いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(105)「信仰の勇者」

2014年01月04日 | 聖書からのメッセージ
ローマ人への手紙4章16節から25節までを朗読。

17、18節に「『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」。

これはアブラハムの信仰について語られた記事です。彼は決して家柄が良くて、先祖代々真(まこと)の神様、天地万物の創造者である全能の神を信頼し、信じていたのではありません。彼の出身はカルデヤのウルという町であったと記されています。最近の考古学の成果を見ますと、ウルの町からいろいろな遺物が出てくる中に、たくさんの偶像、神々にささげる像が出土していると言われています。カルデヤのウルという町は、信仰心はあったでしょうが、偶像を拝むことが中心だったようです。ですから、アブラハムが特別に品行方正で、認められるべき何かがあったわけでもなかった。その時代のありふれた普通の人であったでしょう。ところが、神様はアブラハムに目を留めてくださいました。よく言われますが、どうしてアブラハムだったのだろう。ほかの人ではなぜいけなかったのかと。それは神様の選びですから、人が口をはさむことはできません。

大学入試で思いもかけず不合格になると、どうして不合格になったのだろう、答案はちゃんと出来ているはずなのにと思って、学校に問い合わせがきます。なぜ落とされたか、そのわけが知りたいと、人は誰でも思います。

大学入試の事務所ならすぐに答えるでしょうが、神様はいちいち私たちに相談し、答えなければならない理由はありません。お前を選ぶけれどもいいだろうか、もし都合が悪ければ言ってくれと、前もっての根回しなどありません。神様は、お前に病気を与えようと思うが、どの病気がいいかね、このリストの中から選びなさいと尋ねません。そんなことを言われたら、喜んでこちらにしておこうとか、あちらにしておこうと……。その代わり、こちらが選んだら、責任はこちらにありますから、これは大変なことです。その結果について文句の言いようがない。私達は自分で選ばずに、神様が与えられたものですから、どうして私はこんな病気になったのだと、思い切り不平を言うことができます。神様が選ぶのはそのように一方的です。それは不公平だ。今の世の中にそんなのは通じないと言っても、相手は神様ですから、これは通用しません。神様が一方的に定められたことです。

アブラハムが選ばれたことは、神様の恵みであり、大きな御愛があったのです。しかし、考えてみますと、アブラハムの生涯は決して平坦なものではありません。まず初めに「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と命じられます。お前はどこへ行きたいか、暖かい所がいいか寒い所がいいか、そのようなことではない。「わたしが示す地に」、そこがどんな所か何も分からない。そこになにがあるか分からない。一方的に神様は「行け」と言われる。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:2)と。あなたをすべての祝福の基として、そこから生まれ出てくる子々孫々に至るまで、祝福し、恵むと約束してくださった。約束するから、あなたはわたしの言う通りにしなさい、わたしの示すところに行きなさいと神様は言われた。

私たちがアブラハムのように求められたら、どうするでしょうか? 神様の祝福と言っても、どのようなものかわからない。旧約聖書を読むと、イスラエルの民となったアブラハムの子孫たちが、神様からどんなに恵まれたか。神様が彼らをどんなに愛して、さまざまな問題、事柄の中を歩いても、絶えず神様が共にいて、カナンの地まで導き、そしてカナンの地にあっても、次から次へと戦いの連続でしたが、神様はねんごろに彼らを顧(かえり)みてくださった。考えてみると、こんなにすばらしい生涯はなかったと思います。神様がアブラハムに約束した祝福は、ものの見事に具体化していったのです。ただ、いろいろなことによって、イスラエルの民の心が神様から離れる。せっかく祝福の民、神の民として選ばれた尊い恵みを、彼らはどぶに捨ててしまうのです。それでも神様は、アブラハムに約束したことを徹底して全うしています。これが神様の選びと召しの大きな恵みです。しかし、アブラハムは神様から言われたとき、何も分からなかった。どのように神様が自分を祝福してくださるのか、全部見せてくれたのではありません。神様は一方的です。しかも、神様は全部を私たちに教えてくださらない。とにかく、神様を信頼する以外にない。

