マタイによる福音書16章21節から28節までを朗読。
24節に「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。
イエス様がピリポ・カイザリヤ地方へ弟子たちと共に出かけられた時、弟子たちに「人々は人の子をだれと言っているか」と問われました。「人の子」とは、イエス様ご自身です。ですから、イエス様は「自分のことを人々、世間の人々はどのように言っているか。私をどのようなものと見ているか? 」と訊かれたのです。弟子たちは聞いたこと、見たことなど、うわさをイエス様に伝えました。バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、かつての有名な素晴らしい預言者の再来だと、世間ではすでにイエス様が有名になっていましたから、いろいろなうわさが立っていた。それをイエス様に伝えた。その時にイエス様は、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われたのです。弟子たちに向かって「あなたがたはわたしをだれと言うか」。弟子たちは、どのように答えたらいいか躊躇したでしょうが、シモン・ペテロは答えました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。これは百点満点、正解です。イエス様は大変喜んで、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と言われ、褒めてくださった。ペテロがそのように信じたことは、「神様があなたに教えてくださったのですよ」と喜ばれました。それからペテロに「あなたはペテロ(岩という意味だそうですけれども)、その上に教会を建てよう。そして天国のかぎを授けよう」とまで言われた。
そのすぐ後のことですが、イエス様ははじめてご自分がどのような使命でこの地上に生かされているかを語ったのです。これからエルサレムに行く、そしてそこで、長老、祭司長、律法学者たち、宗教家たちから、苦しめられ、殺され、そして三日目によみがえると話された。弟子たちにとっては、夢物語のようです。イエス様と寝食を共にして、絶えず一緒に生活をしてきた彼らでした。これから苦しみを受ける、殺されると、とんでもない話をし始めたから、びっくりして、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。「イエスをわきへ引き寄せて」とあります。ちょっとこちらへ来てくださいと、ほかの弟子たちの前では言いにくいと思ったのでしょう。「イエス様、駄目ではないですか。そんなことを言って!」と叱ったのです。「いさめる」とはそのような意味です。その時、イエス様は振り向いて「サタンよ、引きさがれ」と。ほんのわずかな時間の経過だったと思いますが、つい先ほど「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とペテロが告白して、イエス様は喜ばれて「あなたに天国のかぎを授けよう」とまで言われたペテロです。今度は「サタン」とはっきりと名指しして言われた。「わたしの邪魔をする者だ」。イエス様の使命をくじこうとしてくる。23節に「わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。「神のことを思わないで、人のことを思っている」、これが「イエス様の邪魔をする」ことなのです。
私たちに対してもイエス様はそのことを求めておられます。日々の生活を営んでいるときに、神様のことを思うか、人のことを思うか、この二つの間に立たせられる。右にするか、左にするか、いろいろなことで選択と決断を迫られます。その時、何を根拠にして選ぶか。何をよりどころにして、右にする、左にすると決めるか。神様のことを思うのか、あるいは人のことを思うのか。人とは自分を含めてです。自分の都合であるとか、自分の利益であるとか、自分の感情、自分と人との付き合い、あるいはそのようなしがらみを大切にして右にする、左にする、と決めるか。あるいは神様は何と言われるか、イエス様が喜んでくださる道はどれか、ただそれだけに心を向けて、たとえ自分に不利であっても、自分にとって犠牲を強いられることであろうと、これはイエス様が私に求めていることです、と選ぶのか。これが絶えず問われる事柄、また信仰の闘いは、そこにあるのです。
信仰の闘いとは、決して外側からのものではありません。もちろん、そのようなこともあります。家族の大反対を押し切って、イエス様の救いにあずかる。そのような時、文字通り外側からの闘い、家族の者が「そんな信仰はやめろ」とか、あるいは「教会に行かせん」と、そのような目に見える、物理的な障害があったこともあります。幸いに今は「信教の自由」ということで、いつでも自由に信仰を持ち続けることができます。それでも今もそのような闘いの中にいる方がたくさんいます。殊に主婦の方にとっては、家族の中で独りイエス様の救いにあずかっていると、日曜日やウィークデーの集会に出て来ようとすると、あからさまではないけれども、さまざまな妨害があり、家族から嫌みを言われるでしょう。そのようなことを言われると、私は聞きます。「先生、うちの主人はしょっちゅう私が出かけようとすると『お前だけが天国に入りたいんだな』と、そのようにすぐに言われます。それを押し切って私は出てきます」と。逆にそのような抵抗があればこそ、その方は大変恵まれる。「さあ、行ってらっしゃい、行ってらっしゃい」と、もろ手を上げて、家族から大歓迎されて出て来ると、何か拍子抜けして、教会に着くなり気が抜けてしまうかも分かりません。しかし、反対を押し切って出てくると、眠っているわけにはいかない、少しでも主人を見返してやろうと思いますから、一生懸命に熱心になって聞くことができるでしょう。神様は私たちをいろいろな中を通らせなさいますが、そのような外側からの妨げも、もちろん大きな闘いではありますが、しかし、もっと大きな闘いは、私たちの内にあるものとの闘いです。
