いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(564)「熱くあれ」

2016年07月11日 | 聖書からのメッセージ

ヨハネの黙示録」3章14節から20節までを朗読。

 

20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。

 

この黙示録2章・3章にかけて、神様は七つの教会に御使を遣わして、警告といいますか、励ましを与えておられるのであります。その中には大変称賛され、神様が感心なさって、「恵まれた教会である」と言われた所もあります。また、他には「あなた方は初めの愛から離れてしまって、いったい、どうしたのだ」と、言われている教会もあります。イエス様が父なる神様の御許に帰られた後、聖霊が弟子たちに注がれ、イエス様の福音が各地に伝えられるようになりました。その結果、地中海周辺、殊にアジヤ、今のトルコの辺りを中心にして各地に教会といいますか、クリスチャンが集う場所が出来たのです。教会はそれ以外にもちろんありましたが、代表的な教会としてこの七つの教会を取り上げて、それぞれの教会の良し悪しといいますか、改めるべきこと、また励ますべき事柄などを語っておられます。それは、昔の初代教会の人たちに語っただけでなく、実はいまイエス様の救いにあずかって生きる私たちの信仰生活、殊に魂の状態に付いて私たちが神様からの促(うなが)し、アドバイスといいますか、警告を受け止めるようにと語られたものです。ただ単にこの記事を「ラオデキヤにある教会、昔そこにあった教会に語られたので、今の私とは関係がない」という話にはなりません。実はラオデキヤの教会と同じような問題が私たちにもあります。いずれにしても、神様の願っていること、その教会に対する御思いが語られているのです。

 

15節には「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」と語られています。ラオデキヤの教会は神様に背いているとか、神様に向かって反抗しているというのではありません。教会生活を守り、信仰生活をそれなりにちゃんと守っている。神様を大切にしている点においては、何一つ不足はない。じゃ、なぜこのようなことを言われるか?確かに信仰をもって神様に仕えている教会ではあるが、しかし、その在り方、信仰の持ちようといいますか、それが「なまぬるい」というのです。

 

これは私たちもよく経験することであります。イエス様の救いにあずかって、信仰生活に導かれ、喜んで感激している時期は確かにあります。しかし、だんだんと年数が重なってくると、長い信仰生活は、実にマラソンのようなものであります。ですから、その間、熱心になったり、少し冷めてみたり、いろいろと変化します。これはやむを得ないといえばやむを得ないことです。しかし、神様からご覧になると、もどかしいといいますか、もっと熱心になってほしい、もっと切に神様を求めて、神様の恵みをもっと沢山受けてほしいと願っていらっしゃるのです。神様が私たちを求めてくださるのは、「お前たちをわたしの家来にして、しっかりと働いてもらうぞ」という意味ではありません。神様が私たちを求めてくださるのは、私たちをもっと恵みたいのです。恵もうとしているのです。神様は豊かなご愛と恵みと力といのちと、全てのものに満ちあふれるばかりに満たして、私たちをより一層輝いて生きる者としたい。これが神様の切なる願いであります。ところが、私たちはある程度おなかいっぱいといいますか、ある程度満ちてくると、「これでいいや」、「ここまで来たらもういい」と、ある意味では遠慮がちになるのです。神様の恵みを求めるのに、「結構、いま足りています」という方向に陥ってしまいやすい。これがラオデキヤの教会に言われていることであり、それはまた私たちに対してもそうであります。15節に「あなたは冷たくもなく、熱くもない」と。なるほど、「神様、もう結構です。私は自分でやりますから」と言って、神様を捨てて飛び出したわけではありません。冷たくなったわけではない。といって、朝から晩まで「イエス様」、「イエス様」と熱列に恋い焦がれるわけでもない。適当に距離を置きながら、付かず離れず、これは私たちがともすると陥りやすいことです。ですから、ここで「冷たくもなく、熱くもない」、ちょうど良い頃加減かといえる……。ところが、神様は「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」といわれる。「はっきりせよ!」ということです。

 

