いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(421)「神様の二択問題」

2014年12月23日 | 聖書からのメッセージ
 「申命記」30章15節から20節までを朗読。

 15節「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた」。

 「申命記」はモーセがいよいよこの地上の生涯を終わろうとする時にイスラエルの民に語り残したメッセージ、神様からの御心を説き明かしたものであります。イスラエルの民がエジプトで長い間、四百数十年ですか、奴隷の苦しみの中にありました。神様はイスラエルの祈りに応えて指導者モーセを起こして、そこから救い出してくださいました。そして、カナンの地へ連れ帰るという約束を実行に移してくださったのです。モーセが生まれた時、全ての男の赤ちゃんは殺されるという、非常に苛酷(かこく)な時代でした。両親は思い余ってモーセをナイル川に流しました。そして拾われた先がパロ王様、その当時のエジプトの王様の娘に拾われたわけです。そして王宮で育てられました。ところが、成人しましてやがて自分の出生といいますか、自分の民族がヘブル人であることを知ったのです。しかし、恵まれた宮殿の生活よりも、やはり神の民として自分が生まれた民族と共に生きようと決断をして王宮を去って行きます。彼はその時に何とか同胞の苦しみを和らげるといいますか、救ってやりたいという熱心な思いから、エジプト人の監督者を殺してしまうことになりました。これでイスラエルの人々がきっと喜んでくれると思ったのですが、とんでもないことになってしまった。それで、とうとう彼は逃げ出してしまいます。いうならば、自分の力で何とかこの窮状、苦しみにあるイスラエルの民を救ってやろうと、善い志ではあります。しかし、いかんせん力がありませんから、とうとう失敗をする。そして、ミデヤンの地に身を潜めて、自分はこれでおしまいだ、という気持ちでおったかもしれません。ミデヤンの地で結婚しまして、40年近く妻の父の羊を養う羊飼いになったのであります。80歳近くになったとき、モーセはある日ホレブの山で羊を飼っている時、燃えるしばに出会います。何事かと思って近づいたとき、燃えるしばの中から「あなたの足からくつを脱ぎなさい」と神様の御声が聞こえて、「あなたの立っている場所は聖なる地だからである」と言われ、そこで神様はモーセをイスラエルの民を救う指導者に立ててくださったのです。でも、モーセは既に自分が一度失敗した苦い経験がありますから「到底、自分はそんな器ではない。自分はできない」とかたくなに拒みました。しかし、神様は頑として心を曲げずに、とうとうモーセを説得されました。それから後、モーセが指導者としてイスラエルの民を導いてカナンの地へと向かったのです。そして、間もなくヨルダン川を渡るとカナンという所まで来たとき、イスラエルの民は神様に背いてしまいました。そのために更に40年という長きにわたって荒野の旅路をたどったのです。

考えてみると、モーセの生涯は大変苦労の多い人生であったと思います。そのままミデヤンの地で家族と一緒に、小さな生活であったとしても平穏無事に生涯を終えることができたのでしょう。けれども突然降って湧(わ)いたような大役を仰せつかって、40年間、80歳から120歳くらいまで次から次へと大変な悩みの中を通って行きます。しかし、彼に力があったわけではなくて、神様がモーセという人を用いて働いてくださったのです。そこに神様のわざが積み重ねられてきたのです。モーセ一人の苦労、モーセが頑張ったからというわけでは、もちろんありません。やがて40年ほどの月日がたっていよいよイスラエルの民がカナンへ入ろうという時になって、神様はモーセを「もうお前はそれでよろしい」と、お役御免になります。「天に帰って来なさい」と命じられます。これも人間的に言うならば、実に気の毒です。一つの大事業がほぼ完成に近づいて、いよいよこれから……、という時に「もうお前はよろしい。引きなさい」と言われるのですから、考えてみたら悔しいだろうと思うと同時に、もう一つ思うことは、「これでモーセも重荷を取りのけられて本当に自由になれるのだな。お役御免、こんなにうれしい話はない」という意味では……。だから、どういう風にそれを受け止めるか。人間的に言うならば、彼に花道を作ってやって、少なくてもヨルダン川を渡ってカナンの地に入って、少しぐらいはそこを見て「ここか。分かった、分かった。こうなるのだな。それじゃ帰ろう」と、そういう人間的な報いを与えてやれればという気持ちもあります。しかし、また逆に言うと、いや、いずれにしても世を去るのですから、神様が「それでよろしい」とおっしゃったならば、主の御許に帰ること、これ程幸いなことはない。確かに地上にあって長らえ、カナンの地を見るのも幸いといえば幸いかもしれませんが、それはあくまでもほんの僅(わず)かでつかの間の事柄でしかありません。しかし、私たちにとって本当の幸いな生涯は、御国に帰らせていただいて、永遠のいのちの生涯、主と共にある所へ安息を得させていただくこと、これが私たちの最も願わしいこと、喜びでもあります。だから、私はモーセのことを思うとき、本当に善いのは神様の所へ帰ることです。「自分は全ての使命を果たし終えた」と、感謝することができる。神様が「せよ」とおっしゃることをここまではたすことができて、感謝して主に帰ることのほうが誠に幸いな生涯だろうと、今は思うのです。