今申し上げたように、右にするか、左にするか、進むか、とどまるか、あるいは退(しりぞ)くか、いろいろな場面で、絶えず選択と決断を迫られます。その時、人のことを思っているのか、神のことを思っているのか。これは極めてはっきりしている。中間はない。人のことも顔を立てて、神様の顔も立てて、八方美人でいくことはできない。「と人とに兼ね事(つか)ふること能(あた)はず」とあるでしょう。どちらかに決めなければならない。これは私たちの信仰の闘いです。この時、ペテロは(23節)「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、イエス様からしかられました。確かにペテロが、「めっそうもない、そんなことを言わないで」と言いました。ペテロは、ガリラヤ湖で先祖伝来やっていた漁師としての仕事を捨てて、船具も船も捨てて、この方だけにとイエス様に従って来ました。イエス様は三年半近くの公の生涯でしたから、その間しか弟子たちは一緒ではなかった。けれども彼らにしてみれば、これで生涯イエス様にくっついて行けば食いっぱぐれがない。仕事は辞めたし、ひとつイエス様、よろしくお願いしますという肉の思いです。自分の立場を考慮する思い、そのようなものが、おそらく強かったと思います。私たちの闘いもそうです。一番肝心なところになると、自分の立場、自分のメンツ、自分というものがどうしても離れられない。そこで神様よりも人のことを思う。あの人この人という周囲の人のことも思いますが、それは自分のことでもある。この時、「イエス様、めっそうもない、そんなことを言わないで」と言ったペテロは、イエス様のことを思っていたことも確かです。しかし、その思い、動機をよくよく探っていけば、結局のところ自分の立場であり、自分の生活であり、自分の何かであったのです。ですから「サタンよ、引きさがれ」としかられた。
24節に「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。イエス様について行くとは、イエス様の行く所について行く。私たちが行く所にイエス様をつれて回るのではありません。イエス様を信じる、信頼するとは、イエス様が先立たれる後に、私たちが僕(しもべ)となってついて行くこと。これがイエス様を信じる信仰生活です。イエス様を私の救い主と信じて、洗礼を受けて、神の子供とされた。イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった。この「イエス様が共にいてくださる」とは、取りも直さず、私の主となってくださったイエス様に私は従っていきますという告白です。ところが、共にいてくださるから、何でもイエス様にお願いするが、別に私がイエス様について行くと言ったつもりはない、イエス様が私の行く所に来てくださればいいと言うのは大間違い。「私の行く所に、イエス様、来てください」というのではなくて、イエス様が行く所について行く。これが大切なこと、また、ともすると間違いやすい事です。イエス様が共にいてくださるとは、私たちがイエス様について行く者になりますとの告白です。イエス様が私といつも一緒にいて、時々茶飲み友達になり、話し相手になり、時には便利な道具のごとく、あれをしてくれ、これをしてくれ、私の行く所、私のすることへ何でもイエス様がついてきて、やってくれるのだと。そのような方としてではない。そうではなくて、私たちがいつも、主よ、あなたに従いますと、徹底していくことが信仰です。ここをよくよく私たちは知っておきたいし、またそのように生きることが大切です。ですからここで「だれでもわたしについてきたいと思うなら」、言い換えますと、わたしを救い主と信じるならば、わたしを主として信頼しようとするのだったら「自分を捨て」と、その通りです。従うには、自分があっては従えません。私が好きだとか嫌いだとか、私がこうしたい、したくないという、そのような自分の思いをしっかりと握っていては、なかなか人の言うことに従えない。それは日常生活でもよくあることです。ご主人が奥さんに、奥さんがご主人に、また子供にしてもそうです。その言うことを「ああ、そうね」と本当に従うためには、自分を捨てないことには、自分の考えや、自分の思いを捨ててしまわなければできません。自分をしっかり握っているのは、頑固です。かたくなになります。イエス様に従うためには、そのかたくなな思いを捨てなければ従えない。
家内の両親を見ていて、そのように思います。だんだん年を取ってくると、長年の自分の経験や、自分の生きてきた生き方、そのようなものが頑としてあるから、なかなか人には従えない。“老いては子に従え”と世間で言いますが、これは至言というか、素晴らしい言葉だと思う。逆に言うと、老いては子に従えない、ということです。だからこのような言葉が生まれてくる。従えばどんなに幸いかな、と思いますが、本人はそのようには思わない。厄介(やっかい)なのは、そこです。「お父さん、こうしたらどうですか。ここはこうしたらどうですか。このような方法がありますよ。こうしたら楽になりますよ」「いい!そんなことはせんでもいい。おれはこれまでこうした。ああした」と言い続けて、それで満足していればいいのですが、「いい!そんなことはせんでもいい。おれはこれだ」と言いながら、「こんなだから困った、もう生きている望みはない、ああ苦しい、いつまで俺は生きているのだろう」と嘆く。こちらは気の毒だから、何とか助けてやろうと思って「あれをしたら? こうもしたら? 」といろいろ言う。言うばかりでなく、犠牲も払って何とかしようとするが、それは受け付けない。その代わり、小言だけ、つぶやきだけは聞いてくれと。「おれは、もうお前たちの世話にはならん」と言うなら、泣き言も言わない。その覚悟があるといいのですが、息子や娘がいると、つい甘えたくなる。
そのことを思うとき、「老いては子に従え」、この通りだと思う。しかし、従うには自分を捨てなければならない。経験を捨て、自分の考えを捨てなければなりません。だからといって、若い人は従順だとも言えません。若い人に、「これはこうしたら」と言うと、必ず「いいえ!」とくる。誰でもそうなのです。年が若いとか、年を取っているとか、あまり関係なさそうにも思えます。
