を選びました。一方アブラムは山地を選ぶことになった(創世記13:8~)。もっとも、後になって、それが神様の祝福にあずかる道であったわけですが、このときもカレブは12節に「主があの日語られたこの山地を」と、険しい山地を求めました。いくら自分のものにしたって、どれほどの値打ちがあるのか分かりません。そこは明らかに苦しい所、困難を伴う所に違いない。しかし、それを彼はあえて求めたのです。なぜか? その後に「あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキびとがいて、その町々は大きく堅固です」。カレブはちゃんとその自分が選んで行こうとしている土地が、どんなに困難を極める所であるかを知っていました。「アナキびとがいて、その町々は大きく堅固です」と。到底自分の力でそれを攻略するなんてできない。ましてや85歳です。だから、その後に「しかし」と、「主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」。これがカレブの信仰の真骨頂です。かつてカレブが「主にそむいてはなりません」と、「神様が約束したことなのだから、必ず神様がそれを成し遂げてくださるからヨルダン川を渡ろう」と言ったのです。今も彼の信仰は変わらない。神様が「お前に与える」と約束したこの山地は、確かに険しい山地であり、困難があり、悩みがあり、それを自分のものにするためには、あの堅固なアナキびとの町を滅ぼさなければならない。でも、自分にはそれはできないけれども、「主がわたしと共におられて」、神様がわたしと共にいてくださって「主が言われたように」とあります。神様が与えると約束してくださったのだから、たとえどんな困難が見えていても、神様が与えてくださるのだから大丈夫ですと。私たちが立つ信仰はここです。つい私たちは目に見えるところで、楽な道を、事のない道、何もかも万事万端整って不足のない道を行こうとします。しかし、そうであるかぎり、神様に触れることができません。むしろ、自分ではできない、私には到底無理だ、という事態や事柄の中でこそ、もう一度主に信頼する。神様の力、「神様が私と共にいてくださる。だから、できないことはありません」と、そこに私たちが立つのです。そのために、繰り返してカレブが言っていることは、「主が言われたように」と、これは神様がこのことを「良し」としてくださるとの確信です。この道を歩むことを神様が求めておられる、と信じたからです。自分の肉の思いや人の言葉に誘われたのではなくて、「これは主から出たことですから」と、これを確信して立つことが何よりも大切なことです。

 

先の木曜会でも教えられましたように「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」(ルカ 5:4 )。「沖へこぎ出せ」と主がおっしゃったその約束のお言葉を信じるのです。主がそう言われたのだからと、自分はできない、いろいろな条件を考え、また周囲を見、また人のいろいろなアドバイスを聞く。聞くけれども、しかし、主は「行け」とおっしゃる。「網をおろせ」とおっしゃるならば、その事を信じることが大切です。だから、私たちがいろいろな悩みに遭い、困難に遭い、「どうしようか。こんな年になって、こんなものは嫌だ。私は御免こうむりたい」と避けようとしますが、もう一度そこで静まって、神様が何とおっしゃるか? これは主から出たことなのかどうなのか? これは神様が私に求められることであるならば、たとえ、自分にはそれに対応する力がなく、知恵もなくても、「主が、私と共におられますから信じます」と踏み出して行こうではありませんか。

 

カレブはまさにここでそうやったのです。12節に「それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください」。堅固な山、そこにはアナキびとがおり、難攻不落の町がある。「しかし、主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう」。彼らを撃ち破るのは神様の御心である。神様がそれを許してくださって、共にいて、このことを全うしてくださるから信じますと、彼はそこで信仰に立つのです。

 

そのために祈ることが大切です。はっきりと「主が共におられます」と、主がこのことを「せよ」とおっしゃる、「負え」とおっしゃる重荷があるならば、私たちは喜んで、たとえ自分に力があるなしに関わらず、主の御心を信じて立つのです。そうしますと、その事柄がどうこうというよりも、信仰に立って歩む私たちの魂の内に「主がここにいます」という、主と共にある喜び、臨在と共に生きる喜び、恵みを深く味わい知ることができるのです。ですから「雅歌」にも「北風よ、起れ、南風よ、きたれ。わが園を吹いて、そのかおりを広く散らせ」(4:16)とあります。北風でも南風でも私のところに吹いて来い。私はそこでキリストの香りを放つ者となっていく。次々と悩みが来る、心配が押し寄せてくる、悲しいことが来る。つい「ああ、またか。もう御免こうむりたい、どこかへ行ってくれよ」と。「私は疫病神に付かれたのじゃないかしら」と、そのくらいに思ったりしますが、そうではなくて、神様はそこで戦い取るように、カレブのように「山地をわたしに与えよ」と、大胆に主を信じて踏み出して行きたいと思う。誰かが賛成してくれたから、あの人が後押ししてくれたからできたと。そうではなくて、主が後ろ盾となって、神様が押し出してくださるのであれば、恐れないではっきりと信仰に立って、このことを神様が導かれると、信じて踏み出して行きたい、一歩を。

 

このカレブのように「主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください」と、私にこの悩みを、困難を、苦しみを、どんなことでも、主よ、御心をなしてくださいと、主の御声を求めて行きたい。そして堅く御言葉に立って主の勝利を味わう者となりましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。