 モーセがいよいよイスラエルの民から離れて主の御許に帰る前に、「申命記」という神様からイスラエルの民に対するメッセージを取り次いでいるのです。この「申命記」の1章から終わりでいろいろなことが書かれていますが、大切なポイントは一つだけです。それは「神様を信頼して、神様から離れてはいけない」、この一点だけです。繰り返しいろいろな言葉を使って語られていますが、言わんとしているところはこれだけです。これからカナンの地へ渡って行くだろうけれども、決して神様を忘れてはいけない。神様から離れてはいけない。神様の言いつけを守りなさい、と繰り返し、繰り返しモーセは語っているのです。

 今読みました少し前の30章11節から14節までを朗読。

 神様の戒めは常にあなたのそばにある、だからその戒めを守り行いさえすれば神様の祝福と恵みにあずかることができるということです。それは取りも直さず、エジプトの奴隷の生涯から救い出してくださった神様を恐れ尊び敬うことに他ならない。それに続けて15節に「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた」。ここで「命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた」と。そしてどちらかを選べとおっしゃいます。そのことがもう一度繰り返して19節に「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない」。「あなたは命を選ばなければならない」。「命とさいわい、死と災。さぁ、あなたはどちらを選ぶか? 」。では「命とさいわい」にあずかる道はどこにあるか、それが先ほど11節以下に言われている「戒めを守る。神様の御思いに従う」、これが「命とさいわい」。ですから、その後16節に「すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる」。「主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ること」、いうならば、神様と結び付いて行くこと、これが命に至る道、これが幸いな私たちの恵みである、といわれているのです。その後に「それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう」。そうやって神様を愛し、神様の戒めを守り、それに従って行くならばあなたがなす業はことごとく祝福にあずかることができる。ところが、17節以下に「しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう」。いうならば、神様を離れて他の神々、偶像、神ならぬものに従う。そうであるかぎりあなたがたは滅びる、命を失う。

これは今も変わることのない真理です。私たちにも日々の生活の中で常にこの二つの道が置かれていきます。命に至る道を行くのか、あるいは滅びに至る道を選ぶのか、常にあなたは命に至る道を選べと、神様は私たちに求めておられるのです。私たちの日々の生活、朝から夜に至るまで、365日地上の生活は常に選択と決断、あることを選んで、決断しなければならない。どちらを選ぶかが常に問われてきます。そのときに私たちが命を選び取る。これは私たちが神様の御声に従うこと、神様を尊び敬うこと、これに尽きるのです。いま私たちにとって、このことが命に至る道です。モーセはイスラエルの民に「神様の戒めを守れ」と命じました。いうならば、律法に従うことです。では、いま私たちはそれをどう具体化するか?私たちは神様の律法に従う、いわゆる旧約聖書に書かれた、かつてユダヤ人たちが後生大事に守っていたのと同じようにするのか? というと、そうではありません。私たちが神様を愛し、その道に従い、その戒めを守って行く。いうならば、律法を守り行うことは、書かれた一つ一つの条文としての「何々をすべし」「何々をすべからず」「何々をしなさい。そうすればこうなる、ああなる。そうでなかったらこうなる」というような、そういう戒め、法律の書物のように、箇条書きのそういう条項に従って、私たちが生きるわけではありません。かつて、イスラエルの民はこの旧約聖書に語られている律法の書を逐一言葉どおりに守ろうとしてきました。しかし、それは不可能だった。ところが、神様は「命の道を行け」とおっしゃる。そこで、モーセは命に至る道は戒めを守ることだ、と命じました。では、いま私たちはどうするのか? ということになります。そのことが「ローマ人への手紙」にあります。