いずれにしても、私たちはイエス様に従っていく。イエス様を信じて、イエス様を救い主としてその恵みにあずかるには、ただ一つです。そこにありますように「自分を捨て」と、「自分の十字架を負うて」と繰り返しています。自分を捨てるということは、「自分の十字架を負う」こと。イエス様は私たちの罪のために十字架に死んでくださいました。イエス様の十字架を自分のものとして負っていく。「十字架を負う」と言うと、何か苦労を背負わされる、自分だけが犠牲を強いられる、それを甘んじて受けることが「十字架を負う」ことと思いやすい。しかし、ここで言っているのは、イエス様がこれから十字架にかかり、三日目によみがえる、その十字架を負いなさい、ということです。イエス様と共に十字架に死んだ者となりきる。パウロがそのように言っています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」。私たちが死ぬところはそこしかない。ですから、ここに「自分を捨て」と、「自分の十字架を負うて」と、二つの事柄に書かれていますけれども、これは二つの言い方ではあるが、一つのことです。自分を捨てることは、イエス様の十字架に自分を釘づけてしまう以外にない。そうしないと、私どもは自分を捨てることはできません。どんなに頑張ってみましても、自分を捨てようと努力してみても、自分ではできません。だから、そこでいつもイエス様の十字架に自分を合わせていく。今日も、主が私のために命を捨てて、十字架に苦しみを受け死んでくださった。パウロがそう言うように「最早(もはや)われ生くるにあらず」と。毎日毎日、時々刻々、絶えず十字架を仰いでいく。そうしますと、人から何を言われても、どうされようと、「はい、そうですね」と本当に素直になれる。自分を十字架の死の中に絶えず置いていくことです。イエス様がどんな苦しみを受けてくださったか、それに対して私どもは、そのようなイエス様の御愛を受ける値打ちも価値もないことをよくよく振り返ってみることです。そして主との交わりに絶えず自分を置いていくとき、初めて人は自分を捨てることができる。それ以外にない。私たちが努力して、「よし、いい話を聞いた。これから年を取ったら、子供の言いなりになろう」と思ってもなれない。いくら頑張っても、努力してもそれは無理です。そうではない。何といっても自分がイエス様と共に死んだ者となることです。イエス様が今日も私のために命を捨ててくださった。絶えず主の十字架に立ち返って、自分を明け渡していく。「そうでした。イエス様、あなたが死んでくださった。そして私の罪を清めて、よみがえってくださった主が私を生かしてくださる」。これを抜きにしては命がない。十字架を外しては、命を得ることができません。だから、どんな中にあっても、「自分の十字架を負うて」とイエス様は言われる。だから、パウロは「わたしは日々死んでいるのである」(Ⅰコリント 15:31)と告白しています。毎日、私は死んだ者です。なぜなら、イエス様の十字架は、私が本来死ぬべきところだった。無きに等しい私が、今日こうして主がよみがえってくださった命をもって、死んだ者であった私が生かされている。これが、パウロの信仰の土台です。
ガラテヤ人への手紙2章19節から21節までを朗読。
19節以下に「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」。このことを、毎日はっきりと自分に言い聞かせてください、「私が生きているのではない」と。これを心に握ってご覧なさい。実に自由になります。すべてのものから解放されます。私が生きているのではない、20節「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。イエス様が、私を生かしてくださっている。だから、私はイエス様に従う以外にない。イエス様に仕えて、ついて行く以外にない。その後に「しかし」とありますが、「いま肉にあって」、現実の生活の中では、確かに肉体をもって感情もある、また苦しい、つらい、暑い、寒い、いろいろなことを感じる世界に生きています。しかし、「肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰」。ここに「御子を信じる信仰」と告白していますが、これは言い換えますと、さきほどの「わたしについてきたいと思うなら」と、その言葉です。「御子を信じる信仰」、イエス様について行こうと、それによって現実の中に生きている。これが信仰によって生きる生き方です。
マタイによる福音書16章24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら」、「御子を信じる信仰」によって生きようとするなら、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。イエス様に従っていく。イエス様が十字架に命を捨て、私のために死んでくださった。そのイエス様に私は従っていきます。そのとき、ある意味で、覚悟をしなければならない。人から喜ばれようとか、人に気に入られようとか、人の評判を取ろうとか、人を思う思いになると、イエス様が消えてしまう。イエス様のことを思って、十字架の死を見上げて、そこに一つとなるとき、神様のためならどのようなことでもいとわない覚悟がいります。
ある一人の姉妹と話していたら「先生、信仰は、ある意味では腹をくくることですね」と言われた。私は一瞬ハッと教えられました。確かにそうだと思う。腹をくくる、言い換えますと、「何でもこい」、「引き受けてやろうではないか。もう私は死んだもの」と、そこまで覚悟する。そうしますと、何も怖いものはない。信仰とは、まさに自分を捨てて、イエス様の十字架に一つとなってしまうのですから、文字通り、十字架にかけられることを思うならば、人からけなされようと、どうされようと、神様のためならこれでよろしいと、ビシッと思いを定めることです。これは大切なことです。あの人がなんと言うだろうか、この人がどのように言うだろうか。このようなことをしたら、自分のメンツが立たない。自分のこれまでの評判が消えてしまうに違いない。ああだろうか、こうだろうかと、グジャグジャ悩む。悩んでいるときは、まだ余裕がある。ところが、いよいよ事が押し迫って、のっぴきならなくなったら、「よっしゃ!もう大丈夫、私が引き受ける」と、腹を決めれば、何ていうことはないけれども、それを何とか逃げられないだろうか、楽にやれないだろうか、あるいは人に喜ばれようとしたり、いろいろなことを考えている間、人は悩むのです。