だから16節に「なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」と、「中途半端だから、返って嫌だ」いうことです。私は子供の頃、この箇所を読んで、「ちょっと、おかしいんやないか」と、「私はいつも冷め過ぎたら嫌だし、熱いのは飲めないし、何で神様は生温いのは吐き出すのだろうか? 」と思ったのです。それは確かに、私どもはお茶を飲むとき、熱いのは飲めませんから、少し冷やして飲みます。また、氷でギンギンに冷えた物は、頭が痛くなりますから、これもちょっと敬遠します。だから「冷たいか熱いかよりは、生温い方がいいな」と思いますが、信仰に関しては「それは駄目だ」と神様はおっしゃいます。「もっとはっきりとしなさい」ということです。それは神様が私たちをもっと恵み豊かに、いのちと力に満ちて生きる者となってほしいからに他なりません。しかし、私たちは自分の尺度といいますか、自分のレベルで考えて、「まぁ、このくらいになったからもういい」と腰を下ろす。イエス様の救いを求めて熱心に励んでいた時代を懐かしむようになる。「先生、私も若い頃は集会に欠かさず行ったものですよ。ああ、懐かしいな」と「じゃ、今はどうされている? 」、「今は月に一度来るか来ないかぐらいです」、「それで神様を忘れたのですか? 」、「いや、私は神様を忘れとりません。まだ神様をちゃんと信じておりますが、今は忙しいのです。時間が取れません」と、かつて自分が熱心であった時代が懐かしい過去になってしまう。このような私たちを、神様は嘆いて、悲しまれるのです。それは私たちがもっといのちに満ちあふれる者になってほしいと願うからです。

 

17節に「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが」と言われます。どうでしょうか?いつもそのように言っていませんか? 「先生、最近、お祈りすることもなくなりました」、「なぜ? 」、「何もかもお恵みで満ち足りて、心配事もなくなりましたから、もうしばらく教会にも……、暇なときに来させていただきたい」、そのようになってしまう。「自分は富んでいる。豊かになった」、「もう何の不自由もない、何か事があったらまたお邪魔します」。

 

医者に行くとき、大抵そうです。私は「お医者さんは気の毒だ」と思う。病気のときしか行きませんから。私はホームドクターに「済みません、また調子が悪くて来ました」と言ったら、「いや、いや、いいですよ。調子が悪いとき来ないと、他のときに来ても私は何の役にも立ちませんから」と。確かにそうです。元気なときに行っても、茶飲み話をして帰るわけにはいかない。忙しいですから、熱を出した人が待合室で待っているから、のんびり天候の話なんかしておられません。病気でもないのに医者に行く方はいますか? いない。用事がないと行かない。神様もそうだと思っている方がおられるのでは? 「用事がないと、お祈りする必要もない」と。そうではありません。なぜならば、私たちは神様から離れて何一つできない。

 

だから、イエス様はぶどうの木のたとえをもって、「あなた方は枝である」とおっしゃる。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)。だから、イエス様につながるのは常時、いつもです。「時折、用事のあるときだけつながって、後のときは離れときましょうか」と。そうしたらいのちは切れます。離れたらいのちがなくなるのです。だから、常にしっかりと幹なるイエス様にくっ付いておく。その意味においては熱くなければできません。生温くて、時々くっ付いたり離れたり、まるで切れかけた蛍光灯のような信仰では返って迷惑です。だから、神様は「冷たいか熱いか」、どちらかであったほしいと。しかも、17節に「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない」、実はこれがいちばん危ない。「私はお祈りすることもないし、神様はいてくれてもいいけれども、別に用事があるわけではなし……」と、そのようになってしまう。ところがそこにあるように、「実は、あなた自身がみじめな者」、案外と人は、自分の状態が見えないのです。自分は全て良いように見えます。どれもこれも、何をしても「私は完璧であり、出来ている」ように思います。だから周囲の人から、「あなた、ここが足りない。こういうことがなってない」と言われると、カチンとくる。なぜか? 「私は出来ている。私はやっているのに、何でそんなことを言われなければならない」と思っている。自分を見る目は、いつも自己本位ですから、決して客観的に外側から自分を眺めて見ることはできません。これは私たちが知っておかなければならないことです。ともすると、それを忘れて、自分が思っている自分の姿、それが誰にでも見えている自分だと思いますが、そうではない。だから、人様の意見は素直に、謙虚に聞かなければなりません。自分がどういう自分であるのか?