「ローマ人への手紙」8章1節から4節までを朗読。

いま申し上げましたように、モーセがイスラエルの民に「命とさいわいに生きる道は、神の戒めを守ることである」。いうならば「律法を守り行いなさい」という神のお命じになったことを取り次ぎました。それに従ってイスラエルの民はかつて、旧約時代はその律法を忠実に守ろうとして大変苦労し、努力をしました。ところが、到底神様の前に義とされることができない。その結果神様はご自分のひとり子イエス様をこの世に遣わしてくださった。ですから、1節に「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」とあります。このイエス・キリストを救い主と信じていくとき、その人は罪を赦され清められた者となることができる。キリストによって神の義を着る者と変えていただく。2節に「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」。今度は新しい戒め、新しい約束としてのイエス・キリストの御霊の法則が私たちに当てはめられていく。「罪と死の法則から解放される」、いうならば、律法の下にある……、私たちが到底守り行うことのできない、神様の標準に達し得ない自分たち、その律法を乗り越えて、私たちを完成した者としてくださる御霊の法則の中でいま私たちは生きることができる。生かされている。いうならば、いのちに至る道、かつては、律法に従う道でありましたが、今は命に至る道とは、御霊の法則、いうならば、御霊の導き、聖霊の御声に従うことが律法を完成することです。その後4節に「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」。これは何のことを言っているかというと、私たちが神の御霊、聖霊の導きに従って行くならば、肉にあって生きていながらでも既に律法をことごとく守った者と見なしていただける。こんな素晴らしい恵みなのです。私たちが一つ一つ律法を当てはめられたならば、どこ一つ取って合格できません。全部「これも駄目」「あれも駄目」「どれもできていない」と非難される、告発されるばかりの者であります。しかし、イエス・キリストが十字架にご自分の命を捨てて私たちの罪を清め、そして、その死を打ち破ってよみがえってくださった主が、今度は神の御霊となって私たちと共にいてくださる。御霊なる神に私たちがしっかりと結び付いて行くとき、律法の完成者としてイエス様が律法を完全に守ったと同じいのちの生涯、恵みの中に私たちを置いてくださる。これが4節の「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」ということです。自分の肉にある力、生まれながらの自分の自我性といいますか、情欲とか、そういう力によって律法を守ろうとしたって、これは守られません。しかし、私どもがイエス・キリストの霊に従う。キリストの霊と一つとなって行くとき、私たちは律法の完成者とみなされ、神様は私どもを義なる者として受け入れてくださる。ここにいのちに生きる道がある。

ですから、5節に「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである」とあります。6節には「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」とも言われます。ここに「肉と霊」という二つの道が語られています。6節に「肉の思いは死である」。それに対して「霊の思いは、いのちと平安とである」。先ほどの申命記で語られた「命とさいわい」とはまさに「霊のことを思う」「霊に従う」ということに尽きるのです。神様の御霊に従って行くとき、私たちは「命とさいわい」を得ることができる。ところが、様々な偶像、他の神々に付き従って、神様を忘れる。それは肉に生きること。肉に生きるとは、神様抜きの生活をすることです。神様のことを考えない、思いもしない。自分の心の隅から隅まで「自分」「私が」という、「己(おのれ)」という思いが隙間(すきま)なく支配する生き方。これが肉にあって生きることです。そうであるかぎりそこは「死である」と。6節に「肉の思いは死である」。またその先の7節に「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである」。神様に敵対していく思い、神様を拒む思い。これが「肉につける思い」です。その先に「すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」。肉にあるかぎり私たちは律法を守り行うことができない。既にそれは破綻(はたん)しているわけで、肉によって律法を行おうとすることは不可能、それは完成することはできなかったのです。だから、イエス様が律法の完成者となってくださる。私たちがいま御霊に従って生きるとき律法を行った者となり得るのです。だから、7節以下に「それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない」と。自分の力を誇りとし自分の力を頼みとし、自分の知恵と自分の考えが全てだ、と思っているかぎり、神様の喜ばれることはできません。ところが、9節に「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである」と。しかし、肉を脱ぎ捨てて、命の源である霊に全く従うには、私たちが肉体をもって生きている弱さがあり、生まれながらの肉性がどうしても消えません。肉なるものが常に私たちと共にあります。「こんな中途半端でいって良いのだろうか」と思われるかもしれませんが、ここに素晴らしい約束があるのです。「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら」と、たとえ肉体をもって生きているとしても、神の御霊があなたの中に宿っているのだったら、それは霊におる人ですよと。うれしいですね。私たちは霊におる人間になるために肉を脱ぎ捨てて、透明人間にでもなって霊にすっぽりと覆われるのかというと、ここに「そうではない」と。今肉体をもってこの世に肉の力に取り囲まれて生きているようではあるけれども、あなたの中に神の御霊が宿っているのだったら、その人は霊におるのであるよと。だから、いまイエス・キリストがよみがえって私たちの内に宿ってくださる。私たちを神の住まいとして、神の宮として。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」と「コリント人への第一の手紙」に語られています(6:19)。実は私たちの内に神の御霊が宿ってくださっているのです。