エステルが王妃となりましたが、自分の民族存亡の危機にあたって、王様の前に出なければならない。おじさんのモルデカイが「あなたはそのためにこの王宮に王妃としているのではないか。ユダヤ人が今、危急存亡の真っ只中に置かれている絶体絶命、この時あなたが王様に言わなくて、誰が言うのか。もしこれであなたが黙っているのだったら、神様はほかの者を起こして、あなたは滅びだ」と言った。そのときエステルは、王様の前に出るには、王様からの招きがないと出られない。もし勝手に行ったならば殺されることが定められている。ただ、王様がその時、笏(しゃく)を伸べて許してくださればいいけれども、そうでなければ必ず殺される。王妃たりともむやみに王様の前に出るわけにはいかない。彼女は「断食して祈ってください。私はそのために祈ります」。そうして祈って、ついに彼女は「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」と言った。イエス様に従っていく生涯、神様に信頼していく生涯は、この徹底した決断が絶えず求められる。「私が引き受ける」、そのように言い切れたら、問題はない。ところが「私はそんなのは引き受けられない。あの人に少しやってもらおう、この人にやってもらおう。こちらにも頼んでおこう。私だけがなんでこんなことをしなければならないの。不当だ ! 」と。自分のことばかりいつも考えているから弱くなる。そしていつまでも神様を信頼できない。「主がこのことを与えてくださった。それでは私が負います。たとえ自分の全財産を放り出すようなことがあっても、いいではないか。死ぬべくば死ぬべし」と、神様に下駄をあずける。それが腹をくくることです。そこまで神様にきちっと思いを定めると、必ず神様が捨てておかない。エステルもそうでした。「死ぬべくば死ぬべし」と心を決めまして、王様の前に出ました。王様はエステルを許して、「お前の求めは何か。たとえ国の半分であろうと、あなたにあげよう」とまで言われた。
神様もそうです。腹をくくって、「死ぬべくば死ぬべし。私は主よ、あなたに従います。今与えられているこの問題、この事柄、そこで私がするべきことがあるならば、どのようなことでもさせていただきます」と、自分を捨ててかかる。「主が私のために死んでくださった。もう私が生きているのではない。私は死んだもの。何を今更、きついだ何だと言っておれますか」と、そこまでピシャッと心を定めると、怖いものなしです。神様が後ろ盾となって、支えてくださいます。
列王紀下7章3節から5節までを朗読。
サマリヤの町がスリヤの大軍によって包囲されました。兵糧攻めに遭った。ねずみ一匹通れないくらいに囲まれて、とうとうサマリヤの住む人たちは、食べるものがなくなって、自分の子供を殺して食べるくらいの大変なひどい目に遭った。そのとき、四人の重い皮膚病の患者たちが、サマリヤの町の入り口にいた。彼らは普通の人たちよりも不利な立場にありました。普段は、自分で稼げないから、人様のお情けにすがって生きていた。ところが、食べるものがないから、彼らを思いやることができません。この四人は生きる術(すべ)がなかった。そのとき、四人は話し合った。3節に「われわれはどうしてここに座して死を待たねばならないのか」。サマリヤの門で物ごいしていても、誰も物をくれる者がいない。そのようなところに居ても、何ももらえず死んでしまう。4節に「われわれがもし町にはいろうといえば、町には食物が尽きているから、われわれはそこで死ぬであろう」。町に入って物ごいをしたところで、くれる人はいないから、どっちみち死んでしまう。そのあと、彼らは「いっその事、われわれはスリヤびとの陣営へ逃げて行こう」と。敵の方へ行こうではないか。もしそこで殺されても同じことだ。ここにいても死ぬのだったら、向こうにいって死んだって同じこと。向こうの方が食料があるし、その先に「もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるならば、助かるが、たといわれわれを殺しても死ぬばかりだ」。殺されてもともとなのだから、いいではないか、行ってみよう。これは信仰です。神様を信頼する、神様がどのような取り扱いをなさるか、どのように扱われようと、「私には、神様、あなた以外に頼るべき方はいない。人ではない、あなたです!」と。もし主が生かしてくださるなら、生きるであろうし、主が駄目とおっしゃったら、死ねばいい。そこまで私たちがこの四人のように心を定めるのです。ここがいつまでも定まらないから、右に行ったり左に行ったり……。楽しんでいるのかもしれませんが、苦しいですよ。いずれにしても死んでいる、私たちは。人から何と言われようと、かんと言われようと、主が「せよ」と言われるなら「はい」、主が「出せ」と言うなら、持っている物を何でも出せばいい。そこを惜しむ、あるいは自分のメンツや何かに囚われて、いつまでも踏ん切りが悪い。
このとき四人は出かけていってみると、スリヤ人の陣営は誰もいなかった。実は神様がスリヤ人の陣営に、神の御霊を送って混乱させて、彼らはとうとう逃げ出してしまった。行ってみると天幕に食料がたくさん残っている。彼らはそこでお腹一杯食べた。そのうち「待てよ。おれたちだけでこんなことをしていたら悪い。ちょっとサマリヤの人たちにも教えてやろう」と戻って、「あそこへ行ったら食料がある」と伝えた。それでみんな出てきて、スリヤの陣営の、手つかずで残っていた食料を全部持ち帰った。そうしたら、「麦粉一セアは一シケルで売られ、大麦二セアは一シケルで売られ」と、大売出しになってしまった。神様の恵みは、そのように、私どもが自分を捨ててかかっていくときに、神様が備えてくださる。そこを通った人しか分からない祝福と恵みを味わうことができるのです。
ですから、イエス様が「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。私たちは絶えずイエス様と共に、いや、イエス様に従っていく者となりたい。イエス様は私たちに先立って進んでくださいます。そこに絶えず従う。主が言われること、主が導かれること、主が「よし」と言われることですと、信仰に立って大胆に主に信頼して行こうではありませんか。主が「駄目」と言われたら、人がなんと言おうと駄目です。はっきりと出処進退を定めて、ただ神様だけを、主に喜ばれるところだけを求めて行こうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