 

だから、ここに神様は「実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」と。私たちは自分が何一つ分からない者であることを悟らない。何もかも自分は知っているように、何でも自分のことは「私がいちばん知っている」と思いますが、決してそうではありません。家族や周囲の人から見ると、「あそこが出来ていない。ここも足らない」と見られながら、「でも、私は出来ている」と思う。そういうギャップ、違いが常にある。これを自覚しておかなければなりません。そして、18節に「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」と。「富む者」「あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、着る物をちゃんとまとう」「見えるようになるため、目にぬる目薬を買う」とありますが、これは私たちが自分の姿をきちんと判別する、理解することです。そのために、何がいちばん私たちの姿を教えてくれるかというと、これは聖書です。ここに「金を買い」「白い衣」「目にぬる目薬」と語られていますが、これはいろいろ調べればこの意味がいろいろ解説されていますが、分かりやすく言うと、聖書の言葉です。聖書のお言葉をしっかりと自分自身の心に当てはめる。また、それによって自分自身の在り方を整えていくこと、これが客観的に自分を評価するといいますか、知る、ただ一つの道です。

 

 だから、聖書は他人のことではありません。自分の姿がそこに語られています。また自分の歩むべき道筋、成るべき自分がどういうものであるのかも、聖書を通して私たちは知ることができます。聖書をお読みするようにお勧めしますが、それは、聖書を読まないと、自分がどういうふうに生きているか、自分の姿が見えないからです。

 

 船が大海原を渡って行きますが、周囲四方、全く陸地の見えない中で、自分が正しい方向へ向かっているか、自分の位置を確認するには、今ではGPS(全地球測位システム)衛星を使って、船の所在地がきちんと分かるシステムになっていますが、昔は海図という地図を広げて、天体観測をしながら自分の位置を知り、自分が目的地に向かっているのかどうか確かめたのです。私たちが人生の海原を正しく進み、目的地に行き着くために、またこの与えられた残り少ない人生をどのように目的地まで進んで行くか、歩んでいる道が真っすぐ正しく歩んでいるかどうかを何によって知ることができるか? 人に聞いて、「あなたは今のままで大丈夫だよ」と言ってくれる人がいたとしても、その人は正しい判断ができません。人であるかぎりできません。しかし、聖書のお言葉を読み解いていくとき、自分の今を教えられます。「私はこんな自分であるな」、「私のここが問題なんだな」、「この間からいろいろと悩んだけれども、その悩みの原因は私のこういう所に、こういう性格にある。こういう所が問題だ」と、聖書の言葉を通して知ることができます。だから、聖書を読むのです。ところが、案外と読みながら、人のことを考えるのです。「良いお言葉、これは息子に教えてやろう」と。

 

この間もそういう方がおられて、「先生、この間のお話、良いお話でした。あれを是非テープにコピーしてください」、「良かったですね。ぜひ、もう一度聞いてください」、「いや、私ではなくて、息子に聞かせようと思います」、「息子は聞くかどうか分かりませんよ」、「いや。必ず聞かせますから」と。「息子ではなくてあなたが恵まれたらそれでいいんです」。御言葉もそうですが、自分に神様が語っておられる。自分に神様がお言葉を通して教えてくださることがあるのです。決して人のためではありません。私どもはすぐ「これは良いお言葉だから、あの人にちょうどいい、この人に……」と人に振り分けますが、それは間違いです。そうではなくて自分に対して「本当にそういうところがあるな」と悟る。

 