どうやってそれを知ることができるか?何か外側から「あなたには入っているよ」と、見えるものではありません。どうするか? 信じるのです。「いま私の内にもイエス様の霊が宿ってくださっています」と信じるのです。そして、信じるならば、内に宿っている御霊に絶えず問いかける。御霊の御声、内側から語ってくださる御霊の御声に聞くことです。御霊に問い掛け、御霊の御声を求めて、心を静めて耳を傾けていきますならば、必ず神様は語ってくださる。これは皆さんもご経験のとおりであります。時に御霊が語ってくださるのですが、内にいらっしゃることを忘れて、肉によって生きようとする。自分の考えや、自分の計画や、人の思いやこの世の仕来たりや習慣、神なきこの世界の生き方、その考え方に自分がどっぷりと浸ってしまうと、御霊は消えていきます。しかし、だからといって私たちを見捨てているわけではなくて、いつでもそこで悔い改めて、主を求めていくとき、主との霊にある交わりを復活していただける。だから、「御霊を消してはいけない」(1テサロニケ 5:19)と警告されています。私たちは内住の主、神の御霊が内に宿ってくださっておられることを常に自覚していく。意識していなければ駄目です。「今も私の内には神様の霊が宿っていてくださるのだから、『神様、このことはどうしたらいいのでしょうか』『神様、ここはどうすべきなのでしょうか』『私は何と言えばいいんでしょうか』」と常に主との交わりを持ち続ける。そうしますと心に神様は具体的に応えてくださる。いろいろな問題に悩んで、自分の考えがまとまらない、どうしたらいいか分からない。そういうとき祈ってご覧なさい。そうすると、御霊が内側から「これは道なり、これを行くべし」と、今まで自分でも考えなかった知恵を神様が与えてくださる。「なるほど、これは神様が私にいま教えてくださったことだ」と、そこではっきり確信し、告白する。「主よ、分かりました。これはあなたが求められること、これは神様、あなたが私に語ってくださったことですから従います」と、神様に従う道を選び取る。これが「命とさいわい」の道です。そのために私たちはいつも御言葉にしっかりと根差す。御霊が語ってくださること、導いてくださる具体的な方法、手段は、千差万別、私たちの想像を超えたことです。

民数記を読みますと、バラクという預言者はバラムという王様から「イスラエルを呪え」と言われて、贈り物をもらおうと思って出かけた時に、彼の乗っていたロバが崖っぷちに彼の足をすりつけたという記事があります。怒ってバラクがむちでたたいたところ、ろばが「ご主人様、ご主人様、何ということをするんですか」と、声が聞こえた。パッと目の前を見たら神の使いが抜き身のつるぎを持って立っていたという(民数記22章)。ろばの口を通してでも神様はお語りになるのです。お孫さんの口で語っておられるかもしれません。だから、主が何と語っておられるか、いま御霊は私に何を語ろうとしているのかと、心を静めていると、小さな事ですらも主は語ってくださるのです。

アウグティヌスという神学者といいますか、伝道者がいます。古い時代の人ですが、彼は若いときからクリスチャンの家庭に育って非常に信仰深いモニカというお母さんに育てられたのです。ところが青年時代大変放らつな、放とうに身を持ちくずして、親を泣かせるようなことをしておったのです。ところが、あるとき彼は遊びにも飽きて「生きているのも嫌やな」と思いながら町をフラフラしていたときに、子供が遊ぶ歌を聞きます。子供たちの歌が「取って読め、取って読め」と聞こえたというのです。そのとき瞬時にアウグティヌスが「何を読むのだろうか、そうだ。もう一度聖書を読まなければ」と、そこで彼は一瞬にして神様の所へ悔い改めて帰って行くのです。これは逸話でありますから本当かどうかは知りませんが、そういう何の気もない小さな事の中にも神様がすぐそばに近づいてくださる。語ってくださる。心をいつも主に向けていく。恐らくアウグティヌスは子供のときから信仰深い親に育てられてきましたから、心の奥には神様を求める思いが埋もれ火のようにあったのでしょう。それがある瞬間ひらめくといいますか、神様が扉を開いてくださる。それから後の彼の生涯は一変してしまいます。そしてキリスト教界の大きな方向付けをする人物になったのです。

神様は「命に至る道、さいわいに至る道がここにあるよ」といろいろなことを通して語ってくださるのです。ところが、私たちは肉に生きようとするためにそれを拒んでしまう。自分の思いや、人を思う思いなど、そういうことで神様から心が離れて行く。