24節に「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。
イエス様がピリポ・カイザリヤ地方へ弟子たちと共に出かけられた時、弟子たちに「人々は人の子をだれと言っているか」と問われました。「人の子」とは、イエス様ご自身です。ですから、イエス様は「自分のことを人々、世間の人々はどのように言っているか。私をどのようなものと見ているか? 」と訊かれたのです。弟子たちは聞いたこと、見たことなど、うわさをイエス様に伝えました。バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、かつての有名な素晴らしい預言者の再来だと、世間ではすでにイエス様が有名になっていましたから、いろいろなうわさが立っていた。それをイエス様に伝えた。その時にイエス様は、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われたのです。弟子たちに向かって「あなたがたはわたしをだれと言うか」。弟子たちは、どのように答えたらいいか躊躇したでしょうが、シモン・ペテロは答えました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。これは百点満点、正解です。イエス様は大変喜んで、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と言われ、褒めてくださった。ペテロがそのように信じたことは、「神様があなたに教えてくださったのですよ」と喜ばれました。それからペテロに「あなたはペテロ(岩という意味だそうですけれども)、その上に教会を建てよう。そして天国のかぎを授けよう」とまで言われた。
そのすぐ後のことですが、イエス様ははじめてご自分がどのような使命でこの地上に生かされているかを語ったのです。これからエルサレムに行く、そしてそこで、長老、祭司長、律法学者たち、宗教家たちから、苦しめられ、殺され、そして三日目によみがえると話された。弟子たちにとっては、夢物語のようです。イエス様と寝食を共にして、絶えず一緒に生活をしてきた彼らでした。これから苦しみを受ける、殺されると、とんでもない話をし始めたから、びっくりして、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。「イエスをわきへ引き寄せて」とあります。ちょっとこちらへ来てくださいと、ほかの弟子たちの前では言いにくいと思ったのでしょう。「イエス様、駄目ではないですか。そんなことを言って!」と叱ったのです。「いさめる」とはそのような意味です。その時、イエス様は振り向いて「サタンよ、引きさがれ」と。ほんのわずかな時間の経過だったと思いますが、つい先ほど「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とペテロが告白して、イエス様は喜ばれて「あなたに天国のかぎを授けよう」とまで言われたペテロです。今度は「サタン」とはっきりと名指しして言われた。「わたしの邪魔をする者だ」。イエス様の使命をくじこうとしてくる。23節に「わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。「神のことを思わないで、人のことを思っている」、これが「イエス様の邪魔をする」ことなのです。
私たちに対してもイエス様はそのことを求めておられます。日々の生活を営んでいるときに、神様のことを思うか、人のことを思うか、この二つの間に立たせられる。右にするか、左にするか、いろいろなことで選択と決断を迫られます。その時、何を根拠にして選ぶか。何をよりどころにして、右にする、左にすると決めるか。神様のことを思うのか、あるいは人のことを思うのか。人とは自分を含めてです。自分の都合であるとか、自分の利益であるとか、自分の感情、自分と人との付き合い、あるいはそのようなしがらみを大切にして右にする、左にする、と決めるか。あるいは神様は何と言われるか、イエス様が喜んでくださる道はどれか、ただそれだけに心を向けて、たとえ自分に不利であっても、自分にとって犠牲を強いられることであろうと、これはイエス様が私に求めていることです、と選ぶのか。これが絶えず問われる事柄、また信仰の闘いは、そこにあるのです。
信仰の闘いとは、決して外側からのものではありません。もちろん、そのようなこともあります。家族の大反対を押し切って、イエス様の救いにあずかる。そのような時、文字通り外側からの闘い、家族の者が「そんな信仰はやめろ」とか、あるいは「教会に行かせん」と、そのような目に見える、物理的な障害があったこともあります。幸いに今は「信教の自由」ということで、いつでも自由に信仰を持ち続けることができます。それでも今もそのような闘いの中にいる方がたくさんいます。殊に主婦の方にとっては、家族の中で独りイエス様の救いにあずかっていると、日曜日やウィークデーの集会に出て来ようとすると、あからさまではないけれども、さまざまな妨害があり、家族から嫌みを言われるでしょう。そのようなことを言われると、私は聞きます。「先生、うちの主人はしょっちゅう私が出かけようとすると『お前だけが天国に入りたいんだな』と、そのようにすぐに言われます。それを押し切って私は出てきます」と。逆にそのような抵抗があればこそ、その方は大変恵まれる。「さあ、行ってらっしゃい、行ってらっしゃい」と、もろ手を上げて、家族から大歓迎されて出て来ると、何か拍子抜けして、教会に着くなり気が抜けてしまうかも分かりません。しかし、反対を押し切って出てくると、眠っているわけにはいかない、少しでも主人を見返してやろうと思いますから、一生懸命に熱心になって聞くことができるでしょう。神様は私たちをいろいろな中を通らせなさいますが、そのような外側からの妨げも、もちろん大きな闘いではありますが、しかし、もっと大きな闘いは、私たちの内にあるものとの闘いです。