いま読みましたこの記事でもそうですが、「あなたは冷たくもなく、熱くもない」といわれたら、「私だな」と思うでしょう。そうすると「かなり冷たいな」と思う。そのように自分では熱心で、自分では一生懸命に神様を求めているつもりでも、聖書のお言葉を読みますと「足らない所がある」、「いや、こんなにまで神様は私のことを思ってくださるのだ」と、いろいろなことを知ることができる。だから18節に「火で精錬された金」、あるいは「白い衣」「目にぬる目薬」といわれていますが、まさに聖書のお言葉によって常に対話して行くといいますか、神様のお言葉を自分に当てはめて、正しい理解といいますか、悟りといいますか、それを常に持ち続けて行く。そして19節に「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」と。神様は私たちを愛しているがゆえにこそ、「しかったり、懲らしめたりする」とあります。神様は愛しているがゆえに「何としても恵みたい」、「もっと神様の大きな力と愛を与えたい」と願っている。だから、いろいろな試練といわれるなかに置いてくださいます。いま読みましたように、神様は、私たちがみじめな者、裸であることに気付かせてくださるため、いろいろな試練を与えてくださる。そして、その試練を通して、私たちが熱く燃える者と変わり、「熱心に本当に神様を求めてほしい」と、これが神様が私たちに願っておられる試練です。

 

クリスチャンになったからといって、家内安全、無病息災、何の心配もないという人生にはなりません。神様は私たちを愛してくださるがゆえに、もっと熱心になって私たちを求めてくださる。人間の愛だってそうですが、愛する人とはできるだけいつも、身近に一緒におりたいと切なる願いが湧いてきます。神様はもっとそうです。ひとり子を賜うほどの掛け替えのない大きなご愛をもって私たちを愛してくださる御方は、もっと熱心に私たちを求めてくださる。だから様々な懲らしめといいますか、いろいろな問題や事態を置いてくださる。だから、問題や悩みに当たったとき、まずすべきことは、神様の呼び掛けを認めることです。神様が私に呼び掛けてくださる。

 

20節に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」といわれます。イエス様が外にあって私たちの心をノックしてくださる。扉をたたいてくださる。これが試練といわれる事、私たちが受ける患難や悩みや、あるいは悲しい出来事、そういう事柄を通してイエス様は私たちを求めて、扉をたたいてくださる御方です。問題に当たったとき、ただ目の前の事柄を早く解決しようとしますが、それは間違いです。それよりも何よりも、まず「私たちがイエス様に対してどういう態度であったか? 」、「どこに私はイエス様を置いているか? 」神様と、イエス様と私との関係をまずしっかりと整えること、これが試練に遭ったときの最善の道なのです。目の前の現象、事柄、受けている悲しいことや苦しいこと、「それを早く取り除いて楽になりたい」と思いますが、それよりも何よりも、実はそのことを起こしているのは神様です。そして神様はそのことを通して私たちに求めておられることがあり、願っておられることがあるのです。だから戸をたたいてくださる。だから、その後にありますように、「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」、戸を開ける、イエス様に向かって心を開く。「この問題、この悩み、この悲しい出来事の中に主がおられるのだ」と、私たちがしっかりと思いを主に向ける。そして、イエス様と自分とがどういう関係の中に置かれているか? これをしっかりと再構築するといいますか、きちんと整えることです。神様の前に壇を整えること、これが先決です。

 