人を信頼するのは、その人の言っていることが理屈に合うから、疑問の余地がないから信用するとはならない。友達となって、最初のうちは警戒し、どんな人かなと思いながら、よそよそしく、距離を置きながら付き合います。その交わりを通して、言葉にはならない、何か魅力に引かれて、信頼関係が出来てくる。やがて、この人ならと信用する。その信用の根拠はどこにあるかは説明がつかない。「あなたはあの人を信用しているけれど、その根拠は何なの? 」と言われても、「いや、長年あの人と付き合っているから、あの人は誠実だと思うよ」とか、あるいは「真実だと思うよ」と言う。「では、真実、誠実、その具体的な根拠はどこにある? 」と言われても、「切り取って出すわけにはいかないけれども、あの人はとにかく大丈夫よ」と、理屈にならない理屈をつけて信用する。理屈に合うとか、筋が通っているとか、そんなことは抜きであの人が言うのだから大丈夫と信じてしまう。しかし、人の場合、相手が不真実になるときがあります。それで信用したけれどもだまされた、裏切られたという経験をします。人が変わり、裏切られることはありますが、信頼する、信用するのは理屈を超えたものがあります。理屈を超えたところで人を信用しますから、その人の言葉が、時にはうそが混じっていようと、支離滅裂であっても、あの人が言うのだからと信じます。その結果、いろいろな問題や犯罪にまでつながります。だからといって、誰も信用できないとなると、こんな寒々しい世の中はありません。やはり信用することがあって、人と人の交わりが成り立っている。

神様との関係もやはりそうです。神様を信頼する。これが実は信仰です。私たちが人を信頼するように神様を信頼できるようになることが大切です。しかし、神様のことになると、私たちはえらく慎重になって、石橋をたたいても渡らないくらいの慎重さで、「神様? そんなもの信じられるか?」と思っている。聖書の言葉を聞いても、「そんなことあるか。いくら神様だって……」と疑いながら聞く。いろいろな方々に神様のことをお話しますが、意を尽くして、考えられる限りの言葉を尽くして話しても、「うーん、それは先生の言うことはわかるけれども、でも信じられません」となる。この「信じられません」の一言で、一時間二時間の話はすっかり消えてしまう。信用とは説得したから、何時間聞いたから信じられるという問題ではない。神様がいらっしゃることを一瞬にして信じてしまうことがあります。事実、私たちはそのような形で信じてきたと思います。時々「先生、神様を信じるには何年くらい教会に来たらいいでしょうか。何回くらい? 」と尋ねられます。学校の勉強、語学の習得なら、講習を受けて何日間、運転教習所に行って、何十時間すれば運転が上手になることはありますが、信仰ばかりは……。三十年、四十年と長く教会に来ても、神様がわからないこともあります。ところが、つい最近来た方が、今日、「信じます」という方もいます。自分自身を振り返って、いつ信じただろうかと思い返すと、瞬間的な出来事だったと思います。そうだ、神様はいらっしゃると心にピシャッと当てはまったのは、長い期間がかかったのではない。おそらく、何かの事でパッと瞬間ひらめくと言うか、まるで硬い岩がある瞬間、ピシッと割れるような形で人は信じます。いったん信じ込んだら、今度は抜けなくなる。少々のことでは抜けない。人を信じたときでもそうです。この人はとほれ込んだ、信じ込んだら、少々だまされても、良い方に良い方に解釈する。だから、家族の方が人を信用してだまされる。周囲の人には分かっていて、「あの人はこんなだから信用しては駄目よ」といくら言っても、「いいや、あんたの方が間違っている。私はあの人を信用している。あの人には間違いがない」と突っ張ります。そして無けなしの虎の子を巻き上げられてはじめて目が覚める。信用するというのは、理屈でもなんでもありません。ただ、そこで素直に本当に心を開いて神様を受け入れること以外にないのです。