今申し上げたように、右にするか、左にするか、進むか、とどまるか、あるいは退(しりぞ)くか、いろいろな場面で、絶えず選択と決断を迫られます。その時、人のことを思っているのか、神のことを思っているのか。これは極めてはっきりしている。中間はない。人のことも顔を立てて、神様の顔も立てて、八方美人でいくことはできない。「と人とに兼ね事(つか)ふること能(あた)はず」とあるでしょう。どちらかに決めなければならない。これは私たちの信仰の闘いです。この時、ペテロは(23節)「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、イエス様からしかられました。確かにペテロが、「めっそうもない、そんなことを言わないで」と言いました。ペテロは、ガリラヤ湖で先祖伝来やっていた漁師としての仕事を捨てて、船具も船も捨てて、この方だけにとイエス様に従って来ました。イエス様は三年半近くの公の生涯でしたから、その間しか弟子たちは一緒ではなかった。けれども彼らにしてみれば、これで生涯イエス様にくっついて行けば食いっぱぐれがない。仕事は辞めたし、ひとつイエス様、よろしくお願いしますという肉の思いです。自分の立場を考慮する思い、そのようなものが、おそらく強かったと思います。私たちの闘いもそうです。一番肝心なところになると、自分の立場、自分のメンツ、自分というものがどうしても離れられない。そこで神様よりも人のことを思う。あの人この人という周囲の人のことも思いますが、それは自分のことでもある。この時、「イエス様、めっそうもない、そんなことを言わないで」と言ったペテロは、イエス様のことを思っていたことも確かです。しかし、その思い、動機をよくよく探っていけば、結局のところ自分の立場であり、自分の生活であり、自分の何かであったのです。ですから「サタンよ、引きさがれ」としかられた。
24節に「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。イエス様について行くとは、イエス様の行く所について行く。私たちが行く所にイエス様をつれて回るのではありません。イエス様を信じる、信頼するとは、イエス様が先立たれる後に、私たちが僕(しもべ)となってついて行くこと。これがイエス様を信じる信仰生活です。イエス様を私の救い主と信じて、洗礼を受けて、神の子供とされた。イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった。この「イエス様が共にいてくださる」とは、取りも直さず、私の主となってくださったイエス様に私は従っていきますという告白です。ところが、共にいてくださるから、何でもイエス様にお願いするが、別に私がイエス様について行くと言ったつもりはない、イエス様が私の行く所に来てくださればいいと言うのは大間違い。「私の行く所に、イエス様、来てください」というのではなくて、イエス様が行く所について行く。これが大切なこと、また、ともすると間違いやすい事です。イエス様が共にいてくださるとは、私たちがイエス様について行く者になりますとの告白です。イエス様が私といつも一緒にいて、時々茶飲み友達になり、話し相手になり、時には便利な道具のごとく、あれをしてくれ、これをしてくれ、私の行く所、私のすることへ何でもイエス様がついてきて、やってくれるのだと。そのような方としてではない。そうではなくて、私たちがいつも、主よ、あなたに従いますと、徹底していくことが信仰です。ここをよくよく私たちは知っておきたいし、またそのように生きることが大切です。ですからここで「だれでもわたしについてきたいと思うなら」、言い換えますと、わたしを救い主と信じるならば、わたしを主として信頼しようとするのだったら「自分を捨て」と、その通りです。従うには、自分があっては従えません。私が好きだとか嫌いだとか、私がこうしたい、したくないという、そのような自分の思いをしっかりと握っていては、なかなか人の言うことに従えない。それは日常生活でもよくあることです。ご主人が奥さんに、奥さんがご主人に、また子供にしてもそうです。その言うことを「ああ、そうね」と本当に従うためには、自分を捨てないことには、自分の考えや、自分の思いを捨ててしまわなければできません。自分をしっかり握っているのは、頑固です。かたくなになります。イエス様に従うためには、そのかたくなな思いを捨てなければ従えない。
家内の両親を見ていて、そのように思います。だんだん年を取ってくると、長年の自分の経験や、自分の生きてきた生き方、そのようなものが頑としてあるから、なかなか人には従えない。“老いては子に従え”と世間で言いますが、これは至言というか、素晴らしい言葉だと思う。逆に言うと、老いては子に従えない、ということです。だからこのような言葉が生まれてくる。従えばどんなに幸いかな、と思いますが、本人はそのようには思わない。厄介(やっかい)なのは、そこです。「お父さん、こうしたらどうですか。ここはこうしたらどうですか。このような方法がありますよ。こうしたら楽になりますよ」「いい!そんなことはせんでもいい。おれはこれまでこうした。ああした」と言い続けて、それで満足していればいいのですが、「いい!そんなことはせんでもいい。おれはこれだ」と言いながら、「こんなだから困った、もう生きている望みはない、ああ苦しい、いつまで俺は生きているのだろう」と嘆く。こちらは気の毒だから、何とか助けてやろうと思って「あれをしたら? こうもしたら? 」といろいろ言う。言うばかりでなく、犠牲も払って何とかしようとするが、それは受け付けない。その代わり、小言だけ、つぶやきだけは聞いてくれと。「おれは、もうお前たちの世話にはならん」と言うなら、泣き言も言わない。その覚悟があるといいのですが、息子や娘がいると、つい甘えたくなる。
そのことを思うとき、「老いては子に従え」、この通りだと思う。しかし、従うには自分を捨てなければならない。経験を捨て、自分の考えを捨てなければなりません。だからといって、若い人は従順だとも言えません。若い人に、「これはこうしたら」と言うと、必ず「いいえ!」とくる。誰でもそうなのです。年が若いとか、年を取っているとか、あまり関係なさそうにも思えます。