イエス様が語っておられるたとえ話の中に放とう息子のたとえがあります。二人の息子がいて、弟のほうが親からもらう身代を分けてもらって、遠くの町へ飛び出して行く。持ち慣れない大金をもらって遊びほうけて使い果たしたところに、ちょうど悪いことに飢きんがあった。食べるにも窮して、彼は何とか豚を飼う仕事にありついたのだけれども、豚の食べる物でも食べたいほどにひもじい。実にみじめな哀れな存在、彼はその患難に当たったとき、悩みの中にあったときに、初めて気が付く。「そこで本心に立ち返って」(ルカ15:17)と語られています。「本心」、目が覚める。「そうだった、いったい自分がこういうみじめな哀れむべき状態に陥ったのはどこからであったか? なぜ、自分はこんな状態になったのか」と、つらつらと振り返ってみると、事の始まりは自分のわがまま、親の下から飛び出してきたことに他ならない。彼はそれに気付いたのです。そして「それじゃ、それを改めよう」と、彼はお父さんの所へ帰って、「むすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとりと同様にしてください」と、お父さんのもとへ帰らせていただきたいと願ったのです。問題のいちばんの解決はそこです。私たちが神様の前にどういう者として歩んでいるか、その歩みをもう一度整えること、きちんとすること、生温い者を熱く変えてしまうこと、冷たい者ではなくて熱い者となること。だからその息子は恥も外聞もありません。自分が全部悪かったのですから、それを認める。そして「お父さんの所へ帰ろう」と、「そこで立って、父のところへ出かけた」と語られています。私たちはどちらかというと、思うばかりです。考えるばかりですよ。「そうなると良いな」、「ああすると良いのだけれども……」と立ち上がらないから、いつまでも生温いのです。「そうだ。ここは神様の求めていらっしゃることがある」、「そうだ。私は悪かった。こうすべきだった」、「神様は私をこんなに愛してくださっておられる。これからは神様の前に正しい道を歩もう」と、自らが決断すること、これが目を覚ますことです。イエス様の声を聞いて戸を開くとはそこです。20節に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」と、神様はいろいろなときに戸をたたいてくださる。イエス様といつも一緒にいるのだったら、別段イエス様は戸をたたく必要はない。ところがイエス様との交わりが遠ざかってしまい、消えかかっている。何だかイエス様との関係に隙間風が通って、疎遠(そえん)になる。人ともそうですが、ちょっとしばらく顔を合わせなかったら、親しい人でも初めはぎこちなくなるでしょう。何だか距離感が出来ます。離れていると、イエス様との間に距離感が生まれてくる。そうならないために、「熱心になって悔い改めなさい」と19節に勧められています。だから、小さなこと、大きなことに関わらず、何か事があったとき、問題が起こってくるとき、遠慮しないで、もう一度主に帰ろうではありませんか。「ホセア書」6章にあるように、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、心の戸を開いて、イエス様に私たちの内に入っていただく。

 

20節の後半に、「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にする」と。イエス様との交わりが回復されて行くのです。食事を一緒にするのは、いちばん親しい関係です。同じ部屋にいてしゃべるだけではなくて、一緒に同じ物を食べる。食卓を共にすることは、いちばん深い交わりの一つの姿であります。イエス様と食を共にする。そこに信頼関係がなければ一緒に食事はできません。食事をするとき、刀や銃を持って食事はしません。一緒に食事をするとき、そういう武器は持たない。食事を共にするのは、お互い信頼し合わないと成り立たないでしょう。だから、イエス様は「わたしはその中にはいって彼と食を共にする」と。イエス様と密接な交わりを回復することです。イエス様を信頼するにも、「大丈夫、もうこのこともイエス様が知ってくださっているから」と、心から信頼することができる関係を築く。これが大切です。イエス様との関係、神様との関係が整いさえすれば、後の問題は神様のほうが全部解決してくださる。

 

私はいつもそう思います。いろいろなことで悩みの中に置かれるとき、「火事が起こっているから早く火を消さなければ」と、水を掛けることに忙しく、もちろん火災の場合はそうでしょうが、何か問題に当たると、そちらのほうに心がとられます。実はそのことを通して神様は「私と親しくなりたい」と、近づいてくださっておられる恵みの時なのです。そのときこそ、私たちは扉を開いて主を迎えるのです。ところが、その時が、実に限られている。

 

「雅歌」5章2節から8節までを朗読。

 

ここに一人の人がやすむ準備をして寝床に入っている。そこで2節に「わが愛する者が戸をたたいている」とあります。自分の愛する者が夜訪ねてきた。さぁ、その戸を開けてあげなければならない。外側から開ける取手がないのであります。内側から開けるしかできない。彼か彼女であるか、いずれにしろ寝ている人は着物も脱いで、寝間着に着換えて、お布団の中に入っているし、「今更起きて行って戸を開けるのは面倒くさいし、どうするかな」と考えている。そのうちに4節に「わが愛する者が掛けがねに手をかけたので」と、扉を開けようとしてガチャガチャと引っ張っている。「じゃ、起きて行こう」と思って、5節に「わたしが起きて、わが愛する者のためにあけようとしたとき」、そうやって開けようとして取手を握ると、「わたしの手から没薬がしたたり、わたしの指から没薬の液が流れて、貫の木の取手の上に落ちた」。「没薬」というのは、イエス様が十字架に命を絶たれたときに、女の人たちが体に塗るために持ってきた葬りの香料ですが、まさにイエス様が墓からよみがえられて、その没薬で濡れた手をもってこの人を訪ねて来たのです。愛する者が求めてきた。ところが、「開けようか、開けまいか、面倒くさいな」と思っていた。とにかく開けようと思って開けましたら、6節に「わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。わたしは尋ねたけれども見つからず、呼んだけれども答がなかった」。もう主はそこにはおられない。