「申命記」30章14節に、「この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる」。神様の御思いは私たちの心のそばにある。いま私たちが聞いているその中に神様の御思いがあるというのです。だから、私たちは常に「命とさいわい」また「死と災い」との二つの道、いうならば、霊に生きる道と肉による道の二つが絶えず置かれているのです。どんなときにもそこで主の導きを信じて、主に従う道を選び取って行きたい。御霊が語ってくださる道へ歩んで行きたいと思うのです。それがたとえ自分にとって都合の悪いことであろうと、それが私にとって損をする道であろうと、御霊がいまこのことを求めておられる、と自らが、私たち一人一人がしっかりと確信を持って立つことが大切です。「これは主から出たことです。人がかれこれ言うわけにはいきません」とはっきり確信を持って立っていく。そのとき、私たちは「命とさいわい」にあずかることができる。

いろいろな日々の生活の中で思いがけない出来事や事が起こります。私は最近しみじみと思いますが、そういう事が起こったとき、つい平面上の事柄だけでそれを捉(とら)えます。「あの人がこれをして、その次こうなって、それでこんなことになってしまった。あのときああしておけばこれがこうなったはずだった。だが、こうなってしまって、ああなってしまって、あそこが間違っていた。ここがいけなかった。あの時こうだった」と、そういう平面上の前後左右の関係、人と人の人事、諸般といいますか、そういう枠組みの中だけで物事を考えようとする。そこは肉の道、いわゆる肉によってしか立ち得ない。そこに神様はいらっしゃらない。もう一つ、平面と同時に垂直に私たちは上を見ることができる。神様を……、これは霊の思いです。霊の思いを与えられますと、物事が平面的に見て行き詰まりに思える、あるいはこれがああだからこうなって、こうなったから仕方がない。もうこれは諦(あきら)めるしかないと、そういう平面上のことから、今度は霊の思いに変わるときに、死から命に変わって行く。「そうだった。これは神様の大きなご計画の中にある。神様は私たちを限りない愛をもって愛してくださるその愛のゆえに今このことが起こって、私がここですべきことは主が私に与えられている課題、私に求められているところに従う他ありません」と言い得るとき、実は大きなもっと広やかな道に私たちは立たせていただくのです。そうでないかぎり袋小路です。もう出口のない密閉された世界に閉じ籠(こも)って滅びてしまう以外にない。「肉の思いは死である」と、そこにはもはや希望も望みも湧(わ)いてこない。ところが、目を高く上げて、もうひとつその上にいらっしゃる、垂直の関係で、神様を置いて受け止めるとき「これも神様の手の中にある」と認める。だから、讃美歌90番に「ここもかみのみくになれば」と歌います。「ここも」というのは、この悲惨な状況、あるいは望みのない悲しみの中にあるとき、ここも神の御国なのだ。神様のご支配がここにある、と認める。それは霊の思いです。御霊の思いに立ちかえらないと、そのことは言えません。私はいつもそこに立って感謝します。「そうだった。あなたがこのことをご存じで、今このことを導いておられる。先のことは何にも分からない私ですが、神様、今日何をすべきでしょうか? 次の一歩はどうしたものでしょうか? 」と主に聞く以外にない。また、そこで主に従う道を歩ませていただける喜びが湧いてきます。たとえ、事態や事柄が一向にかわり映えしなくても、そこで「今日も主がこのことをご存じで、私にさせてくださいました」と、主に従うことができた喜び、これを私たちが日々味わうこと。そこに命があり、幸があるからです。

15節に「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた」。つい目の前の事柄や問題を見ますと、つぶやきたくなる、嘆きたくなる。時には憤りが湧いてきます。また、いろいろなことで腹立たしい思いがして「あいつが」「こいつが」と、言い募(つの)って神様を忘れてしまう。そこには「死と災い」です。ところが、もう一度「命とさいわい」、主の御霊の法則に立ち返る。キリストの霊に思いを委ねて、主がここで何とおっしゃるか? 「このことも主の手の中にあります」と、そこで心を明け渡して「主に従います」と思いを定めるならば「命とさいわい」が得られます。

私たちは日々「肉と霊」、「命と死」、この二つの間でフラフラしているのです。どうぞ、私たちは命を選びましょう。19節の中ほどに「あなたは命を選ばなければならない」と。いろいろなことを通して命に生きる道を選び取って行きたいと思う。それを得させようとしてイエス様は、この地上に来てくださったのですから。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


最新の画像もっと見る