いずれにしても、私たちはイエス様に従っていく。イエス様を信じて、イエス様を救い主としてその恵みにあずかるには、ただ一つです。そこにありますように「自分を捨て」と、「自分の十字架を負うて」と繰り返しています。自分を捨てるということは、「自分の十字架を負う」こと。イエス様は私たちの罪のために十字架に死んでくださいました。イエス様の十字架を自分のものとして負っていく。「十字架を負う」と言うと、何か苦労を背負わされる、自分だけが犠牲を強いられる、それを甘んじて受けることが「十字架を負う」ことと思いやすい。しかし、ここで言っているのは、イエス様がこれから十字架にかかり、三日目によみがえる、その十字架を負いなさい、ということです。イエス様と共に十字架に死んだ者となりきる。パウロがそのように言っています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」。私たちが死ぬところはそこしかない。ですから、ここに「自分を捨て」と、「自分の十字架を負うて」と、二つの事柄に書かれていますけれども、これは二つの言い方ではあるが、一つのことです。自分を捨てることは、イエス様の十字架に自分を釘づけてしまう以外にない。そうしないと、私どもは自分を捨てることはできません。どんなに頑張ってみましても、自分を捨てようと努力してみても、自分ではできません。だから、そこでいつもイエス様の十字架に自分を合わせていく。今日も、主が私のために命を捨てて、十字架に苦しみを受け死んでくださった。パウロがそう言うように「最早(もはや)われ生くるにあらず」と。毎日毎日、時々刻々、絶えず十字架を仰いでいく。そうしますと、人から何を言われても、どうされようと、「はい、そうですね」と本当に素直になれる。自分を十字架の死の中に絶えず置いていくことです。イエス様がどんな苦しみを受けてくださったか、それに対して私どもは、そのようなイエス様の御愛を受ける値打ちも価値もないことをよくよく振り返ってみることです。そして主との交わりに絶えず自分を置いていくとき、初めて人は自分を捨てることができる。それ以外にない。私たちが努力して、「よし、いい話を聞いた。これから年を取ったら、子供の言いなりになろう」と思ってもなれない。いくら頑張っても、努力してもそれは無理です。そうではない。何といっても自分がイエス様と共に死んだ者となることです。イエス様が今日も私のために命を捨ててくださった。絶えず主の十字架に立ち返って、自分を明け渡していく。「そうでした。イエス様、あなたが死んでくださった。そして私の罪を清めて、よみがえってくださった主が私を生かしてくださる」。これを抜きにしては命がない。十字架を外しては、命を得ることができません。だから、どんな中にあっても、「自分の十字架を負うて」とイエス様は言われる。だから、パウロは「わたしは日々死んでいるのである」(Ⅰコリント 15:31)と告白しています。毎日、私は死んだ者です。なぜなら、イエス様の十字架は、私が本来死ぬべきところだった。無きに等しい私が、今日こうして主がよみがえってくださった命をもって、死んだ者であった私が生かされている。これが、パウロの信仰の土台です。
ガラテヤ人への手紙2章19節から21節までを朗読。
19節以下に「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」。このことを、毎日はっきりと自分に言い聞かせてください、「私が生きているのではない」と。これを心に握ってご覧なさい。実に自由になります。すべてのものから解放されます。私が生きているのではない、20節「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。イエス様が、私を生かしてくださっている。だから、私はイエス様に従う以外にない。イエス様に仕えて、ついて行く以外にない。その後に「しかし」とありますが、「いま肉にあって」、現実の生活の中では、確かに肉体をもって感情もある、また苦しい、つらい、暑い、寒い、いろいろなことを感じる世界に生きています。しかし、「肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰」。ここに「御子を信じる信仰」と告白していますが、これは言い換えますと、さきほどの「わたしについてきたいと思うなら」と、その言葉です。「御子を信じる信仰」、イエス様について行こうと、それによって現実の中に生きている。これが信仰によって生きる生き方です。
マタイによる福音書16章24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら」、「御子を信じる信仰」によって生きようとするなら、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。イエス様に従っていく。イエス様が十字架に命を捨て、私のために死んでくださった。そのイエス様に私は従っていきます。そのとき、ある意味で、覚悟をしなければならない。人から喜ばれようとか、人に気に入られようとか、人の評判を取ろうとか、人を思う思いになると、イエス様が消えてしまう。イエス様のことを思って、十字架の死を見上げて、そこに一つとなるとき、神様のためならどのようなことでもいとわない覚悟がいります。
ある一人の姉妹と話していたら「先生、信仰は、ある意味では腹をくくることですね」と言われた。私は一瞬ハッと教えられました。確かにそうだと思う。腹をくくる、言い換えますと、「何でもこい」、「引き受けてやろうではないか。もう私は死んだもの」と、そこまで覚悟する。そうしますと、何も怖いものはない。信仰とは、まさに自分を捨てて、イエス様の十字架に一つとなってしまうのですから、文字通り、十字架にかけられることを思うならば、人からけなされようと、どうされようと、神様のためならこれでよろしいと、ビシッと思いを定めることです。これは大切なことです。あの人がなんと言うだろうか、この人がどのように言うだろうか。このようなことをしたら、自分のメンツが立たない。自分のこれまでの評判が消えてしまうに違いない。ああだろうか、こうだろうかと、グジャグジャ悩む。悩んでいるときは、まだ余裕がある。ところが、いよいよ事が押し迫って、のっぴきならなくなったら、「よっしゃ!もう大丈夫、私が引き受ける」と、腹を決めれば、何ていうことはないけれども、それを何とか逃げられないだろうか、楽にやれないだろうか、あるいは人に喜ばれようとしたり、いろいろなことを考えている間、人は悩むのです。