 

救いの時、主が私たちに近づいてくださる恵みの時は今です。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント 6:2)。いまイエス様が私たちの心の扉をたたき、「愛する者よ、起きてください。わたしをそこに入れてください」と求めてくださるとき、私たちは躊躇(ちゅうちょ)する。「私もそんなにイエス様を離れたわけではないし、別にイエス様を忘れたわけではない。このくらいでいいのじゃない、と思うけれども、もうちょっと熱心にならないといけないのかしら、どうしようか」と、言っているうちに救いの時は過ぎ去る。私たちは、主の御声を聞いて、聞いたとき扉を開いて、いろいろなことが起こったとき、まさにそのときは恵みの時ですから、もちろん何も事がないことを願いますが、そのときはますます熱心になって主を求めたいと思います。そればかりでなく、いろいろな試練や悩みに遭うとき、私たちはすかさず扉を開いて「主よ、どうぞ、私の所へ来てください」と、イエス様を主と信じてその御方との交わりを取り戻しましょう。

 

「ヨハネの黙示録」3章20節に、「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって」、「わたしはその中にはいって」とおっしゃいます。私たちの内に宿ってくださる。既に聖霊は私たちの内に宿ってくださる。「コリント人への第一の手紙」にありますように、「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」とおっしゃる(6:19~)。私たちはそもそもイエス様のもの、イエス様が私たちを買い取って、「あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)とおっしゃってくださるのに、私たちはそのことを忘れて、他のものに心を引かれ、世の様々なことに心を奪われて、だんだんとイエス様から遠ざかってしまう。これは致命傷ですから、そうならないために「心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」(3:13)と、「へブル人への手紙」にあります。何か事があるとき、それを嘆かないで、「私は今までイエス様にどう向き合ってきたか。イエス様を私はどこに置いてきただろうか」、「イエス様と私との関係はどんな関係であったか?」など、もう一度そこを悔い改めて、正しい関係を築いて、信頼する者となりたい。

 

その後に「わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と。互いに一つとなる。イエス様と交わりを持って隙間のない関係、熱い関係に変えられて行きたいと思う。それは私たちの祝福と恵みだからであります。それによって神様は私たちをもっと豊かに、21節に「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」と。イエス様が十字架に勝利して、死を打ち破って父なる神様の御許へ帰られました。そして、今や父なる神様の右に座して私たちのために執り成してくださる御方、そのごとくに私たちもまたこの地上にあって主と共に生きる、イエス様と共に生涯を生き抜いて勝利を得る者に、御国で「わたしと共にわたしの座につかせよう」、神様の右の座に共につく者、永遠の御国を受け継ぐ者と私たちをしてくださる。

 

だから、今日という日、私たちは御声を聞いたならば、心をかたくなにすることなく、扉を開いて、「主よ、あなたは私の救い主です」と、本当に信頼して揺るがない関係に、心と思いを整えられたいと思います。そして、イエス様と親しい交わりを回復して、絶大な信頼をイエス様と共有する、分かち合う者となりたいと思います。そうすることで、初めて私たちに喜び、望み、安心が与えられるのです。そればかりか具体的な生活の一つ一つのことも、神様が思うよりも願うよりも、もっと素晴らしいことを備えて、私たちを顧みてくださるのです。

 

どうぞ、この方の御声を聞く者となりましょう。今日も主はあなたの心の扉をたたいておってくださる。本当にその御声を聞いて、「主よ、あなたはわたしの主です。どうぞ、私の心をあなたに委ねます」と、イエス様と一体となって、一つ心となって生きる生涯でありたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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