だから、ある日突然、それはいつで、どのようなときだったかわかりませんが、神様がアブラハムに臨んで、「こうしなさい、そうすればわたしはあなたを祝福するから」という言葉を聞いた瞬間に、神様を信じたのです。神様を信じるまでにアブラハムは何ヶ月、何年かかっただろうかというものではない。ある日突然、彼のうちに神様が臨んでくださったときに、ハッと信じたのです。そして信じて、今度は歩き出す。踏み出していくのです。「アブラハムは主が、言われたようにいで立った」(創世記12:4)とあります。躊躇(ちゅうちょ)しないで、彼はすぐに神様の言われるとおりに従った。これが信仰です。信じて、「神様、わかりました。行けばいいのですね」と言いながら、明日に、あさってに、来年にと、先延ばしにしたのではない。先延ばしにすることは、信頼していない、信じていないのです。

旅行しましょうと約束したら、そのために前もってほかの約束はキャンセルします。またその旅行のために持っていくものを前の日から用意をします。これは約束を信じているからです。相手の人を信頼しているから、彼もきっと来るに違いないと信じて、前もって準備をし、約束の時間に間に合うように家を出かけます。かぎをかけ、後始末もして出かけます。これは信じているからでしょう。信じるということには、当然そこに行動が伴います。信じていると言いながら、体が動かない、行動が伴わないのは、実は信じていない。知っているだけ。何時に駅で会えばいいのだと知っている。でも来るかどうかわからない。信用していないから、いつもすっぽかす相手だから、行ってもどっちみちいないだろう、キャンセルになるに違いないと思ったら、前日から用意するなんて、無駄なことはしない。「わかった。行くからね」と言いながら、なんにもしない。信じていないからです。彼と旅行するスケジュールは知っていても、それを信用しない。相手を信じない。

神様を信じ、信頼して、神様の約束だからと踏み出していくときに、約束が具体化します。だから、アブラハムは神様から言われたように、親族を分かれ、父の家を離れ、国を出て、神様の示す所へ、それはどこであるかわからない、一日一日、神様が教え導かれるまま、出て行った所がカナンの地でした。そこで彼は神様を信頼しての生活が始まる。しかし、いろいろな問題が起こってきます。たびたび試みにあいます。やがて、彼がいろいろな失敗をしたとき、あなたの子孫の祝福を忘れていないよと、彼に信仰の確認をしました。そのとき、アブラハムはいくら祝福をくださっても、私には子供がいない。法定相続人であるほかの人に受け継がれるのだったら、そんなもの役に立たないと言った。そうしたら、神様は彼に満天の星空を見せて、星を数えることができるかと問われました。そのとき彼はいよいよ神様を信頼するものと変わってくる。信頼が深まっていく。私たちもそうです。神様を信じた初めのときよりも、いろいろな中を通って、神様と交わり、御言葉を信頼したとき、ますます深く信頼することができる。神様は問題や事柄を通して、御自身を信頼する者に変えてくださいます。しっかりと堅く信頼する。やがて神様は約束のごとくにアブラハムとサラに一人の男の子を与えてくださいました。そのとき彼は九十九歳、もう百歳になろうとしていた。最初に神様に出会ったときから、二十五年の歳月がたっていた。その間、彼は何度となく主を裏切ることも、失望するときもありました。しかし、絶えず主に立ち返って、神様の前に姿勢を整えて信じ続けたのです。

17節に「『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。彼は自分自身の弱さのゆえに右に左に揺れました。道を踏み外したことがあります。しかし、その中でも彼は絶えず立ち返ったのです。ここにありますように、「死人を生かし、無から有を呼び出される神」。死んだ者すらも生かすことができ、何にもないところからどんなものでも造り出すことができる方。神様はそのような方です。18節に「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」。目で見ている事柄や状態を見るならば、これは信じられない。到底、望みが得られないことがあります。しかし、その中で神様がいらっしゃることを信じ、神様が「死人を生かし、無から有を呼び出される」、どんなことでもなし得る方であることを信じていく。これがアブラハムの徹底した信仰です。やがてアブラハムが、神様の大きな試みにあいます。