エステルが王妃となりましたが、自分の民族存亡の危機にあたって、王様の前に出なければならない。おじさんのモルデカイが「あなたはそのためにこの王宮に王妃としているのではないか。ユダヤ人が今、危急存亡の真っ只中に置かれている絶体絶命、この時あなたが王様に言わなくて、誰が言うのか。もしこれであなたが黙っているのだったら、神様はほかの者を起こして、あなたは滅びだ」と言った。そのときエステルは、王様の前に出るには、王様からの招きがないと出られない。もし勝手に行ったならば殺されることが定められている。ただ、王様がその時、笏(しゃく)を伸べて許してくださればいいけれども、そうでなければ必ず殺される。王妃たりともむやみに王様の前に出るわけにはいかない。彼女は「断食して祈ってください。私はそのために祈ります」。そうして祈って、ついに彼女は「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」と言った。イエス様に従っていく生涯、神様に信頼していく生涯は、この徹底した決断が絶えず求められる。「私が引き受ける」、そのように言い切れたら、問題はない。ところが「私はそんなのは引き受けられない。あの人に少しやってもらおう、この人にやってもらおう。こちらにも頼んでおこう。私だけがなんでこんなことをしなければならないの。不当だ ! 」と。自分のことばかりいつも考えているから弱くなる。そしていつまでも神様を信頼できない。「主がこのことを与えてくださった。それでは私が負います。たとえ自分の全財産を放り出すようなことがあっても、いいではないか。死ぬべくば死ぬべし」と、神様に下駄をあずける。それが腹をくくることです。そこまで神様にきちっと思いを定めると、必ず神様が捨てておかない。エステルもそうでした。「死ぬべくば死ぬべし」と心を決めまして、王様の前に出ました。王様はエステルを許して、「お前の求めは何か。たとえ国の半分であろうと、あなたにあげよう」とまで言われた。
神様もそうです。腹をくくって、「死ぬべくば死ぬべし。私は主よ、あなたに従います。今与えられているこの問題、この事柄、そこで私がするべきことがあるならば、どのようなことでもさせていただきます」と、自分を捨ててかかる。「主が私のために死んでくださった。もう私が生きているのではない。私は死んだもの。何を今更、きついだ何だと言っておれますか」と、そこまでピシャッと心を定めると、怖いものなしです。神様が後ろ盾となって、支えてくださいます。
列王紀下7章3節から5節までを朗読。
サマリヤの町がスリヤの大軍によって包囲されました。兵糧攻めに遭った。ねずみ一匹通れないくらいに囲まれて、とうとうサマリヤの住む人たちは、食べるものがなくなって、自分の子供を殺して食べるくらいの大変なひどい目に遭った。そのとき、四人の重い皮膚病の患者たちが、サマリヤの町の入り口にいた。彼らは普通の人たちよりも不利な立場にありました。普段は、自分で稼げないから、人様のお情けにすがって生きていた。ところが、食べるものがないから、彼らを思いやることができません。この四人は生きる術(すべ)がなかった。そのとき、四人は話し合った。3節に「われわれはどうしてここに座して死を待たねばならないのか」。サマリヤの門で物ごいしていても、誰も物をくれる者がいない。そのようなところに居ても、何ももらえず死んでしまう。4節に「われわれがもし町にはいろうといえば、町には食物が尽きているから、われわれはそこで死ぬであろう」。町に入って物ごいをしたところで、くれる人はいないから、どっちみち死んでしまう。そのあと、彼らは「いっその事、われわれはスリヤびとの陣営へ逃げて行こう」と。敵の方へ行こうではないか。もしそこで殺されても同じことだ。ここにいても死ぬのだったら、向こうにいって死んだって同じこと。向こうの方が食料があるし、その先に「もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるならば、助かるが、たといわれわれを殺しても死ぬばかりだ」。殺されてもともとなのだから、いいではないか、行ってみよう。これは信仰です。神様を信頼する、神様がどのような取り扱いをなさるか、どのように扱われようと、「私には、神様、あなた以外に頼るべき方はいない。人ではない、あなたです!」と。もし主が生かしてくださるなら、生きるであろうし、主が駄目とおっしゃったら、死ねばいい。そこまで私たちがこの四人のように心を定めるのです。ここがいつまでも定まらないから、右に行ったり左に行ったり……。楽しんでいるのかもしれませんが、苦しいですよ。いずれにしても死んでいる、私たちは。人から何と言われようと、かんと言われようと、主が「せよ」と言われるなら「はい」、主が「出せ」と言うなら、持っている物を何でも出せばいい。そこを惜しむ、あるいは自分のメンツや何かに囚われて、いつまでも踏ん切りが悪い。
このとき四人は出かけていってみると、スリヤ人の陣営は誰もいなかった。実は神様がスリヤ人の陣営に、神の御霊を送って混乱させて、彼らはとうとう逃げ出してしまった。行ってみると天幕に食料がたくさん残っている。彼らはそこでお腹一杯食べた。そのうち「待てよ。おれたちだけでこんなことをしていたら悪い。ちょっとサマリヤの人たちにも教えてやろう」と戻って、「あそこへ行ったら食料がある」と伝えた。それでみんな出てきて、スリヤの陣営の、手つかずで残っていた食料を全部持ち帰った。そうしたら、「麦粉一セアは一シケルで売られ、大麦二セアは一シケルで売られ」と、大売出しになってしまった。神様の恵みは、そのように、私どもが自分を捨ててかかっていくときに、神様が備えてくださる。そこを通った人しか分からない祝福と恵みを味わうことができるのです。
ですから、イエス様が「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。私たちは絶えずイエス様と共に、いや、イエス様に従っていく者となりたい。イエス様は私たちに先立って進んでくださいます。そこに絶えず従う。主が言われること、主が導かれること、主が「よし」と言われることですと、信仰に立って大胆に主に信頼して行こうではありませんか。主が「駄目」と言われたら、人がなんと言おうと駄目です。はっきりと出処進退を定めて、ただ神様だけを、主に喜ばれるところだけを求めて行こうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。