創世記22章1節から8節までを朗読。

これは神様がイサクをいけにえとしてささげなさい、と命じられたのです。アブラハムが親族に別れ、家を離れ、国を出てというよりもっと厳しい、アブラハムにとっては自分の身が引き裂かれるような事です。これまで願って待ち望んでいた子、イサクです。しかし、神様はささげるように求められた。アブラハムにも親としての情があります。かわいい盛りの子供です。しかも、年を取って生まれた子ですから、目に入れても痛くないほどに愛してやまない子供を、神様はささげよと。このときアブラハムは3節に「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き」とあります。アブラハムはすごいと思います。普通だったら、いつまでにと、神様は命じたのではない。明日でもいいでしょう、来週、一ヶ月先、この一年くらいと、少しでも長くと思うに違いない。しかし、彼はそのような情を厳しく切り捨てる。そして、「朝はやく」、起きるなりすぐに、「ふたりの若者と、その子イサクとを連れて」出かけていく。そして三日ほど旅をした後、約束された場所へ近づきました。その山のふもとに若者たちを残して、アブラハムとイサクの二人だけが山を登っていく。6節に「アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った」と。このときの道中は決して楽しいはずがない。殊にアブラハムは状況を知っていますからしゃべるにしゃべれない。本当につらい。しかも、7節に「やがてイサクは父アブラハムに言った、『父よ』。彼は答えた、『子よ、わたしはここにいます』」。おそらくこのとき、イサクもお父さんの様子が普段と違うことを感じたかもしれない。だから「お父さん」「わたしはここにいるよ」。イサクは「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。これは厳しい言葉ですね。火と刃物とたきぎはここにある。ところがいけにえにする小羊はいない。幼子でもそのことくらいちゃんとわかる。「どこにありますか」。アブラハムは返事ができなかったでしょう。もし、皆さんがアブラハムだったらどう言いますか。「お前だよ」とは言えないし、本当に困った。ところがこのときアブラハムは、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。これは、アブラハムが神様を信頼していたから言えることです。

私たちも自分の生活のすべてを神様の手にささげて、神様を信頼していこうではありませんか。家族が「お父さん、そんなことをして大丈夫ですか」と問われて、「神様がご存じですから」と言えなければなりません。「どうしようか」と、右に左にうろたえたら駄目です。このアブラハムに見習いたいと思います。「神みずから燔祭の小羊を備えてくださる」。「お父さん、明日の生活はどうなるでしょうか」と言われて、「妻よ、明日の生活は神様が備えてくださるから大丈夫」と言えればいいですが、それすらもなかなか言えない。私も真似してはみますが、真似した後で心配する。やはり信頼しなければいけない。このときのアブラハムは、はっきりと「神様が」と、彼の人生の中心が神様にあったからです。

創世記22章9節から12節までを朗読。

文字通りその子を殺そうとしたとき、間髪を入れないで神様はみ使いを遣わして、手をとどめました。そして「わらべを手にかけてはならない。あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」とあります。私どもも神様にそのように言われる者でありたいと思います。「榎本よ、お前がわたしを恐れることを今知った」と。私達は何かとられるのだろうかと不安になりますが、そんなことを恐れるのは不信仰です。何をとられても、神様はすべてのものを無から有を呼び出し、死人をも生かす方であることを信じ、信頼する。このときアブラハムは、たとえ、ここでイサクを殺しても、神様は死んだイサクをよみがえらせてくださると信じた。そのように「ヘブル人への手紙」11章に記されています。これを失っても、神様は倍にしてでも、いくらにしてでも返してくださることができる。必要ならばどのようなことでもできると信じて、神様の期待に応えるのです。神様は私たちにそこまで信じる者になってほしいと願ってくださる。また、それが私たちの幸いな生涯です。

コリント人への第二の手紙5章6節から8節までを朗読。

ここに繰り返して「わたしたちはいつも心強い」とあります。「見えるものによらないで、信仰によって歩いている」から心強いというのです。現実の生活は、目で見て納得し、聞いて悟り、手で触って確かめて、こうだからこうなるに違いない、これがあるから大丈夫、それで心強いと。見えるものとは、ただ目で見えるというだけでなくて、自分の経験、過去からの経験を通して、こんなことくらいなら大丈夫、このくらいの風邪なら医者に行かないでもいいと、そのように「見える」ところで生きています。財布を開いて、これだけあるからこれだけ買える。足らないからこれは買えない。そのように絶えず見える状態でしょう。それで心強いと言えるかというと、どうもそうはいえない。やはり使えば減るし、ひょっとしたら思ったとおりにいかないかもしれない、あるいは経験どおりにならないかもしれないと、いつも不安があります。取りあえずはこれがあるから大丈夫かなと思いつつも、どこかで不安がある。

7節以下に「信仰によって歩いているのである。8 それで、わたしたちは心強い」。信仰によって生きるとき、私たちは恐れない、いやむしろ大胆に、喜んで生きることができる。その信仰は「死人を生かし、無から有を呼び出される」、アブラハムの信頼に真実をもって応えてくださった神様を信じる。見える状態だと、イサクをここで殺してしまったら後がなくなる。自分はいよいよ年老いてしまって、神様は次の子供を私にくれるかどうかわからない。そのようなことを考えていたら、朝はやくなんて出かける気にはなりません。見えるところに従って生きていたら、アブラハムは神様の信頼を受けられなかった。ところが、彼は「見えるものによらないで、信仰によって」立つ。信仰は神様を信頼すること、「神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さること」を信じていく。そのとき私たちの心が晴れます。雲が取り去られ、闇が消えていきます。そうだ、神様がいらっしゃるからできないことはありません。主よ、あなたに従います、どんなことにも私はあなたに従います、と心を定める。これが信仰に立つ生き方です。私たちはどうしても見える状態につい目が引かれ、心が引かれ、思いが支配され縛られてしまいます。そのために、ああなったらこうなる、こうなったらああなる、これは仕方がない、やめとこうとなってしまう。

最近は便利になりまして、宅急便など、インターネットで調べますと、自分が出した宅急便が今どのあたりを動いているかわかる。登録して手続きをし荷物を預けます。そうしますと、インターネットを開いて伝票にある番号を打ち込むと、「あなたの荷物は、ただいま東京に向かって運送中です」とか、「今は東京の何々というステーションに保管中」、やがてその次を見ますと「ただいま、相手様に配送中」とか、全部出てくる。だから、今ごろ私の荷物はどこかなと見ればわかるのです。

私たちのお祈りもそうだったらいいなと思います。「神様、これをこうしてください」と祈る。インターネットで見て、「お前の願いはこの辺まで聞いている」と。しかし、そのようになったら私たちは神様を尊ばなくなります。召使にしてしまうでしょう。だから、神様はいっさい私たちには語らない。信頼することを求めています。これは大切です。だから、私たちが分かると分かるまいと、ちゃんと信頼して祈っていますと、その結果を出してくださる。7節に「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。神を信じる信仰によってです。

「ローマ人への手紙」4章17節以下に「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」。私たちも信仰によってアブラハムの子孫です。父祖アブラハムに倣って「神を信じる信仰」をしっかりと心に据えていきたい。「見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」と、一日一日、一歩一歩、神様を信頼して、備えてくださるところを信じて、こんなところは嫌だとか、ああなりたいとか、こうなりたいとかではなくて、今、ここで主に従うべき道を神様が備えてくださっていることを確信して、「死人を生かし、無から有を呼び出される」方を信じ続けていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。











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